はてなキーワード: 内地とは
「全員帰せばいいのに」って言う根拠は、在日の人の主張が判を押したように「強制連行!」「謝罪!」「賠償!」って言われるので、だったら終戦時に全員帰らせるのが一番よかったんだなーと理解したから
つまり君は「強制連行!」「謝罪!」「賠償!」って言われるのが嫌で、それに反論するため「だけ」に論を組み立ててた訳ね。それは凄く不真面目だよ。
実際追い返してたら追い返された人がどうなっただろうかとか、追い返されたくない人がいたかもとか、強制連行された訳じゃない人はどう扱うべきだったかとか、そういうことも考えようよ。
1. 最初は「朝鮮」という国の国籍を有し、その領土に住んでいた。外国人ではない。
2. 日韓併合が起こり、「日本」の国籍を有し、日本国の朝鮮地方に住む人になった。外国人ではない。
3. 内地に引っ越し、「日本」の国籍を有し、日本国の内地に住む人になった。外国人ではない。
4. 敗戦後日本政府の決定で日本国籍を失い「朝鮮籍」という国籍のようなものを有し、日本に住む人になった。外国人になった。
1~3の間はずっと外国人ではなかったのに、4.の日本政府の決定で日本国籍を失って外国人になってるでしょうが。
元のデータって言われても、日韓併合から終戦までに35年たってるんだけど。いきなりそんな昔のデータに戻されても困る人もいることは分かるでしょ。特に内地で生活してた人の中には。
ちなみに、「日本在住の朝鮮人はとりあえず日本国籍にして、自発的に離脱した人だけ外国人にする」とか、「一定期間を決めて届出をした人は日本人扱いにして、それ以外の人は外国人」って扱いにしてたらどんな問題が発生したの?
そんなの、人によって違うに決まってるじゃん。でも、日本政府はそれを聞かなかったんだよ。
それとも、朝鮮人でも希望者は日本国民にしろ、という主張なのかな?
してるじゃないですか。帰化のしくみがありますよね。希望すれば(例外はあるけれど)日本国籍取れるのはもちろんご存知ですよね。
在日の帰化はもうちょっと簡単にしてもいいとは思うし、日本で生まれた場合は国籍をあげてしまって成人したときに本人に選ばせる制度はアリだと思う。
まず、在日に向かって
だったら国に帰ればいいじゃん。
在日の人もしんどい思いもかわいそうな思いもしなくて済むし、こっちも優遇しなくて済むし。
みたいなことをいう日本人が減ると少し暮らしやすくなるだろうね。こういう発言は「外国から日本に来た外国人」に対してしか意味が通らない。(「外国から日本に来た外国人」にいう言葉としてもかなり酷いが)「日本国内を移動して内地に来てそのまま住んでる元日本人とその子孫」に言うのは筋が通らない。
あとは、民族教育やってる学校に資金援助を出すのもいいかもね。これは帰化した朝鮮系日本人にとっても有用だし。(べつに朝鮮学校に限らず、中華学校とかブラジル学校とかの他の民族学校も支援するともっと良いけどね)
海外から戻ってくるときにいちいち指紋とるとか、再入国許可を取らないで出国すると特別永住資格を失うのも止めれば良いんじゃないかな。
現地での生活基盤を奪っておいて、何年もたった後でただ送り返して一丁上がり、が「親切」なわけないだろw
ある日突然問答無用で身一つでさらってきたわけじゃないですよね、強制徴用って。
それも、連絡船だかの関係とか、内地より朝鮮内のほうが徴用開始がずいぶん遅かったりして、
徴用から終戦まではそんなに長い間ではなかったと聞いたんですけど。
(自分の意思で来ていた人はもっと長いのかもしれないけど)
こちらから引き上げるときにしたって、こっちの財産を換金していけばいいじゃないですか。
徴用=タダ働きじゃないんだから、それなりに収入はあったはずですが、それはノータッチですか?
それに、「ただ」送り返すわけじゃないですよね。ちゃんと賠償金払ってますよね。韓国政府に。
「朝鮮全体の個人に対する賠償は韓国政府が引き受ける」ということで、条約を結んで解決済みです。
だから日本があとからあれこれするのはおかしい。やったら韓国政府の権限を奪っちゃうことになるよ。
日本は連れてきちゃったから帰国のお手伝いをする、そのあとの補償は韓国政府が面倒を見る。
それが筋だと思うんですけれども。
敗戦で朝鮮が分離したとき、朝鮮戸籍にいた人を「強制的に」日本人から分離して朝鮮人とした、ってのが正しいね。併合時に強制的に日本人にしたのと同じく、敗戦時に強制的に日本人から外した。
元に戻りたいかどうかは人によるわけよ。特に日本に当時住んでた人の中には「このまま日本に住みたい」と思ってた人もいるはずだけど、日本政府は朝鮮籍に戻りたいかどうか、聞きもしなかった。
同じ朝鮮人なのに、在住地が違うだけで(しかも内地在住の人は強制徴用!)日本人にされてしまうのはいいんですか?
