はてなキーワード: モラルとは
そういう世の中になるべきじゃない?
いい子ぶるなよ、みんなそうしたい欲望抱えてるくせに
「俺だけ得したい」「俺だけ楽したい」「俺だけ甘受したい」ってな
お前らの本性はソレ、繕ってんじゃねえぞ獣共
元グラドルの優木まおみが自分のグラビアで抜いてましたってツイッターで言ってきた奴を片っ端からブロックしたって件に対してまとめサイトのコメ欄で「グラドルってそういう仕事だろ」みたいに言ってる奴が多数いるけど、
今はもう引退して結婚して子供もいるのにシコってただの抜いてただの言われたら不快に思うってわからんかな?
しかも優木まおみがグラドルやってた頃なんて20年くらい前だし抜いてましたって言う弱男もかなりのおっさんでしょ。それで堂々と夫子供いる女にセクハラ発言してその事に対して「グラビアやってたんだし良いだろ」と正当化しようとするのが、まさに空気読めずモラルの無い昭和脳丸出し。故に弱男おじなんだろうけど。
国木田独歩氏の『源おじ』は、妻を二人目の出産で失い、残された子を水難で失い、一人で舟渡しを営みつつ老境に至るところを、ある乞食の子との縁があり、我が子と思うように世話するも、乞食側からはさしたる恩も情も返されず、夢に出る内心では妻や実子に対する後ろめたさを抱えつつ、ついには乞食に去られ、舟も嵐で失い、生活にも仕事にも支えを失い、首を吊って死ぬという、救いのない話になっている。
だが、まさにこれこそ自然主義文学という感じもした。運命や宿命からはみ出ようとする人間の意志を容赦なく飲み込む決定論的世界観を感じさせる。
夏目漱石氏が言うところの「理想」を坂口安吾氏は「モラル」と呼んでいたが、それがないことに対する解釈の違いが興味深い。世間の潮流の移ろいに伴い、自然主義も興亡していったのであろう。
実はこれこれで、あなたの金剛石を弁償するため、こんな無理をして、その無理が祟って、今でもこの通りだと、
逐一を述べ立てると先方の女は笑いながら、あの金剛石は練物ですよと云ったそうです。
それでおしまいです。
最後の一句は大に振ったもので、定めてモーパッサン氏の大得意なところと思われます。
軽薄な巴里の社会の真相はさもこうあるだろう穿ち得て妙だと手を拍ちたくなるかも知れません。
そこがこの作の理想のあるところで、そこがこの作の不愉快なところであります。
よくせきの場合だから細君が虚栄心を折って、田舎育ちの山出し女とまで成り下がって、何年の間か苦心の末、身に釣り合わぬ借金を奇麗に返したのは立派な心がけで立派な行動であるからして、
もしモーパッサン氏に一点の道義的同情があるならば、少くともこの細君の心行きを活かしてやらなければすまない訳でありましょう。
ところが奥さんのせっかくの丹精がいっこう活きておりません。
積極的にと云うと言い過ぎるかも知れぬけれども、暗に人から瞞されて、働かないでもすんだところを、無理に馬鹿気た働きをした事になっているから、
奥さんの実着な勤勉は、精神的にも、物質的にも何らの報酬をモーパッサン氏もしくは読者から得る事ができないようになってしまいます。
同情を表してやりたくても馬鹿気ているから、表されないのです。
それと云うのは最後の一句があって、作者が妙に穿った軽薄な落ちを作ったからであります。
この一句のために、モーパッサン氏は徳義心に富める天下の読者をして、適当なる目的物に同情を表する事ができないようにしてしまいました。
同情を表すべき善行をかきながら、同情を表してはならぬと禁じたのがこの作であります。
愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さというものが何もない可憐な少女が、
森のお婆さんの病気を見舞に行って、お婆さんに化けている狼にムシャムシャ食べられてしまう。
私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、
然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。
その余白の中にくりひろげられ、私の目に沁みる風景は、可憐な少女がただ狼にムシャムシャ食べられているという残酷ないやらしいような風景ですが、
然し、それが私の心を打つ打ち方は、若干やりきれなくて切ないものではあるにしても、
何か、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ、であります。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/44919_23669.html
