はてなキーワード: 形成とは
2月27日 緒方林太郎議員が衆議院予算第8分科会にて成田空港近くの土地の利用、不動産特定共同事業法とポンジスキーム対策について各省庁に質問
3月27日 楽待がみんなで大家さんの不動産小口化商品の問題についてWEB記事で指摘
4月17日 緒方林太郎議員が衆議院国土交通委員会にて水巻市におけるバナナの生産・出荷状況について各省庁に質問 (みんなで大家さんが運営している水巻市のアグレボバイオテクノロジーセンターに念頭においていると思われる)
4月27日 YouTubeの資産形成チャンネルがゲートウェイ成田の建築計画・インフラ計画の不備を説明、工事がこれ以上進まないと指摘
4月30日 楽待が3月の記事と同内容の動画をYouTubeにアップ、さらに成田市の担当者にインタビューをおこなう
5月9日 共生バンク(みんなで大家さんの運営会社)がゲートウェイ成田のマスタープランを公開、前回発表時の2026年開業を2027年開業に変更←今ココ
ほとんどの女は自分で店は決めない(ぼったくりバー式美人局は除く)。男が決めた店で相手のセンスやら本気度をチェックしている。
これが試し行動じゃなくて何なんだ?
自分はすっかり面接官のつもりになってるのにいざ男がサイゼに連れてっただけで「人を試すとは何事か!」みたいな態度とってる女なんなん?一回死んどけボケ。
言っとくが、結婚した後に食事の好みが違うと困るからみたいな言い訳してる女、それも試し行動だからな?何自分は悪くないですみたいな顔してんだ?面が皮だけで形成されてんのか?
そもそもサイゼに連れてかれたりするのが嫌ならお前から店を選べよ。クソみたいにデカい皿に小鳥の餌みたいに小さいパスタが盛られたクソイタリアンを選んで男に「こいつセンスないわぁ」って思われてろ馬鹿。
女は基本的にルールを守り、コミュニケーション能力が高く、他者を思いやる力がある。それ故に、女は女であるというだけで女からの恩恵を受けやすく、また返報の作法を学ぶ機会に恵まれている。
もちろん、女社会に所属し続けるためには自分自身も一定の対人スキルを持つことが求められる。しかしそれさえできていれば女としての恩恵を受けられる上、別に対人スキルがなくても受けられる恩恵もある。
スキルがなくても受けられる恩恵として、例えば公共施設の清潔度が挙げられる。男子トイレや男性浴場が汚物でひどく汚れていたという話をたびたび耳にするが、女子トイレや浴場でそんな光景は見たことがない。女には他人に迷惑をかけないよう躾けられた人の割合が高く、後始末のスキルの低さや悪意からわざと他人に迷惑をかける人の割合は、男のそれより遥かに低いのだろう。
また、女は女同士で助け合ったり協力する姿勢があり、それを美徳とする考え方が根付いている。男性は競争することを求められるせいか、協力や助け合いはぬるい行為だと一段低く見られているように見える。
総じて女が女に対して行う行為はギブが多く、緩やかなギブの循環による豊かさが女社会にはある。対して男社会はギバーからテイカーまで幅広い人種がいて、厄介なテイカーを統制する手段もないため、全体的に荒んだ雰囲気になっているように思える。
この傾向は、女の友情が薄っぺらく、男の友情は厚いものだという説にも繋がると考えられる。すなわち、女は基本的にほとんどの人はまともなので、友人を厳選する必要もなく、場当たり的な人間関係でも上手くやっていける。一方で男は人種の層が幅広いため、ある程度は自分が付き合いたいと思える友人を選別する必要があり、その結果として厚い友情が形成される。つまり友情の厚みは女の薄情さや男の情の厚さを示すのではなく、むしろ信頼できる同性の多寡に応じて決まるのではないかと考える。
また、女が男に文句を言いがちなのも、男がそれに黙って耐えがちなのも、女の中の「人間」の水準は高く、男の中の「人間」の水準は低いというギャップから来ると考えられる。あり得ないほど低い水準の同性に出会い、人間の本質について諦めをつけている男性と、ある一定の水準を満たす同性がほとんどなため、低い水準の人間には悪意や怠惰を感じてしまう女性の違いである。
こうした差異は、XX遺伝子を持ちある程度の劣性遺伝を補完できるためにバラつきの少ない女という生き物と、XY遺伝子を持つために変異やバラつきの大きい男という生き物であるが故のものである。それ故にこの差が覆ることはないものの、それを踏まえた上で私は女に生まれて良かったと思う。
女たちの暗黙の協定の上に成り立つ公共財の恩恵は大きい。男がその世界に憧れる気持ちも分からなくはないが、女の心情を想像したり理解したりしない性欲丸出しの自称トランスジェンダーが歓迎されないのは、性欲が見えて気持ち悪いことの他に、女社会の恩恵のみを啜るテイカーであることが全く隠せていないことが原因だ。
使ったことがないのならまずはオズボーンのチェックリストを使おう。
手っ取り早く例を挙げる。
あなたの脳内でいつもあなたを励ましてくれるかわいい女の子の魅力を書きたいとしよう。
1. 転用してみる
かわいい女の子にさらに魅力が追加されるとしたら、どんな属性があるか考えてみよう。
元々想像していたのが黒髪で巨乳で運動神経が鈍い料理上手な女の子だったとする。
ここにさらに他に得意なモノやコトがあるとしたら何があるか考えてみるといいかもしれない。狙撃とか。読経とか。
2. 適合・応用してみる
料理好きのかわいい黒髪女子に匹敵する魅力のあるモノは他に何かないだろうか?