だったら、一律朝鮮人に戻すほうが、親切というか理にかなっているというかそんな感じがしますけれど。
2. 敗戦時は日本人だったんだから、「日本人にする」わけじゃない。とりあえず日本人の状態をそのままつづけるだけ。
3. (そもそも政府の権力が届かなくなった)朝鮮はともかく、内地にいる人に関しては選択権をあげた方があきらかに「親切」
朝鮮人は戦前は強制徴用じゃないと内地に来れなかったと考えてるの?そんなことはないぞ。
で、繰り返すが、「日本在住の朝鮮籍の外国人」が終戦時に大量に発生したのは日本国政府の選択の結果なの。その選択が理にかなっていたとしても、その行為によって「在日」という存在が発生したんだから、日本人に「お前らは勝手に来た」とか「帰ればいいじゃん」とか言われる筋合いは無いの。
強制的に連れて来たのも悪いなら、強制的に戻すのも悪い。戻すときに「政府の負担で帰るか」「自分の意志で留まるか」の選択肢を与えるべき。
朝鮮人の場合は(2)が成立しないからだめなだけで。
終戦時には「朝鮮人は日本国民だった」んだよ。だから、(2)がなりたつ。台湾人も成り立つ。大陸中国は日本国にはならなかったので(満州は日本帝国とは別国家。満州以外の占領した地域も、日本の領土にはしなかった)ので、中国人は成り立たない。
つーか、(2)が成り立つ人とその子孫(平和条約国籍離脱者または平和条約国籍離脱者の子孫)に特別永住許可が与えられている。
スタンダードじゃないし、みんな強制連行だというのは事実じゃない。
そして、戦前に強制連行で来ようが、自由意志で来ようが、俺が論じていることには全然影響しない。
だったら、ちゃんと元に戻してあげるのが親切というものではないですか? そしたらあとからもめることもなかっただろうに。
強制徴用した人の場合でも、朝鮮に帰る「選択肢」をあげる方がもっと親切。日本にいたいなら、そのままいさせていいし、現にそのままいさせた。
なんで「一回出す」ことにこだわるの?戦後の混乱期にそんなことやるなんて、労力の無駄すぎる。
現在特別永住許可貰って住んでいる人は「日本帝国臣民として必要な手続をとって内地に行った人」またはその子孫で、「外国人として必要な手続」もちゃんととっている。(日本で生まれた場合も、出生届けとは別に特別永住許可を貰うための書面を親が出す)
ありだとしても、その判断の責任は日本政府が取らなきゃね。「日本国内に多数の在日がいる」って状況が生じた原因は日本政府が内地在住の朝鮮出身者の国籍を一方的に奪ったことにあるんだから。
えっと、wikipediaによると、
朝鮮籍とは、1910年の韓国併合により朝鮮が日本の領土となったことに伴って日本国籍とされていた朝鮮人のうち、朝鮮解放後も引きつづき日本に居住している朝鮮人について、1947年以降日本の外国人登録制度の対象になったことに伴い登録されることになった便宜上の籍であり、正確には登録法制上の記号である。
韓国併合により日本国籍を付与された大韓帝国の臣民については、日本の戸籍とは別に、朝鮮戸籍と称される戸籍が編製された。以後、法的には、朝鮮戸籍に登載された者を朝鮮人と称することになった。
・併合時に無理矢理日本人にされてしまった朝鮮人を登録した戸籍を「朝鮮戸籍」という
・敗戦で朝鮮が分離されたときに「朝鮮戸籍」にいた人を日本人から分離して朝鮮人とした
ってことだと理解したのですが、そうではないんですか? これって単純に元朝鮮人に朝鮮籍を与えて元に戻しただけでは……?
これだと、前に書いた「そういや、終戦前後に内地にいなかった人たちって国籍どうなったんだろう?」の謎がとけるなあ。
とそれはさておき、朝鮮人の日本国籍を「奪う」(個人的には「元に戻す」のほうが的確だと思いますが)ことになったのは、
日本国内だけじゃないですよね。当然朝鮮国内の朝鮮人も日本国籍を失うわけです。
同じ朝鮮人なのに、在住地が違うだけで(しかも内地在住の人は強制徴用!)日本人にされてしまうのはいいんですか?
だったら、一律朝鮮人に戻すほうが、親切というか理にかなっているというかそんな感じがしますけれど。
さらに、強制徴用で無理矢理つれてこられたんだから、元に戻すのを政府がやってもおかしくないんじゃないかなあ。と思ったわけです。
例えば終戦時に(1)じいさんが日本にいて(2)じいさんは当時日本国民で(3)じいさんが日本で子ども作って日本で育てて(4)その子どもが日本で生活しなが子どもを生んだ場合、その子どもは日本で育って生活していいと思うんだけど。なんでダメなの?