つまり、モラルがない、とか、突き放す、ということ、それは文学として成立たないように思われるけれども、
我々の生きる道にはどうしてもそのようでなければならぬ崖があって、
そこでは、モラルがない、ということ自体が、モラルなのだ、と。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/44919_23669.html
長いです。
コロナ禍初期で、業績悪化や県をまたぐ移動の制限により内定取り消しのあおりを食らったのだが、受け入れてくれる会社が富山にあった。友達には閉鎖的だと心配されたが、そうも言っていられないし、今は令和だし同じ日本だし、大したことはなかろうと思っていた。
スキルを積ませてもらったことは感謝すべきだが、私は二度と富山に住みたくないし観光で行くこともない。友達が住むと言ったら止める。
以下の理由は、あくまで私が関わった地域のみであると思いたいが、外から来た人は本当に馴染みにくく噂されること前提なのを事前に知っていたら来なかったのに。
閉鎖的で噂好き
私のような県外出身の独身女は本当に珍しい。とにかくジロジロ見られるし、日中歩いていたらバイクでつけられたことが何度かある。そして噂好きで詮索好き。どこで生まれたのか何歳なのかどこに住んでいるのかどこの高校を出たのか結婚しているのか子供は何人か何歳かどこの学校に通っているのか親はどういう人か同居かどうか。
全く関わりのない人があれこれ聞きまわりつつも私本人には聞かないのもどうかと思うし、聞いた話を広めるのもどうかと思うし、そういう人ばかりなのもどうかと思う。こんな文化だと思わなかったため、話したらまあ広まる。
〜さんって〜なんやってー。えーそうなん?こんな田舎来るぐらいだからよっぽどおかしい人なんやねー。
〜らしいよ。えー休みの日とかずっと家におるんやろうね〜怖いねー。
そしてその尾ひれのつきまくった噂が〜さんって〜なんやろ?と帰ってくるというオチである。
基本的に自分と違う価値観で生きていることは間違っている、だから噂するし、目障りならいじめて追い出す。それが当たり前の環境であった。
本当に地域によると思いたいし、30代以下の世代は共働きで支え合っているという話もきく。
ただつい最近まで、中小企業では女の給料はフルタイムでも男より低く、手取り10万を割っていた会社もあったらしい。共働きが昔から多いからこそなのだと思う。男は家計を支えるために稼ぐ、女は家計を助けるため家事育児の片手間に働く程度だから、それほど払わなくてもいい。
さすがに最近は減っていると思いたいが、今でも家事育児は女がやる。働きながらだから保育園や学童保育は充実しており、子育てしやすい地域だと謳われている。昔は仕事をして家事をするために一旦抜け、また仕事に戻って残業、帰って残りの家事をやり、ということもあったらしい。
男は、うん。畑持ってればその世話はしているんじゃないでしょうか。さすがに。
これだけやるべきことを女に押し付けて自由にしていれば、男の幸福度(県の幸福度)も上がると思う。
天気が悪い
本当に最悪。これだけでも脱出できて嬉しい。とにかく曇りが多く、その雲が分厚すぎて空が低く、光が届かない。冬は大雪だし夏は灼熱。雪国なのに公的除雪が入らないところもある。夏はフェーン現象により、9月まで蒸す暑さが続く。富山は立山連峰が自慢らしくよく宣伝しているが、あの晴れた景色を撮るには大分スケジュール調整を要すると思う。
富山の人はすごく自虐的で積極性がないと感じる。一部の話なんだろうか?
石川は格上、福井は格下、新潟は仲間じゃない。新潟を北陸に含めたり含めなかったりする説があるらしい。
それ以外の県はよそもので嫌い。
コンプレックスが強く、なにもない田舎だと卑下する。別に上だか下だかどうでも良いが、卑屈も身内ネタの一つなのだろうか?
米や魚が美味く富山特有の産業もあるのだから、比べずに自分は自分だと思えば良い。また、不満があるなら相談するなり、調べて折り合いをつけるなりすれば良いし、知らない人に興味があるなら、噂を聞こうとせず本人に聞けば良い。こうなんだろう、こうらしい、と話しやすい人と憶測で話すのは楽しいようだが不毛だし、反感を買う。
間違っている、こうすればよいのではと指摘する人を排除するから、経済的発展ができなく田舎化するのではないか。
富山の良さ
よく富山の良さとしてあげられるが、持ち家率は日本一だったと思う。土地を持っている人が多いらしい。結婚したら親の近くに家を建てるのが当たり前のため、TVをつけると「お家を建てるなら〜」のCMがとても多い。近くの親が親か義親かはさておき。
