はてなキーワード: 法則とは
んだとゴルァ!偏見じゃねえだろがあゴルァァァァァァァァァァァァァァァ!
彼氏欲しい欲しくないで分かれるんだったら、欲しくないからロクな態度とらなかったという解釈もあり。
けど、やっぱりそれは違うんだわ。俺様なんかに言わせるとな。
偏見偏見つったってそういうこと言ってる人おおいってことはなんかあるんだわ。
火のないトコに煙りはたたねえって言うしね。
俺の長年の経験から見てもそうだしな。ちげえねえちげえねえ。
「女どうしでつるんでいるようなオンナにロクなのはいない」
これ。どうよ?これ。20年生きてきて、ようやく俺様もそういう事が分かるようになってきた。
ちなみに、10人のオンナと付き合ってきた。それくらい付き合うと、だいたいオンナの見分けがつくようになるの。
「こいつは駄目なオンナだな」というのが分かる。そうしたら、駄目なオンナとは最初から友達にならないの。
そうしたら、無駄な恋愛して、変な修羅場に巻き込まれたりせずに済むって訳よ。わかる?
俺様の経験から言うとだな、「オンナどうしでつるんでいるようなオンナにロクなのはいない」んだよ。わかる?
つまり、独立出来ていないということだな。オンナどうしでつるんでいるということは、独立出来ていないんだ。
そういうオンナはいろいろと駄目だな。うん。これは間違いない。
http://anond.hatelabo.jp/20091006192224
上の記事によれば、下手と思わせない文章を書くには「繰り返しを避ける」ことだけを気にかければ十分であるらしい。しかし、私はこれでは不十分だと思う。なぜなら、「繰り返しを避ける」ということの意味が明らかにされていないからだ。たとえこの法則を知ったとしても、実践することは困難である。具体的で実践的であることに注意すると、下手と思わせない文章を書くには、少なくとも以下の3点に留意する必要があるだろう。
以下、それぞれについて詳説する。
下手と思われてしまう文章は、たいてい書きたい内容が整理されていない。同じ内容を、表現や話題を変えて何度も繰り返し書く。そのため、書かれた文章全体の内容の密度が低くなり、結果として読者に退屈な印象を与えてしまう。読者の眼を常に文章に惹きつけるためには、内容の繰り返しを避けて、文章全体の「意味の密度」を高める必要がある。
具体的な方法としては、MECE分析やKJ法などの論理的思考のフレームワークを活用することが挙げられる。これらを活用することで伝えたいことを排他的な命題群として整理することができ、内容の繰り返しが起こりえなくなる。ただし、もしあなたがブログなどのちょっとした文章を書きたい程度であれば、文章を書く手を一旦止めて「自分は何を伝えたいのか」「伝えたいことは幾つあるのか」と問うだけでも十分効果的である。
書きたい内容が十分整理できたら、次はそれを文章にしていく。この段階で注意してもらいたいのは、読点を多用して無意味に1文を長くしないことだ。1文を長くすると、それだけ文に込められた意味が多くなる。人の認識能力には限りがあるので、あまりにも長いとその文が伝えたいことを忘れてしまうだろう。1文にはできるだけ1つの主張のみを割り当てて、意味を明確にすることが重要である。具体的には読点を多用しないことが最も効果的だ(注1)。
また、文を短くすることで、自ずとその文の種類が明らかになる。具体的には「断定」か「類推」か「願望」か「事実の記述」かのどれかが明瞭になる。それゆえ、文末の表現も広がりが生まれ、元記事で指摘されていた問題も解消される。この法則もまた、記述の段階における「繰り返しの回避」の戦略なのである。
ひと通り文章が書けてきたら、文と文の関係を見直していくことが重要である。文章を読むということは橋を渡るようなもので、文の間につながりが無ければたちまち先に進めなくなる。下手と思わせない文章は、文と文のつながりが明瞭で読者に疑問を起こさせないものだ。
文と文の関係を見直す具体的な方法としては、すべての文に接続詞を挿入してみることが挙げられる。なぜなら、接続詞は文章間の論理関係を明示するため、文のつながりが不適切であればそれがすぐに明らかになるからだ。