いや、いいんじゃないですか? 朝鮮人の場合は(2)が成立しないからだめなだけで。
別に朝鮮人だから成り立たないんじゃなくて、台湾人でも中国人でも成り立たないでしょ。
今だって、外国人同士が日本で子どもを生み育てても日本国籍取得にはならないですよね。(カルデロンのり子さん)
強制的に連れて来た人を、なんでわざわざ強制的に帰すのよ。本人達に選択権をあげればいいじゃない。日本に住む方がいいって言うかもよ?特に当時の朝鮮は全然安定してなかったんだから。
日本に住んでて、日本に居続けたい人を、わざわざ不安定な朝鮮半島に送り返して再入国させるの?そんなめんどくさいことをする理由が「日本に『来たくないのに連行された』人たちの問題」が無いことにするためだけ?
でも、「一世はみんな強制連行で無理矢理つれてこられた!」ってのがスタンダードなわけでしょ?
だったら、ちゃんと元に戻してあげるのが親切というものではないですか? そしたらあとからもめることもなかっただろうに。
20090415134253の増田だけど。
うん、その判断はありだと思うんですよ。
ありだとしても、その判断の責任は日本政府が取らなきゃね。「日本国内に多数の在日がいる」って状況が生じた原因は日本政府が内地在住の朝鮮出身者の国籍を一方的に奪ったことにあるんだから。
国が別れちゃうんだもの、国籍だって何らかの基準で別れてもおかしくない。
そーだね。終戦時に内地に在住していた人の場合は、日本国籍を選択できるようにしておくとか。とりあえず日本国籍を与えておいて、「私は韓国人です」とか、「朝鮮人民共和国の公民です」とか申告して来た人だけ外国人扱いにしたりする手もあっただろうね。
そもそも、朝鮮の政府が誰だかよく分かってなかったり、内戦があったり、南北に分断されたりしたんだから、とりあえず日本人扱いにして、「この政府の国民になります」って言った人だけをその国の国民と認めるのが一番筋が通っていたと思うんだけど。
反発しない人も中にはいただろうから、その人には日本国籍を選択することを認めてあげれば良かったのに。
まあ、それはさておき、韓国朝鮮国籍から日本国籍にはなれないわけじゃないですよね。
帰化の手続きを取れば変われるのに変わらないということは、その人たちは自らの意思で
その国籍のままでいるわけで。
(希望してもオールオッケーじゃないらしいので、帰化できない理由がある人もいるだろうけど)
日本国内で、進んで「外国人」でいようとしている人たちなのに、なんでその国の人だからといって
特権を与えておく必要があるのか? という疑問があるわけです。
日本国籍を一方的に奪った当人である日本政府や日本人が言うと、説得力が薄いのだよ。
しかも、帰化するときに名字や名前を「日本人風」に変えるように指導したりもしてたって事情があるから更に説得力が薄い。(最近は止めたらしいが)
過去にどんな歴史があったとしても、その対象者に特権が与えられるのは心情的にわかるけれど、
その子孫までずっと特権持ちというのは変じゃないですか?
日本人のほとんどは、明治時代にたまたまご先祖様が日本に住んでたってだけの「歴史」を理由として、子孫である自分が国籍を得てる。だから、変じゃない。
例えば終戦時に(1)じいさんが日本にいて(2)じいさんは当時日本国民で(3)じいさんが日本で子ども作って日本で育てて(4)その子どもが日本で生活しなが子どもを生んだ場合、その子どもは日本で育って生活していいと思うんだけど。なんでダメなの?
強制的に連れて来た人を、なんでわざわざ強制的に帰すのよ。本人達に選択権をあげればいいじゃない。
日本に住む方がいいって言うかもよ?特に当時の朝鮮は全然安定してなかったんだから。
なんか、「在日は外国から日本にやって来た」と思ってない?そういう在日は「日本の一地域から日本の別の地域」に引っ越しただけの「日本人」だったんだよ。四国出身者が東京に引っ越すようなもの。
なんで日本が戦争に負けたら朝鮮半島に移動しなきゃいけないのよ。そのときいる日本に住み続けたいなら、住み続けさせればいいじゃない。
日本に来たい人には、一度帰国してからもう一度入国手続きを取ってもらう。
そうすることで、日本に「来たくないのに連行された」人たちの問題はなくなったでしょう。
日本に住んでて、日本に居続けたい人を、わざわざ不安定な朝鮮半島に送り返して再入国させるの?そんなめんどくさいことをする理由が「日本に『来たくないのに連行された』人たちの問題」が無いことにするためだけ?
優先順位間違ってるよ。
在日に国籍がない理由は、戦後の日本国政府が「内地在住の日本帝国臣民でも、戸籍が朝鮮にある臣民は外国人ということにしよう」と決めたから。これによってその後日本で生まれた子孫も日本国籍も得ないことになった。
これが、戦後処理の一貫として仕方ない処理だったのか、それとも朝鮮人に対する偏見に基づく差別だったのかは議論の余地があるが。
うん、その判断はありだと思うんですよ。
国が別れちゃうんだもの、国籍だって何らかの基準で別れてもおかしくない。
全員日本人!ってしたら、もともとの朝鮮人からの反発もあるだろうし。
逆に言うと、内地に戸籍持ってきたら、元が何人であれ日本人だったんですかね?