そのため、一人暮らし用物件を探そうとすると選択肢が少ない。が、首都圏などに比べたら圧倒的に安いのは事実であり、場所を選ばなければ5万以下で、人目を気にしなければ一人暮らしはできる。
また、世帯年収も高いらしい。3世代同居だと自動的に稼いでいる人数が増えるのだから、平均が上がるのは当たり前だと思う。貯蓄額が多いのもそれはそう。お金を使わない妻が理想的な妻なので。
この数年は、人の目を気にし陰口を恐れ、非の打ち所がない人間として振る舞うことに力を尽くしすぎた。関わってわかったのだが、彼らに明確な悪意はない。ただ自分と違うことはおかしくて、モラルとかコンプラとかいうものはそもそも学ぶ機会が少ないのだろう。
地元のひとなら、そういう面もあるからと流せるかもしれないが、外から来た人間はどうしてその土地を愛せるだろう。
非難する権利はよそものにはないので、棲み分けが必要なのだとわかった。
最後にひとつだけ。電車で向かい合わせの座席に足のせるのやめろ。靴を脱げばいいという問題ではない。見るのも、座るのも不愉快。
長いです。
コロナ禍初期で、業績悪化や県をまたぐ移動の制限により内定取り消しのあおりを食らったのだが、受け入れてくれる会社が富山にあった。友達には閉鎖的だと心配されたが、そうも言っていられないし、今は令和だし同じ日本だし、大したことはなかろうと思っていた。
スキルを積ませてもらったことは感謝すべきだが、私は二度と富山に住みたくないし観光で行くこともない。友達が住むと言ったら止める。
以下の理由は、あくまで私が関わった地域のみであると思いたいが、外から来た人は本当に馴染みにくく噂されること前提なのを事前に知っていたら来なかったのに。
閉鎖的で噂好き
私のような県外出身の独身女は本当に珍しい。とにかくジロジロ見られるし、日中歩いていたらバイクでつけられたことが何度かある。そして噂好きで詮索好き。どこで生まれたのか何歳なのかどこに住んでいるのかどこの高校を出たのか結婚しているのか子供は何人か何歳かどこの学校に通っているのか親はどういう人か同居かどうか。
全く関わりのない人があれこれ聞きまわりつつも私本人には聞かないのもどうかと思うし、聞いた話を広めるのもどうかと思うし、そういう人ばかりなのもどうかと思う。こんな文化だと思わなかったため、話したらまあ広まる。
〜さんって〜なんやってー。えーそうなん?こんな田舎来るぐらいだからよっぽどおかしい人なんやねー。
〜らしいよ。えー休みの日とかずっと家におるんやろうね〜怖いねー。
そしてその尾ひれのつきまくった噂が〜さんって〜なんやろ?と帰ってくるというオチである。
基本的に自分と違う価値観で生きていることは間違っている、だから噂するし、目障りならいじめて追い出す。それが当たり前の環境であった。
本当に地域によると思いたいし、30代以下の世代は共働きで支え合っているという話もきく。
ただつい最近まで、中小企業では女の給料はフルタイムでも男より低く、手取り10万を割っていた会社もあったらしい。共働きが昔から多いからこそなのだと思う。男は家計を支えるために稼ぐ、女は家計を助けるため家事育児の片手間に働く程度だから、それほど払わなくてもいい。
さすがに最近は減っていると思いたいが、今でも家事育児は女がやる。働きながらだから保育園や学童保育は充実しており、子育てしやすい地域だと謳われている。昔は仕事をして家事をするために一旦抜け、また仕事に戻って残業、帰って残りの家事をやり、ということもあったらしい。
男は、うん。畑持ってればその世話はしているんじゃないでしょうか。さすがに。
これだけやるべきことを女に押し付けて自由にしていれば、男の幸福度(県の幸福度)も上がると思う。
天気が悪い
本当に最悪。これだけでも脱出できて嬉しい。とにかく曇りが多く、その雲が分厚すぎて空が低く、光が届かない。冬は大雪だし夏は灼熱。雪国なのに公的除雪が入らないところもある。夏はフェーン現象により、9月まで蒸す暑さが続く。富山は立山連峰が自慢らしくよく宣伝しているが、あの晴れた景色を撮るには大分スケジュール調整を要すると思う。
富山の人はすごく自虐的で積極性がないと感じる。一部の話なんだろうか?
石川は格上、福井は格下、新潟は仲間じゃない。新潟を北陸に含めたり含めなかったりする説があるらしい。
それ以外の県はよそもので嫌い。
コンプレックスが強く、なにもない田舎だと卑下する。別に上だか下だかどうでも良いが、卑屈も身内ネタの一つなのだろうか?
