はてなキーワード: 校正とは
今現在似た境遇にいる立場から
思ったんだけど不良とは違うくね?
そうなんだ。君とはだいぶ不良の定義が違うようだね。
とか
元増田のこれらの文章を読んで、不良と言う表現でも甘いと思ってたけど。
そんなことどこにも書いていないし、普通の人は偉くない。普通なだけ。
不良はちょっとした悪事を不良のしたことだから、とか
若気の至りで、なんて甘やかされ、
更生して普通の人になると賛美される。
こっちを引用して欲しかったな。
他人の波乱万丈の人生のことなんかどうでもいいけど、
悪事を犯した人間が公正したのが偉いみたいな漫画や小説や日記にはうんざりする。
・・・まあ、いいや。
普通がえらいなんていってないよ。
友人に「デザイナーかっこいい!」なんて言われるけど、デザイナーなんて底辺だ。
いや、正確に言うと、広告制作の下請けのデザイナーこそ底辺。僕は完全にソレだ。
弊社には営業がいない。基本的には代理店からの仕事をたんたんとこなすという感じ。
媒体は様々だが基本は紙。時代はwebだよ!なんて一昔前に言ってたバカもいたけど、webの単価も安いよね。
うちも安いよ、さらにバカだもん。
この仕事をやっていて、残業代なんて言葉聞きもしないし、何分広告を中心としているので、すごく景気に左右される。
新聞の記事下やチラシの枚数とか見てわかると思うけど、激減だよ。
そこで、広告費削って出す時どこのお金が削られるか。デザイン費なんて入ってるようで入ってなくなるんですね。紙の値段もあがっているし。
そのくせ、明日校正出しだから今日中に頼むだ、今夜中に頼むだ、無理難題の納期だらけ。賃金なんてそのへんのバイトより安いよw
なんでこんな仕事してるの?ってきかれたら、なんて答えればいいか悩んでしまう。辞めたい気持ちももちろんある。
一番印象深いのは、職場見学に来た厨房だ。わかったかい?きみが目指すデザイナーなんてこんなもんだよ?って教えてしまった気がする。
夢の破壊者だ。まあ、将来的にはよかったのかもしれないけど。
こちらこそ、いろいろ愚痴につきあってもらってスミマセン。
どちらに転んでも、難しい問題ですよね。
それは確かに、そうなんですよね。ただ、その観点(編集者のセンス・出版社の構成/校正センス)
でもいろいろ議論はありますし、日本だと青空文庫さんなんかが先行的な深い議論をされていると思います。
それから、クラシック畑の楽譜なら「○○版のコレコレという楽曲」という表現をするものも
ありますので、多少は編集者の創作を加味されるのかもしれません。
といっても、ゲージツ的手書き譜の時代と、電算写植... もとい、DTP入稿の時代では、
重み付けも全然違いますが。
コピー機の普及によりもはや民間企業がやれることではないのかもしれませんね。それこそ元増田の言うように国立の音大や国会図書館がやるべきことなのかもしれません。うーん、でもそれも違う気がするなあ。
19世紀までの楽曲は、そういうスタイルも1案かもしれませんね。
吹奏楽の場合で、かつ特殊ケースにはなりますが、吹連が売ってる(権利を持っている)課題曲・楽曲は、
基本的には在庫が尽きるまでは原譜を販売、在庫終了後も権利者認定のコピー譜を販売、という
スタイルだったかと思います。
PDF配布なんかも普及してきましたし、昔のように在庫や原板の保管の障壁も下がってきていますので、
「権利者(or相当者)認定のコピー譜」という制度が普及してきても、いいかもしれません。
(追記)
というか、個人には大きすぎる・民営会社には少しキツい問題なので、
ほんとは真っ当な「権利者団体」が、利用者・著作権者・出版社のそれぞれに、
損は少なく得できる方策を提案すべきだと思うのですが、JASRACがなぁ...
DVD/CD-R/HDDであんな議論されちゃ、そのうち「コピー用紙にも楽譜をコピーできるんだから」
などと言い出しそうで怖いです。ってか、コピーするのが前提かよ!みたいな。
お話も尽きませんので、いったんこんな感じで。
http://anond.hatelabo.jp/20090505065159
それもおっしゃる通りで。基本的には、著作権は出版社に譲渡...