そういや、終戦前後に内地にいなかった人たちって国籍どうなったんだろう?
純内地人で、中国台湾朝鮮にいた人たちは、現地人になっちゃったのかなあ。
まあ、それはさておき、韓国朝鮮国籍から日本国籍にはなれないわけじゃないですよね。
帰化の手続きを取れば変われるのに変わらないということは、その人たちは自らの意思で
その国籍のままでいるわけで。
(希望してもオールオッケーじゃないらしいので、帰化できない理由がある人もいるだろうけど)
日本国内で、進んで「外国人」でいようとしている人たちなのに、なんでその国の人だからといって
特権を与えておく必要があるのか? という疑問があるわけです。
過去にどんな歴史があったとしても、その対象者に特権が与えられるのは心情的にわかるけれど、
その子孫までずっと特権持ちというのは変じゃないですか?
国がなくなっちゃったとかなら仕方ないかなぁと思うんですけど。
個人的な考えで言わせてもらえば、日本は「強制連行」の人たちをすべて帰還させるべきでした。
自分で来た人たちには自分で帰ってもらうか、帰還事業で安価に帰ってもらう。
日本に来たい人には、一度帰国してからもう一度入国手続きを取ってもらう。
そうすることで、日本に「来たくないのに連行された」人たちの問題はなくなったでしょう。
もしくは、特別在留などの特別扱いは一代限りにすべきだったと思います。
今ではもう遅いですけれども。
あのさー。書かれてないこと読むマンになっちゃうけど
在日に国籍がない理由は、戦後の日本国政府が「内地在住の日本帝国臣民でも、戸籍が朝鮮にある臣民は外国人ということにしよう」と決めたから。これによってその後日本で生まれた子孫も日本国籍も得ないことになった。
これって在日に日本国籍ないのは日本政府のせいだって言ってるじゃない。
もしそういう認識ならおかしくね?ってのが俺のポジションな。でその前提として在日三世四世については他の外国人の子弟と変わらないと。日本国籍とるもとらないも本人の意思。色々利害考えてとらないのもひとつの選択肢。その結果苦労するのもまた人生。一世については日本政府に責任おしつけても仕方ないかもねと。そう言ってるわけ。
父母や祖父母が外国人ならその通り。でも、オールドカマーの在日は大日本帝国の元臣民またはその子孫。だから、血統主義の建前からすると、在日には当然日本国籍が与えられてしかるべき、ということになる。
在日に国籍がない理由は、戦後の日本国政府が「内地在住の日本帝国臣民でも、戸籍が朝鮮にある臣民は外国人ということにしよう」と決めたから。これによってその後日本で生まれた子孫も日本国籍も得ないことになった。
これが、戦後処理の一貫として仕方ない処理だったのか、それとも朝鮮人に対する偏見に基づく差別だったのかは議論の余地があるが。
在日も特別永住っていう種別のビザを貰って日本に住んでいる。ビザ無しでは日本に住めない。(ここでいうビザは「査証」じゃなくて「在留許可」の意味でいいよね。のり子さんも査証は貰ってないだろうし)
ちなみに特別永住の在留許可は台湾出身者にも認められてる。
横だけど戦前のことは「岩波講座 世界歴史19 移動と移民 水野直樹・他 1999年 岩波書店」に
「1930 年代後半、西日本で『密航』の取締りが厳しくなされ、毎年2000人から5000人ほどの密航者が摘発され(1939年は7400人)、大半が朝鮮に送還された。その多くはブローカーの斡旋で労働を目的に渡航した者であったが、なかには『内地人を仮称』して連絡船に乗り込んだたため摘発された者もいる。」
戦後のことは
朝日新聞 1955年8月18日 (「世界」 2000年10月号 戦後日本「在日外国人」の虚像と実像 原尻英樹より)
65万人(警視庁公安三課調べ)の在日朝鮮人のうち密入国者が10万人を超えているといわれ、東京入国管理局管内(1都8県)では、この昨年中のべ1000人が密入出国で捕まった。全国ではこのざっと10倍になり、捕まらないのはそのまた数倍に上るだろうという。
朝日新聞 1959年6月16日 (「世界」 2000年10月号 戦後日本「在日外国人」の虚像と実像 原尻英樹より)
密入出国をしたまま登録をしていない朝鮮人がかなりいると見られているが、警視庁は約20万人ともいわれ、実際どのくらいいるかの見方はマチマチだ。
韓国から日本に逃亡してくる者は月平均五、六百人もある。昭和二十一年から昨年末までに密入国でつかまった者が五万二千人、未逮捕一万五千人で、密入国の実数はその数倍とみられる。
「逃げ場は日本しかなかった。命がけの選択の結果が日本への密航だった。彼ら密航者たちは『潜水艦組』と称され、近年の中国からの不法入国船と同様の小舟や漁船で、着の身着のまま日本に辿りついている。『潜水艦組の1人』という50代のある男性は、日本人の『常識』とは逆のことを私に告げた。
『済州島(出身者)だけじゃなく、在日の半分以上は、密航で来たんだと思うんですよ』」
「在日韓国朝鮮人 -若者からみた意見と思いと考え-」 金容権・李宗良編 1985年 三一書房
「日帝時代の生活苦という鬼神が解放後なお跋扈し済州島の人間をして「金儲け(トンボリ)」するべく日本にかりたてている。たいがいは大阪市(とりわけ生野区)を中心に偏在する縁故を頼っての密入国だ。」
↑この辺に書いてあるみたいよ。図書館へゴー。
既存政党に絶望したとか言ってる人は、本当に既存政党をちゃんと検討したんだろうか?