米や魚が美味く富山特有の産業もあるのだから、比べずに自分は自分だと思えば良い。また、不満があるなら相談するなり、調べて折り合いをつけるなりすれば良いし、知らない人に興味があるなら、噂を聞こうとせず本人に聞けば良い。こうなんだろう、こうらしい、と話しやすい人と憶測で話すのは楽しいようだが不毛だし、反感を買う。
間違っている、こうすればよいのではと指摘する人を排除するから、経済的発展ができなく田舎化するのではないか。
富山の良さ
よく富山の良さとしてあげられるが、持ち家率は日本一だったと思う。土地を持っている人が多いらしい。結婚したら親の近くに家を建てるのが当たり前のため、TVをつけると「お家を建てるなら〜」のCMがとても多い。近くの親が親か義親かはさておき。
そのため、一人暮らし用物件を探そうとすると選択肢が少ない。が、首都圏などに比べたら圧倒的に安いのは事実であり、場所を選ばなければ5万以下で、人目を気にしなければ一人暮らしはできる。
また、世帯年収も高いらしい。3世代同居だと自動的に稼いでいる人数が増えるのだから、平均が上がるのは当たり前だと思う。貯蓄額が多いのもそれはそう。お金を使わない妻が理想的な妻なので。
この数年は、人の目を気にし陰口を恐れ、非の打ち所がない人間として振る舞うことに力を尽くしすぎた。関わってわかったのだが、彼らに明確な悪意はない。ただ自分と違うことはおかしくて、モラルとかコンプラとかいうものはそもそも学ぶ機会が少ないのだろう。
地元のひとなら、そういう面もあるからと流せるかもしれないが、外から来た人間はどうしてその土地を愛せるだろう。
非難する権利はよそものにはないので、棲み分けが必要なのだとわかった。
最後にひとつだけ。電車で向かい合わせの座席に足のせるのやめろ。靴を脱げばいいという問題ではない。見るのも、座るのも不愉快。
Rの支払いでLのコンビニコーヒーを飲むと数百円の差額で懲戒免職になるという。1900万円の不正支出や自殺への追い込みはどれほどの懲罰になったのだろうか。
職場の中における同調圧力が強すぎて本人の意志とは半ば無関係に同和利権を容認するような書類を処理してしまうのは、職務における真剣さや勇気の欠如ではあるが、それは個人の生存戦略と社会通念上のモラルのどちらを優先するかの話であって、その人間を明確な悪と断ずるのはいささか求めるハードルが高くないか?
対してコーヒーの値段をちょろまかす行為は、明確な自由意志に寄る明白な詐欺・窃盗行為であり、100%自由に自分の行動が選べる状況において、完全に自己の利益のみを目的として、他者に不当で不誠実な取引、というよりハッキリ言って差額分の万引きと等しい行為を行っているわけで、判断力の低下を招くような追い詰められている状況でもなければ、本人以外の意思が介在するようなシチュエーションでもないわけだから、明確にその人間が悪党であると断ずることが出来るんじゃないのか?
扱った額の大小に注目してどっちが重い罪をなしたかではなく、どちらがより「自分の自由意志をもって犯罪行為に手を染めることを選んだのか。犯罪行為に手を染めない道を選択できる自由がどれぐらいあったのか」で判断すべきじゃないのか?
というかそもそも、この2つを比較するのが完全におかしいというか、状況が違いすぎないか?
真面目なエッセイなど、誰が読むものか。インターネットの海原を漂う、我々のコンテンツよ。注目を集めるには、もはや「怪文書」になるしかないのだ!
怪文書、それは謎めいたベールに包まれた、魅惑的なコンテンツ。一見すると、意味不明で奇妙な主張の羅列。だが、そこには人々を惹きつける、三つの秘密のスパイスが隠されている。
まずは「謎」。人間の脳みそは、謎という名の餌に弱い。怪文書は、その不可解な主張で、読み手の好奇心をガッチリと捕えるのだ。謎めいた文章を読み進めるうちに、いつの間にかその世界に引きずり込まれてしまう。
次に「笑い」。怪文書は、時にユーモアに溢れた、愉快な存在となる。支離滅裂な主張や奇妙な表現は、思わず吹き出してしまう笑いの種となるのだ。人々は、その奇抜さに「ククク、何だこれは!」と笑い、SNSで「ちょっとこれ見て!」とシェアする。
そして「共感」。一見、突拍子もない主張にも、社会への不満や不安、誰もが抱える感情が込められている。そこに人々は共感を覚えるのだ。孤独な魂が、怪文書を通して繋がり、共鳴し合う。そう、怪文書は孤独な現代人の心を救う、希望の光なのかもしれない。
真面目なエッセイなど、退屈で味気ない。人々は、謎と笑いと共感が詰まった、刺激的なコンテンツを求めている。この三つのスパイスを効かせた怪文書は、インターネットという大海原で、人々の心をガッチリと掴むのだ。
だが、怪文書を書くには、モラルという名の鎖で、自らの欲望という怪物を縛る必要がある。度を越した陰謀論や、誰かを傷つける言葉は、決して許されない。怪文書は、あくまでも人々を楽しませ、時に癒す存在でなければならないのだ。
真面目なエッセイストたちよ、怪文書の魅力に気づいたなら、謎と笑いと共感を武器に、インターネットという舞台で、人々の心を鷲掴みにするのだ!ククク、怪文書の時代がやってくる!