挿入して不自然であることが分かれば、間に文章を加えるなり、文の順序を入れ替えるなりして調整していく。もしあなたがどの接続詞を使えば良いか分からないのであれば、それは文と文の繋がりを考えずに書いてしまったということだ。いちから書き直す必要があるだろう。このように、接続詞の挿入は書き手に具体的な修正案を考えさせる一種の指標となるのである。
ただし、この手法はあくまでチェックのための方法であり、実際にすべての文に接続詞を挿入する必要は無い。むしろ論理の転換といった重要な箇所以外では、接続詞はできるだけ省略したほうが文章が滑らかになる。接続詞の詳しい扱い方については、野矢茂樹氏の名著『論理トレーニング』『論理トレーニング101題』を参照されたい。
以上、私が考える「下手と思わせない文章術」について述べてきた。上の3点は一見するとまとまりが無いように思われるかもしれないが、実は文章を書く上で重要な意識が貫かれている。
それは、「文章を書くことと内容を考えることは、常に一体である」ということである。
私たちが考えることは、ある程度ことばに影響を受けている。言葉なくして、人は自分の思考をまとめることはできない。したがって、文章が下手であるということは、考えていることが整理されていない証拠なのである。文章と内容のつながりを考えず、ただ表面的な修辞に拘っても文章の下手さはいささかも改善されない。文章を書く人には、常にこの点を意識していただきたい。
最後に、この文章はブログの記事にしては長く端的ではないので、下手な文章に該当してしまうかもしれない。もしあなたが、私の文章に問題があると感じるならば是非言及していただきたい。そこからまた有益な「文章術」が生まれてくるかもしれないのだから。
注1 : 「1文を短くせよ」と主張すると、たいてい提出される反論に「小説や日記などのような情緒的な文章では、1文が長くて面白い文章もあるではないか」というものがある。しかし、その種の文章にも、実はこの法則は当てはまるのだ。小説における文章は、主に人の「認識と思考の流れ」そのものを記述するためにある。人の認識や思考はとめどなく続くものであるから、日常の文章よりもどうしても1文が長くなってしまう。小説の1文が長くなるのは、そうなる必然性がある。逆に人の思考や認識の転換を反映せずに、いつまでもだらだらと1文を続ければ、たとえ小説だとしても下手な印象を与えてしまうだろう。いかなる文章においても、文の長さの必然性を問い、可能な限り短くすることは重要である。
これから書くことは、あまりにもシンプルで、誰かがもうすでに書いてるんじゃないかと思う。
けど、今朝こんなの(※1)がホッテントリ入りしてるのを見て、なんでこんな誰も使えないようなくだらないテクニックがもてはやされるんだろうと疑問に思ったことだし、一つ書いてみることにした。
これ一つだけだ。
あらゆる文章について、この「繰り返しを避ける」という言説を当てはめて、文章をより良いものにすることが出来る。それは何も難しい事じゃないし、誰でも、今からすぐにできることだと思う。
ひとつの文の中で同じ言葉を何度も使わないことはもちろんだが、もう少しこの法則について吟味してみよう。
まず、へたくそな文章を書く人の大半は、
なのである。よく見かける、「~だ。~だ。」の一本調子では、読んでいる方が疲れる。もちろん、新聞のように厳しく字数制限がある場合は節約の必要もあるだろうが、特に字数を気にしない場合、「~だ。」をアレンジし、「~であった」「~なのだ」などといろいろ使い分けることで、簡単に同じ言葉の反復を抜け出すことができる。もちろん、慣れてきたら、体言止めや時制などにも気を遣ってアレンジしていくと良い(※2)。
次に、へたくそな文章の特徴として、
ということも挙げられよう。
森博嗣大先生なんかこれがひどくて、いま手元にあった「カクレカラクリ」をひもといてみると、
「○○○○」○○は言った。
「○○○○」○○は言った。
「○○」
「○○○○」○○は叫んだ。
とこんな表現がいくらでも出てくる。いくら量産が必要な人気作家でも、これはひどすぎやしないだろうか? 異常ですらあると思う。いくらストーリーが良くてもこれでは興ざめだ。だから、短い文はできるだけ目立たないように、それでいて、自分の主張を特に強めたいときだけに使うとよい。基本的に短い文は強い印象を与え、なおかつ文中でよく目立ち、一方で長い文はその内容の印象を薄める効果があるからだ。それゆえ、長い文を書いた上で、短い文でダメ押しすると強い。Yes, we can.