一番多いパターンは、多くのマスコミがそうであるように、日本には既に自民と民主しか無いかのように錯覚しているパターン。
(話が逸れるけど、2大政党制が正義だと思ってる奴も考え直して欲しい。現在の日本政界の問題点を全て多政党状態に帰責させる議論は果たして正しいのだろうか?2大政党制を称揚するのは、日本が大昔から政治学的にいえば2大政党1党優位であった事実から眼を背けていないか?)
もう一つ多いパターンは、小政党をラベル・レッテルだけで判断している場合。
なるほど公明党は創価学会が最大の支持基盤だ。だけど、公明党が議席を持っていることで現実に不利益があっただろうか?
なるほど社民党はフェミだ。だけど1つの借金をみて(利益を見ずに)収支が赤字だと断定してないか?
なるほど共産党は共産党だ。だけど、まさか共産党が与党となって資本主義が否定されるほど支持を拡大すると思っているのだろうか?
なるほど国民新党は…えーと…自民から出た割に野党っぷりが板についてるよなぁ。
なるほど無所属の会は…「会」作ったら無所属じゃないような…あ、滅んでたんだ。へー。
なるほど新党大地は…ごめん、オレ内地在住だからよく解んないや。
あと、まぁべつに投票しなくても良いと思うよ。
田母神俊雄氏の「論文」が問題になっています。原文は↓からDLできます。
http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf
親切に英訳までしたようです↓。そのおかげか、さっそく海外でも反響を読んでいます↓↓。
http://www.apa.co.jp/book_report/02.html
http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/7702374.stm
http://www.guardian.co.uk/world/2008/oct/31/japan-secondworldwar
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/10/31/AR2008103101475.html
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/10/31/AR2008103100989.html
http://www.nytimes.com/2008/11/01/world/asia/01tokyo.html?_r=1&ref=world&oref=slogin
http://www.thestandard.com.hk/breaking_news_detail.asp?id=8886&icid=4&d_str=20081031
http://www.straitstimes.com/Breaking%2BNews/Asia/Story/STIStory_297008.html
http://www.straitstimes.com/Breaking%2BNews/Asia/Story/STIStory_297257.html
ローズベルト陰謀論が結構とりあげられています。どれだけ「国益」を損ねているのだろう。やれやれと、日本の報道に対するブコメや日記を見てみたら、田母神氏の「論文」の内容に肯定的な人もそれなりにいらっしゃるようです。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081031-00000123-jij-soci
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.asahi.com/politics/update/1031/TKY200810310298.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2008110102000087.html
私も別に現代史に詳しいわけではないです(気の向いたときに、中身が増えてきたCiNiiとGoogle Scholar、各研究機関の学術リポジトリを漁ってみる程度)。しかし、その限られた知識から見ても、問題の「論文」はその形を為してすらいないと思いました。そこで、現在パラパラと集めている関連文献の整理をかねて、「論文」原文に逐一つっこみをいれてみようと思い、エントリを書いてみることにしました。はてな記法で引用した部分は、断りのない限り田母神氏の「論文」からです。原文の全角数字は全て半角に直したことをおことわりしておきます。
アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。
駐留を認めることと、「(被害をこうむる方にとっては)侵略(といわれているが田母神氏はそうではないとされる行為)」を認めることは違うでしょう。軍隊に攻めこまれることに了承を与えていたというのは、どのような根拠に基づいているのでしょうか?