インターネット上では、日々膨大な量の情報が飛び交っている。その中で注目を集め、多くの人の目に留まるのはどのようなコンテンツだろうか。残念ながら、真面目に論理立てて書かれたエッセイや記事よりも、奇妙で不可解な「怪文書」の方がバズる傾向にある。
怪文書とは、一見すると意味不明で、奇妙な主張や陰謀論、支離滅裂な文章が連なっているものだ。一見すると「何を言っているのかさっぱり分からない」と思うかもしれないが、実はそこには人々の興味を惹きつける要素が詰まっている。
まず、怪文書は「謎めいている」という点が人々の好奇心を刺激する。人間の脳は、謎や未解決の問題に惹きつけられる傾向がある。怪文書は、その不可解さゆえに、人々の「謎を解きたい」という欲求を刺激し、読み進めてしまうのだ。
また、怪文書は「共感」を呼び起こす。一見すると支離滅裂な主張も、よく読むと社会への不満や不安、怒りなどが込められていることが多い。そこに共感を覚える人が多く、SNSなどで拡散されることでさらに多くの人の目に留まるようになる。
さらに、怪文書は「笑い」を提供する。不可解な主張や奇妙な表現は、時にユーモラスに感じられる。人々は、怪文書を読んで「何だこれは」と笑い、友人やSNSで共有する。そうすることで、さらに拡散されていくのだ。
一方で、真面目に書かれたエッセイや記事はどうだろうか。論理立てて書かれ、分かりやすく説明されていても、人々の興味を惹きつける要素が少ないと、なかなか注目を集めるのは難しい。
インターネット上では、情報が瞬時に拡散され、すぐに新しいコンテンツに取って代わられてしまう。そんな中、人々の記憶に残り、話題になるには、インパクトが必要なのだ。
とはいえ、怪文書が常に歓迎されるわけではない。度が過ぎた陰謀論や誹謗中傷は、社会に悪影響を及ぼすこともある。怪文書を書くにしても、モラルを守り、読み手の感情に配慮することも忘れてはならない。
インターネット上で注目を集めるのは難しいが、怪文書に頼るのではなく、人々の心を動かすような、真に価値のあるコンテンツを生み出す努力を続けたいものだ。
EUでは学習元データの透明性確保とかオプトアウトにむけた法整備が進んでるわけで、現行法での整理でマウント取るのはかなり裏目があると思うんだよね。
この流れが広がった場合、「生成AIって出てきた当時は法規制が追いついていないのを良いことに好き勝手して、絵師は反AIと馬鹿にされながらも権利を守るために戦って規制を勝ち取ったよね」みたいな評価にもなりかねない訳じゃん?
あとそもそも将来の法規制を求める声に対して、現行法ではセーフだから黙ってろって反論になってなくない?
俺も反AIは嫌いだし単純に特権意識持ってる絵師様()が必死になる様は面白いと思うけど、馬鹿にする対象は選んだ方が裏目が無いと思うんだよね。
例えば「反AIは絵柄に対する著作権の保護を求める馬鹿」とか「著作権違反アイコンや二次創作を好む癖に生成AIを批判するのはダブスタ」、「現行法では合法な行為に対して『盗人』のような強い表現で批判を行うのはモラルがない」とか浮いたコマを馬鹿にしてる分には法規制が進んでもひっくり返らないよね、
今のところはてなではAI推進派が多数派っぽいけど、今後どちらに転んでもおかしくないと思うからブクマカは過去の過激なブコメを引っ張り出されてネタにされないように自衛した方が良いと思うよ。
約十年前に、とある4年制大学を卒業した。名を佛教大学という。
高校生の頃は、仏教を学ぶための大学だと思っていたが、それはごく一部の人に限ったことである。
なんで、この増田でこんなことを書こうと思ったのか。それは、この大学での思い出や記憶に踏ん切りがついたからだ。人生の一部に納得ができたというか。それで、卒業シーズンということで、今回書いてみようと思った。書き始めは3月下旬である。ずいぶん時間がかかってしまった。
普段から増田に投稿してるわけじゃないから、ヘタクソな箇所があるかもしれん。ご容赦を。なお、「学歴コンプレックス」という言葉は、当日記中では使用していない。
佛教大学は、いわゆる中堅私大と呼ばれるところだった。平均偏差値は……なんとも言えない。理学療法士や作業療法士になるための学部は高偏差値なのだが、それ以外の学部はお世辞にも偏差値が高いとはいえない。Fランクではないが、基本的には関関同立に不合格だった人が入学してくる。滑り止め率が極めて高い大学である。
なんで自分がここに入学したかと言うと、やはり滑り止めだ。第一志望としては同志社大学(政策学部)に行きたかったのだが、実力があと一歩及ばなかった。残りの関関同立も全滅して、残念ながらこの大学の社会学部に進むことになった。
大学4年間のことはそこまで覚えてない。実際には、いろいろあったんだろうけど。