かわいい料理上手な黒髪女子に対抗意識を燃やす平行四辺形や水死体が存在したら、何が起こるだろうか?
3. 変更してみる
黒髪で巨乳で運動神経が鈍い料理上手な男の子を登場させてみるとどうだろうか。
4. 拡大してみる
ネタを壮大にしてみよう。
死神が宿る漆黒の髪をなびかせ、アカシックレコードを秘めた乳房を持ち、家の外に一歩も出たことはないがその腕が生み出す料理は建物を土台から吹き飛ばすことができる宇宙一の美少女の話にしてみたらどうだろう。
5. 縮小してみる
逆に控えめにしてみよう。
茶色っぽい黒髪が特徴で、やや胸が大きいことを気にしていて運動はすこし苦手だが料理人の父を持っていて料理上手になりたい女の子である。
なんだか急にリアリティが生まれて、これはこれでなんだか物語性を感じないだろうか。
6. 代用してみる
元ネタを直接書かない、登場しないとしたら誰が代わりになるだろうか。
例として「黒髪で巨乳で運動神経が鈍い料理上手な女の子」に恋する人物、例えば前頭三枚目になりたくて異世界から来た不死鳥の甥がいたら、どのような主人公になれるだろう?
7. 再配置してみる
例えば、巨大料理を作りたくて市民運動をしている乳牛大好きな色黒の女の子がいたらどんな物語が生まれるだろうか?
8. 逆転してみる
金髪で低身長で運動神経がいい料理下手な男の子を登場させたらどんなシナジーが生まれるだろうか?
9. 結合してみる
いままで挙げたアイデアを合体させてみよう。
例えば、黒髪で低身長な平行四辺形の猫が市民運動を展開する前頭三枚目の乳牛に恋をしてアカシックレコードと水死体を料理する話があったとしたら、それはどのようにドラマチックにできるだろう?
いかがだろうか。
「黒髪で巨乳で運動神経が鈍い料理上手な女の子」という例から少し極端なアイデアを作り出してみたが、ありふれたフレームワーク(オズボーンのチェックリスト)を使うだけでも恐ろしいほどにたくさんのアイデアを作り出せることがわかっていただけたと思う。
ここまで極端でなくても、身近なものを上記のように捻るだけでいくらでも書きたいものが生まれると思う。
あなたが仮に政治に興味があるとしたら、自民党の党首が仮にアメリカ生まれのブロンド美女だったらどうなるか、考えてみてもいいだろう。
野球なら、横浜ベイスターズを異世界魔導ギルド球団に、読売ジャイアンツを異世界冒険者ギルド球団に置き換えたらどのような選手構成に置換できるだろう。
もっと身近なもの、例えばXとInstagramとTiktokが巨大大陸だとしたら、それぞれどんな民族が住んでいて、どのような文化を形成しているだろうか。
思い返してみれば、上記のような「少し違う」何かを混ぜたフィクション作品はたくさんあると思う。
他にも似たようなアイデアを生み出すためのフレームワークはたくさんあるので探してみてほしい。
時代はつねに進み、移り変わっているので、新鮮さやなつかしさも同じように少しずつ移り変わっている。
「内心で思う」ことと「わざわざ本人に苦情を言う、そういう世論を形成しようと謀る」ことの差がわからないほどに甘やかされているんだなあ。
よく男性と女性の性差で議論になるとき「性差よりも個人差の方が大きい」という優れた意見に出会うことがある.同感である.
確かに性差はあるだろうが,個人差の方が大きいのは事実だろう.
東京 vs 地方の話題も同じだと感じる.どちらも都合よく,文化や環境の議論をしているように思う.
そこで,地方の子育て事情(3σ外れた異常値と認識している)として,自分が行った子育ての例を紹介したい.
異常値であると記載した通り,地方の子育てがこれが平均だというつもりは毛頭ない.むしろ,地方においても親が異常者であればこういう子育てが可能であるという例である.
先にバックグラウンド.私は東大卒で,妻も東京の国立大学卒である.二人とも博士号を有している.
仕事の都合で,地方都市(三代都市圏近郊ではない,まさしく地方都市.人口数十万人)で15年間子育てをすることになった.
私は仕事で住んだ地方都市よりもさらに人口の少ない地方都市出身者であり,18歳までその地元で暮らしていた.
まず,毎週末のように,県内及び隣県にある文化施設や大きな公園などに高速を使って出掛けていた.
子供たちが異常に好奇心が旺盛であったため,科学館や天文台,美術館,博物館なんでもOKだったし,
公園には必ず図鑑を持って出かけ,気になる花や虫は図鑑でチェックしながらなるほど〜と家族みんなで確認した.
連休は近隣県でジオパークに出かけたり,温泉旅館に泊まったりした.行く前に図鑑や本で地域の情報や歴史を調べ,
車の中でみんなで披露するというのがお出かけのパターンであった.
中学校くらいからは歴史に出てくる場所や有名建築家が設計した建築物回りなど,社会科学寄りのお出かけも増やしていた.
半年に1度程度の頻度で東京や大阪には出かけ,そこでしか体験できないこと(科博,未来館,キッザニア,鉄博,USJなど.なぜかディズニーには一切興味を示さなかった)
にも出かけた.特に未就学時は鉄道大好き人間だったので,JRの全ての鉄博,地下鉄博物館,京王レールランドなどにも行った記憶がある.
体験格差などという言葉があるが,少なくとも我が家はお出かけという観点において,首都圏での子育てと比べて,劣っているとはあまり思っていない.
それは元々自分も妻もお出かけ大好き人間であり,軽々しく遠出をする人間だったためと考えられる.
