はてなキーワード: 21世紀とは
絶対おかしいよな。科学は進歩しているはずの21世紀に、人々の暮らしが苦しくなっていく一方なんて。
何を言ってるんだ?技術の進歩に伴って、ちゃんと経済は発展して富はどんどん増えてるぞ。全世界のGDP合計見てみろ。
じゃあ、なんで君の暮らしが楽にならいかって?
どこかに富をガメている黒幕がいるんだよな。誰だ?
そうそのとおり。増えた富をガメてる奴がいる。発展途上国の人だ。(全ての途上国じゃないけどね)
全世界の富は急速に増えてるけど、それ以上の勢いで平等化が進んでるので、今まで金持ちだった国の人間は割を食ってるという話。
今までの日本は平均2%成長とかだったけど、今の若者が老人になるころには、老人率が今の倍になるから、0%やマイナス成長も当たり前になるよ。若者がクーデターを起こせばなんとかなるなんて甘い、甘い。ちょっとはましになるだろうけど、1%成長が1.5%成長になる、っていうレベル。
やっと80年代回帰が始まった。この分だと、90年代回帰が始まるのは、2010年頃になるだろうか。
ラジオから流れてくる80年代ポップスのカバー曲を聴きながら私はそう思った。
2010年。私が25歳になる年。同じ世代の大半の人がおそらくそうであるように、私は25歳の私を想像することができない。21世紀に入ってからというものの、時間感覚が酷く曖昧で、今18歳であることすら、実感が湧いてこないのである。
1995年と聞くと、つい最近のことに思えてしまう自分がいる。2001年、地下鉄の延伸。2002年、サッカーワールドカップ日韓共催。2004年アテネオリンピック開催・・・。小学生の頃教科書に載っていた未来の予定が、どんどん既成事実になっていく。あの頃の私には教科書の中の未来はどれも実現不可能なことのように思えたのに・・・。
ノストラダムスの大予言について、あれほど熱心に議論を交わしていた人々は一体何処に消えたのだろう?
ノストラダムスの予言の年、私は14歳だ。結構生きられる、と思っていた。そして1999年の7月1日のニュースでは、アナウンサーが笑顔で「さて、この世界もあと一ヶ月になりました」と言うはずだと思っていた。まるで年の瀬のニュースのように・・・。
人々は世紀末という言葉を忘れた。21世紀という言葉も、昔ほど使われなくなった。70年代や80年代のことはよく話題にのぼるのに、今が何年代と呼ばれるかについては、誰も口にしない。
物心がついてから10年余りが経った。総理大臣は何人代わっただろう。冷夏は何回あっただろう。巨人は何回優勝しただろう。
私たちの世代は昭和最後の一人になりうる。何歳まで生きたら、昭和の最期を見届けられるのだろう。明治はもうすぐだ。大正もすぐ後を追う。多くの人が愛した昭和が完全に歴史の中に入るのはいつのことだろう。
歴史は巨視的に見れば円軌道を回っているだけにすぎないのかもしれない。人はその一切片を直線であると思って生きていくしかないのかもしれない。
子供たち、母親、母親の両親、とにかく全員が可哀そうな出来事。ホストや友達と遊んでたっていうけど、一度も子供のことを考えなかったのかな?
