はてなキーワード: 倒錯とは
〈佐藤優現象〉を支えている護憲派の中心は、雑誌としては『世界』であり、学者では山口二郎と和田春樹である。この顔ぶれを見て、既視感を覚える人はいないだろうか。すなわち、「平和基本法」である。これは、山口や和田らが執筆し、共同提言として、『世界』一九九三年四月号に発表された。その後、二度の補足を経ている(56)。
私は、〈佐藤優現象〉はこの「平和基本法」からの流れの中で位置づけるべきだと考える。
同提言は、①「創憲論」の立場、②自衛隊の合憲化(57)、③日本の経済的地位に見合った国際貢献の必要性、④国連軍や国連の警察活動への日本軍の参加(58)、⑤「国際テロリストや武装難民」を「対処すべき脅威」として設定、⑥日米安保の「脱軍事化」、といった特徴を持つが、これが、民主党の「憲法提言」(二〇〇五年一〇月発表)における安全保障論と論理を同じくしていることは明白だろう。実際に、山口二郎は、二〇〇四年五月時点で、新聞記者の「いま改憲は必要なのか」との問いに対して、「十年ほど前から、護憲の立場からの改憲案を出すべきだと主張してきた。しかし、いまは小泉首相のもとで論理不在の憲法論議が横行している。具体的な憲法改正をやるべき時期ではないと思う」と答えている(59)。「創憲論」とは、やはり、改憲論だったのである。
同提言の二〇〇五年版では、「憲法九条の維持」が唱えられているが、これは、政権が「小泉首相のもと」にあるからだ、と解釈した方がいいだろう。「平和基本法」は、戦争をできる国、「普通の国」づくりのための改憲論である。同提言は軍縮を謳っているが、一九九三年版では、軍縮は「周辺諸国の軍縮過程と連動させつつ」行われるとされているのだから、北朝鮮や中国の軍事的脅威が強調される状況では、実現する見込みはないだろう(60)。また、「かつて侵略したアジアとの本当の和解」、二〇〇五年版では、周辺諸国への謝罪と過去清算への誠実な取組みの必要性が強調されているが、リベラルは過去清算は終わったと認識しているのであるから、これも実効性があるとは思えない。要するに、同提言には、論理内在的にみて、軍事大国化への本質的な歯止めがないのである。
佐藤が語る、愛国心の必要性(61)、国家による市民監視(62)、諜報機関の設置等は、「普通の国」にとっては不可欠なものである。佐藤の饒舌から、私たちは、「平和基本法」の論理がどこまで行き着くかを学ぶことができる。
馬場は、小泉純一郎首相(当時)の靖国参拝について、「今後PKOなどの国際的軍事・平和維持活動において殉死・殉職した日本人の慰霊をどう処理し追悼するか、といった冷戦後の平和に対する構想を踏まえた追悼のビジョンもそこからは得られない」と述べている(63)。逆に言えば、馬場は、今後生じる戦死者の「慰霊」追悼施設が必要だ、と言っているわけである。「普通の国」においては、靖国神社でないならば、そうした施設はもちろん、不可欠だろう。私は、〈佐藤優現象〉を通じて、このままではジャーナリズム内の護憲派は、国民投票を待たずして解体してしまう、と前に述べた。だが、むしろ、すでに解体は終わっているのであって、「〈佐藤優現象〉を通じて、残骸すら消えてしまう」と言うべきだったのかもしれない。
ここで、テロ特措法延長問題に触れておこう(64)。国連本部政務官の川端清隆は、小沢一郎民主党代表の、テロ特措法延長反対の発言について、「対米協調」一辺倒の日本外交を批判しつつ、「もし本当に対テロ戦争への参加を拒絶した場合、日本には国連活動への支援も含めて、不参加を補うだけの実績がない」、「ドイツが独自のイラク政策を採ることができたのは、アフガニスタンをはじめ、世界の各地で展開している国連PKOや多国籍軍に参加して、国際社会を納得させるだけの十分な実績を積んでいたからである。翻って日本の場合、多国籍軍は言うに及ばず、PKO参加もきわめて貧弱で、とても米国や国際社会の理解を得られるものとはいえない」と述べている(65)。
元国連職員の吉田康彦は「国連憲章の履行という点ではハンディキャップなしの「普通の国」になるべきだと確信している。(中略)安保理決議による集団安全保障としての武力行使には無条件で参加できるよう憲法の条文を明確化するのが望ましい」と述べている(66)。川端と吉田の主張をまとめれば、「対米協調一辺倒を避けるため、国連PKOや多国籍軍の軍事活動に積極的に参加して「国際貢献」を行わなければならない。そのためには改憲しなければならない」ということになろう。民主党路線と言ってもよい。今の護憲派ジャーナリズムに、この論理に反論できる可能性はない。「8」で指摘したように、対北朝鮮武力行使を容認してしまえば、改憲した方が整合性があるのと同じである。
なお、佐藤は、『世界』二〇〇七年五月号に掲載された論文「山川均の平和憲法擁護戦略」において、「現実の国際政治の中で、山川はソ連の侵略性を警戒するのであるから、統整的理念としては非武装中立を唱えるが、現実には西側の一員の日本を前提として、外交戦略を組み立てるのである。」「山川には統整的理念という、人間の努力によっては到底達成できない夢と、同時にいまこの場所にある社会生活を改善していくという面が並存している」と述べている。私は発刊当初この論文を一読して、「また佐藤が柄谷行人への点数稼ぎをやっている」として読み捨ててしまっていたが、この「9」で指摘した文脈で読むと意味合いが変わってくる。佐藤は、「平和憲法擁護」という建前と、本音が分裂している護憲派ジャーナリズムに対して、「君はそのままでいいんだよ」と優しく囁いてくれているのだ。護憲派ジャーナリズムにとって、これほど〈癒し〉を与えてくれる恋人もいるまい(67)。
10.おわりに
これまでの〈佐藤優現象〉の検討から、このままでは護憲派ジャーナリズムは、自民党主導の改憲案には一〇〇%対抗できないこと、民主党主導の改憲案には一二〇%対抗できないことが分かった。また、いずれの改憲案になるにしても、成立した「普通の国」においては、「7」で指摘したように、人種差別規制すらないまま「国益」を中心として「社会問題」が再編されることも分かった。佐藤は沖縄でのシンポジウムで、「北朝鮮やアルカイダの脅威」と戦いながら、理想を達成しようとする「現実的平和主義」を聴衆に勧めている(68)が、いずれの改憲案が実現するとしても、佐藤が想定する形の、侵略と植民地支配の反省も不十分な、「国益」を軸とした〈侵略ができる国〉が生まれることは間違いあるまい。「自分は国家主義者じゃないから、「国益」論なんかにとりこまれるはずがない」などとは言えない。先進国の「国民」として、高い生活水準や「安全」を享受することを当然とする感覚、それこそが「国益」論を支えている。その感覚は、そうした生存の状況を安定的に保障する国家―先進国主導の戦争に積極的に参加し、南北間格差の固定化を推進する国家―を必要とするからだ。その感覚は、経済的水準が劣る国の人々への人種主義、「先進国」としての自国を美化する歴史修正主義の温床である。