つか、国内は基本的にJASRACに譲渡で、しかも取り返せない形になるんでしたっけ。
あと出版社も(在庫リスク付の)商売ですから、確かに出版社が力を持つのは
仕方ない側面もあるとは思います。
東芝EMIが、同じ内容のCDを数年毎にパッケージを変えて再版してるのを見て、
最初は「セコいなー」と思っていたものの、最近は在庫調整&継続販売のためには
仕方がないのかなーと同情に思えてきたり、
NSBの旧版がde Haskeあたりで再出版されてる様子を見て、
国内版で出してくれないのもなんだかなーと思えていたのが、仕方ないなーと思えたり、
そんな気分になることに、年を取ったなーと思う今日この頃です。
留学を批判する上記増田記事だが、内容よりもまず目を覆わんばかりの日本語表現のつたなさに軽く目眩を感じる。それはまた『文法的には誤りではないものの日本語的ではない』表現が余りにも多いせいでもある。とてもネイティブの書いた日本語とは思えん。英語で書いて機械翻訳したものをベースに書いている感じがする。
一応以下に修正案を提示する。「○」が原文、「→」が修正案である。
[前文]
○個人的には見識を広めるというのも一つの利点であることは否めない。
→「ことを認めるのは吝かではない」または「と思う」で良い。「個人的」と「否めない」は不調和。
○だが、しかしながら…少し反対である。
→逆接を重ねるのは否定を強める場合なので、文末に「少し」がくるのはおかしい。「少し」だけ反対なら、逆接を重ねるような大げさな表現をする意味がない。
○もし君が…なのではないかと私は疑う。
→「と私は疑う」は、日本語的表現の場合、大抵は不要。ちなみに、その次の一文「アメリカ人でXXな連中は……たいてい□□する連中だ」などにも見られるこの手の『英語的重複表現』があなたの文章にはとても多い。日本語ネイティブなら、そこは普通「アメリカ人でXXな連中は……たいてい□□する」という。
○「確かに遥かに羨望に値するぐらい勉強をしないで私より良い成績を残す人はいる。」
→日本語ならこれは一文でなく二文に分けて表現した方が良い。例「確かに、私より遙かに勉強しないのに良い成績を残す人はいる。そんな人を羨ましく感じないでもない。」
○「不幸なことに…」から始まる段落
→この段落はことにひどい。日本語の文章を意識しない翻訳調が、(たとえば「しかし」の重複、未来形が推量(義務)の助動詞に置き換わることへの無配慮、など)文章の意味自体を破綻させている。完全に再考(再訳?)を求めたい文章。ちなみに「…授業の参加しなくても卒業できるように…」は「に」の間違いだろう。常識的に考えれば。(ついでながら、この「の」と「に」の誤用は、このあとも執拗に登場する。あなたの使っている翻訳ソフト(たとえそれが脳内ソフトでも)を修正した方がよい。)
○「もし君の母国が英語であったならば」
→おそらく多くの人が突っ込むと思うが、「母語、母国語」と言うべきだろう。この誤った表現は繰り返し用いられているため単なるケアレスミスではないと思われる。
○「だが日本の高校を出て大学受験をしていた君には、そして私には簡単は簡単ではないし、なかった。」
→翻訳調過ぎる。「だが日本で高校を出て大学受験をした人間には――あなたと同様、私にとっても簡単なことではなかった。」で良い。
○「年間安くても250万以上かかる留学を少なくとも4年するわけだ。それはとても安くはない。」
→これはもはや日本語ではない。修正案「それはとても安いとは言えない額だ。」(注:この「とても」は『途轍もなく』から来た副詞veryではなく、『とてもかくても』の省略形であるところの呼応の副詞でneverの意。)
→「課せられる」。百歩譲って「課される」。
○「勉強をしないという選択は甘美なほどに甘い選択だ。」
→『あなた自分が何を書いているか分かってますか?』と聞きたいレベルの重複。「甘美だ」で良い。