あとそれから、
のが吉だ。とくに故事成語はヤバイ。こういう言葉は、日本人なら何度も何度も小さい頃から聞かされているから、たとえその文章全体の中で初めて使われたとしても、一気になんか古くさい、繰り返しがまた来たという印象を与えてしまう。これも「繰り返しを避ける」原則の発展としてとらえることができるだろう。
まあ考察は面倒だしそれくらいにしておいて、あとはTips的なものとか、個人的好みの話とか。
ことも大事だよ、ってことを忘れないで欲しい。読点はダテについているものじゃないのだ。本田勝一が「日本語の作文技術」で読点の付け方について、章を一個割いてクドクド説いているのも、当たり前のことだが、理由がなくてやっているわけではない。へたくそな人は、読点をどこに入れるかを全く意識しないから、結果として文章は読みづらく、陳腐に見えてしまう。
ってのもやっぱり大事だ。頭の中で良い。実際に読むスピードで、自分の書いた文章をもう一度読み直すこと。向田邦子は自分の小説だか台本だかを執筆しながら朗読して、それをテープに残していたらしい。そこまでする必要はないと思うけれど、そういう姿勢が大事なのは確かだ。音読してひっかかるような文章を書いているのはよろしくない。
さらに主張しておきたいのは、
ということだ。よく「自分の言葉で書きましょう」なんて事をいけしゃあしゃあと抜かすヤツがいるが、自分の言葉なんて、そんなもの元からありはしない。どんな大作家だって、誰かに影響されて、それが少なからず現れながら文章を書いている。「作文は借文」、この原理原則を忘れずに、出来るだけ素直に、努めてわかりやすく、相手に「自分の心のイメージを、相手のわかる形で伝える」こと。オリジナリティなんて言葉にだまされて変な表現を使ったら一気に興が冷めてしまう。ましてや自分が「これは名文が書けたぜウッシッシ」と考えたりしたことがあるなら、猛省して欲しい。もちろんこれは自戒も込めて。オナニーした後の紙は、ゴミ箱へ捨てるのが常道だ。こびりついた精液を他人様に見せてはいけない。何も、肩を張らなくてもいいのだ。あなたが語った時点で、その言葉は「あなたのもの」なのだから。
最終的に、
ということも忘れないでおくと、相手に自分の心が伝わる、良い文章が書けることだろう。いつでも文章は「書き飛ばせる」ようなものではなくて、努力と苦悩の果てに成り立っている。良い文章が書けなくて苦しんでいるのはあなただけではないし、苦しまなくなったときが、まさに文章を書く人間としての終わりなのだ。どうやったら自分のイメージを、誤解なく、ありのまま伝えることが出来るだろうか? そのひたすらの煩悶が、文章を成長させてくれる。だから、へたくそでも、伝えようという意志を必死で込めることで、相手にその熱意は伝わることだろう(もちろんその熱意を期待してはいけない! 文章を書くことは常に「伝わらない」恐怖との戦いだ)。
(そういえば、読点が多いという指摘があったが、全くその通りだと思う。どうも自分は読点が好きすぎる)
※1:http://www.lifehacker.jp/2009/10/091005writingtips5.html