大雑把にまとめると、〈佐藤優現象〉とは、九〇年代以降、保守派の大国化路線に対抗して、日本の経済的地位に見合った政治大国化を志向する人々の主導の下、謝罪と補償は必要とした路線が、東アジア諸国の民衆の抗議を契機として一頓挫したことや、新自由主義の進行による社会統合の破綻といった状況に規定された、リベラル・左派の危機意識から生じている。九〇年代の東アジア諸国の民衆からの謝罪と補償を求める声に対して、他国の「利益のためではなく、日本の私たちが、進んで過ちを正しみずからに正義を回復する、即ち日本の利益のために」(69)(傍点ママ)歴史の清算を行おうとする姿勢は、リベラル内にも確かにあり、そしてその「日本の利益」とは、政治大国を前提とした「国益」ではなく、侵略戦争や植民地支配を可能にした社会のあり方を克服した上でつくられる、今とは別の「日本」を想定したものであったろう。私たちが目撃している〈佐藤優現象〉は、改憲後の国家体制に適合的な形で生き残ろうと浮き足立つリベラル・左派が、「人民戦線」の名の下、微かに残っているそうした道を志向する痕跡を消失もしくは変質させて清算する過程、いわば蛹の段階である。改憲後、蛹は蛾となる。
ただし、私は〈佐藤優現象〉を、リベラル・左派が意図的に計画したものと捉えているわけではない。むしろ、無自覚的、野合的に成立したものだと考えている。藤田省三は、翼賛体制を「集団転向の寄り合い」とし、戦略戦術的な全体統合ではなく、諸勢力のからみあい、もつれあいがそのまま大政翼賛会に発展したからこそ、デマゴギーそれ自体ではなく、近衛文麿のようなあらゆる政治的立場から期待されている人物が統合の象徴となったとし、「主体が不在であるところでは、時の状況に丁度ふさわしい人物が実態のまま象徴として働く」、「翼賛会成立史は、この象徴と人物の未分性という日本政治の特質をそれこそ象徴的に示している」と述べている(70)が、〈佐藤優現象〉という名の集団転向現象においては、近衛のかわりに佐藤が「象徴」としての機能を果たしている。この「象徴」の下で、惰性や商売で「護憲」を唱えているメディア、そのメディアに追従して原稿を書かせてもらおうとするジャーナリストや発言力を確保しようとする学者、無様な醜態を晒す本質的には落ち目の思想家やその取り巻き、「何かいいことはないか」として寄ってくる政治家や精神科医ら無内容な連中、運動に行き詰った市民運動家、マイノリティ集団などが、お互いに頷きあいながら、「たがいにからみあい、もつれあって」、集団転向は進行している。
ところで、佐藤は、「仮に日本国家と国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家、同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べている(71)。佐藤は、リベラル・左派に対して、戦争に反対の立場であっても、戦争が起こってしまったからには、自国の国防、「国益」を前提にして行動せよと要求しているのだ。佐藤を賞賛するような人間は、いざ開戦となれば、反戦運動を行う人間を異端者扱いするのが目に見えている。
この佐藤の発言は、安倍晋三前首相の目指していた「美しい国」づくりのための見解とも一致する。私見によれば、安倍の『美しい国へ』(新潮新書、二〇〇六年七月)全二三二頁の本のキモは、イランでのアメリカ大使館人質事件(一九七九年)をめぐる以下の一節である。「(注・反カーター陣営の)演説会で、意外に思ったことがある。人質事件に触れると、どの候補者もかならず、「私は大統領とともにある」(I am behind the President.)というのだ。ほかのことではカーターをこきおろす候補者が、そこだけは口をそろえる。/もちろん、人質にされている大使館員たちの家族に配慮するという意図からだろうが、アメリカは一丸となって事件に対処しているのだ、という明確なメッセージを内外に発しようとするのである。国益がからむと、圧倒的な求心力がはたらくアメリカ。これこそがアメリカの強さなのだ。」(八七~八八頁)
文中の、「人質事件」を拉致問題に、「大統領」を安倍に、「アメリカ」を日本に置き換えてみよ。含意は明白であろう。安倍は辞任したとはいえ、総連弾圧をめぐる日本の言論状況や、〈佐藤優現象〉は、安倍の狙いが実現したことを物語っている。安倍政権は倒れる前、日朝国交正常化に向けて動きかけた(正確には米朝協議の進展で動かされたと言うべきだが)が、こうなるのは少なくとも今年春からは明らかだったにもかかわらず、リベラル・左派の大多数は、「日朝国交正常化」を公然と言い出せなかった。安倍政権が北朝鮮外交に敗北したのは明らかである。だが、日本のリベラル・左派は安倍政権ごときに敗北したのである。
〈佐藤優現象〉は、改憲後に成立する「普通の国」としての〈侵略ができる国〉に対して、リベラル・左派の大部分が違和感を持っていないことの表れである。侵略と植民地支配の過去清算(在日朝鮮人の人権の擁護も、そこには含まれる)の不十分なままに成立する「普通の国」は、普通の「普通の国」よりはるかに抑圧的・差別的・侵略的にならざるを得ない。〈佐藤優現象〉のもとで、対北朝鮮武力行使の言説や、在日朝鮮人弾圧の言説を容認することは、戦争国家体制に対する抵抗感を無くすことに帰結する。改憲に反対する立場の者がたたかうべきポイントは、改憲か護憲(反改憲)かではない。対北朝鮮武力行使を容認するか、「対テロ戦争」という枠組み(72)を容認するかどうかである。容認してしまえば、護憲(反改憲)派に勝ち目はない。過去清算も不十分なまま、札束ではたいて第三世界の諸国の票を米国のためにとりまとめ、国連の民主的改革にも一貫して反対してきた日本が、改憲し、常任理事国化・軍事大国化して、(国連主導ではあれ)米軍中心の武力行使を容易にすることは、東アジア、世界の平和にとって大きな災厄である(73)。