上の子,下の子ともにゲームは2-3歳から解禁していたが,1日30分というルールで行っていた.最初は駄々を捏ねていたが,
1週間もすればルールに順応する.小学生からは1日1時間.お休みの日や特別な日(テストが終わった日など)は長時間を許すという柔軟な運用をした.
私自身ゲームが大好きであり,子供の頃も馬鹿みたいにやっていたので,ゲームをすれば頭が悪くなるなんてことは一切考えたことない.
一方で,ゲームは面白すぎるのでやめ時が難しいことが問題で(これはマンガであれ,Youtubeであれ,小説であれ,映画鑑賞であれ他の全ての趣味にも共通する)
そこさえ親がきちんと見守れば,子供がやりたいこと,見たいものは与えて良いと思う.際限ないことが問題なので.
習い事や勉強について.未就学期の習い事は上の子は水泳,ピアノ,造形教室,ダンス教室,下の子は水泳,造形教室だった.
通っていたお絵かき教室が県内で相当有名なところであり,コンクールの賞ゲッターを量産するところだったので,
我が家もそれなりにエフォートを割き,小学生と中学生の際にはいくつかの賞を受賞し,地元の新聞に載った.
公文は個人的に否定派だったので,未就学時は自宅でこぐま会をやっていた.もちろん小学校受験などするつもりはないので,あくまで頭のパズルと基礎力をつけるという程度.
自宅で先取り学習は絶対にしないようにした(ここでいう先取り学習とは学年よりも先の内容をやること)
小学校(公立)では,全く勉強に困ることはなかった.これは首都圏のようなレベルの高い競争がないため,当然と思われる.
そのため,自宅では,首都圏の中学受験用の教材を4年生くらいから利用した.また,その地元の進学塾にも通っていた.
大学時代の友人(首都圏在住)を通して,勉強法を聞いたり,首都圏と地方での勉強の違いなどを埋めようと親が努力した.
(が,友人とも話したが結局は個人差の方が大きいというオチだった)
中学受験期には,本人も同意の上で,通えないこと前提で首都圏の学校をいくつか受けた.本人にとっては力試しという意味が大きく,通えないことは理解していたし,前向きだった.
上の子は開成に受かり,下の子も渋幕に受かった.上の子は中学は地元の公立中学に進学した.下の子は後述.
上の子が開成に受かった時は親としても非常に悩ましく,妻と子供たちだけ首都圏で暮らすことも考えた.
が,家族みんなで暮らす方が楽しいだろうということで,これはあくまで力試しが目的だったはず,本来の目的に戻ろうということになった.
ただし合格は本人の自信になったようだ.
それから数年後に私の転職があり,首都圏で暮らすことになった.
上の子は高校受験で開成に,下の子はちょうど引越しタイミングと受験タイミングが重なり,渋幕に無事合格した.
子供達二人とも首都圏に引越してから,学校でついていけないこともなかったし,特段の文化的な劣等感も感じることはなかったと話していた.
この後,我が子が殺人鬼になったり,オレオレ詐欺の主犯として捕まる可能性もあるので,手放しで自分たちの子育てが成功例であるとは言わないが,
少なくとも人口数十万レベルの地方都市においても,首都圏と同レベルの子育てはできるという実例になると思う.
もちろん親は二人ともめちゃくちゃ努力したと思う.そりゃ週末はイオンに行って1日過ごせば親もフードコートやゲームセンターで休めて楽だけど,
妻がお弁当を作り,大きな公園で遊ぶ,子供達が疲れてきたら近くのイオンに行き,買い物をして帰るという生活は体力的にも根性的にも辛い.
ただ,あの時の自分たちは私の仕事の都合で地方都市で暮らしていたこともあり,親の都合で子供達の住む場所が決まってしまっていることへの罪悪感からか,
過剰に,それこそ首都圏での子育て以上に様々な体験をさせてやるんだという気概があったように思う
その意味では,首都圏がどんなに文化や環境に恵まれていたとしても,1日中switchを与えて親が子供を放置していた家庭よりは地方の我が家の方が多くの体験をしていただろうし,
かといって周りを見渡した時に,周りのご家庭が我が家のようにある意味で狂気的な子育てをしていたかというとそんなことはないと思う
よって「地域差よりも家庭差の方が大きい」という面もあることを伝えたい.
「東大卒博士号の経歴をドブに捨てて田舎の専業主婦で終わった奥さん可哀想という感想しかない 」
というトラバ,まず妻は東大卒じゃないし,専業主婦とも書いてないんだが,エスパーか?
妻は専門職なので,地方都市でも東京でも育休中以外ずっと働いてたんだが…というのが1点目.
次に,仮に東大卒博士号持ちが専業主婦をすることの何がおかしいのか,可哀想なのかがわからないというのが2点目.
もしかして博士号のような生産性の高い人物が子育てという非生産的な行動を行うのが勿体無いと言いたいのか?
世の中で博士号持ちの女性,たくさん子育てしてるよ.日本だけじゃなくて海外でも.
それに,君,働いたことある?会社の仕事取ってくる営業や開発だけが生産的で,人事はコストセンターで生産性が低いまたはゼロと思ってる?
目の前でお金を稼ぐことだけが生産性じゃないんだよ.世帯内や社会全体で役割が分担されていて,その寄与度は複雑な関係になってるよ.
それに君が好きな生産性で言えば,うちの子供達が2000億ドルくらいのイーロンマスク並の資産を形成したら
うちの妻が仮に東大卒博士号持ちの専業主婦で20年子育てしたとしても,100億ドル/年のリターンがあるわけで,めっちゃその優秀な能力を発揮したことにならない?そんなこと求めてないけど.