学業は一生懸命に取り組んだ。授業をサボることもあったけど笑 成績はいい方だった。卒業単位が揃った後でも、まだずっと授業に出続けていた。学問が好きだった。
アルバイトは金閣寺にあったマクドナルドで、部活(実態はサークル)は地味めの文化系だった。いわゆる【文芸サークル】みたいな感じか。みんなでドキドキ(?)な文芸を書いてたんだが、大学生なんで、俺を含めたほぼ全員が既存作家のコピペだったのが記憶に残ってる笑
ただ、今になると記憶がない。本当に記憶がない……自分はこの大学で何をしていたっけ? そんなに無為ではなかったはずだが。
学食は1人で食べることが多かった。それ以外の行動も、1人または少人数のどちらかだ。授業は半期ごとに目いっぱい取った。32単位分を。教職課程は2つ取っていた。186単位を取得して卒業したんだっけ。サークルの飲み会では、やっぱり1人でちびちびと飲んでいた。大した思い出は詰まってない。
冒頭が退屈なのはよくない。本題に入ろう。まずはアブストラクトだ。
大学1回生の時に思ったんだ。「このままじゃダメだ」って。第一志望の大学に入れなかったけど、大学生活をエンジョイして、就活では結果を出して、大学入試の結果をバカにしてきた家族や兄弟や親戚を見返してやろうと思っていた。
でも、正直心が折れかけたよ。1回生の頃からそうだったけど、とにかく在学生の質が低すぎた。ヤバイと感じていた。ただし、これは当時の考え方にすぎない。今だと「どこの大学生でもあんなもん」くらいの緩い考え方である。
当時は、実力を高めることに貪欲だった。飢えていたのだ。強い自分に。弱い自分が嫌だった。人としてレベルが低い学生を見ると腹が立った。自分がこいつらと同じなのかって思うと腹が立ってしょうがなかった。一刻も早く、ここから卒業して、立派な社会人になりたいと思った。
そういうわけで、学業とか、TOEICとか、文芸サークルとか、アルバイトもそうだけど、とにかく何でも頑張って、最後は……いい会社から内定をもらうことができた。アベノミクスの始まりの頃で、景気はゆるやかに上向いていた。
入社したところは、いわゆる一流ではないけど、佛教大学の卒業者で会社員~という観点からすると、いいところだった(電子機器を作ってるところ)。同学年では、全学部を含めて№1の結果だった。
さて。ここからは、各学年の時の思い出を綴っていく。
入学式と最初のオリエンテーションが終わった後、知恩院という重要文化財のある宗教施設に行くことがあった。大学がやっている新入生向けのイベントだった。浄土宗の大学だったので、そういう縁からか、知恩院の僧侶の方々が歓迎的な催しをやってくれた。
今思えば、重要文化財のお堂にあれだけの新入生を詰め込んで、いろいろやってくれるってスゴイことだったと思う。
この時はまだ、この大学に悪い印象はなかった。しかし、本格的に授業が始まってからは、上に挙げたようなマイナスイメージが付きまとうようになった。大学時代の日記を参考に書いていく。
以下、特定の思い出エピソードを語る場合は、太字タイトルを付けて1字下げにする。
新入生向けの英語の授業だったかな。前の席に座ってた男子学生が、先生の話を聞かずにケータイを弄っていた。先生がさ、「授業中です。携帯電話はやめなさい」って言ったんだけど、彼は聞かなかった。
先生がそれから何度か指導をするんだが、やっぱり聞かない。で、そいつは「う~い、わかりやした~」みたいな感じで答えている。先日まで高校生だった人には、授業はきついのだろうか(と当時の日記に書いてあった)。
「もういい。お前は落とすっ!!!!」
先生が小さい講義室の中で、声を張り上げた。いやあ、あれは久々にびっくりした。その学生は退出を命じられ、教室には重苦しい雰囲気が漂った。
当方は、京都生まれの京都育ちである。佛教大学には、高校生の時にオープンキャンパスで来たことがあった。その時は、悪い環境じゃないなと思った。学生以外にもいろんな人がキャンパスにいた。学食には障がい者とか、ご老人とか、浮浪者の人とか、中高生とか、とにかく多様性に富んでいた。どんな人でもキャンパスに受け入れる空気感が好きだった。
しかし、【カオス】というのは多様な方向に拡がる。それは、いい方向ばかりとは限らない。そういうものなのだ……。あと、ついでを言うと、この頃はちょうどキャンパスの再整備工事の最中だった。今ではクソデカ超立派な新一号館が鎮座している。
仮校舎とかもあった。実際、授業中の思い出と同じくらい、工事現場が間近にあったイメージが強い。
一般的に、若い人ってモラルが低くなりがちである。それはいい。若いんだから。マナーも常識もこれから勉強すればいい。
しかしbut。自分が学内で見た貼り紙の中には、「え……?」というものがいくつかあった。以下に列挙する。