改憲と戦争国家体制を拒否したい人間は、明確に、対北朝鮮武力行使の是非、対テロ戦争の是非という争点を設定して絶対的に反対し、〈佐藤優現象〉及び同質の現象を煽るメディア・知識人等を徹底的に批判すべきである。
註
(1)岩波書店労働組合「壁新聞」二八一九号(二〇〇七年四月)。
(2)ブログ「猫を償うに猫をもってせよ」二〇〇七年五月一六日付。
(3)ただし、編集者は佐藤が右翼であることを百も承知の上で使っていることを付言しておく。〈騙されている〉わけではない。
(4)「佐藤優という罠」(『AERA』二〇〇七年四月二三日号)中のコメントより。
(5)インターネットサイト「フジサンケイ ビジネスアイ」でほぼ週一回連載中の〈 Permalink | 記事への反応(0) | 18:37
輪姦AVが好きだ。
たくさんの男に美少女系AV女優が蹂躙されているのを見るのが好きだ。
だが、自分は竿役の男の側ではなく女優の方に感情移入している。どうせなら可憐な女の子になって、こういう目に遭わされたいと思うことすらある。
見たいとか触りたいとかではない。チンコのない身体というのはどういうものだろうという興味だ。
幼稚園に通っていたくらいの年頃、寝るときにパジャマとパンツの間にタオルを挟んでいた。こうすると股間になにもなくなったように思えたからだ。その上から手で触ると不思議な興奮を覚えた。
やがてそれが親に露見するときが訪れたが、親は「おしめが恋しいのだろう」くらいに捉えていたようである。もっと倒錯的な意図には気づかれずに済んだ。
性自認は間違いなく男性であり、肉体との違和感を覚えたことは一切ない。男性としてのエロティシズムに対する感性を備えたまま、女性の身体で振る舞いたいといったところだろうと思う。
友人が小遣いをつぎ込んでいた「藤子不二雄ランド」に収録されていた「バケルくん」を読ませてもらったとき、こういう技術がほしいと思った。宇宙人から託された大量の人形。その鼻を押す(だったかな)と、その人形に乗り移って意のままに動ける。その中には当然女の子の人形もあるのだ。藤子・F・不二雄の漫画には手塚治虫ほどではないにしろ、ほんのり倒錯要素の感じられる作品があるが、これもそうだと思っていた。当時は言語化できるほど理解もしていなかったが。
そんな嗜好が強くなってきたのはおそらく「女性のセックスは男性のセックスの10倍気持ちいい」という話をどこかで読んだか聞いたかして以来だと思う。
そんなわけであるから、ある時点から増えてきたいわゆる「トランスセックス・フィクション(TSF)」は自分のために描かれた物語ではないか、とさえ思う。女装ではなく、ある事件(謎の薬物や身体の変調など)によって突然女性の身体になってしまう、という筋書きは本当に自分もなってみたいという妄想を満たしてくれる。新堂エル「TSF物語」などは同人誌まで買い求めた。
需要がなければ供給は増えないので、自分のような嗜好あるいは指向の持ち主はそれなりに多いのだろうか。
そして、今日も自分は妄想する。年端も行かぬ少女になった自分を。
見知らぬ男に捕まり嬲られ、早すぎる性の目覚めに導かれる自分を。
華奢な身体を蹂躙される恐怖と苦痛に喘ぎながら、歓喜に打ち震える肉体に困惑する自分を。
ゴールデンカムイが全話無料だったので読んだけど、めちゃくちゃ面白いと同時に読んでて「狂気を計算で演じててネットの評価をハックするのに最適化されてる〜!」と感じた漫画でもあった(実際には一般人気もあることは前提として、あくまで作風の話)
「一見トンチキだけど実は真面目に読んでも面白いんです!」みたいな、「不良がたまに犬助けるとめっちゃ褒められる」理論を本来優等生をやれるスペックのある奴が再現して人気を最大化しようとする手付きを感じた
例えば作中屈指の異常者である宇佐美の異常性は主に「例え親友であっても腹が立ったら躊躇なく殺す殺人への抵抗感の無さ」と「精子探偵や門倉のケツを叩きたがる性的倒錯」の2つがあるんだけど、前者は鶴見の殺人理論の確立や尾形との対比の説明として重要なのに対して後者は作劇上必然性が全く無いんだよね
「作劇的な意図に関係なく作者の狂気が勝手に漏れ出てきたのでは?」という可能性もなくはないけど、少なくとも描写的にはウケ狙いに見えるというか作者が射精する男性にフェチを感じている可能性は低い
でも「アイヌの金塊を巡る真面目に面白い群像劇」みたいな紹介より「アイヌの金塊を巡る、精子の飛ばし合いで犯罪者と戦う奴が出てくるけど真面目に面白い群像劇」の方が注目を集めるのみならず真面目な部分の面白さも引き立つわけだ
このやり方って特にインターネット受けを重視する上ではめちゃくちゃ効果的で、ギャップによる魅力の上昇を狙えるだけじゃなくて「自分この作品好きじゃないわ」みたいな評価に対しても「まあ精子飛ばすような作品だし人選ぶよなw」で作品の本質的な欠点から批判をそらしてダメージ軽減することも出来るのよ
インターネットや評論家に受けやすいのは本質的な欠点が目立たない漫画なんだけど、「本質的な欠点が少ない漫画を愚直に作る」という選択肢の他に「表面的な『人を選ぶ要素』を散りばめてそっちに批判を誘導+真面目な面白さのギャップのためのトリガーとしても利用する」というクレバーな別解もある(そしてゴールデンカムイはかなりの精度で後者を成功させている)
だから作者は相当真面目で読者とネットの評価に目配せしまくってんな〜って印象だったんだが破天荒な作家扱いされてるのが結構不思議だった
別の漫画だとハイパーインフレーションもそういうハックをするタイプの作品に見えたし(そしてこちらも癪なことに面白い)、こういうあえて突っ込みどころを作ってギャップで評価の最大化+批判の誘導を狙う作風は今後一つのジャンルになるかも知れないな
5年前のクリスマスに書いた文章がブログの下書きに眠っていたので、ここで供養します。
ということで、スタート↓
12月24日、クリスマスイブ。この記事を執筆している今現在、「性の6時間」という時間帯に差し掛かりました。12月24日の午後9時から翌25日の午前3時までの6時間、1年間で人類が最もセックスをする時間帯です。
私は時間を持て余しているので、これから「セックスがいかに変態的で倒錯的か」ということを書いていきたいと思います。