「知られていない」ことを明らかにするのが行論の目的ならば、「新事実」(この場合は具体的な条約の内容や運用)を具体的に提示し、典拠となる史料を明らかにするのが論文の作法です。主張の根拠を示すのは、論文のイロハのイです。しかし、残念なことに、この「論文」では全体的に守られていません。関連して、「・・・・・・という人」とありますが、論文で先行研究に言及するときは、注をつけて批判対象を明らかにするルールも守られていません。
この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。1936年の第2次国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって1937年8月15日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻を膺懲し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。
スターリンと毛沢東がそれほど仲が良かったとは知りませんでした。コミンテルンにそれほどの影響力があることも知りませんでした。繰り返しますが、オリジナルな主張には、その土台となる史料の裏づけが必要です(「実は??」と書いているのですから、普通は知らない新しいことなのですよね?)。大事なことなので強調します。「新しいことを主張するためには、根拠を示さなければならない」、これは学問の基本です。
1928 年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。「マオ(誰も知らなかった毛沢東)(ユン・チアン、講談社)」、「黄文雄の大東亜戦争肯定論( 黄文雄、ワック出版)」及び「日本よ、「歴史力」を磨け(櫻井よしこ編、文藝春秋)」などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。日中戦争の開始直前の1937年7月7日の廬溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦争(岩間弘、岩間書店)」。もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。
ようやく文献をあげられましたが、刊行年と該当ページも明示するのが一般的な論文のルールですよね。それは百歩譲るとしても、示された著者のなかに査読つき学術雑誌に報告された方が一人もいらっしゃらない。これは信憑性をさらに落とすものではないでしょうか。また、人の発言を引くのであれば、それが掲載された媒体を明示するのもきほんのきですよね。
張作霖爆殺をコミンテルンの仕業とする説に対しては、特に『マオ』について、中国現代史研究者から根拠に疑義が出されています。
「関東軍高級参謀河本大作らがこの事件を企画し実行した固い事実を、この程度の「スパイ情報」で覆せるものか」(矢吹晋「書評『マオ―誰も知らなかった毛沢東』」『中国情報源』21世紀中国総研編、蒼蒼社、2006年、225ページ。http://www25.big.jp/~yabuki/2006/mao-rev.pdf)。
盧溝橋事件についても、「計画」説に対する批判的研究が出ているようです。
「日本の一部の論者が唱える「中国共産党計画」説と,中国側の唱える「日本軍計画」説がともに誤りであり,盧溝橋事件が日中双方にとって「偶発」的なものであったとする」(加藤陽子「書評 安井三吉著『柳条湖事件から盧溝橋事件へ―1930年華北をめぐる日中の対抗―』」『アジア経済』45(9)、2004年、65ページ。http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/7473/1/kato45_09.pdf)。
最後に、既にたくさんのつっこみがブコメで入っていますが、みんながやっていることだからといって、行為に対する責任がなくなることはないでしょう。
我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。満州帝國は、成立当初の1932 年1 月には3 千万人の人口であったが、毎年100 万人以上も人口が増え続け、1945 年の終戦時には5 千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。朝鮮半島も日本統治下の35年間で1千3百万人の人口が2千5百万人と約2倍に増えている「朝鮮総督府統計年鑑」。日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。戦後の日本においては、満州や朝鮮
半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。
「同じように開発」と主張するには、開発の指標を定め、比較する必要があります。共通の比較の基準が示されていません。データもです。内地、満洲、朝鮮、台湾、他の植民地宗主国本国、その国の植民地それぞれについて、共通の尺度ではからないと比較にならないのではないでしょうか。それをせずに外形が拡大したと言うだけでは、中国の「共産党政権はチベットを・・・・・・」に反論できなくなってしまいます。
「内地化」も定義を明確にして使うべき用語ですね。
また、現実にも、「帝国日本の植民地支配の歴史には,「外地」を法制的・政治的には明白に異域に置きながら、イデオロギー的には「内地化」を標榜するという,理念と現実の「二重性」がその当初からつきまとっていた」(山本有造「植民地統治における「同化主義」の構造」『人文学報(京都大学人文科学研究所)』83、2000年、70ページ。http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/48550/1/83_57.pdf)、「「満洲国」の掲げた「五族協和」にしろ「王道楽土」にしろ,関東軍による露骨な軍事支配を隠蔽するイデオロギーという以上の意味を持ちえなくなる」(山室信一「「満洲国」の法と政治―序説」『人文学報(京都大学人文科学研究所)』68、1991年、150ページ。http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/48355/1/68_129.pdf)といわれる植民地統治を、「極めて穏健」と評価するにもまた、基準とデータの比較が必要です。
また、人口の増加は支配の善さを担保しません(チベット・・・・・・)。