遊ぶのが楽しくて育児が嫌になったのか、育児から逃げたくて遊びに行ったのかは分からないけどすごく大変な思いをしていたとは思う。
子供がいる人はその「大変な思い」は共有できると思う。
この事件に関しては母親は明らかに罪を犯していて、その責任は重大でとても擁護できるような事ではない。
でもさ、1才と3才の自分の子供を殺した心境を考えてみてよ。これからどんな気持ちで生きていくんだろう。
可愛かったはずの子どもが「死んでもいい」と思ってしまった生活なんて想像できない。悲しすぎて。
こういった事件が報道されるたびに思うことがある。それは「ホームレス」に対する世の中の意見。責任はホームレス自身にあると言う。
確かにその通りだと思う。多くの人は努力すれば人並みの生活ができたんじゃないかと思う。
でもさ、新宿や渋谷にいるホームレスの心境を考えてみてよ。毎日何を考えて生きてるんだろう。
21世紀の日本、しかも中心地である東京で人の足元に座って1日を過ごす生活なんて想像できない。悲しすぎて。
ホームレスの女の人を見かけた日は、本当に悲しくて泣けてくる。
よく「自己責任」という言葉を使う人達がいるけれど、感情とは切り離すべきだと思う。
人が置かれている状況を一切無視し、攻撃する。人であるはずなのに全てを否定して切り捨てる。
こういう言動を「差別」っていうのかな、と思ったりもする。
でも日本アニメは性と暴力で親受けが悪い、国がバックアップして売るには問題が多過ぎるしジャンク過ぎる。
日本=変態みたいなオタクが広げたイメージがこれ以上強くなるのは勘弁だわ。
主に1970-1990年代に北米で使用された。音節的に japan-animation から Japanimation に略されただけの日本製アニメーションという意味の語である。Jap(日本人の蔑称)のanimationとも読めるため、日本人や文化に対する差別と偏見やアニメーション自体への偏見から、日本製アニメーションを指して「くだらないもの」あるいは「子供の教育上良くないもの」の意味を含めてこの語が使用されていたとする説もある。
日本国外の評価
日本のアニメは「セックスと暴力」と認識されることが多い[22][23]。フランスでは1989年に日本アニメがバッシングされて残酷だとされた『キン肉マン』が放送中止になり、バイオレンス性の強い『北斗の拳』も同じく放送中止になった。『聖闘士星矢』は暴力シーンがカットされたが、それでも大ヒットした[24]。ニュージーランドでは『ぷにぷに☆ぽえみぃ』は、登場するキャラクターの容姿が幼児に見え、幼児性愛好者を増長させているとされ、政府機関により発禁指定を受けた事例もあるが、フランスの美術評論家エルベ・シャンデスは、アニメを中心とする日本のおたく文化を「21世紀のジャポニスム」と評し、欧米の文化に大きな影響を与えていると主張し擁護した。また、クールジャパンと呼ばれ、日本のポップカルチャーとして全世界的に受け入れられている。[25]
1983年にフランスのジャック・ラング文化相は日本のアニメを文化侵略だと公言し、フランスのアニメ製作者へ助成金を出すことになった[26]。中国政府は、アニメをサブカルチャーと侮って放置していたが、2006年になって17時から20時まで外国アニメの放送を禁止した。中国でのアニメシェアの8割を超える事実上の日本アニメの締め出しであり、同時に日本アニメはダンピングによる文化侵略であるとして、自国のアニメ産業の保護と育成に乗り出した[27]。
ミリオンダラーベイビー:女版はじめの一歩。ボクシングで成り上がるサクセスストーリー!!
ダンサーインザダーク:弱視の女性と息子との日常を描いたほのぼの感動作!!
ジョニーは戦場へ行った:戦争でのランボーの如きジョニー活躍を描いた痛快アクション!!
レクイエムフォードリーム:夢見がちな4人の若者の生活を描いた笑える能天気コメディ!!
ディアハンター:鹿狩りのオラが戦争に連れて行かれただ、田舎の男たちが巻き起こすはちゃめちゃ大騒動!!
震える舌:娘が風邪をひいた!?お父さんと娘の爆笑闘病記!!
真夜中のカーボーイ:田舎から出てきたカーボーイが都会とのギャップにドジするコメディ!!
ジェイコブズラダー:ジェイコブが梯子に登るただそれだけの作品!!
ファニーゲーム:凸凹コンビが幸せな家族に巻き起こす大騒動コメディ!!
ボーイズ・ドント・クライ:自分を男と偽る女性、そんな彼女を仲間として迎え入れる話。
ドッグヴィル:とある町に迷い込んだ孤独な少女を優しく開放していく心温まる物語。
ライフ・イズ・ビューティフル:家族の絆を描いた愛と笑いのハートフルコメディ。
ゼア・ウィル・ビー・ブラッド:石油を求めて西へ東へ!幼い息子と共に目指せ億万長者!