○「君は最初の1年を乗り越えられれば…君はたぶん生き残ることができるかもしれない。」
→冒頭の「君は」及び文中の「たぶん」を削除すれば、まだ読めるレベル。
○「だが君は本当に生き残られるのか?」
→ティス ティーチャー マスト ビー シャンピニオン(『この先生きのこる』)…という冗談はさておいて、「ら」を抜く、または「生き残ることができるのか?」とした方が良い。
○「授業で全く内容を触れられなかった悲しみを君は耐えれるのか?」
→ネイティブならそこは「悲しみに」だよね。この人、本当に「に」が苦手だね。ちなみに耐え『られる』だね。
○「君の懐かしい友達は簡単なモラトリアムを謳歌しているのを聞いて君は耐えられるのか?」
→「は」の重複があると文意が不明になる。友達「が」が適切。
○「たぶんだが君は宿題を諦めて寝ているか諦めないで宿題と云う名の怪物に挑んでいるかだ。」
→これは単なる悪文。「たぶん君は宿題という名の怪物に挑んでいるか、あるいは諦めて寝ているかしているだろう。」という順番の方が良い。
○「君は安易な留学という選択をしたことに後悔したことに気づくのにはすでに遅すぎた。」
→ごめん、もう意味が分からない。英文自体の意味が破綻していると思う。たとえば「君は、安易にも留学という選択をしてしまったことに気づき後悔するが、そう気づいた時には既に全ては終わっている。」とかならまだ分かる。「後悔したことに気づくのに遅い」では意味が分からない。
ネットがあれば、自分の病気のことも調べられるし、他の人の闘病記も読めるしで、ホント便利な時代になった。
難病の人って、同じ病気の人がいるってことがわかるだけでも、励まされるのがあるだろうし。
妹も、新しくその病気になった人に対して、ブログで応援できるようになってもらえればと勝手に思います。
人災の件、お気を悪くされたら失礼しました。
人災で障害を負われたものの、今では「恨む」ことが少なくなくなったとのことで、
大変なご苦労があったと思います。
こういう時、宗教なら「あなたのカルマが減った」だの「徳を積んだる」と言えるからいいですね・・・。
(何かしら信仰を持たれていたら失礼しました)
俺も子供の頃いじめられたことがあって、一年に一回くらいいじめられる夢を未だに見ます。
被害者になってしまうのは仕方がないとしても、せめて自分が加害者にならないようにしたいと願うばかりです。
働いてた方が、働いてること自体に頭を使うから、
「あのときああしていれば」と後悔したり悩んだりせずに助かる、というのはわかる。
俺もどうでもいいことで悩みがちだったけど、仕事が忙しかったら疲れて寝るだけだから、悩まないですんだw
免許は持ってるけど、ペーパー。
妹も免許持ってるけど、免許とれたのが奇跡と自分でも言ってたくらいだから運転は無理w
今の自宅兼事務所では駐車場代とかも高いし、車はちょっと持てない。
場合によっては車買って郊外か実家近くに引っ越して、妹と同居しながら働くとかかな。
これは追々考える。
俺の場合は、主に下請けで打ち合わせからデザインまで一貫してやってる。
業者が小さいところだと、校正する人間がいないorそこまで工数とれないから、
その結論はまったくその通りなんですが、その理由としてこう書かれていました。
この部分は誤解が多いと思うので、編集者の私に説明させてください。
皆さん書籍の出版というとおもに文芸ものを想像なさるせいか、著者が「こんなの書いた/書きたいけどどう」と編集者に提案する、みたいな図式を考えることが多いようです。
しかしそれ以外の多くの本、新書、実用書、解説書のたぐいは、たいてい編集者が「こんな本が求められていて売れるに違いない」とまず企画を立てるところから始まります。(編集プロダクションが企画を立てて、版元=出版社の編集者へ売り込むこともあります)
そしてその内容の原稿を書けそうな人に、「著者になってくれませんか」と依頼をするのです。
