はてなキーワード: 映画監督とは
6/25 マイケル・ジャクソン(歌手) ※享年50、他殺
先駆者としての黒澤明には敬意を払いつつも、この人の映画を面白いと思った事が無い。映画がまだ「活動写真」「大衆娯楽」だと言われていた時代の人だ。当時の映画監督の地位なんて今とは比べ物にならない。競争相手なんて(今と比べると)居ないも同然の時代なら、ちょっと本気で取り組めば何を撮っても「斬新」で「一番乗り」が簡単に出来た。やりたい放題がそこそこ許された時代だったはず。(同じ理由で小津安二郎監督もそうだと思うんだよね。それなりにやりたいようにさせてもらえた時代であれば、今でも成功する人間は沢山居ると思う)
ただ、黒澤明というクリエイターに匹敵する人間は存在しないのかといったら、多分、全然そんなことは無いと思う。「神様」と担ぐ理由って、別に黒澤明に心酔しているからではなくて、映画界の象徴であってほしいという、もっと利己的な理由じゃないかなと思う。
文化に偉人は付き物だもんね。映画にも歴史があるれっきとした文化なんだぞと、業界ぐるみでその雰囲気を盛り立てていくために、黒澤明を利用してきたところはあると思う。
金田伊功を送る会
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去る7月21日、心筋こうそくのため死去した金田伊功(かなだ・よしのり)を送る会が開催されます。日本のほとんどの(著名な)アニメーション関係者が参加する予定です。 故人の活躍の幅広さと功績の大きさを実感できる催しにしたいと思います。 業界関係者だけでなく、一般の方の参加も歓迎いたします。
開場=18:30 開式=19:00~21:00
入場無料 ※但し、入場券(座席指定)が必要です。
会場 杉並公会堂大ホール 定員1,200名
入場券(座席指定)が必要です。当日は配布いたしません。
参加ご希望の方は下記よりお申し込みください。
締め切りました。
会場には消防法により規制される定員がございます。定員に達し次第、参加を締め切ります。
参加資格は特にありませんが、お子様、特に5歳未満の幼児は入場をご遠慮下さい。
締切り:定員になりしだい締切ります
発送:8月24日すぎに到着するように入場券を発送いたします。
当日の催し:関係者によるスピーチ、代表作の上映などが予定されています。
平服でご来場ください。アニメーターのふだんの格好で良いという意味です。短パン、Tシャツでも良いのでは。アロハはどうでしょうかねえ。もちろん弔意を表すスーツ姿でもけっこうです。
主催:有志一同 共催:アニメーション制作各社一同 事務局:アニドウ
協力:日本アニメーター・演出協会、他
ご質問はなるべくメールでお寄せください。
入場券の申し込みはメールでは受け付けられません。
発起人 ※順不同/敬称略 7/31更新
高林久弥(日本アニメーター・演出協会世話人)
黒沢守(スクウェア・エニックス・コンテ班)
上妻晋作(スクウェア・エニックス・コンテ班)
芦田豊雄(日本アニメーター・演出協会 代表)
宇田川一彦(日本アニメーター・演出協会 副代表)
松元理人(トムス・エンタテインメント専務取締役)
原康晴(コロムビアミュージックエンタテインメント代表執行役社長兼COO)
マンガもアニメもゲームも面白けりゃいいんだけどな。誰が作ろうが関係ない。
映画監督とちょっと違う気がするな。
プロデューサーの知名度が低いのはメディアが取り上げないからじゃなくて、企業が作って個人名を強調しないからかも。
メディアに載せる努力もしてないんじゃないか、企業の宣伝・広報戦略とか。
個人名出したら売り上げに効くって事なら、必然的に知名度上げにかかるだろうけど、どうなのかな。
ゲーマーじゃないんで良くわからんわ。
個人名勝負のヒット作の後は、期待が大きくなるだろうから、そこそこの出来でもはずれとか言われたりして、ね。
宮崎アニメってだけで、集客できるんだからそりゃ持ち上げるわな。
初めから宮崎駿の名前であれだけ集客できたわけじゃない。無名じゃポニョは作れないよな。
関係ないけど、
宮崎駿は自分で絵を描くから、アニメの監督っていえる気がする。
ゲドやった息子は絵コンテ描いたのかもしれないけど、キャラクターデザインは宮崎アニメ=ジブリのもので、
映画監督でも俳優でも、競争率が高く厳しい芸能の世界では、若手が下積み時代にエロに手を出すのは珍しいことじゃない。声優もそうだ。今は大御所となった歴々も若かりし頃はエロアニメで喘いでたなんて話がいくらでもある。現在でも、特に男性声優にとってBLなどへの出演は避けられない登竜門となっている。
エロゲに出演している女性声優はどうなんだろうという疑問がたまに頭をよぎる。あくまで「表」に戻ることを念頭に下積みのつもりで出ているのだろうか。しかし「表」側では次々と10代の新人達が華々しくデビューしていく。技術よりも若さや人格で声優が消費される今日にあっては、「裏」で実績を積んだベテランよりも若々しく汚れない少女に脚光があたる。安玖深音/後藤麻衣のように「表」に越境する人もいないではないが、多くのエロゲ声優はエロゲから抜け出られないまま現役期間を終えていくのではないだろうか。