3点目として,別にうちの子供がイーロンマスクにならなかったとしても,うちの妻的には人生が楽しければ良くないか?
上にも書いた通り,私はゲームが好きなんだけど,ゲームした時間って別に新自由主義的な意味で生産的な時間じゃないだろうけど,面白ければ良いのでは?
我々夫婦が「大変なこともあったけど,色々二人で頑張って面白かったな.子どもたちも育って勝手に好きなように生きてるし,なかなか我々がんばったね」って思えたら御の字で子育てでそれ以上を求めても仕方ない気がする
三島由紀夫は日本を代表する文豪・憂国の士といわれるが、過大評価され過ぎだと思い、所感を書いておく。
三島由紀夫はかなり多作な作家で、小説・戯曲だけでおそらく200作を超える。
新潮社の三島由紀夫全集はバカデカサイズの全42巻からなり、通読した人間は三島の専門家くらいだろう…専門家すら怪しいが。
三島由紀夫といえば金閣寺。少し落ちるものとしては仮面の告白、潮騒、美徳のよろめき、鏡子の家、憂国、豊饒の海がある。
私は三島由紀夫が好きで、小説だけでなく戯曲を含めて結構読んでいる方だと自認しているが、若者がつまらぬ観念を語るだけの作品、あまりに紋切り型の恋愛作品が多すぎて、読むのが時間の無駄・苦痛だ。
2021年に『三島由紀夫vs東大全共闘』という映画が公開された。三島由紀夫 = 憂国の士という共通認識を前提とした筋書きのようだ。
しかし当時(1969年)の共通認識は「ややこしい人がクビを突っ込んだな」である。
当時の三島由紀夫はボディービルディングに熱中したり、鍛えた裸を披露するために自分の映画や写真集を作ってみたりと、脇道にそれる活動が多く、作家としての存在感が薄らいでいた。
それどころかいい年したおじさんなのにUFO・超能力の探求にハマったり、ハタチそこそこの若者を誘って私兵部隊を結成したり(後に市ヶ谷駐屯地に突入した楯の会である)と、お騒がせキャラクターを確立していた。
つまりUFO・超能力に興味があり、自分の映画・写真集をつくり、若者を集めて軍事訓練を積ませている40過ぎのおじさんが、ソ連・マルクス主義の嵐が吹きすさぶ東大に入って論戦しようというのである。いくらなんでもツッコミどころが多すぎるよ。
当時は同性愛・天皇礼賛主義への偏見が強かったこともマイナスイメージを形成しており、三島由紀夫は"へんなおじさん"であった。
散々語られていることだが計画性がなさすぎる。拡声器すら用意していなかったとは…。
偉い人を人質にとって吠えれば自衛隊が動くと思ったのだろうか。組織とはそのような属人的なものではない。
ずさんな計画のわりに、割腹自殺の準備だけはキッチリしていたらしいが。
派手に割腹したかっただけでしょ。割と当たっていると思う。三島由紀夫がエッセイや映像インタビューで度々語っているお気に入りのエピソードに、終戦の日に夏の静かな日差しを見ていると自分は"生き残ってしまった、後に残されてしまった"という強い感覚を持ち、それ以来死に場所を探しているという話があり、その"死に場所"を選んだということなのだろう。
三島由紀夫はエッセイストとして優秀だとおもう。"高貴なる野蛮人たれ"という言葉を残した。上品で、教養があり、裕福な人間は一見洗練されているようではあるが、実は個性がなく退屈で、柔順で、脆弱な人間なのである種の誇り高き野蛮さを備えておくべきだという三島由紀夫の主張。この主張は私の人生の指針にもなってきた。
ただ文豪・憂国の士というのは過大評価であり、観念に引きこもるあまり最期は周りに迷惑をかけて死んだへんてこ作家、くらいが妥当な評価だと思う。
あなたが述べている問題は、ソーシャルメディアのプラットフォームにおける「可視性」と「相互性」の問題ですね。新規ユーザーが参加したとき、彼らが発信する情報は、フォロワーが少ないためにほとんど見られません。また、有名なアカウントは数が多すぎて、個々のフォロワーに対応することは難しいです。
その結果、ユーザーは自分の声が聞こえるように、無差別に多くのアカウントをフォローし始めます。しかし、これは結果的にソーシャルメディアの使用目的を変えてしまいます。元々は興味のある情報を追求するためのものが、承認欲求を満たすためのものになってしまいます。
この問題を解決するためには、ソーシャルメディアのプラットフォーム自体が、新規ユーザーや少数のフォロワーを持つユーザーの声を増幅する仕組みを持つことが重要です。また、ユーザー自身も、自分の興味や価値観に基づいてコミュニティを形成し、質の高いインタラクションを追求することが求められます。
それが実現すれば、ソーシャルメディアはただの「承認の場」ではなく、「情報交換の場」や「コミュニティの場」としての役割を果たすことができるでしょう。それが真の「居場所」になると私は思います。どう思いますか?