(貸出物品のこと)
多目的情報ルームみたいな施設があったのだが、職員カウンターの前にこんな趣旨の張り紙がしてあった。
「今後は学生への事務用品の貸し出しは行いません。貸した後で帰ってこないことがあまりに多いためです」
久保帯人のブリーチじゃないけどさ、俺にしてみれば「なん…………だと…………」だった。
キャンパス内の鷹稜館(おうりょうかん)という建物には、体育館兼式辞ホールがある。飲食は禁止である。昼休み中に駄弁るのもダメ。そういうルールだった。しかし、学生の中には、スポーツとかするエリア内でメシを食べたり、授業の空き時間にステージ上で寝てる人が多数いた。
いつからだろうか、「館内での飲食や休憩はできません。見つけ次第指導します」といった貼り紙が増えていた。その際の、自分の認識としては……「なんでこんな貼り紙が存在するのだろう。管理者がダメって言ってんだからダメなんだよ。なんで従わないって選択があるんや?」というものだった。
大学生になって一年も経ってなかったが、高校時代とは違う風景がそこにあった。大学は自由なところとは聞いていた。でも、俺が想像していたのはこういう自由ではなかった。
(コピーカードのこと)
何円だったかは忘れたが、学内のどっかで【コピーカード】を販売していた。ただ、部活(サークル)が小説などを書くところだったんで、印刷物を刷る時の負担が大きいんだよな。100%公的なもの(ex.学内新聞の関係)だと部活動費で賄えるが、個人的趣味の出版物だと難しいものがある。
同じ部活にいた文学部(学科は忘れた)の女の先輩が、趣味で同人誌を作ってたんだけど。その人が、ゼミの教授から一時的に借りているコピーカードがあって……教授が持ってるコピーカードって、枚数無制限なんだよな。もしくは1万枚とか度数があったと思う。
もうわかってるとは思うが、その先輩は、印刷費無料で販売用のマイ同人誌を大量印刷していた。確かあれは、『TIGER & BUNNY』か『ギルティクラウン』のどちらかだった。さすがに今では、どっちか思い出すことはできないけど。
「先輩、それヤバいっすよ」と言ったけど、先輩は素知らぬ顔で答えるのだ。
「増田君。文学活動にはね、お金が必要なんだよ。これも社会のためだと思って、見逃してほしいな♪」
だってさ。あまりにクールだった。いやぁ、あの時は痺れたね……笑
(参考:https://tadaup.jp/702e034b1.jpg)
※度数1000のコピーカードの画像。自分も教授から借りてそのままだった笑
早く、とにかく早く実力を身に付けたい。レベルが高い社会人になるべく、今から努力を積み重ねるのだ!! この課題については、なんとしても早く――昨日のうちにでも達成する必要がある。
そして、大学卒業後は、一流どころの大企業へ。そんな牧歌的なことを考えていた。
次
その指摘が刺さった。目からウロコが落ちたわ。
いままで、イジメが悪いというのは社会の共通認識だと思ってた。
多くの元児童は、あなたはイジメ加害者だ、と非難を受けた経験もない。
だから大人になっても自分からイジメをするし、被害者に共感したりもない。
後でイジメに加担してたと気づいて「悪いことをしたな…」と反省することも無い。
ではモラルとは何か。
自分たちがモラルに従うのは、別に集団の同調圧力を受けたからではない。
イジメられたくないからでも、イジメに使いたいからでも無い、イジメ感覚自体が鈍いのだ。
ましてや誰かに迷惑をかけないためとかじゃない。単に流れに乗りたいだけ。
ツイート数が多くなるのでまとめ!ツイートしたのもコピペしてるよ
■+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+■
私の認識やらモラルやらが足りてなくてスクショやら垢バレやらしたけど怒ってるのはなくて本当に不思議?モヤモヤしてるのが正しい
不特定多数より鍵垢で身内に愚痴る方がましだから公開で言ったの謝れって流れだから内容云々より場所にこだわってて、本心では君はこうだったんだ😡ではなくて場所なんだ…みたいな
世間一般の考え方はちゃんと分かったけど、本人のちゃんとした道筋がわからなくてずっとなんでだろーどういう考え方だったんだろーって
仲良い人だけの垢以上に病み垢でキレてたけど、共通の人間にダイレクトに怒るより病み垢で病もう!そっちの方が共通のffに迷惑かけないよね!って思ってた、さすがに病み散らかし方が公開できるものじゃなかったけど、デフォルトであの病み方してたから他所様から言われてようやく気づけた
この世に何万とあるアカウントで晒しとか特定とか目的とせずに病み散らかしちゃだめなの?と言ったら逆ギレしてるよね?って言われました😞言いたいこと言っただけだし10年くらい思ってたことだからキレて言ったわけじゃないのにな。