我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また1924年には朝鮮に京城帝国大学、1928年には台湾に台北帝国大学を設立した。日本政府は明治維新以降9つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は6番目、台北帝国大学は7番目に造られた。その後8番目が1931年の大阪帝国大学、9番目が1939 年の名古屋帝国大学という順である。なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。また日本政府は朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への入校を認めた。戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪思翊という陸軍中将がいる。この人は陸軍士官学校26期生で、硫黄島で勇名をはせた栗林忠道中将と同期生である。朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその1期後輩には金錫源大佐がいる。日中戦争の時、中国で大隊長であった。日本兵約1千名を率いて何百年も虐められ続けた元宗主国の中国軍を蹴散らした。その軍功著しいことにより天皇陛下の金賜勲章を頂いている。もちろん創氏改名などしていない。中国では蒋介石も日本の陸軍士官学校を卒業し新潟の高田の連隊で隊付き教育を受けている。1期後輩で蒋介石の参謀で何応欽もいる。
前の段落と同様に、「多く」の中身が不明確に過ぎ、検証のしようがありません。また、植民地が宗主国の支配の下で「植民地近代」化したのはその通りだと思います(松本武祝「’’朝鮮における「植民地近代」’’に関する近年の研究動向」『アジア経済』43(9)、2002年、31-45ページ。http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Ajia/pdf/2002_09/note.pdf)。私はこの辺り特に勉強不足です。各国の軍制についても同じくよく知らないので飛ばします。
孫文をはじめ、アジア各地の革命家が日本に集まったことは特に新しい論点ではないでしょう。ファン・ボイ・チャウの失望も有名な話ですね(白石昌也「ファン・ボイ・チャウと日本」『東南アジア史学会会報』25、1975年、1-3ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0004923536)。
李王朝の最後の殿下である李垠殿下も陸軍士官学校の29期の卒業生である。李垠殿下は日本に対する人質のような形で10歳の時に日本に来られることになった。しかし日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒業になった。陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。この李垠殿下のお妃となられたのが日本の梨本宮方子妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもりならこのような高貴な方を李垠殿下のもとに嫁がせることはなかったであろう。因みに宮内省はお二人のために1930年に新居を建設した。現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝であった溥儀殿下の弟君である溥傑殿下のもとに嫁がれたのは、日本の華族嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。
旧領主の家系の存続という意味であれば、インドの藩王たちも手厚く身分を保証されていましたね。ベトナムのバオ・ダイもフランスのグランゼコールで教育を受けていましたね(英国人とインド人の婚姻には宗教問題がありますし、バオ・ダイ渡仏時のフランスは共和制だから王室はないですし、この段落については適切な比較が可能な問題設定なのか疑問です。個人的にはそもそも宗主国の王室を嫁がせることが恩恵という考え方がどうなんだろうと思います)。
これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると日本の満州や朝鮮や台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違っていることに気がつくであろう。イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることはなかった。インド人をイギリスの士官学校に入れることもなかった。もちろんイギリスの王室からインドに嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、アメリカなどの国々でも同じことである。一方日本は第2次大戦前から5族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的なことである。第1次大戦後のパリ講和会議において、日本が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。現在の世界を見れば当時日本が主張していたとおりの世界になっている。
ロイヤルファミリーの婚姻の件で共和制のアメリカを並べているのは不適切でしょう。既に述べましたがフランスも時代によって共和制です。
エルフィンストーン・カレッジ(1856年設立、現在はムンバイ大に)、カルカッタ大学、マドラス大学(1857年設立)というように、大英帝国は植民地支配の拠点に大学その他の教育機関を設立していますね。
http://en.wikipedia.org/wiki/Elphinstone_College
http://en.wikipedia.org/wiki/University_of_Calcutta
http://en.wikipedia.org/wiki/University_of_Madras
「五族協和」が実態をともなわなかったことについては、前掲山本論文および山室論文を参照。
人種差別撤廃についてはよい提案をしたということに同意いたします。ただし、繰り返しますが、現実の施策がともなわなかったことについては残念です。
時間は遡るが、清国は1900 年の義和団事件の事後処理を迫られ1901 年に我が国を含む11ヵ国との間で義和団最終議定書を締結した。その結果として我が国は清国に駐兵権を獲得し当初2600名の兵を置いた「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。また1915 年には袁世凱政府との4ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華21箇条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし4 年後の1919年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華21箇条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどは日本の言い分を支持してくれたのである「日本史から見た日本人・昭和編( 渡部昇一、祥伝社)」。また我が国は蒋介石国民党