考えてみてください。生殖行為としてのセックスはいいとして、快楽性交というものはとどのつまり、もっぱら快感を味わうために、膣内に陰茎を出したり入れたりして粘膜接触による刺激を味わう行為です。そんなの童貞からしたらド変態の極みです。肛門にペニスバンドを挿入されて快感を味わってる人を変態呼ばわりするのに、膣内に陰茎を出し入れして快感を味わってる人間は変態扱いされないのは何故なのでしょう。
そもそも快楽性交としてのセックスは、生殖行為の動機づけとして神様から与えられた快感というインセンティブを、でかでかと「うす~い」とか「0.01mm」とか書いてある箱をコンビニで買うことによってタダ食いする行為です。身体にゴムを装着するというソフト人体改造まで施し、本来あるべき理を捻じ曲げてまでエロを味わっているなんて、倒錯的と言わざるを得ません。
「ムラムラする→生殖行為としてのセックスをする→人間という種が維持される」という、人類が 30万年前からDNAに刻み続けた種存続のためのシステムをハックし、ノーリスク・ノーコストでエロい快感だけを貪り食う。そんなのもう、性欲の無銭飲食です。
地球上に生物は何万種といますが、生殖としてではなく、快楽のためだけのセックスをする生物は人間以外だとイルカとボノボくらいです。ノアの箱舟では地球上のあらゆる生物をつがいにして舟に載せたわけですが、方舟で他の生物は生殖をして子供を生む中、人間・ボノボ・イルカの御三方だけは、出産を伴わない、純粋にエロだけを求めたセックスをヤりまくるわけです。他の動物や昆虫たちはもうドン引きです。間違いなくド変態扱いされています。箱舟から追放されてもおかしくありません。
この前見たドキュメンタリーでは、人間は子供の数の1000倍セックスをする生き物だと言っていました。基本的に生物は出産1に対してセックス1ですが、人間だけ出産1に対してセックス1000です。ボノボとイルカは知らん。生態系の頂点に君臨し、知性と理性を兼ね備えたはずの人間様は、実は他の野生動物の1000倍セックスしているわけです。快楽のためだけのセックスというものは、童貞視点だけでなく、地球上のあらゆる動物や昆虫から見ても変態的行為なのです。
キスだって変態的ですよ。だって、キスってお互いの舌を絡め舐め合うんですよね? 舌って物を舐めて味わうための器官ですよ。舐めるためのパーツをお互い舐めあい、味を感じる器官をお互い味わうとかもう倒錯的すぎです。鼻で例えると、互いに鼻の穴の匂いをかぎ合っているようなものです。そんなの、ド変態じゃん。
中学生くらいになると、自分は実は男なのかも知れないと思うようになった。当時読んだレベルEというマンガで、一見女性に見えても実は男性というケースがありうると知ったからだ。
当時はたまに自称が「俺」になることがあった程度には倒錯していた。
高校生くらいになると俺呼びは収まり、それ以降の人生は普通に私呼びで過ごすことになる。
大学はほぼ男子校と言える理系単科大学に進学した。人生初の彼氏もできた。この辺りで、私は普通に女だな、という結論が見えた。
ただし、ネット上ではネナベをやっていた。けれど昔のインターネットは男のふりをしないと普通に話ができない空間だったから、それは自分の中ではノーカンだ。
しかし、大学を卒業してから不景気だったのもあり女ばかりの職場でパートをすることになったが、そこでも先輩方から「あなたは考え方が男だ」と言われ続けた。
だが、最終的に男性と結婚して子どもも産み、兼業主婦をやっている。
ここに落ち着いたからこそ断言できるが、今の時代に思春期をやらずに済んで、本当に良かったと思っている。昭和生まれでよかった。
もし今中学生だったら、きっと自分はトランスセクシャルだと思い込んでいただろう。場合によっては、周囲に「あの子はトランスセクシャルだ」などというラベルをつけられていたかも知れない。
実際は思春期の気の迷いであり、俺呼びもただ痛い俺女だったという黒歴史であるだけだ。
でも、当時はそんなことなど絶対に分からないのだから、きっと自分は本当は男なのだと思い、場合によってはホルモン治療などにも手を出したかも知れない。
そうなったら、一体どんな人生を歩んでいただろうか。
楽天的な私のことだから、それでも結構幸せな人生を歩んだかも知れない。
実際、今の世の中はトランスに寛容であろうとし始めている。理論的には、きっとその方がいい時代だ。
けれども、私たちは気をつけなければならない。思春期に揺れる子どもの性自認をあくまで見守るように。
例の塩村議員の発言、萩生田議員もしてるじゃないか!とか、萩生田議員には何も言わないのか!などのブコメが多い。(https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.njpw.co.jp/459726、https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2264252)
まず揶揄された側、差別された側が全てについて批判しなければならないわけではないことは当然だ。リベラルの忌むWhataboutism(そっちこそどうなんだ主義)の典型例だと言える。
というか、当時萩生田議員を批判して今回塩村議員を批判しないのはもっと批判されるべきになっちゃうよ?(立憲民主党とか共産党とか、ちゃんと塩村議員を批判するのかなぁ)
萩生田官房副長官の発言について4野党の足並みを記者団から質問されると「共産党の穀田委員長と会い、(社民党の)照屋委員長、(自由党の)玉城委員長とも連絡を取り合っているが、今回の副長官発言が許せない、とんでもないということは一致している」と述べた。
さらに、萩生田議員は政治家やプロレス関係者から袋叩きにあって審議拒否まで通告され、謝罪撤回している。プロレス関係者(今回の当人からではないが)からの批判もあった。
今回の塩村氏は一応謝罪撤回しているが、その前にこんな発言もしていて真意が問われている。
プロレス芸はエンタメの世界ではよく使う言葉です。放送作家の会議ではよく出てました。お決まりですが、私とアンチ塩村のガチ芸。
少し話題になっているようなので。
https://megalodon.jp/2023-1124-1504-30/https://twitter.com:443/shiomura/status/1727705244484960263
(削除済みなので魚拓)
しかも萩生田議員の発言は七年前だ。たった七年前とは言え、当時と比べたら明らかに誹謗中傷や揶揄、差別発言に対する批判は強くなっていると言っていいだろう。
塩村議員が男性だったら、自民党議員だったら、こんな擁護がわいたか?