ノーカントリー:ひょんなことから200万ドルを拾ってしまったおっさんを巡る殺し屋たちの痛快ラブコメディ。
二十日鼠と人間:農夫のずっこけ三人組が二十日鼠を使って金儲けを企むハートフルドラマ。
28歳。
気が付けば、
仕事は誰かに尋ねるよりも尋ねられる方が多くなったし、
あれやっといてと言われるより言う方が多くなったし、
何で出来ないのと怒られるより怒る方が多くなったし、
オフレコの場で上司に会社の愚痴を言うより言われる事が増えたり、
21世紀を迎えた18歳、高校卒業と共に新世紀への始まりにドキドキしてたもんだけど、
今は当時当たり障りないサラリーマンと感じた彼らそのものの生活を享受して悪くないと思ってる。
あの時求めてたドキドキ感、新しい未知への世界への挑戦!はどこへ行ったんだろうか?
現実はこの世界の大前提が「お金ありき」で成り立つと気付いたり、
学生時代は庇護の下での自由と挑戦だったと気付いたりして、
未知への挑戦!ってのは社会人からしたら地盤固めてからという前提を満たして初めて出来るものだから、
結構簡単に挑戦できなくなってるってとこかね。
疲れてヘトヘトになったときの一口がすごく美味しく感じてから今は飲むようになったと言ってた。
ここ数年かけて酔い回りが速くなって酒に弱くなったから、日本酒は控えるようになったと。
歳取って身体は衰えていき、代わりに経験値が増えて、
嗚呼、子供は大人へ成長するけれど、大人は何へ成長するんだろう?
http://anond.hatelabo.jp/20100518132503
国会議員にはいくつかの種類がいるんだ
国会議員が多すぎるから政治をする人以外も当選してしまう。まず、高校野球みたいに1都道府県1人みたいにして、東京とか北海道ブロックは2人、あと21世紀ラッキー枠みたいなのも設けて50人ちょっとにするといい。
小沢みたいな30万人くらいしかいない田舎でだけ人気の人を排除するために、投票を全国区にする。谷亮子みたいな人寄せパンダを議員にしないために、政治家として最低限の教養(頭が悪い人を差別しない(憲法で保障されている)ように真面目に政治に関心を持っていれば答えられる程度の簡単なもの)を試すテストをして合格しないと立候補できなくする。
これらをすれば、黙って話を聞く人が政治家になるよ。
「本文 RT @id: 元発言」「本文 QT @id: 元発言」を報知ではなく、Replyの意図で使用するのは明確に誤りですのでご注意。
よく「明確に誤り」なんて言いきれるな、と感心する。皮肉じゃなくて、本当に感心したのだ。俺はTwitterのヘルプを繰り返し読んだのだが、読めば読むほど混乱するだけだった。そもそもヘルプのアドレスはtwitter.jpではなく、どこかのブログサービスでしかない。リンクされているから公式ヘルプなのかもしれないが、どこかのユーザーがまとめたものにtwitterがリンクしたのかもしれない。ヘルプに使われている文字の大きさがばらばらだったりと、限りなくアマチュア臭い。
仮にこのヘルプが公式だとして、見つかるのは「@付き投稿」であって、リプライでもreplyでも返信でもない。ぽろっと「返信」という言葉が出てくるが、それがWEB画面上の返信リンクのことなのかどうかは、読んだだけではわからない。
ついでながら、上のリンク先
どの発言に対しての返信なのかは、Webならば発言の下の「id宛」をクリック、Twitterクライアントならばそれぞれに実装されたスタイルでその元発言が判ります。
Web画面に「id宛」などというリンクもボタンも見つからないのだが俺だけか。タイムライン上の@ idのあたりを探しても、元発言がわかりそうなリンクなどみつからない。とおもったら、これは「返信」リンクをクリックして返信したときだけの機能だったようだ。なんなんのだ、このサービスは。
もう、どうしようもない。もともとつぶやきだけだったという事情はわかるが、機能を追加するときに、あまりに馬鹿なやり方を採用してしまった。21世紀にもなってこんなサービスがはやることを目にして、人間の愚かさを嘆くべきなのか、まだビジネスチャンスがあることを喜ぶべきなのかわからない。