1億人強の中の19万人なんてたかが知れてる。その程度の人数では「多様な文化」を持ち合わせているとは言い難い。
具体的には、たとえば東京の人口の2、3割、日本全体の人口の1割くらいを占めるような状況を想像すればいい。過疎の山村にでも行かない限り「どこでも見かける」ってレベル。でもって「多様な文化」という宗教の信者連中が目指しているのはそんな状況だったりするわけ。そうすれば日本は世界から評価される素晴らしい国になる!みたいな理屈。それによって俺ら日本人が祖国で肩身の狭い思いをする羽目になるというリスクがすっぽり抜け落ちているか、いわゆる「自虐史観」をこじらせて、むしろ肩身の狭い思いをするべきだ、というキレた思想の持ち主がゴロゴロいる。
たぶん10万人くらい増えた程度ではぜんぜんわからないレベルだと思う。
100万人とか1000万人だと影響見えてくるかもなあ。
「あと10万人まで増えてもOKです」という話じゃないんだよ。「増やし続ける」か「減らし続ける」かのどちらかしかない。でもって、世界中見回しても日本より貧しい国の方が多いわけで、都合良く10万人増で終わってくれる可能性は皆無に等しい。最悪、ケタが一つか二つ増える覚悟が要る。そして増えれば増えるほど減らす事が難しくなってゆく。それによって将来どんな弊害が起こっても「もうお前ら用済み。さっさと祖国に帰ってね(はぁと」というわけにはいかない。
移民推進した国とか見てみ?オランダなんて、イスラム社会を批判した映画監督が現地生まれのイスラム系の若者に暗殺されたりしてる。日本でも以前、筑波大学の教授が殺されてたよね。「多様な文化」を容認するって事は、そういうのが日本で日常茶飯事になる事を受け入れるって事でもあるわけ。それを隠したままなし崩し的に進めようとしているから俺は嫌い。
さっき仮面ライダーディケイドを見たが、本当に唖然とした。
俺は断言するが、あのファイナルフォームライドの映像を見て感動して仮面ライダーを視聴する奴は馬鹿だ。これは100%断言できる。
何であれがいいと思うの? なんであれの玩具買うの? 本当に分からない。あれCGじゃん。機械で描いた絵だよ? 誰だってあれ見てCGだって言うのは一瞬で分かる。それで感動するって本気で馬鹿なんじゃない?
あれがいいっていうのは、頭がおかしいとしか言いようがない、というか、脳が退化してるんだよ。それしか説明がつかない。つまり、大野剣友会とCGの動きが区別つかなくなってるんだよ。だからいいと思って見る。これは馬鹿としか言い様がないだろう。日本の将来は大丈夫か?
前にもちょっとガメラの回転ジェットがCGで描かれた時、池袋新文芸坐のオールナイト(あんなところ行きたくなかったが)で見たが、なんであんな人気あるんだろう。あとついでにその平成ガメラの大ファンだっていう落語家が撮った怪獣映画も見た。これならまあ100歩譲って納得できなくもないが、ただ当然プロの映画監督とは比べるのも失礼な程だし、三本立てオールナイトならまあ一回観てもいいかな、という程度だ。何回も観るほどではない。ただ上映後は拍手の嵐。アホか。本物を知らないヌルオタばっかなのかあそこは。ろくなもんじゃないな。
俺ははっきり言うが、もっと人間が本気で戦ってる特撮を観るべきなんだよ。じゃないとおかしい。プロのスーツアクターが毎日どれだけ苦労してるか知ってるか? 演技トレーニング、筋トレ、体型や体調の管理、食事管理、書けばきりがない。大好きな酒、タバコも我慢して頑張ってる人もたくさんいるし、ライダーマンみたく安定した職じゃないから毎日不安と戦ってる。そういう方が心を込めて戦ってる特撮を観ずに、機械の絵を観る。ほんと死にたくなるね。どうしてあの機械の絵を観るかね。わからない。世の中不思議だらけだ。
本当におまえら頭冷やして考え直せよ。おまえらは馬鹿か、またはブームに乗せられてるだけだ。まあそれを馬鹿と言うんだがな。
Haruki Murakami が 「エルサレム賞」なるものをもらうことになったとかいう話。
イスラエルは人殺しのの悪い国なので、そんなところの賞は、辞退しろ。
黙ってもらうのはけしからん。
検索してでてきた根性のある日曜左翼女史の話をひきあいに出して、
見習え。
とか。ほんとに、やれやれ。
情報の少いところで、ほにゃららはへにゃららであれねばならぬ、というような思いいれで、どんぱちやっているわけだ。
まあ、「エルサレム賞」の「エルサレム」にみんな反応してるわけだが、これって何? どんな賞か調べてみた。
Jerusalem Book Festival にくっついている賞ということ、ふむふむ。Festivalのサイトに説明がある。
....