わたしは少し前までとある男性声優Aを応援していた。アニメコンテンツに声優が強く結びつけられ売り出されている今、キャラクターからそれを演じている人を好きになって他の作品も観るようになって個人イベントなどにも参加して〜、とまあよくある話だと思う。
が結果、色々と疲れて降りてしまった。またとんでもなく苦手な人Bができていまだに自衛(本人はなにも悪くなく全く身勝手な言い方だが、わたしにとってBを避けることは自衛としか言いようがないためそのような語を使わせて欲しい)に苦労している。
ここでは特定の個人を批判したいのではなく、またこの先声優を好きになるかもしれない人への注意喚起などという大それた目的があるわけでもなく、ただ自分のどういうところが問題でこうなってしまったのか整理をしたい一心でこの文章を綴っている。色々と未練がひどく見苦しいので、「降りたければ勝手に降りろ、後からごちゃごちゃ言うな」という考えの人はこの先読まないことをおすすめしたい。
最も根本的な問題は、声優はとっても競争の厳しい業界だということである。
なんだ、そんなことか。まあそんなことである。アニメや吹き替え、ナレーションなどぽんぽん新たな仕事が入るような人間はごく僅かで、さらにそのように売れて見える人でもオーディションをものすごい数受けてようやくひとつ掴み取っているくらいの競争率の激しさだという話は有名である。そのため、まあそこそこアニメオタクに名が知られている程度の声優だと、アニメや映画の吹き替えよりイベントがメインの仕事になることもざらであった。ちなみに声優のイベントとは、キャラクターを背負わずに本人がそのオタク向けにトークをし、場合によっては企画をこなしたり朗読劇を行ったりするというものである。
わたしが応援していたAもそんな感じだったので、ある程度情報を追うようになってからはイベントに参加すべく遠征するようになった。しかしここで(わたしの中で)問題が発生する。
第一に、イベント仕事はわたしにとって望ましい(見たい)仕事ではなかった。わたしはAの声と演技に惹かれてファンになったので、特別イベントで動いたり喋ったりしているところが見たいわけではなかった。本当はもっとアニメに出たり映画に出たりして欲しい。しかしオーディションに受からなければ仕方のない話なので、せめてイベントの売り上げに貢献して次の仕事に繋がれば、という気持ちで参加していた。とはいえ、初めの頃はAの話を聞けるのが興味深くまた生朗読などもあったためそれなりに楽しんでいたと思う。それでも、あまりにもイベントの仕事ばかりが入ると次第に不満に思うようになっていく。はあ? またイベント? ということはこの時期の収録の仕事はないのか。来期は期待できない? このように、イベント仕事が入る=その日のスケジュールが空いていた=きっと何らかの作品のオーディションに落ちたのだろう、という思考になり、イベント仕事の予告を受けるのが苦痛になった。
そもそもどうしてこんなに事務所はイベント仕事を詰め込むのか。もっとオーディションに力を入れたら。あるいはオフを作ってでも演技に繋がるようなインプットをすべきでは。お喋りをして既存のファンの相手をするイベント仕事では演技力が向上し次の仕事に繋がるとは到底思えなかった。
さらに金銭面。遠征費、イベントのチケ代、グッズ代などは決してバカにならない。ただでさえ積極的に参加しているわけではないイベントなのに、こんなに出費がかさむなんて。もっと売れっ子の声優のオタクは無銭でも十分な供給があるのに(というか気楽に口を開けて待っているだけで新たな出演作を次々享受できるのに)? わたしはAの声と演技がもっと見たい(聞きたい)だけなのに。こんな風にしてどんどん不満は大きくなっていった。それじゃ、興味のないイベントには参加しなければ良いのでは。この話を聞けば誰だってそう思うだろう。でも当時のわたしはそうするわけにもいかなかった。とにかくイベントの席が埋まっていなかったからだ。
ここに第二の問題がある。イベントに行くと、ひとりで応援していただけの時は知らなかったような情報が嫌でも入ってくる。例えば、Aの熱心なオタクがどの程度いて、Aにどのくらいの動員力があるか。例えば古参のオタクの人間関係がどんな感じで誰が疎まれているか。わたしはイベントに行った結果、応援しているAがなかなかイベントを埋められず他の共演者の力を借りてようやくチケットがはけたという話や、煙たがられている古参がいることを知った(ちなみにこの古参オタクにグッズへの金銭のかけ方でマウントを取られるなどしたが、それでも他のオタクたちに陰口を言われているのは可哀想だと思った)。正直ショックだった。好きな声優を応援する上でこんな余計なモヤモヤを覚えることがあるとは想像もしていなかった。特に人間関係については深く首を突っ込まなければスルーできたかもしれなかったので、ちょっとでも社交的に振る舞おうとした自分はバカだったと思うし普通に後悔している。ただし声優イベントは昼夜公演の間に数時間程度の空き時間が挟まることが多く、この時間で交流が生まれやすいというのが罠だと思う。
とまあこんな感じで、いつしかわたしはAの仕事にものすごい不満を覚えるようになっていった。なんでオーディションに受からないのか。イベント仕事ばかりで、そのイベントの席さえ埋められないとはどういうことなの。イベントを埋めるためには知名度と熱心な新規ファンの獲得が必要で、そのためにはやっぱり作品に出演するしかない。それなのに作品の仕事がないからといってイベントばかり出て、それで肝心のオーディションには落ち、やっぱり空いたスケジュールの穴をイベントで埋める(かといって席は埋まらないが)という悪循環に陥っている気がした。さらにファンの関係だって、新規がいないから過度に煮詰まってしまって疲弊したり拗れたりしているところがあったように思う。ここでも、新規ファンがいないために固定のファンダムが形成され、それによって新規ファンがより参加しづらくなりさらにファンダムが固定化され、結果としてただただ現在の固定層が金銭、体力的に疲弊していくという悪循環がある気がした。とにかく何でもいい、作品に出て、お願い。そういった気持ちで新しくアニメ化する作品に望みをかけ、このキャラクター演じてくれないかなあと公式発表日をドキドキして待ち、玉砕。こうやって勝手に裏切られるような気持ちになることが増えていった(個人的にかなり期待していた一大プロジェクトのキャスト発表を2年近く待ち、結果そこに名前はなくてショックで4kg痩せたこともあった)。