これだけ機能が狂っている以上、ユーザーに素っ頓狂な奴が多くても不思議ではない。むしろTwitterを使うコミュニケーションは、本質的に秩序を破たんさせると思うのが理にかなっている。ローカル・コミュニティーは勝手なルールを作り、半径1フォローの世界で王を気取り、遠征に出かけては他人をイラつかせることになる。
先日のツール作者対ユーザーは、ユーザーの度を超えた粘着っぷりで周りを喜ばせた。しかし、こんなことが起きるのはTwitterである以上当然なのだ。ツール作者は自分のコミュニティーのローカルな思想を自分のツールに載せようとする(それは責められる筋合いではない)。そして、ユーザーは作者に自分のコミュニティーのローカルルールを採用させようとする(度を超えない限り、責められる筋合いではない)。
あるサービスがヒットすると、その追従者はかならず「真似」だと笑われる。しかし、Twitterの場合、その心配はないように思える。どう作ったって、twitterよりまずいものはできないだろう。
Twitterの強みはいろいろあるように思えるが、それは幻だ。突き詰めていけば、「すでに十分有名」以上の何物でもない。
Googleは、蓄積された知を、全ての人間に手が届くようにしたいんだと思う。
んー、人は見たいものしか見ないので、Googleによって知識の偏在化が進み、知的レベルの退化を引き起こすと思う。
結局、Googleが使えるツールなのは、知的バックグラウンドがしっかりしている人だけなんだよ。
21世紀になったけど、空飛ぶ車も走ってないし、ロボットも歩いていない。
やっぱこんなもんかなって思ったりするけど、たぶんあと数十年するとすごいことになると思う。
ふと、街に出てそう思った。
それでもって、文字を手に入れて、世代を超えて、空間を超えて知識を保存できるようになった。
物理学に携わる人は、物理学の最先端をしっているが、豆腐職人の技をどれほど知っているだろうか?
豆腐作りにおけるたび重なる技術革新を物理学者が知りえることは稀であるし、その逆もあまりない。
あり得ないと断言はできない。
Googleは、蓄積された知を、全ての人間に手が届くようにしたいんだと思う。
検索ワードを打ち込んでワンクリック、そうするだけで世界中の情報が手に入る。
専門書の写しからツイッターの呟きにいたるまで、一瞬で情報がやってくる。
(膨大な情報をどう処理するかは個々の人間の情報処理能力がボトムネックになってくるわけだが、その問題を解決する発明もほどなく出来るだろう。)
知識と知識の出会いが、とんでもない発明、発見へとつながる時代がやってくるのかもしれない。
豆腐職人のワザに物理学者が閃いたり、新型エンジンの設計図から画期的な家具を思いついたりするとか。
21世紀は凝り固まった20世紀の脳みそでは、思いつきもしなかった凄い発明がもりだくさんだ。
21世紀的な凄いもの、たとえば、このお店
こくまろみるく
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次の三つの傾向が顕著になるにつれ、マスメディアなどの発信を専門とする中央集権的メ ディアは
縮小していくだろう。
1.インターネットの普及で、情報が流動化し、有益な情報を持っているのが必ずしも物書 きの専門家ではなくなってきた。
一般の個人が、専門情報へアクセスすることが幾らでも可能になってきた。
2.そして、個人が情報を発信しても、多くの人の目に留まり、評価するためのメディアが 発達し、
情報発信を発信して、皆に見てもらうための壁が低くなってきた。
そのため、もともと専門性を 持っていた個人が、本業の傍ら、情報を発信することが可能になってきた
3.更に SNSなどのコミュニティが、情報の選別・検証・発展などの役に立ち、
コミュニティに参加する人間全体の「集合知」を形成す るのが容易になってきた。
(ブログのコメント欄も、「集合知」形成の役に立っているので、積極的にコメントしてね!)
この3つの流れ: 情報のコモディティ化、情報発信の容易 化、「集合知」形成の容易化、によって、
個人が情報を発信し、それをコミュニティ全体で有意義な知を形成していく、ということ が可能になり、
中央集権的な専門的な文筆家がピンで対抗できなくなってきている。