ここからノーベル賞5人も出てるんだね。ということは、ノーベル賞にかなりリーチポジションへのステップでもあるわけだ。そりゃほしいよ。
どんな人が審査員か調べてみた。市長が任命か、なるほど。政治の世界だな。ハアレツの編集員とか... 、
ありゃ、エトガール・ケレットが3人の審査員のうちの1人じゃないか。
「イスラエル人みんな悪〜い、賞も悪〜い、もらうのよくな〜い」みたいなのってちょっと短絡的じゃないかな、ということで、ちょっとけれっと。
日本語の記事にまともなのがない。
本人のwebsite だ。
http://www.etgarkeret.com/news.html
そこに出てくる最新のLA Times の記事は一読の価値がある。ほんもののドンパチの話だ。
政治と文学の話だと、インタビューの手軽なのがカナダの新聞にありますね。でもフランス語 orz。
でも、わりにまとまっていて、問題をもうちと繊細に考えられるてがかりかもしれないので半分くらい訳してみました。
エトガール・ケレットとのインタビュー -- いやいやながらさかなにされ(超訳)
Entrevue avec Etgar Keret - Controverse' malgre' lui
Le Devoir.com
2008.5.17/18
http://www.ledevoir.com/2008/05/17/189963.html
イスラエル人の作家であることは楽ではない。たとえその国で左翼であっても。スター作家 のエトガール・ケレットにそのことを話してみよう。パレスチナ人の友人、サミール・エル・ユセフとの共著で『ガザ・ブルース Gaza Blues』を書き、しかし、論争の中で、そして、母国であり今でも自分が住み続ける国に対するボイコットをの中で、困難にもかかわらず、生きつづける彼に。
「イスラエルに生きるのは簡単ではない。それは確かだ。しかし、作家にとってのほんとうの国、それは言葉だ。ぼくにとって、ヘブライ語を話せない場所に生きるということは、一種の亡命だ」[...]
イスラエル政府に対しきわめて批判的な彼は、ホロコーストの生き残りである父と母の、反骨精神を受け継いでいる。「両親は、よく言っていた。イスラエルはいくつもの問題をかかえているかもしれない、しかし、少くとも、それは私たちの問題で、そして、それを私たちが告発することを誰も禁止することはできなかった。他の国で、もし私たちが政府に対して抗議の意を表わせば、国へ帰れと言われるだろう。」
世界的に認められた左派の作家であり映画監督(伴侶のシーラ・ゲッフェンとの共作による処女作『ジェリーフィッシュ Les Medues』は批評界から絶賛され、2007年のカンヌでカメラドール賞を獲得した)である彼も、論争の外側にはいられない。
最近でも、パリのブックフェ、サロン・ド・リーブルがイスラエルの建国60周年に関心をひくため、同国を招待国としたとき、複数のアラブ系の作家と出版社が行事のボイコットを呼びかけた。エトガール・ケレットもイスラエル側の招待者リストに入っていた。「知識人がボイコットを呼びかける、しかし、そこに知性的なものなどなにもない。ボイコットは、あらゆるコミュニケーションを拒否することだ。それでは結局、他人に考えを変えさるチャンスはなくなる。それは、だから、行動としてはとても矛盾に満ちたものだ。」
[トリノのブックフェでボイコット騒ぎにあったとか、カナダで爆破予告電話を受けた話とか、中略]
それでも、エトガール・ケレットはパレスチナ人とイスラエル人の間の対話の推進者だ。その本 『The Bus Driver Who Wanted to Be God』は、第2次インティファーダ以来、アラビア語に訳されている唯一の本である。とうことは、パレスチナ人はエドガール・ケレットを読んでいるのだろうか? 「ぼくの本のパレスチナで出版してくれる人にそう質問してことがある。彼が答えるに、売れ行きはいいが、でも、読んでるのか、それとも燃やしているのかまではわからない、とさ」。
[彼の本を読んだパレスチナ人の反応とか、いろいろ中略]
エトガール・ケレットは「やむにやまれぬ楽観主義者」ではあるが、文学の力の限界について十分に意識している。「1万冊の本ができることは1発の銃弾のできることの半分だ。建設することより破壊することのほうが簡単だ。書くということは、ぼくにとって、一種のセラピーだと思う。自分の本で世界を変えようなんて思ってはいない。」