※2:ただし、よくちまたで言われているように、体言止めはなるべく避けた方がよいのは確かで、その理由は、強く言い切る形になり、語調に与える影響が大きいからだ。従って、原則として使わないという指針は間違ってはいない。間違ってはいないが、体言止めという手法がなぜ存在しているかと言うことも考えると、どうしても必要と信念が訴えるならば使うことになるだろう。もちろんそうやって、みんな失敗するのだ。
賃金は、仕事の価値に対して決まるんじゃなくて、いくら出せばその仕事に必要な人間が確保出来るかで決まるんだよ。需給の法則って習わなかった?増田はずっと16万円で雇えたから16万円で雇ってきた。新人は20万出さないと雇えないから20万円で調達する。そんだけ。
そこで増田が賃金交渉すれば、増田がいることによってプラスされる利益ギリギリの額までの上乗せさせることが可能って経済学(笑)の教科書には書いてある(笑)(笑)(笑)。何も言わずに16万で働いてたら16万でストップするのも無理は無いような。
もっとも日本人はそういうの苦手だから団体でベア交渉したり(大手の話)、社長による厚情采配(新人より低いのは可哀相だから上げてやろうとか、○○君は今度結婚したから/子供が産まれたから上げてやろうとか、そういうの)がまかり通ってる。そういう体質のところだと、自ら賃金交渉なんてしたら、生意気だと追い出されそうだな。
まあこういう風にドライに考えることで気持ちが軽くなれば幸い。君の賃金が安かったのは君の仕事の価値が低いからではなく、君が安く調達出来たから。これはそういう問題なんだ。
ブクマが20もついたので続き.
細胞骨格というと,モーターの役割つまり骨格筋における化学エネルギーの運動エネルギーの変換を取り持つアクチンミオシンすべり説が有名だけれど,細胞骨格はどうやら細胞生理において輸送作用をもち重要な機能を持つらしい.この辺を拡散モデルとの対比の分子モーターモデルで説明するのはちょっと理系のカップルならではかな.次元が減るのと熱物理化学的な親和性のための吸着力で輸送が可能になるというお話.細胞外骨格や結合基質もつながる.
結合組織は単に体の支持・結合に役立つだけではなく免疫・情報伝達・熱と物質の輸送等さまざまな機能がある.膠原病から反対に考えてみると普段の結合組織は発生と同様に機能が生理的に制御されている.
で,発生.発生はもう受精卵がヒトになるというので面白いこと請け合い.ちょっと妊娠の話とか混ぜて彼女の考え方を聞いてみてもよいかも,・・・,ではなくてモルフォゲンモデルという古典的な制御のモデルだけでなく最新のモデルの話もあわせて,アポトーシスの話や系統発生繰り返し説にふれてみるとよいかも.発生と完全に地続きのはなしになる.内部状態と環境とが幹細胞の分裂とできた細胞の分化とにかかわってくるんだ.
人間の器官レベルの制御機構は神経系と内分泌系が担っていて,後者の支配を前者が受け持つから神経系―受容効果系は人間の重要な部分.基本的には前者が高コストだから後者の低コストの制御も合わせて使うと考えればよい.糖の出し入れをいちいち神経で支配していたらエネルギーがかかりすぎる.
んで,システムズバイオロジーやさきほどの細胞間情報伝達のつながりで,ある細胞につきそこへの全入力(エネルギー(物質・輻射)・エントロピー・テンパラチャー)と全出力と全内部統合演算とを想定するモデルを考えられるから,細胞の出入力と内部統合につきシステムを建設することが多細胞でも重要なんだなどと自分の扱う細胞のシステム生物学の宣伝をしてみる.