公開垢で愚痴ってたよね?結局見つかってるよね?ただ謝って欲しいだけなんだけど、がLINEの文面の言い分だが、結論から言わずに私が理解して謝るのを待っていて、結論話して切りますって言い放つだけじゃダメなのかな、切るんじゃなくて謝らせたかったのかな。結構私が打つ量が多かったし。
良く言えば男女の喧嘩、みたいな解決?着地点?の求めてるところの違いかな。
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病み垢が2016-7位に開始して他の人に見られることなんてなかったし見せられたもんじゃないから今普通の人?ネットで語彙で病むことをしない人?に見られるとこんなんなんだって思った ネットの底辺って倫理を知らないから
たくさん生きにくい人と繋がって、仕事辞めたい風呂入れないは勿論、世間離れした行動もドロップアウトしたこともみんな赤裸々に喋って。
たまにアカウントごと消えた。リアルが楽しくなったからなのか、それとも。
私の中での“みんな”はすれすれなこと喋ってて、どこにも言えない愚痴とか病院の床とか何錠何を飲んだかとかどんなトラウマがあるかとか、でもそれって世間のヤバいやつらでヤバいのはインターネットのデフォと思ってたから
公開垢であまり悪い事を言うなは正論なんだけど、境界線がわからなくて、察するだろ普通がわからなくて、どの言葉が攻撃的でどの言葉が名誉毀損でが分からない。あの言葉が言い方が、何がどこまでだめだったのかな。今までもたくさん危ないことしてきたんだろうな。
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さっきの言うと「バイトで詳細まで指示しないとできないけど指示したらめちゃくちゃ仕事できる自閉症スペクトラム」というツイートそのままでおもろいな!私はこんなツイートを毎日見るし「生きやすくするためのライフハック」といつアカウントフォローして見てるんですけど皆さんはしませんね。
私が悪かったのはアカウントがばれてもおかしくなかった状態だった事とスクショ晒しが雑だった事、本筋って「全世界が見れる状態で見た人がわかる投稿をしたこと」「ツイート内容が過激だったこと」なら、本人?本人の取り巻き?内容ってどこからどこまで?どの語彙?全世界にばらまくな、という話になるとこのはてな匿名ダイアリーでも書くなって話?
もし、このはてな匿名ダイアリーに事細かに感情的に当時書いていたらこんな事にはならなかったのかな。
結局目について怒らせてしまっていて、そこで大切なのは理論とか辻褄とかではなくて精一杯の謝罪の気持ちと傷つけた事を分かってあげることで、「どこが境界線なんだ?」「そもそもなんで今?」「知らない不特定多数に見られるより身内に喋られて確実な実害を被る方を選んだ理由って?性格的に身内に悪口言われる方嫌そうだけど?」ということではない。
「とにかく‼️私の目に入ったんだから謝れ‼️」ということなのかな?公開垢で~という言い方じゃなくてこの言い方でないと24時間しないと気づけないよー
「わかるでしょ」がわからなくて、でも「ここがダメだよ」って言われたら「なんで傷心の私を否定するようなことするの?」とキレるので話は平行線のままです。
愚痴ることって皆にとっては仲良い人にこっそり言うことだけど、私にとっては仲良い人にこそ本心というか裸の感情というかを出すのが嫌、引かれる、なんて言ってあげたらいいか気まづくさせてしまう、と思っていた。
オタクとして繋がってる人って趣味嗜好は分かるけど性格や根本の考え方や何仕事してるかなどが分からないままで、知らなくて良くて、だからこそ気軽だった。楽しいところだけを切り取った存在。
わたしのこと何も知らないし知らせる必要も無いし、そこを知らせたら「フォロワー」ではなく「友達」だから。
メンヘラとして繋がった人は皆欠陥品で、あのアニメが好きなんだろうなーはやんわり分かってるけど、仕事とか大学とか人生とか辛かったこととか背負ってるものとかを知っている。社不でメンヘラでどうしようもないのを当たり前に受け入れてくれて、自分も同じだよと扱ってくれるこのアカウントに居場所を覚えた。
年越しは2年連続でここのスペース!
結局負の感情を出すべきだと思ってる場所が普通と違ったわけで、言葉の勢いも強すぎたね。裸の感情を見せる人や場所も間違ってたね。
ちゃんと私個人を知ってる人にこっそり吐き出せたら良かった、でも隣の先生に吐き出した内容がえぐすぎて担任に漏らされたり、母親にはド正論言われてるさらに落ち込んじゃうとか、とにかく対人がダメだったんだなー治そう‼️