未来に対する大きな不安を抱きながらもーー彼はイスラエル消滅の可能性さえについてさえほのめかしているーー、彼はパレスチナ人とイスラエル人がいつの日かいくばくかは平和に生きられる可能性を信じている。
[いろいろなるほどと思うことを言ってるけれど、疲れたので後略]
はい。
まあ、イスラエル人といってもいろいろ立場があるということで。
賞とかボイコットについての考えも。
追記 もうちゃんとまじめに調べた人がいたんだね http://d.hatena.ne.jp/le-matin/20090128/p3
自分のやっている仕事に夢や誇りを見いだせないとしたら、それは不幸かもしれんね。
「安定」と割り切れればいいのだろうけど、徹底的に割り切れる人間って実はそれほど多くないんじゃないのかな。
なんだかんだ言ってそれなりの意義を発見しているとは思うし。
まだ1年目なので仕方がないのかもしれないですが、基本言われたことやってるだけ(しかも書類作成とか雑用とかそんな感じの)なので、意義とか感じたことないです。
職種はIT系ですが入社してから半年ぐらいこんな感じでプログラミングさせられるようなことも、仕事の面白さを教えられるようなことも特になく。甘えだといえばそこまでなんですが、後輩がコンテンツ系に内定した、という事を聞くと「俺なにやってんだろう」的な心境になりました。
自分がくすぶってる間に後輩たちやその他の人は自分にとって辛いけど価値ある経験を積み上げて、着実にレベルアップしてるんだよなー、と考えると、身もだえしたくなるんです。
死を考えるぐらい絶望するのであれば、とことんやれば?って気もするんだよ。
音楽とかマンガとかコンテンツ系の表現には「才能」って語り口が使われるけど、
ただ、そこで勝負する人々って「才能」を逃げ口上として使わないんだよね。
まー生活がかかっているわけだしw
うーん、なんというのか、自分の経験のせいなのか特に、絵(イラスト漫画含む)に関しては明らかな才能の差のようなものを感じるのですよ。
夢見がちな中高生のころならまだしもある程度の年齢になると、自分のレベルっていうのがわかってきて、ああ俺に才能なんかないんだな、みたいな気分になる。どれだけデッサンを重ねても、着想とか構図とかで既に才能ある奴らとは差がついていて、で、そいつらは親が元々美術好きだったり、造詣が深かったりして、生まれた段階で既に差がついてる。いいものを小さな頃から見てるから、再現することに労を要しない。
努力すれば、それが手に入るものだった人たちなら「才能」なんて口にしないと思います。でも、努力しても、それが手に入らないものだったら、それはやはり「才能」と呼ぶしかないんじゃないかなと。
と考えれば、ちょっとは元気でそうな気もしてきましたが。
ただ、
自分にできない部分は他人にお願いすることによって、
映画なんて、監督だけじゃ何も製作できない典型的なコンテンツですね。そう考えると誰かが何かを作るって、一体どういう文脈でその言葉が使われているのかわけがわからなくなってきますが。
自分のやっている仕事に夢や誇りを見いだせないとしたら、それは不幸かもしれんね。
「安定」と割り切れればいいのだろうけど、徹底的に割り切れる人間って実はそれほど多くないんじゃないのかな。
なんだかんだ言ってそれなりの意義を発見しているとは思うし。
死を考えるぐらい絶望するのであれば、とことんやれば?って気もするんだよ。
音楽とかマンガとかコンテンツ系の表現には「才能」って語り口が使われるけど、
ただ、そこで勝負する人々って「才能」を逃げ口上として使わないんだよね。
まー生活がかかっているわけだしw
ただ、
自分にできない部分は他人にお願いすることによって、
ディレクターポジションの人が居なくてゲームができたのは見たことないなぁ。
それって、カメラマンと役者と脚本さえあれば映画監督いらねんじゃね?って言ってるのと同じだと思うよ。
ゲームの特性上、プログラマとデザイナが現物を「造ってる」ことに間違いはないんだけど、ディレクターが指示出して、会議開いて、統括して、色々と連携を取って、企画概要と仕様書作って、データ入力なんかもやって・・・って、色んな仕事をしないと完成しない。
そこで作家性のあるディレクター、要はセンスのいいディレクターか否か、その人に権限があるか否かでほとんどが決まるんだと思う。