単細胞でも人間でも何でもよいのだけれど,先ほどと同じで出入力と統合あるいは受容統合効果で考えることは同じ.で,感覚器からの情報を統合して,記憶などとも統合し出力をすることを考えるのだけれどこれがしこたま難しい.単細胞生物でも走性に記憶バイアスがかかることなんかが知られているけれど,ブラックボックスとして考えたくなる.強いて僕が考えていることはある入力に大しては特異的に発現しやすい出力があるということから統合のあり方を考えていくのと,神経の機能回路モデルを数学的に建設していくのと,があるけど全然専門外.恋した僕の気持ちも僕にはわからない.
地表(海含む)では重力が卓越していて生物や多くの物質は地表に束縛される.そこで単細胞生物と同様に生態系は多くのコンポーネントがあるシステムだと考えることができる.そのサブシステムとしては大陸・海洋・気象・太陽系との関係なんかがある.ある個体や生物種・生物群の動態は細胞内における細胞小器官の動態に似ているかな.どちらもシステム特性を規定しているのは物理法則だという点は共通.
ダーウィンはすごく頭がよかった.で『The Origin of Species by Means of Natural Selection: The Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life』(1st,1859)のなかで
The slightest advantage in one being, at any age or during any season, over those with which it comes into competition, or better adaptation in however slight a degree to the surrounding physical conditions, will turn the balance.
という一節がある.(個体に変異が起こりその)性質がほんの少しでも有利なら生態系のバランスを変化さす,と括弧内をつけくわえてみると,変異と自然選択のモデルが考えられる.たとえば点変異がDNAにおこって対照状態で細胞生理の変化を定量的に計測ないしシミュレートするモデルとか.
僕の興味はというと数理モデルを物理法則のもとに組み立て細胞の制御システムモデルをリバースエンジニアリング的に,帰納することにあるんだよと再び告白.
承前:http://anond.hatelabo.jp/20091005002132
ブラウワーである[要検証]。彼は、数学的概念とは数学者の精神の産物であり、その存在はその構成によって示されるべきだという立場から、無限集合において、背理法によって、非存在の矛盾から存在を示す証明を認めなかった[要出典]。それ故、無限集合において「排中律」、すなわち、ある命題は真であるか偽であるかのどちらかであるという推論法則を捨てるべきだと主張し、ヒルベルトとの間に有名な論争を引き起こした。[要出典] ヒルベルトの形式主義は、直接的にはブラウアの主張から排中律を守り、数学の無矛盾性を示すためのものと考えることができる[要検証]。
ブラウワーは「AであるかAでないかが分からない場合もある」を説明する例として、「円周率の無限小数の中に0が100個続く部分があるかどうか分からない」というものをあげていた。
あるとき、ブラウワーがこの話をしたとき、「しかし神なら100個続く部分があるかどうか分かるのでは?」という質問を受けたが、 ブラウワーはそれに対し「残念ながら我々は神と交信する方法を知りません」と答えた。
しれっと言う
憎いねぇ
こんばんは。修習生増田です。
極楽のような二連休から、一気に地獄に突き落とされる1週間が始まります。
まあ任官志望者以外はそこまで根詰めない人も多いでしょうけど。
今、僕たちは主に事実認定というものを学んでいます。
あれ?法律じゃないの?と思われたかも知れません。
しかし、法律を適用するには、まず事実を確定しなければなりません。
事実に法律を適用することによって、法律の条文に書いてある効果が発生するのです。これを法的三段論法と言います。
ですが、実務、特に裁判では、様々な証拠から事実を確定していくという作業を行っていきます。
つまり、裁判官にならない法曹でも、どのような証拠を提出して裁判官を説得するか、そういう意味で事実認定というのが重要になってきます。
では、事実認定というのはどのように行うのでしょうか。
民事裁判でも刑事裁判でも、自由心証主義といって、裁判官が証拠に基づいて自由に判断していいのが原則です。
もっとも、自由を謳ってはいても、完全に自由であることを許容するものではなく、経験則と論理法則に基づいた合理的な判断が要求されます。
これに従わない判決は、上訴で破棄されます。
たとえば、売買契約を結んだのなら、売買契約書を交わすだろうという経験則があります。