との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。1901年から置かれることになった北京の日本軍は、36 年後の廬溝橋事件の時でさえ5600 名にしかなっていない「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。このとき北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが我が国の基本方針であり、それは今も昔も変わらない。
今回は表現からつっこんでみます。「完全に承諾」というように形容詞修飾をするときには、それが表す具体的な内容を補足して、互いの印象の差を埋める努力をすべきというのが、私の受けた指導です。どうしたら「完全に承諾」したことになるのでしょうか。一番肝心な相手に過大な要求をつきつけ、排日運動を燃えあがらせて宥和に失敗したのは外交の失敗であり、恨み言をつぶやいてもごまかすことはできません。
日中戦争については、派兵前の人員の少なさを根拠に「形の上でも侵略にはほど遠い」と主張するのは無理筋にみえます。
(再々追記)また字数超過?で切れたので、つづきへ (さらに追記)補足エントリをTBしました。 (また追記)補遺エントリをTBしました(11/5)。
両親と私、弟二人は、昭和十年に移民団として南洋群島パラオ本島に行き、ここから私の人生が始まりました。
北海道から汽車で揺られ、横浜へ港から一週間の船旅で、小笠原諸島を通過する時は大シケで、全員が船酔いでぐったりして、ココール港に入港して下船し、旅館に落ち着き、二日後に連絡船で私たちの永住する朝日村へと三時間の旅で、ここから一時間歩いて草と小枝を切って前日区分した場所に着き、まわりを見渡すと大樹が多く、先ずは伐採から始め、そして草を刈り、住む所にバラックの小屋を建て、火をたける場所を作り、原始的な生活から始まる。
入植をして半年を過ぎる頃には、どうにか農作物が作れるようになり、パイナップル畑を作り、苗を植え、次々と入植者も入り開けてきて、パイナップル工場も出来る。野菜は波止場までかついで出荷をする。そのうちにリヤカを買い、運搬は楽になり、農家も安定をして、家畜を飼い堆肥を作り、私たちの住む住宅を建て、安定したのもつかの間で、昭和十八年、大東亜戦争が始まり、三月二十八日から三十日の三日間は大空襲で、ココールの町は火の海と化して、食糧及び燃料は壊滅状態で、これからが大変な生活で、内地からの定期船が入らず、自給自足で半年くらいまでは良かったのですが、その後は米が不足して、大人はどうにか我慢が出来るのですが、子どもたちが可哀想で見られず、毎日の空襲で農作業も思うように出来ず、結局は夜の仕事と変り、月夜は良いのですが、闇夜は手探りで作業を続けました。
ますます戦火も激しくなり、この最中に婦人と未成年は疎開で本国に引揚げることになり、私は十五歳で引揚げることが出来ずに残り、父は兵隊へ入隊をする。私は軍属として志願兵で入隊しました。この時に始めての体験、軍隊生活で親の有難さを痛感しました。夜は毛布の中で泣いた事が何度かわかりませんでした。
戦争は激しくなるばかりで、私の立ちは兵事部で。伝令でした。空襲の合間に書く分隊に情報を届けるのですが、木のあるところは良いのですが、またま平野で空襲に出合い、何度か命拾いをしてきました。
その内に食糧の不足と共に栄養失調で亡くなる人が出始め、兵隊と一般の人と次々と亡くなり、いても立っても居られない気持ちでした。兵隊でも上官は米のご飯ですが、部下はご飯が当たらず、死ぬ兵隊などは米の飯を食いたいといわれた。言葉は、耳の奥にこびりついています。
食事の方も、兵隊はサツマイモの葉のオジヤに、サツマイモ、そして米つぶが数えるほどしか入ってなくて、お腹だけがふくれて、髪の毛は抜け、痩せて可哀想でした。又、夜はサツマイモ畑を荒らす人が多くなり、夜警で取締りが始まり、私も夜警に出たが、婦人と子どもたちは逃がしてやったことが記憶に残っております。
戦争は激しさを増して、引揚げたオフクロと弟たちの船が魚雷でやられたと聞いたので、あきらめていましたが、生きて帰りたい気持ちで一杯でした。
ある日、私と上官は、農民との集会の最中に空襲に合い、私とひざを合わせていて、討たれ戦死をしましたが、人間とは運、不運があると思いました。人間的に立派な方で、私を弟の様に可愛がってくれ、この時だけは替われるものであれば替わってあげたい気持ちでした。その後に来た上官も良い方で、私の面倒を良く見てくれ有難かったので、感謝で胸が一杯です。
その内に終戦となり、引揚げる時まで一緒で、食糧が不足をして、栄養のあるものは口に入らず、上官と山鳩を取って食べ、命をつなぐことが出来ました。私は人との出会いの運が良く、引揚げる時は別でしたが、本籍が増毛町で、父と一緒に帰り、父の妹を頼りに行くことが、常夏の所から北海道の真冬には勝てずにネコのようにまるくなり、一ヵ月後には死んだはずのオフクロ、弟妹、全員無事に再会できる事は、この上ない幸せでした。
この頃はニシンが大漁で、浜はごった返しで景気も良く、このまま世話になることは出来ず、私は一足先に赤平の炭鉱に居る伯父を頼って行く。すぐに採用してもらえなくて、組で働き、半年後に本採用になり、家族全員が来て生活をする。このときも食糧に苦しみ、買出しに農家に米を買いに行き、随分足を運びどうにか生き延びることが出来ました。
その後父と母、弟妹たちも来て、開拓農家を始めて開墾をして農業をする。私も日曜日には手伝いに行き、苦労した甲斐があり作物がとれ、希望がわきました。
炭鉱も景気が良く、父は二、三年辛抱をしてくれ、身の振り方を考えると言われましたが、とうとう定年まで勤務をし、人生の半分が過ぎ、昭和四十九年八月十三日の運搬事故では九死に一生を得たことは、生涯忘れることはできません。今考えると運が良かったと感激で一杯です。闘病生活を振り返り、リハビリーの苦しみは忘れることは出来ません。人の三倍も努力を続け、玉の脂汗を流したことが良くてどうにかもとの体に戻り、所信をして長生きをしていきたいと肝に命じている今日この頃です。
このように体験したことは、私にとってはプラスとなり、今後は日本は二度と繰り返してほしくない戦争を、息子を始め、孫、ヒコの代まで続けてほしいと願っております。