はてなキーワード: 蹂躙とは
明治時代、官家や武家にはハーフな風貌の養子なども多くおり、いずれにせよ日本人も米英人や上司官僚から性被害を受けることがあった
ただ、腕づくで東洋の小童を蹂躙しているなどと噂された日には、加害側の立場が危うくなるのは当然である
なぜ日本でFPSが流行らなかったかといえば、制作されるのがチーム対戦ゲームばかりだったからである。
チームで勝つためのセオリー・規範の確立は、参加者を隷属させ、そこには「労働」が現出した。
普段から臆面もなく雑に働く欧州人にとっては「労働」がレジャーたりえるのであって、
日本人はさような「労働」に無賃休日出勤するほど殊勝ではなかっただけである。
かつて唯一の希望があったとすれば、ArenaFPSが1on1路線の重大さに気づいていればよかったのである。
しかし、数ある対戦モードの一つ、余興の一つという扱いを辞めるべきで、
覚悟と決意をもって、FPSにおける個人対戦ゲームの道のりを進むべきだった。
個人参加なら「デスマッチ」でも「バトルロイヤル」でも良いというわけではない。
数ある群像の中の一人では、観戦コンテンツとして弱いのである。
無論、「チームデスマッチ」だの「キャプチャーザフラッグ」だの「サドンデス」だの「ドミネーション」だの「エスコート」だの、
「デュエル」にしても、遮蔽物ごしの駆け引きという消極的なシーンが多々見られる点はいただけない。
観客にしてもプレイヤーにしても、壁や景色を監視し続けるために、わざわざ休日を割いているわけではない。
格闘ゲームのように、対戦プレイヤーの位置は常に表示しても構わなかったのだ。
FPSにおいては、位置情報秘匿も駆け引きの内と、信じて疑わなかったところが限界だった。
防御を軸にした格闘の駆け引きと、回避を軸にした銃器の駆け引き、題材の根本的差異が生み出す限界であった。
マップ上に点在する武器やリソースを拾い集めるというArenaFPSのコンセプトは、それに付随するものだ。
そうでもしなければ、有利なポジションで銃を構え続けるだけなのだから。
怠惰なFPSプレイヤーたちを動かすために、ゲームデザイナーはエサをバラまいて釣らなければならなかった。
だが、その涙ぐましい工夫でさえ、リソース差をつけて、まだ何も拾っていない丸腰に等しい相手を蹂躙し続けるという、
観戦に堪えないシーンを産み出し、それがテクニックや力量の証であるという開き直りに至る始末であったが、
もちろん内輪の人間以外に通るわけもなく、順調に衰退コンテンツたる現状に至っているわけである。
だが、日本の世間一般では格闘ゲームがesports・プロゲーマー第一号とされているとおり、その試みは歴史の闇に潰えたと見るのが客観的に妥当であろう。
その観戦のつまらなさと敷居の高さは内輪志向を加速させ、限界集落と揶揄される衰退コンテンツとなった。
私としては、個人対戦FPSが、プロスポーツのように、生計を立てる手段の一つとして勃興していてほしかった。
野球のダルビッシュ選手は「自分は価値がある人間じゃない、1番最初に野球のルールを作ってくれた人がいて、そこに自分達が生まれてきて、その才能がたまたまあっただけ」という。
FPS以外になんの取り柄もない私が生計を立てるには、FPSを通じて身を立てるのが自他共に最も幸福だろう。
しかし、そうはならなかった。
数少ない上位プレイヤーたちは、内輪の馴れ合いとゲーミングデバイス実演販売業で満足してしまった。
後からFPSにきた若者たちも、チーム対戦ゲームの限界に気づき、今ではゲーム配信者として、揃いも揃って格ゲーを嗜む有様である。
芽は、私が来る前に、とうに枯れていたのである。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/jisin.jp/entertainment/entertainment-news/2309953/
同性婚ネタは別にヘドは出ないまでも自分もなんたかなあと思っていたけど、なんかあのブコメも同様になんだかなあとモヤモヤしてたんだよね。
んでよくよく考えたんだけど、ブコメでは「少数派」に配慮すべしみたいなブコメが結構☆集めてたんだよね。
el-condor 少数派であることのネタ化というのは多数派から少数派へのアイデンティティ蹂躙攻撃の典型でそれに対する抗議は当然の権利。アイデンティティポリティクスは斯様に、常に多数派から少数派に仕掛けられているのである gender discrimination
yangotonakimove keshimini そうですね。記録的世界興行収入の原爆バービーを批判した私達日本人も少数派でしたから「少数派無視してヨシ強くて良いね」斧で切られますが、納得できますか?貴殿が少数側になる可能性は常にございます
だったら20歳ぐらいの男女が結婚しました~って言うのも20歳だとまだ結婚してる方が少数派だからダメだよね。
この世にはあらゆることに多数派と少数派がいるけど、その全てに配慮する必要があると本気で考えてる人いる?いないよね。
同性婚の問題って、それができないで苦しんでいる人がいるからこそ配慮しようって話でしょ。
他人の不幸をネタにするなってことじゃないの?例えば太っている人や頭髪の薄い人をからかったり、もっと言えば障碍者をからかったりとか、他人が苦しんでいるようなことを、全然当事者でもない人がネタにするのがダメってことでしょ。
だからもし同性婚が認められてたら、同性婚が少数派だろうが同性婚ネタしたっていいと思うよ。でもこのブコメの人たちはそうは思ってないんでしょ?この人たちとわかり合えないな~って思った。わかり合えないのは少数派ですかね?