ならば、証拠として売買契約書が提出されたのなら、売買契約を結んだであろうことが推定できます。
これはあくまで経験則ですから、例外的事情があれば、いくらでも覆ります。
売買契約の例では、コンビニでモノを買うときには売買契約書なんていちいち作りません。
税金対策のために、売買していないのに、売買契約書を作ることがあります。
なので、売買契約なんてなかったんだと主張する当事者は、たとえばこのような主張をして頑張ることになります。
長文になりそうなので、今日はここまでにしておきます。
「見えない人は見ず知らずに法則に従ってる」というけど、体育が得意だったかどうかを大人になっても気にしてるわけでもないのに、法則に振り回されたことになるのはおかしいだろう。大人になってから成功する人ばかりでもないし、進学就職でも失敗した人は子供時代の体育というより進学就職での失敗が自信を持てないことにつながってるだろうし、体育が得意でなくてもほかの分野の能力を仕事に生かして自身持ってる人もいるわけで。
んー、また振り出しに戻っちゃうけど
・9割いるのは「法則」(複雑だけど色んなものをそぎ落として言えば、小中学校体育勝者=自信、敗者=後に成功してもそれが受け入れられない)に振り回される者の割合(根拠はもういいや。見える人と見えない人がいるんだろう。見えてしまう俺からしたら目の前のそれ!としかもう。しかし見えない人も知らず知らず法則に従っている。それからこれは女子は別問題。それもすでに書いている。ぶくまでは「いや女子も似たようなものじゃないか?」という人もいたが。)
・単純に敗者で元増田的になってる人ということで言えば1割とかそんなもん。リンク先のアメリカ人が「下と上の方は少なく真ん中が多い」と言ったように。
という話。ぶくまで共感してもらえたからいいです。あとは教育制度に全く別の仕組みが生まれ、こういう時代が過ぎ去った遥か未来、何かのはずみでネット界の中からぽろっとこれを読んでくれた人に向けて。
今の日本がそこに書かれてるようなシステム・法則に振り回されてるとは思えないし、9割の定量的根拠がどこにもかかれてないが。こっちが見落としてるだけならどこに9割以上がそれに振り回されてるという根拠があるのか教えてほしい。
たぶん今までもやり玉に上げられたことがあるかもしれないけれど、
毎度毎度下記のエントリー郡に対しはてブのブックマーク数が増えて幾たびにいたたまれなくなるので、釣りだろうがなんだろうが書きなぐる。
http://coliss.com/articles/build-websites/operation/design/3072.html
photoshopでゼロから作るウェブデザイン チュートリアル30選
http://www.designwalker.com/2009/07/photoshop-scratch.html
http://blog.creamu.com/mt/2008/10/45.html
http://dawble.com/2009/09/design/amazing-fonts.html
いいかげんにしろよと。おめーらどれだけ、マニュアルを求めているんだよと。
おかしーだろ。
なんとなくいいからで、ロゴを使って、なんとなくきれーだからでフォトショップで作って、それで胸はって作ったって言ってるのか!?
こうゆうものを見るたびに、きれいなものは作れるけども、中身のあるものは作れていけない奴らが増えていく感じがする。
「作る」ってことを至上のものにしたいとかは思わないが
人の作った物の寄せ集めを「作る」ということだとは思えない。
(コラージュは別)
それじゃあ、あんたのファンタジーがないじゃないかっ。
求めている人はいるんだろうけど、なんでこんなエントリー書くんだよ。
馬鹿でも糞でも真似でもいいから、最初一から作って見ろよ、って。
一から絵を描いて、フォントを描いて、それを取り込んで、PC上に置き換えていって、WEBデータにして・・・
これを書く奴らも書く奴らだ。
見てるやつは、あんたらを求めているんじゃねーぞと。
あんたらが持ってる外部のものを求めているだけだぞーと。
そもそも、情報を編集するなら、もっと高度に、面白く編集しろよ。
みんな疑問におもわねーのかなぁ。
怖くならないかなぁー。
うちにはまだ「目立つ力」は届いていないのだけど、何それ。
404BlogNotFound:公言は傲慢にするべき3つの理由
勝間「断る力ッ!」
いや、状況によらない。
発言の大やけど、もとい公度が高ければ高いほど、より傲慢にするべきというのは、例外なき法則と弾言、いや断言する。
っていうのが弾さんの言い草だけど、これ、悲しいけどはてブでは正反対なのよね。
1. 傲慢は表現を簡潔にする
2. 傲慢は表現を簡潔にします
3. 傲慢は表現を簡潔にするはずです
4. こいつ、馬鹿なの?