このように現状へ不満を持つと次第にどのような感情が生まれるか。他の声優への嫉妬である。これは第三の問題であると同時に最も厄介な問題だった。
先述の通り、声優は多くの場合、作品出演権利をオーディションで勝ち取ることが求められる。つまり、わたしのようなただひとりをがむしゃらに応援している人間にとっては、同じ業界の人間は全員ライバルに見えるのである。さらに実はこの役を受けていて(落ちた)〜、のような裏話は意外と聞こえてくるものであり、だんだんと同じような声質で同じポジションの役柄を争っている人たちがどういったメンツかということなどが分かってきてしまう。Aを応援する気持ちが大きくなればなるほど、その他の同業の人への複雑な気持ちも堪えられなくなっていった。
また声優は共演した相手と仲良し売りをすることがしばしばあり、他の声優と掛け持ちするオタクがかなり多いように見受けられた。わたしのようなアンチオンリー(Aしか好きじゃない、むしろA以外はうっすら嫌い)状態と化した人間にとって、同じスタンスのオタクを探すことはなかなか難しく愚痴や鬱々とした気持ちを共有することもできない。
さらにそのような状況で、とっても苦手(マイルドに言えば苦手だが本当は嫌いと言いたい)な声優Bができてしまった。苦手になった詳しい経緯は省略するが、主に以下である。
・応援していた声優Aと同世代、かつめちゃくちゃ活躍しておりそしてわたしにはその良さが分からない
・応援していた声優Aと仲良しアピしていたくせに自分が売れた途端もっと売れている声優にすり寄るようになった(ようにわたしには見える)
・応援していた声優Aの演技を幾度となくイジる、Aのオタクも集まっている個人イベントでAの過去のやらかしエピ(大御所に演技のことでガチ怒られしたというあまり笑えないもの)をなぜか話すなど、気のおけない仲良しアピにしても度が過ぎているのでは?という発言が目立った
・わたしがAがらみで唯一仲良くなったオタクがBに担降り、しかも顔から入ったリアコらしくAを応援していた時とは明らかに違う応援の仕方(Bくゅよちよち、みたいな感じ)をしている
つまり嫉妬である。100%見苦しい嫉妬だ。自分でも分かっている。なのに一度苦手意識を待ってしまった今、本当に苦しくなってしまった。
結局、わたしは好きだった声優Aを応援するのを辞めた。費やしたお金や時間が無駄だったとは思わないし楽しい瞬間もそれなりにあったが、これ以上新規の仕事に勝手に期待して勝手に裏切られる気持ちになる、あの感じを繰り返すことに耐えられなかった。何よりAのこれ以上の活躍を信じられなくなった。
そして、Bへの強い嫉妬心と苦手意識だけが残った。Bの出演作や関連するもののSNSアカウントは全てブロックしているしワードも出来るだけミュートしている。もちろん悪口などを書き込んだことなどなく、誰にも迷惑はかけない形で最大限自衛しているつもりだ。それでも、Bを思い出させるもの(出演作の主題歌とそのアーティスト、キャラクターのグッズ、コマーシャルなど)は日常の中で幾度となくすり抜けてわたしの目の前に現れ、その度に鬱々とした気持ちになる。また新たな出演作が決まった時が最もひどい気分で、Aへの熱量はもう手放したはずなのにどうしていまだにこんなに落ち込むのだろうと泣きたくなる。現在は声優オタク界隈から離れAもBも関係ない作品にハマっていて以前よりも心穏やかにいるのだが、これから万が一にもBが関わってきたら本当にどうしようか、ということが心底恐ろしい。いっそもう何もアニメにならないで欲しい。声がつかないで欲しい。どうか、わたしの好きなものをノイズなく好きなままでいさせて欲しい。
とはいえ全てわたしが異常なのでありAもBもその他のオタクたちも誰ひとり悪くない、ということは十二分に分かっている。結論としてわたしの反省すべきところと学びを記してまとめにしたい。
・生身の人間は文字通り人格のある生きている人間であってわたしの思い通りにはならない。そりゃ仕事のない時期だってある。生きた人間に理想を重ねて夢を見るときはそのことに自覚的にあるべきだ
・お金を払うのは常にその時に受けるサービスへの対価である。例えば虚無のイベント代を払うことを将来の投資と思ってはいけない
・生身の人間たったひとりに自分の人生レベルで体重を乗せて応援することは危険。せめてそのような相手をふたり以上作り、テンションの浮き沈みに対応できるようにした方が良い。あるいは他にも趣味を作ろう
・アンチオンリータイプの人間に声優のオタクは向いていない(目に見えて競争の世界、イベントなどで嫌でも絡みを見せられるなどの理由から)
【余談】
最後に、キャラと声優を同一視することについて補足するが、もちろんその問題点については理解している。ただ一度声優のオタクになるとキャラを見てどうしても声優がチラつくという頭になってしまい、これは普通に嫌だな〜と今になって思う。本当に自分勝手な話だが、キャラクターを見ているはずなのに中の人の雑念みたいなものが入ってきてしまいアニメが苦手になった。もっとフラットにアニメを見ていたあの頃に戻りたいよう。
体に悪いことって気持ちいいよね!
こういう話をすると「それね。体に悪いのに気持ちよくないものが自然淘汰されているだけだから👉️」と指摘してくれる人いるけど、それは脳の仕組みを理解できてなさすぎるんだよなあ。
人間の脳は精神か肉体に苦痛を受けると快楽物質が出るようになってるの。
そこそこの怪我をした時最初は麻痺ってるけど少ししたらアホほど痛くなることがあるでしょ?