グリーン・インフェルノを唐突に思い出したのでネタバレありであらすじを描く
アマゾンの環境を破壊して原住民をおびやかす開発工事を止めさせよう!と仲間たちとアマゾンへ
何人かはグロ死にし、生き残った主人公たちはジャングルのど真ん中で野生動物に怯えながらサバイバル
そこでアマゾン原住民に出会い、助かった!と思いきや彼らは他部族を食らう食人族で捕まってしまう
順番に解体され喰らわれる仲間たち
部族の女たちがキャッキャと雑談しながら日常風景みたいに人間を単なる食材として調理していく
囚われたアメリカ人たちのうち、女性陣は部族を治めている老婆に処女検査され、唯一処女な主人公は花嫁として迎えられる
でも割礼されそうだしなんとか脱出
部族の男たちが集団でどこかへ行って警備が手薄になったため可能だった
その男たちは、工事現場に行き伝統に反する開発を止めるために戦おうとしているのだった
現代的な武装をした者たちに銃撃され、あれだけ恐ろしい食人族は主人公の目の前であっさりと虐殺されていった
奇跡の生還で時の人となった主人公は、食人族のことを隠し仲間たちは全員ヘリ墜落で死んだのだとインタビューで話した
原住民たちが助けてくれた、優しき彼らの文化を尊重し開発はやめ自然保護をするべきだと主張して主人公は自然保護活動を続けた
監督は「ネットでかぶれてるだけの偽善者へのアンチテーゼ映画」と話しているそうだが
ネットでかぶれていただけのエセ活動家が、目の前で現代文明による一方的な蹂躙を見たことでガチの活動家へと覚醒したということなんだろうか
綺麗なんだよね、具体的に何がってわけじゃないんだけどさ
薄曇りの朝、肌寒くて風が強くて、それでも空は青くて高い、太陽光は間接的に建物を照らして、遠くには変哲のない山、ただ濃いグレーが木や土や石の多くの集まりによって作られているだけ
ただそれだけなんだけどさ
今思い出すとなんかこう、涙袋が熱くなるくらい、目の裏に刻んでおける景色なんだよね
今日過ごす一日のあまりにも長い時間に比べれば、そのトラックやらバスやら軽自動車やらの編み上げる音なんざ、全然気にならないんだよ
日常ってさ、こういう風に僕の真横を平行に貫く国道を駆ける自動車たちみたいにざーっと過ぎ去っていくんだけどさ
そんな自動車たちに追い縋ろうとして、僕はこんなものを書いたりしてるんだ
こんなことを書いたって所詮は徒歩、牛歩に近い徒歩なわけだから、何も追い縋ることなんて出来ず、ただ自動車的毎日にびゅんびゅん横を通り過ぎられ、圧倒され、蹂躙され、こうしてコンクリートの植木の脇に打ち捨てられた白い不織布マスクなんかを横目にまた一歩一歩なわけなんだけどさ
今、この目で見えているものを見えているものそのままに扱うと、とても鮮やかだよ
今日のタスクが、とか、今日は上司が、とか、気勢を削いでくるものは色々あるけど
目で見えている生のもの、それは国道を突っ走る自動車的だけれど、実は違うの
吸い込む外気も、空の色も、遠くの山も、建物の外壁も、国道沿いのトヨタやら日産やらの販売ディーラーも、葬儀屋も、iPhone修理屋も、洋菓子屋も、ガソリンスタンドも、信号も、母と子も、中年男性も
綺麗なんだよね、
たぶん誰も興味ないんだろうけどさ