「この人がこういうことを書いたら面白い本ができて売れるだろう」という企画もあり、その場合もちろんその本人に執筆を依頼します。
ここで、著者さんが「この部分はこういう章立てがいいと思う」など意見をくださることもあります。そうしたら編集者は著者と話し合って、いちばんよい章立てを考えます。
要は、著者に信用や信頼があるにこしたことはありませんが、それは1冊の本が出るかどうかを左右するファクターとしては小さいという話なのです。
書籍がネットより信頼できる理由として大きいのは、個人的には、本の内容について少なくとも著者と編集者という2人の目が通っているからだと考えています。校正によって文章の質だけでなく、数字が間違っていないかなど多方面からのチェックが入ります。
ほとんどの編集者は、本が出た直後なら「あれが書かれているのは何ページあたり」とか即答できるくらいには、中身を読み込んでいます。
さらに校正さん、校閲さんにチェックをお願いすれば、信頼性はもっと上がります。実際にそうするかは、本の内容と予算と日程の関係でいろいろです。
ともかく、1冊の本にかけられている手間が、ネットの文章より大きく上回っている現状が続く限り、書籍への信頼はまだまだ保たれることでしょう。
文体ってIMEに依存するのかなぁというのは、僕はちょっと疑問がある。
1文1文の文体は、IMEや校正ソフトの指摘に従えば統一できるけど、
文書・文章全体の構成力は、結局本人の力量次第だし。
どの漢字を使うか?(どの変換候補が適切か?)という問題は、
ほとんどのケースで正解は1つ、別解はあるかないか、という程度であるし、
どの比喩表現を使うのか?という問題は、本人の発想力次第だと思う。
最近のIMEは、そういうところまでフォロー&提案してくれるのかな?
で、そういうことがクリアになった上で、
「校正」ならちゃんと「正」しい字になおしてよ!…って逆ギレですかね。まあそれはそうかも。
ついでに、できれば参考URLとか貼り付けるとグッド。
参考:気になることば『真逆』
校正部の人員増加は歓迎です。よろしく。
この問題いろいろ報道されてますが、コネで入った先生たちを首にするという
すごいところまでいこうとしている。
そのかわりに
本来合格すべきであった人が新たに先生になって教壇に立つメリットって
いったいなんなんだ?
うすっぺらい正義だけか?
授業を受ける子供やそれを見守る親にいきなり「復活」の新任先生がいるより、
コネでもこれまでやってきた先生にみてもらったほうが安心するはずだ。
そういうことを考えると、
先生になった人に重い制裁を課して、
学校を混乱に陥れる必要があるのか非常に疑問が残る。
それから一般企業では、コネなんて当たり前という議論もあったけれど、
公務員とそれとはその前提は違う。
お金の受け渡しなんてもってのほか。
しかし、全体の8割は成績順、
その残りをいわゆるコネの人、としていたという話は
言うほど実害があるようには思えない。
より素質のある人かどうかを1点や2点の差で判断するのは難しいはず。
それが、大学入試のような「学ぶチャンス」を得るためではなく、
仕事として責任をもって、信頼をもてるかどうかを求める試験では
なおのこと、その1点2点の差は大きくはないはず。
それならば、その組織の中で信任の厚い人が認めている人材であれば、
たとえ1,2点分の能力が仮に劣っていたとしても
組織の中でのコミュニケーションはスムーズになるという意味では
その人のほうが採るべき適切な人ではないのか?
それから、大分ならば地方だから、下手に、都会から大分なんてどうでもいい先生がくるよりかは、
Uターンや地元大学出身の学生を採りたいということもあるだろう。
だからこの事件から教訓とすべきことは
県採用の思惑(地元出身者を優遇したいとか)と制度がきちんとマッチしていないということではないんだろうか?