あれは痛みを受けた直後は脳内麻薬を出す仕組みがあるから。そういう仕組みがある生き物は敵から攻撃を受けても反撃や逃走に転じることが出来るから生き延びやすかったという自然淘汰の結果ね。
そんでもって、精神の方の仕組みも、ダメージを受けたら気持ちよくなることで一時的に回復させる仕組みがあるわけ。これは落ち込みっぱなしなよりは空元気でもいいから動き回った方が生存確率が上がるっていう自然淘汰の結果ね。
つまり、体と心に悪いことをすると、その状況をひとまず好転させるために脳が快楽物質を出してくれて、これでアヘアヘ気持ちよくなれてしまうんだな。
激辛食品・SMプレイ・リストカット・首吊りオナニー・ギャンブル依存症などなどはこの仕組みが大いに機能してしまった結果として人類にはびこっている。
サウナもまた体に悪いことをしまくった結果として体がバグってアヘアヘさせている部分が大きいんだよね。
発汗機能を高めるというプラスな部分もあるけど、気持ちよさを生み出しているのは体をバグらせて不当に快楽物質を得るっていうヤクザの生活保護ビジネスみたいな奴だよ。
そしてここから更に「もしかして体に悪いのでは?」って不安が出てくると、それも脳をバグらせて不安からひとまず逃げるための快楽物質をくれるわけ。
後悔するようなことを人間が何度もやってしまうのは、同じパターンを繰り返してるからってのもあるけどそれとは別に「失敗して後悔するとちょっと気持ちいいことを学習しちゃった」からな部分もあるわけよ。
ギャンブル依存症やアルコール依存症なんかも割とこの部分が大きくて、後悔して気持ちよくなれてしまうことで二度美味しくなり脳がドンドンそっちに流れていくループが形成されているわけだよ。
反動に寄る脳内麻薬が切れて本当に後悔だけが残っている状態から気持ちよくなって現実逃避すると高低差によって更に気持ちよくなるのも大事なポイントだね。
マッチポンプもいいところだ。
サウナが実は体に悪いかも知れないとうっすら後ろめさを覚えている所に体をバグらせたことで取り出された快楽物質がドバドバ出ることで、破滅的な快楽に身を委ねてしまうんだな。
もしもサウナが本当に100%健康にいいということになったら、気持ちよさは今よりも下がるよ。
後ろめたさのない気持ちよさってのもあるけど、それよりも後ろめたさのある気持ちよさのほうが勝っているから壊れた人間が世の中に溢れているのさ。
なんでそんな仕組みが自然淘汰されないのかっていうと、異常な行動ができる奴が混ざっている方が集団として遺伝子は残りやすいから。
島根県には、浜山砂丘、都野津砂丘、出雲砂丘などがあります。
大田・江津方面からは、国道9号「道の駅キララ多伎」の交差点を左折し、くにびき海岸道路を約6km行くと西浜大橋です。 松江方面からは、国道9号の差海郵便局の交差点を右折し、約600m進むと右手に神社があります。
鹿野和彦・竹内圭史・大嶋和雄・豊 遙秋、1989、大社地域の地質。
なし
幅1㎞,長さ3km。 平面的には,くの字型をしており,横断面型は東側が急で西側が緩やかな非対称となっている。 砂丘の表面は防風林として植林されたクロマツに覆われている。 海抜5mより下位は砂州(砂堆)でその上を砂丘が覆ったものである。 砂丘の最高点は標高41mに達する。 風化土壌が挟在する地点もみられるが,形成時期は後氷期と考えられている。 高さ・面積ともに山陰第一級の砂丘といえる。 砂丘砂の一部は鋳物用珪砂やコンクリート用材料として採取されている。
江の川を挟んで,江津市東部の黒松から浅利,江津を経て波子に至る20kmの間
江津市の都野津から敬川にかけて約4km続く都野津砂丘は最も規模が大きい。海岸に沿って走る浜堤を標高10m弱,幅200m前後の砂丘が覆う。砂丘の表面には防風林としてクロマツが植えられている。
浜山砂丘は出雲平野の西部にあり、海岸から内陸2km地点に位置しています。幅1km、長さ3kmで、くの字型をしています。横断面は東側が急で西側が緩やかな非対称で、最高点は標高41mに達します。砂丘の表面はクロマツの防風林に覆われており、砂州(砂堆)の上に砂丘が乗っています。形成時期は後氷期と考えられており、砂丘砂の一部は鋳物用珪砂やコンクリート用材料として採取されています。
都野津砂丘は江津市の都野津から敬川にかけて約4km続く砂丘で、江の川を挟んで黒松から浅利、江津を経て波子に至る20kmの間にある砂丘地帯の一部です。海岸に沿って走る浜堤を標高10m弱、幅200m前後の砂丘が覆っており、防風林としてクロマツが植えられています。
差海川河口の古砂丘で、大社の稲佐の浜から出雲市小田までの約14kmにわたって砂浜の海岸が続いており、その奥には緩やかな斜面をもった砂丘があります。島根県で一番長い砂丘地帯です。
ヤマトはとりあえず、ガンダムに関してはファンタジーが強い気がする
なんでかって、やっぱり富野由悠季という作家性が強い作品だし、彼の作品は基本ファンタジーだから
彼自身がSFですって言おうが、ダンバインでなくとも、イデオンだってSFというよりファンタジーの印象が強い
岡田斗司夫はガンダムをSFだと言ってたけど、自分はどちらかと言えばスペースオペラ、ファンタジーだと思ってる
というか、アルタード・ステーツをSFと分類するかもちょっと自分はためらう
富野氏がアルタード・ステーツのようなオカルトからヒントを得たのは疑いがないと思う