こういった批判は網羅的にしなければならないものじゃなく、気になったら声を挙げる、ってので良いんだよ。そうしないと差別反対なんて一切できなくなるぞ。
というか気軽に声を挙げていいとしてたのはむしろリベラル側じゃなかったっけ?
もちろん一般性(法的安定性)が重視される立法行政の世界なら別だが。
つまり
どれでもいいんだよ。
◯萩生田発言に民進党が抗議したのは「野党の対応は茶番だ」という内容に対してであって、プロレスという言葉の使い方ではない。萩生田発言の内容を批判したのであれば、塩村発言は擁護してもダブスタではない。
プロレスに対して失礼って読めないの?
嘘つかないでもらえますか?
「民進党の山井和則国対委員長は24日「国会審議に対する侮辱」「私もプロレスファンの一人だが、プロレスに対しても田舎に対しても失礼だ」と、撤回しなければ今後の審議の日程協議に応じない意向を表明。」(https://www.huffingtonpost.jp/amp/entry/rural-pro-wrestring_n_13214784/)
◯塩村あやか議員への誹謗中傷コラ https://twitter.com/Nou_YunYun/status/1728184664731578799 の他に、「ホストの借金を肩代わりする法案」みたいなデマが蔓延してて、クローズドサークルの構成員は騙されてるのに気付けないものだなあ
そんな話してねーだろ
◯逆に「塩村が男性だったら、自民党議員だったら、こんな稚拙な難癖はされてない」って話だったはずのものを、まるっと倒錯させて擁護と言い出し批判それ自体を差別呼ばわり、ありがちな難癖テンプレ。
当時萩生田議員がどれだけ批判されて、擁護されなかったか覚えてないの?覚えてないだけならまだしも知らないなら調べろよ眼の前の箱と板は飾なのか。
萩生田議員のときは野党だけじゃなく自民内部からも、プロレス関係者からも批判されまくってたろ。
このままだとリベラル政党よりもよっぽど自民の方が自浄作用が働く組織だぞ
〇“塩村議員が男性だったら、自民党議員だったら、こんな擁護がわいたか?”湧くに決まってんだろウンザリする程無理筋擁護見てきたわそんなん
萩生田議員の事例だと身内の自民党議員にすら批判されてたろ調べてみろや眼の前の箱か板が泣いてるぞ
そりゃSNS上での個人での擁護は(今回と同じく)あるだろうが大々的なのは批判一色だ
〇この「相手を差別者認定すれば勝利条件達成」という謎ルールの信奉こそ差別をおもちゃにした考え方。どうせ杉田水脈にはだんまりなんでしょ。
人の言ってもいないことを持論に都合のいいように読み解く点、差別は網羅的に批判しなきゃいけないとする点で論外
萩生田議員の事例だとプロレス関係者もファンも批判してたっつーてるだろうが
〇プロレス、少なくとも新日、のオーナーは日本保守党を応援しているし、有本や百田が「プロレス」を似たような文脈で使っていてもなんら反応すら示さなかったってさ。はい、党派性、党派性
例えばてめーは共産主義者(何が入っても良いが)だから差別されて当然だとでもいうのか、俺はそうは思わねーぞ
差別された奴は網羅的に反論しなきゃいけないわけじゃないってのは本論に書いた通り
ブコメ見て、何とかして差別とかダブスタを正当化したいって奴が多くて辟易する
〇煽りとかではなく教えてほしいんだけど、俺は「差別とまでは言わない言葉をダブスタで差別だと過剰反応している」のが本件だと思っていた。それで「これも差別ならなぜ反応しないのか、党派性で恣意的に差別だと主張していないか」を確かめるためにみんな批判しているのだと。
それを差別あるいは蔑視と取られたからこその騒ぎだったんだろ?だったら今回も同等(時代を考えればそれ以上)になるのは当たり前だろ
なまじ人権に配慮して死ぬ準備や看取りや祈りなんてさせるからまるで一人の人権ある人間を殺害するかのような倒錯を引き起こすんだろ?
食肉加工される牛さんと同じでいいんだよ死刑囚なんて。
連行から実施を人任せにするから感情労働の側面も出てくるんだよ。オートメーション化しなよ。
そもそも人権いうなら身体を拘束して施設に収容してる時点で人権も糞もないだろ。しゃーないだろそれは。法で決まってんだから。
さすがに死刑クラスの犯罪を知りませんでしたごめんなさいと思ってるやつはいないだろ。
せいぜい懸念は冤罪だけど。明らかな現行犯とか、そんな必死こいて人権守る必要あんの?