5. 正論。
6. 同意。
7. 俺が前々から考えていたことを言語化してくれた感じ。
この例を見れば分かる通り、同じ内容でも、傲慢度が上がるほど簡潔度もましている。
簡潔すぎて、元々持っていたはずの意味部分すらも削げ落ちている。
ブクマがプライベート限定であった時代であれば、そこにおいてクソをミソにするだけの贅沢も許されよう。しかしこれだけブクマが溢れ、その理由付けが求められている時代、それは受け手の視界を汚す表現公然猥褻物陳列罪とでもいうべきものなのだ。
確かにブクマ元が間違っていた場合において、それが速やかに修正されて、発言がより正しく広く伝わる、というのはよくある。
他人の馬鹿発言のために己が100文字の何割かでも割こうとする聖人はそうそういない。
割いても「↓こいつ馬鹿か?」程度の中身ゼロな悪態がせいぜいだ。
あなたは、それにより傷つく。しかもそれによって公はより正しい意見を手に入れることが出来るというわけでもない。
そもそも傲慢なブクマに対しての反論は、基本的に効果がない。
修正を念頭においてオピニオンを表明するブクマカもまた稀なのだ。
だからブクマカは傷つかない。当然、発言前に自らの意見をより厳しく検証する行為とは無縁になっていく。
その上、はてなスターという良かった探し機能の存在が、"肯定"以外の他者からのメッセージを切り捨てる。
これで研鑽できると放言できるほうがどうかしてる。
結果、発言者の言動は、はてブ利用を通じてより無責任にあまり成長しないような有様となる。
(あと、まぁ、ここらへんに「傲慢なブクマ」と「傲慢なつぶやき」は違うとかなんとか)
これ以上続けるとSAN値が下がるのでまとめる。
ブクマにおいては、
傲慢な発言もいいけど、せいぜいストレス解消と割り切って、まかり間違っても自分が百パーセント正しいなんて勘違いしないでよねっ。
「間違い」は叱られたり、ペケつけられたりで、はじめて生まれるモンじゃないんだからっ。学生時代とは違って。
そんじゃーね。
Masuda the Anonymous
1. 3次元含む。
2. 幼女にしか興味ないぉ
増田にとっては気持ち悪いと思うけど、合法の範囲内(18歳以上)で、性体験してみては?風俗でもいいから。あくまでも俺の体験談で、一般法則じゃないけど、俺は、性体験をすることで軽度のロリコンが治ったよ。
20歳のころの俺は、童貞を悪化させ、処女厨であると同時に、軽度のロリコンだった。理想の女は、映画レオンの女の子(ナタリー・ポートマン)。もちろん、その後のスターウォーズに出たナタリーでなく、レオン出演時のナタリーが理想だった。近い年齢で、ギリギリ許せた女性は、性的なものを感じさせない女性だった(童貞なのになぜか上から目線)。貧乳で痩せていて、黒髪のショートカットの女性だったら許せた。反面、友人達が絶賛していた、エロい感じがする巨乳でむっちりしたロングヘアーの女性に、嫌悪感すら抱いていた。
成人式が終わった後、友人の紹介で、ギリギリ許せる貧乳で痩せていて黒髪のショートカットの女性に会った。結局、その女性とセフレ→恋人となる。その女性は、処女どころか、かなりエロイ女性だった。彼女の相手をするうちに、俺はかつて嫌悪していたエロい感じがする巨乳でむっちりした女性が好みになった。幼女には、興味をもたなくなった。
これが、私の経験です。
麻雀界においてデジタルな理論の代表としてとつげき東北さんの「科学する麻雀」があげられる