当時、アイソレーションタンクなどによる無重力下で、人体になんらかの変化が起こる、というオカルトは流行していた
富野氏は、人類が宇宙に進出することと合体させ、だったら宇宙に出た人類は無重力下で人体になんらかの変化が起きる、
進化が起きる、ニュータイプになる、ということを考えたのだろう
エヴァの生命のスープだのL.C.Lなども同様のアイソレーションタンクである、その証拠にパイロットは溶けた
なんとなくだが、単なるLSD中毒のジャンキーだったジョン・C・リリーのたわ言は長い間信じられてきた
イルカやクジラの脳は人間並みかそれより高度だとか、イルカやクジラ同士のコミュニケーションによって地球レベルのネットワークが形成されているとか、
彼のWikipediaを読むだけでも、流石に現代では噴飯もののオカルトがテンコ盛りなわけだけど、
富野氏はマジで信じてたタイプなのではないか、富野氏のインタビューとかを眺めるたびにそう思うのである
オカルトをかなりマジで信じてた、かなり、ぶっ飛んでる御仁ではないかと思うのだ
結論からすれば、仮に富野氏がガンダムはSFだと仰ったとしても、自分にはかなりオカルト色の強いファンタジーにしか思えない
そういう視点からすれば、オウムとか新興宗教が制作したアニメと紙一重なのかもしれないが、
ガンダムは最初からフィクションだと言ってるわけだし、新興宗教のクソアニメなんかより、よっぽど面白いわけで、面白ければいいのである、フィクションなんだから良心的である
出産してから、自分のことを「可哀想」「私は被害者だ」と感じることが増えた
自分から死ににいくことはできないけど、自分にだけトラックが突っ込んでこないかな、と思いながらベビーカーを押す
育休中、狭い部屋でひとり、抱っこで子どもを揺らし続け、やっとお昼寝してくれたと思ったら30分で起きられる
夜泣きは私の担当だった 夫の眠りが深くて目覚めないのだ 殺意が湧いた
楽しみにしていたイベントが子供や夫の風邪でポシャった 心が折れた
子供に食事を拒否された あるあるだとわかっていても頭に血が上った
そのたびに惨めだ、私はかわいそうだ、一人で戦っている、と感じる
味方のはずの夫に対しても攻撃的になる一方だ
子どもを産むまであんなに好きだったのに、いまでは少しも触ってほしくない
夫が勤めているのはいわゆるJTCで、育休はたったの1週間だった
私が疲れ果て育児ノイローゼになったころ、比較的近い支店への異動が決まった
それで一時的に気持ちが上向いたが、また元通りになり、なにかにつけて夫を恨み責めたくなる気持ちが湧き上がる
夫はもともと何もしていないわけではなく夫のできる範囲で家事育児を行っていると思う
夜も土日もめったに飲みには行かず、残っている家事をこなしている
最近は私が怒りやストレスで爆発する度に対話の時間を設けてくれるようになった(それまでに気づけよという話もあるが、私もできるだけ頑張ろうと思い隠していた)
夫は私にとって育児がいかにストレスになっているか理解していなかった それは伝えたつもりだ
私は辛くて、それをわかってほしかったし、その上で安静にさせてほしかった
あっちはメインが出勤、こっちはメインがリモートなので
私だってもっと働きたいのになぜ私ばかりが、と思うと途端に惨めな気持ちになる
私は生まれつき身体が弱く、産前に過労で休職したこともあり、子どもを持ちながらフルタイムで働くことは現実的ではない
私も働くことは好きで、無理のない範囲で労働時間を長くしたり、責任のある仕事をしたいのだけど、それも叶わない
毎朝必死こいて保育園に送り届けても働いて得られるのは微々たる金
出産までにキャリアを形成できなかったせいで単価は低く、体力もないので寝かしつけのあと起き上がることもできない
さらには親子3人65平米のマンションは田舎育ちの私には息苦しいほど狭く、小さなリビングが視界に入る度に暗い気持ちになる
私はいま滅入っている
すでに手に入れたもの、ポジティブな面に目を向ければ恵まれている部分はたくさんある
実際は私の周りに敵なんてほぼいない
家族にも保育園にも園の友人にも、職場にも友人にも良い人に囲まれている
田舎に帰ろうとする私を引き止めてまで結婚したくせに、こんな惨めな思いをさせやがって
こっちに残ると決めたのも、子どもを生むことに同意したのも、狭いマンションを一緒に選んだのも私だし、
この強い被害者意識も私の受け取り方の問題、認知の歪み?そういうものなんだと思う
ただ最近背が伸びて大きくなって、顔つきも変わって
「物理的な可愛さ」が薄れてきて
ルッキズムがどうだと言われようが見た目が可愛い、は最大の正義なのだ
でもこんな死んだ顔した親の側にいたら、笑顔も曇ってしまうかもしれない
子どもを持って良かったなと思うのは親の喜ぶ顔が見えたから、ただそれだけ
過労で倒れたときも、多少悲しいことや嫌なことがあっても、死にたいと思ったことは一度もなかった
今は辛いけど、いつかまた上向くはず、絶対に復活できると自分のことを信じられていた
でも今はそれすらできない、ただうっすらとずっと死にたいと思いながら、なんとか生きてる
私がすり減っていてズタボロになってる
どうしたら癒やされ、回復して、前みたいに楽しさを感じられるんだろう
つまらなそうなことも、発想や工夫で「楽しくできる」のが私の良さだったのに
私はどこに行ったんだろう