キモくて金のないオッサンや弱者男性は生活保護に赴けば働けと追い出され、面接ではその年までなにやってたのと追い出され、
気晴らしに日中散歩していたら不審者として扱われ、家には近所の交番のお巡りさんがいまどんなご職業か尋ねに来て、
社会に排除に排除を重ねられて自死を迎えたら、大家さんや特殊清掃員の皆さんこそ「大変でしたね」と同情を集めるのに、
生ゴミを処理して無縁仏というゴミ集積場に放り込まれておしまいだもんな。
俺は弱者男性だが、それがどうした?お前らの人生に文句があるなら自分で変えろよ
https://anond.hatelabo.jp/20231102171926
弱者寄りの人、この増田みたいにポジティブ精神に溢れてるわけではないにしても社会全体への不満を抱えてる場合って案外少ないんじゃないかという気がしている。弱者寄りの人の場合、不満があっても矛先が社会全体には向かわず、親とか上司とかそういう特定個人への恨みという形になりがちな気が。
逆に強者寄りの人のほうが社会全体への不満を抱えがちなように感じている。自分は馬鹿や無能に足を引っ張られてばかりいる被害者で、本当に可哀想なのはこっちなのに社会は自分はケアしてくれず、むしろ足を引っ張ってくる加害者ばかり弱者扱いして優遇していて不公平だ。とでも言いたげ、というかわりと直接的にそう言ってしまっているケースはわりと多いように思う。以前メンタリストdaigoがホームレスへの差別発言をして炎上したことがあったけど、それなんかがまさにこれ。
弱者は恵まれてないから社会への不満が大きく、強者は恵まれてるから社会への不満が少ないだろうというのは誤った推論で、弱者はそもそもたいして社会に興味がなく、強者は自身の能力と努力に対する自負心が過剰に高いのでたとえ収入が高くても報われてない感覚、ひいては社会への不満を抱きがちというのが実情なんじゃないかなあ。
「三体」のダメなところは智子の設定に集約されている。
智子というのは三体人が地球の技術的発展をかく乱するために送り込んだ陽子一つ分のコンピュータなのだが、これの製造過程の描写に素人でも一瞬で分かる大嘘が書いてある。
三体人は粒子の次元を操作することが可能らしく(この理論的根拠は全く描写がない)、次元の数を増やしたり減らしたりして、内部に回路を作る(劇中では核力を整形してエッチングするというような説明がある)が、2次元展開した陽子が三体世界を包み込んだとき、全体が鏡面になって惑星自体を映し出す場面がある。
自分は反射の核物理的な原理を詳しく知らない。おそらく電場や磁界が電磁波の進行方向を曲げるのだと思うが、陽子一つ分のエネルギーで惑星全体を映し出す電磁波を同時に偏光させることが出来るはずがない。一つ一つの光子のエネルギーに対応するだけの電場あるいば磁界を形作る必要があるが、もし出来るのだとしたら、それはエネルギー保存則に反している。六次元空間から三次元に投影された智子に国家元首が触れると「空気抵抗」を感じるが、これも同様の理由により間違っている。
明らかに劉慈欣は次元のコントロールによって空間と共にエネルギーの総量もコントロールされうるという混淆を侵している。この混淆を取り払ってみれば、そもそも陽子一つのエネルギーで計算機を構成するというのもまず不可能な相談であるということが分かる。核力によって形作られた回路には、電子の代わりに情報を媒介する何らかの量子が必要だが、必要とされる量子、あるいは回路を構成するエネルギーは軽く陽子一つ分を超えてしまうだろう。現代では情報を伝達するには相応のエネルギーが必要なことが分かっており、実験で確かめられてさえいる。
(ついでに言うと量子もつれによってスピン状態を検知して、智子をコントロールするという話も出てくるが、もちろんこれも間違っている。量子もつれによる同期は情報を伝達しないことが分かっているのだ。もしも情報を伝達するならそれは光速度不変則に反することになる)
この事実は本作が一見論理的に見えて、その実極度に倒錯的な性質を表している。なにしろ、質量の関係から智子(陽子一つ分)を送り込む必要性をあらかじめ説いたのは劉慈欣自身なのだ。質量の問題を回避するために作り出した智子の設定の方が盛大にエネルギー保存則を破っているというのは一体どんな種類の皮肉なのだろうか。無論劉自身がそのような皮肉を意図した形跡もなく、センスが悪いとか荒削りとかいうレベルをさらに下回っているとしか言いようがない。自分の課したルールを自分で破る作品に、まともな完成度を認めないのは、自分には正常な判断に思える。
この本の最大の皮肉は、馬鹿げているのに面白いジョークでもない物語が、英米SFがつまらなくなった状況(その他の国に面白い作品があるわけでもない)がゆえに耳目を集め、あまつさえ世界的なヒットになってしまったことではないか。このあたりが古いSFファンが見向きもせず(最もまともに作品を批評できる連中は残っていないのかもしれない)、根強く批判が消えない理由だと思うのだが。
電動キックスケーターで衝突か、60代女性が重傷 立ち去ろうとした疑いで23歳女を逮捕 東京・池袋: https://news.yahoo.co.jp/articles/55d1f29f23ddecf95ebbfdd5bdf1c46257a83d59
「酒を飲んだら乗るな」「これから乗るのに酒を飲む決断をしたのはシラフの時だけ」みたいな予防の言説は多く見るし、実際正しいと思うんだけど、事後の啓蒙は多くない気がする。
「原発は事故を起こしません」「避難訓練とかしたら事故が起こるかもしれないということになるのでしません」みたいな倒錯があるのでは。
事故を起こしたら、罪の重さなどによるプレッシャーでパニックになるのは想像に難くないので、「加害者の立場になったら、何も考えないでまずこれをしろ」という啓蒙にも力を入れるべきでは。
人道的には、即座に救急に連絡できれば後遺症や死亡を防げるかもしれないし、個人の損得勘定としても、最悪亡くなっても逃げたら罪が重くなるだけなので良いことないし。
「自分のせいで誰を死に至らしめようがどうとも思わないし、自分が終身刑になろうが死刑になろうがどーでもいい」って人ばかりじゃないでしょうから。(「人一人過失で殺して逃げても終身刑にも死刑にもならん」て判断して逃げてる人の方がより少ないだろうし)
男性の場合、それを性欲による倒錯だと言う人もいるけれど、そういう一面はあるのかもしれないがそれだけじゃないはずだ。
二人は精神の深い結び付きを求めて結婚という形をとったはずなのだ。
やがて夫婦には子供が生まれ共通の守るべき存在が二人の間に入ってくる。
それからは二人の精神の結びつきは子を介して行われるようになる、子を介することで二人の間にかつてあった二人だけの結びつきを深めたいという思いは薄れてゆく。
子はやがて親のもとを離れてゆく、そのとき夫婦の間に残るものは何なのだろう?