この本は当時麻雀本としては異例の売り上げを上げる。この本によると「待ち牌読みは必要ない」などと書かれていて反響を呼んだ
一方オカルトな理論として有名な本は土田プロの筋トイツ理論(かなりオカルトな理論)がある。
デジタルを信仰する人は第一線で活躍されるデジタル信者以外は自分自身で法則を打ち出すことが限りなく難しく
どうしても○さんの本の書いていることを利用すべきだとか△さんの言ってることを広めるべきであるようなことを言う。
そして統計をとるが理論だてて説明できない統計を否定したがる。また、オカルト信者はどうしてもデジタル信者を軽蔑する。
そして、デジタルは状況判断をしないから駄目だとか意味不明な判断基準で押し引きをして流れが~だとかツキが~だとか
どうしようもない言い訳をする。
デジタルとオカルトどちらが正しいのだろうか。俺にはわからない。素人なので。ただ、両方のことができるようになるのが
プロであり強者であるように思われる。
似たようなものは野球でも存在する。セイバーメトリクス論(アメリカ)と勝負勘論(セオリー通り)という二つの考え方の違いがある
セイバー理論はバントを否定するが日本はバントを肯定する両者の考え方に違いはあるがどちらに優位性があるかはわからない
このような例は他のことにもあるのではないか。
視点を変えるだけで真逆の答えになってしまうものが・・・・
デジタルなものは小さな補正項を無視する。麻雀の例で言うと河の残り牌の枚数やプレイヤーの動作によるテンパイの確信など・・・
オカルトは自分の視点で物事を見る。そのため大きな視点で見るとおかしな挙動をとってしまい統計にありえない誤差を生んでしまう。
だけれども集団にとっておかしな個人行動はいずれ集団にとって正しい行動になることがあるかもしれない。
オカルト(=ミクロ)がデジタル(マクロ)をいずれうごかしていくのではないかと考えてしまう。
元発言は無視する。
多分、東大生の過半数は、教員の意図した「正答」から外れた形での正答をした事があると思う。
封神演義 武成王死亡
鋼の錬金術師 ヒューズ死亡
例外として
ターンAガンダムのハリーオード⇒ただし御大のシナリオでは死亡予定
Fateのアーチャー⇒設定上しかたないが、一々泣ける死亡シナリオ
という事はあったが、いかんせんトライガンで懲りたはず・・・だった。
が、
やめて当たらないでぇぇぇぇ!!!!って叫んでます。
しかしあえて書きましょう。某東原伝説までいかないが、外れることを証明したいし。
牛さんどうかころさないでくださいおねがいします。
ウルフウッド死亡時は、立ち読みしたとき泣いた。家で思い出してないた。きもいといわれてもいいw
悪の道具として生まれ改造、導き手、大事な身内(夫人はどうなるか知らんが)というキャラ立ちが
ウルフウッドと似てるのはいいとしても、死亡エンドぉぉぉぉはどうか回避してくださいおねがいします。
それにとりあえず生き残らないとキンブラ外伝が読めないとおもうんだ!
某ヘルシングの執事は死亡したけど外伝ry)とかいうのは断じて知らない。
20100310追記
とかかいたけど、
やっぱ大総統死んだーーーーーーーーorzorzorzorz
死に際がかっこいいYO・・・でも泣きたいよ・・・
なんでこごとく死に様が無駄にかっこいいんだ萌えキャラ達よ・・・
「72の法則」から72/365≒0.2とあたりをつけたことは書いてない、ってことで解釈よろしいでしょうか?
セレンディピティと相容れない発想についていけません…