そもそも制度化されていれば問題なかった話であって
そんな裏でこそこそやらないできちんと推薦制度や地元枠なんて作って最初から採用すればいいのだ。
だから下手に先生たちの首を切るより
そのへんからもう一度考え直して試験のシステムをつくってほしいもんだ。
あ、他の地方もねw
例えばあなたが異性と喋っているときに相手が何か話題を振ってきたとする。その話題に例えあなたが詳しかったとしても思いついたことを即座に口にしてはいけない。「あー、それってさー○○で△△だよね。おれはさーそれ××だと思うわけ、そんで(以下略)」とか、間違っても口にしてはいけない。そこはあなたの知識を披露するべき場面でもあなたの深い考察をひけらかすべき場面でもない。なによりあなたのターンではない。それでも自意識過剰で人並み以上に理論的であると自負するあなたは無知だと思われることを必要以上に恐れるだろう。それならばせめて「へー、そうなんだ。詳しいねーすげー。」とかなんとか最初にワンクッション置くべきなのだ。そのあと「おれもそれ興味あるんだよね。確か○○で△△だっけw」ぐらいで、適当に話を合わせているわけではないってことを示す。謙虚に。あくまで相手のターンであることを自覚しつづけながら、適度に釣り糸を垂らし、話を引き出すことに集中してみよう。表情、しぐさを見て相手の今考えていることを想像してみよう。そして今何が求められているか、昨日の「ブクマを増やすために必死でエントリーを構成/校正していたとき」のような集中力を発揮して考えてみよう。あなたの自意識や美意識なんかはあとでダチに電話で延々語ればいい。友達がいないんなら今日も今日とてネットに垂れ流せばいい。そしてタイミングを見て「(君みたいな子と)こんな話ができてちょっとうれしいかも。」とか少し目を見ながら言えればいい。(君みたいな子と)って部分は言葉の端に、態度で匂わす程度で可。
あなたの「本当に」言いたいことなんかは、少なくともこの段階では言う必要は無いのです。相手が求めている言葉、反応を探してそれをいかに伝える/伝えようとしているかってことが大切なのです。空しくないかって?でも恋人が欲しいんでしょ?じゃあ一度相手の求めるものを必死こいて想像して、それを形にしてみよう。君の話をもっと聞いてみたい<君のことをもっと知りたい>ということを伝えようとすればいいと思うのです。「こんなぼくってすごいでしょ」ってそんなのは他でしたらいいじゃん。相手が「私もあなたのことが知りたい」と興味を示してくれたときに、うまく伝わる方法を考えながら少しずつ言葉を吐き出していけばいい。
自意識を抑えておけばたとえ上手くいかなくても(負けが込んでも)、「自分が否定されたのではなくて、伝えるスキルが足りなかった」と思えばそこまで苦しくなくなる気がするんですけど、どうでしょうか。http://anond.hatelabo.jp/20080703133402
目の前にいるあの人が高望みの勘違い馬鹿かどうかは自分で確かめてみたらいいと思うのです。ってそんな趣旨のエントリーじゃないっすよね、サーセンwwwでも素の自分を無防備にさらけ出して勝負したつもりになって受け入れられないという状況に遭遇するたびにいちいち苦しむ必要はないと思います。
あなたに恋人が出来たとき、人生で最も美しい瞬間と思えるような素晴らしい経験をすることがあるかもしれません。そして時が経ち、「非モテ=不幸、不遇 / 恋人アリ=幸福」という今のあなたの考えが常に真実では無いということに気づくかもしれません。恋人がいるということがそれほど承認に直結していないと感じるかもしれないしね。それからでもいいじゃん、彼女イラネとか、三次元はダメだとか言うのは。
女子アナは置屋の芸妓と言った女子アナがいた(http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20080620/1213933128)より
この施策に取り組まない術はなかった。
『この方策に取り組まない手はなかった。』
・施策は策を「施す(実施する)」こと。単に「やり方」の意味で使うなら「方策」。
…しない術はない
そんな日本語は無い。「術はない」とは「手段がない(どうしようもない)」という意味で、「やらないのは勿体ない=やらないという選択肢は存在するはずがない」という意味なら『…しない手はない』。
従順で素直なところを残しながらも、一方では生意気で小憎らしく、なかなか素直には従わないところもあった方が、プロデューサーやディレクターにとっては魅力的に映り、結果、指名される確率も高くなるのだった。
いわゆる「かわいさ余って憎さ百倍」というやつだった。
「いわゆる…」全然違う。「かわいさ余って…」は従順で可愛いと思っていた相手が思うままにならなくなったとき、可愛いと思っていた反動で普通よりも一層憎く思うようになることを指す。何かクリシェを使って表現するなら『小憎らしい』とか『小悪魔』で充分。
素朴な質問だけど、「一位専心」というのは、「一意専心」をシャレたの?それとも素で間違ってるの?