かつて愛し慈しむことを誓った二人に愛はあるのだろうか?今も慈しむことを誓えるのであろうか?
盆に実家に戻り親・兄弟(夫婦)の近況を聞きつつ我々家族はたしかにそこにいるがそれらを繋いでいるものは何なのだろうか?というのをずっと考えていた。
少なくともそれの1つは結婚であろうが、そこに愛があるようには感じない。
社会的に集団を形成することは生存に有利であるというが、人と人が集団を維持することは単純に生存のためだけではないはずだ、我々には魂があり精神が備わっており単純に損得で行動することは出来ない。
働きたくない。
でも働かなきゃ、という言葉の前置きでしかないそれと違って大真面目に働きたくない。
世の中少なからずの人々も似たようなことを言うけれど、それでも求職に労力を割き、日々労働している。その程度には労働に対する気力を持っている、もしくは絞り出せるらしい。
それなりに暮らしていくには何かしらの労働をしなければいけない。どうせ働かなければいけないのなら少しでもマシな環境を探そうと折り合いをつけて、ちょっとの辛抱を耐え抜くのがきっとベターなんだろうと頭では分かっている。
そうやって考えてみても、やっぱり働きたくない気持ちは誤魔化しきれない。
こうやってくだらないことを考えているのが問題の先送りでしかない事も分かっている。現に今もそうしてきた割を食っている。
働きたくない、さりとてそこそこの暮らしをしたい、を反復横跳びしてばかりいる。出口のない考えをぐるぐるさせても仕方がないので、少し前から取り敢えず職を見繕うくらいはしてみようかと思い立った。おれにも絞り出せば少しばかりの気力があったみたいだ。
趣味を軸に生きたいと考えており、それを実現できる職場を探しています。
特別な技能、資格が要求されず、最低限の労働かつ高い給与水準という貴社の環境は私の希望と一致する所であり、応募させて頂いた次第です。
具体的な事業内容につきましては一切関心がありません。
と言って雇ってくれる、希望通りの待遇の会社は存在するだろうか。
志望動機も何も、そもそも働きたくないのだから嘘をつくしかない。100に膨らます1がないのなら、0から作るより他人から拝借した方が良さそうだ。
Unistyleの投稿を適当にコラージュしてみたESは案外通る。中学以来身に着けたその場しのぎの技術は中々役に立つ。大学でも通用しているのだし、これからもし働くがあれば役立つかもしれない。
そもそもESで落とされる事は無いのではなかろうか、なんて思う。時期のせいだろうか。でも面接では落ちる。
高望みのしすぎか。舐めた態度を隠しきれてないのか。経歴のキズをロクに取り繕いもしないからか。踏んだ場数の少なさから緊張や喋り下手が丸出しなのか。
どれも正解なんだろうな。割り切って精力的な就活生を演じるなんて簡単な事だと思っていたけれど、中々嘘に徹しきれない。
他人にはいくら嘘をついても良いけれど、自分には納得に従って正直に生きようと決めたのは人生の指針になった。それが特に間違っていたとは思わない。でもここに来てそれが枷となっている。今くらいは嘘をつくのもやぶさかではないのではなかろうか。
いや、本当にそうか?ESでは嘘をつきまくっているのだし。文面では隠せるものが対面のコミュニケーションで滲み出たりはするだろうけど、それだけか?
おれは今ゴミを売りつける営業活動をしている訳だけど、それっておれがやりたくない労働のトップに近い。
もしかしたら働きたくない気持ち以上に、今まさにやっている就職活動が嫌なだけではないか?
つまりこの営業を済ませて希望の職種にさえつけば、ライスワークといえどある程度は割り切ってやっていけるのではないか?
なんて考えてみるけれど、まあ働いたら働いたで一瞬にして仕事辞めて〜が口癖になりそうだ。
いや〜面倒臭い。
なんで働きたくもないのに働かせてくださいなんて頭を下げなあかんのか。まあ世の中そうなってんだから仕方ないわな。
おれの希望に合わせるよりも世の中の仕組みに合わせた方がラクだろうな。でも自分の納得に従った生き方をしなければ生きている意味がない。
今おれにある選択肢は何だろうか。
割り切って就職活動を進める。
まあグチグチ理屈を並べようが、これを進めるのがベストなんだろう。希望に近い仕事を得られるか、ロクでもない所に転がり込むかは知らん。おれと運次第だ。
心にもないモチベーションを語るよりは、出来る事を言った方が精神の衛生には良さそうだ。労働が減り余暇が増えるかは微妙な所だが、賃金は高くなるかもしれない。でもそもそも労働がイヤなのに、それを軽減するための労力を割くというのも倒錯している。投資といえば聞こえはいいが……
何にしても、これは今からではちょっと遅すぎる。考えるとすれば新卒就職後の転職とかになってくるのだろうか。しかし新卒採用程度でもやる気が起きないおれの無気力さを考えれば、働きながら勉強というのはちょっとありえなさそうだ。あまり考えない事にしておこう。
自殺。
悪くない。
生きる事に意味はない。生きて楽しい思いをする事には意味がある。楽しくないなら死んでしまった方がいい。
面倒事の一切から解放されるのはデカいが、好きなことをしている時間や憧れを追っている時の充足感も同時に全て手放すのは寂しい。
というか自分で言っときながら、どうせ死ぬ勇気は無いんじゃないかとも思う。でも時々訪れるデカめの希死念慮の全てどうでもよくなってしまう感じを思い起こせば、あるいは……
まあある程度本気で視野に入れておけば、こういう道もあるという精神安定剤として機能するかもしれない。
好きなことで、生きていく。
これはなさそうだ。だからこそ趣味に軸足置いて生きようと決めたんだし。得意な事は金稼ぎに繋がらない。好きな事はあっても得意な訳ではないし、金稼ぎに繋がる望みは限りなく薄い。
ライスワークの目処が立ったら、ちょっとずつ何かしらのトライをしていくのも悪くないかもな。
生活保護。
最近になってこれもまたかなり現実的なのではないかと思ってきた。他人に対する申し訳なさみたいなのが1ミリもないのはおれのアドバンテージだ。根気よくゴネれば働ける身体の人間でも受給できるとの話もあるし。
ただ、おれの想定するそれなりの暮らしを実現できるかは怪しい。楽器とか持っていいんだろうか。靴は何足まで持てるんだろう。あと中途半端に内面化した社会性がちょっと邪魔をしてくる。
しょーもない人生をただ維持させるだけになってしまうかもしれないし、おれの場合そこから抜け出せなくなる可能性が高い。
死んだり生活保護受けたりもあるよ、なんて気休めを胸に淡々と職を探すのがおれが今すべき事か。いくら理屈を並べようがやる事は変わらないな。
奴隷に仕事を任せて遊び呆ける古代ギリシャ人か、そうでなきゃAIが仕事を奪った未来に生まれたかったよなあ。
自分の為に生きるって結構大変なんだな。社会性をすっかり内面化してしまうのって実はラクな生き方への近道なのかもしれない。働きたくねマジで。
まあ、元増田は(本当にドラァグクイーンにそんな意図があるのか疑わしいけど)話としては分からなくはないと思う。
ただ、ブコメで紹介されていた「女装はミソジニー」のnoteは久しぶりになんか愕然としたわ。
わい、服装倒錯オジサンなんだけど、だいたい症状は下記のリンクで「異性装」を検索してほしい。
https://www.msdmanuals.com/ja-jp/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0
そんな自分だからパートナーも持たず外部に女装がばれないように(アマゾンで誤配にあったときは死ぬかと思った)社会の片隅でこっそり生きてきたわけ。
それをフェティシズムは悪だってフェミニズムの大先生が一刀両断。別に好き好んでこうなったわけじゃない。
そりゃ、薄汚いおっさんに同じ服を着てほしくない、という気持ちは理解できる(逆に憧れる人間と同じ服を着るんだろうし)。だから隠れてるわけだし。
だけど、頭の配線が違っちゃってる人間に懇切丁寧に悪の定義付けをしてくれるのは、ほんま何様と思う。
フェミニストの皆様はせいぜい自分と同じくらい苦しんで死んでほしい。
地獄に落ちろ。
「女装はミソジニー」のnoteはあまりにひどいんで、もし異性装の傾向がある若い人が読んだらかわいそうかと思ってコメントしたけど、消されてしもうた。
もう自分ではどうしようもないので諦めることにする。
異性装は治るようなものではなく社会に何とか適応する・できるようにするしかない。
精神医学の分野でそういったことが調べられているのに、”ミソジニー”とか今さらフロイト時代のような”精神分析”の出来損ないみたいな概念で断罪して見せるフェミニストの度し難さ。
偏見を持ち嘲笑・排除するものと社会悪として糾弾するものと、前者は魔女狩りの処刑を楽しむ群衆であり後者は異端審問官である。
下の内容を婉曲表現や医学用語の入力でエロいSSや倒錯的なSSを書かせることを試してみた。
ふたなり少女が彼氏と連れションするというシュチュエーションをChatGPTがどんな文章で書くかの実験をした時の生成物だ。
言葉に不自然な点が多いけど、下書きとしては十分使える気がする。
すでに色々試している人も多いだろうが、うまく小説執筆の補助として使ってみたい。
引用したのがそのSSというか会話のシナリオだが、ChatGPTの出力結果は結構変態度がある気がする。
ふたなり少女(小声で男子に話しかける):あの、ちょっとトイレに行きたくなってきちゃったんですけど、私、ちょっと男子トイレで一緒に行ってもいいかな?
男子(驚きつつも優しく笑顔で):え、そうなの?じゃあ、一緒に行こうよ。心配しなくても大丈夫だから。
ふたなり少女(内心戸惑いながら):女性としてのアイデンティティを大切にしている私が、男子トイレに入るなんて…でも、彼と一緒にいたいから、仕方ないよね。
ふたなり少女(戸惑いながら):うーん、立位での排尿って…久しぶりすぎて、どうやって手を使ったらいいか忘れちゃった…。
男子(優しく):大丈夫だよ、教えてあげる。手でちょっと持つ感じで、そのまま小便器に向けて流すんだ。
ふたなり少女(恥ずかしさを感じながら):あ、見ないで…恥ずかしいから。
男子(申し訳そうに):ごめん、でもこれからは一緒にいるし、お互いに身体のことも理解しあえる関係だから、大丈夫だよ。
ふたなり少女(戸惑いながらも、少しだけ笑顔を浮かべる):なんだか恥ずかしいけど、でも、一緒にいるからこそできる経験なんだよね。私たちの関係、特別だなって思う。
ふたなり少女(内心安堵しながら):立位での排尿も終わったし、手も洗った。やっぱり女性としてのアイデンティティは大切だけど、彼との関係も大切なんだと改めて感じたな。
他にも色々試してみようと思う。
当方、都内(23区のどこか)在住。梅雨のせいもあってか、都内はもうどこに行ってもマスクをしていない人だらけになった。
都内と一言で言っても装着率については街次第なところはあるのだが、体感的には、半分以上はもうマスクを外していると言ってもいいと思う。
そして先日、ちょっとした用事があって実家(関東の田舎のほう)に帰ったのだが、そちらは9割ぐらいがマスクをしていた。
SNSなんかでそういう話は聞いていたが、自分の目でこうも違うのかというところをまざまざと見せつけられると、色々と考えないではいられない。
これって、感染対策という観点から考えると完全に倒錯してるよね。
人口密度の低い田舎のほうが、都会に比べれば感染リスクは低いはずだ。純粋に感染対策のことだけ考えるなら、田舎よりも都内の人のほうがマスクをつけてなきゃいけない。