はてなキーワード: しつけとは
ほら結局その態度の話をしてるんだよ。
事実婚なんて意味の分からない特殊な形態を採用していて、事実婚を誤解してないか?
といったような発言をすることが理解できない。
おしつけがましいんだよ。知るわけないだろw
ピンポーンっていうからドア開ける前に「どなたですか?」と聞いたら、
「Y売新聞でーす」とちゃんといってくれたのでドアを開けましたよ。
開けてスグにきちんと「営業です」と言ってくれたので玄関まで入れてあげた。
この手の人達にしては物腰のやわらかい感じで押しつけがましくはない人だった。
で、いろいろトークした結果、結局
1.ビールや何やらをたくさんつけるからどうかと言う
2.千円引きにするから六ヶ月契約でどうかと言う
3.最初の3ヶ月半を無料にするから残りの三ヶ月を通常価格でどうかと言う
最近の販売店はかなり大変らしいなと思った
そこにビールとか付けたらすごいことになるな
結局お断りして帰ってもらった。
増田はかなり正面切ってお断りするのでジタバタしないで帰ってもらえた。
しかしまあ、新聞販売店ってかわいそすぐる。
私は29の男。
都内で一人暮らしをしている。
29にもなって、いまだに母親とうまく接することができない。
母親は、いまだにあれやこれやとわかっている、細かいところに口を出してくる。
非常に子煩悩であらゆるところに対しておせっかいを焼きたがる母親である。
記憶力が悪くなってきているらしく、同じことを何度も言われる。
「あー、はいはい。」という感じで答えているが、内心はイラっとしている。
というのもそのおせっかいというのが本当に私のことを考えての言葉ではなく
「自分はこんなに子供のことを考えているいい母親なのよ。」という考えのおしつけ
にしか感じ取れないからだ。
口論にはなったりしないのだが、そのようなそっけない態度を取られるのは傷つくらしい。
ときどき「○○ちゃん(いまだにちゃん付けで呼ばれている)からみたら私なんて馬鹿に見えるんだろうね。」
といったことを言ってくる。こういうのもイラっとする。
母親はあらゆることに対して(料理や家事、健康など)努力するとか、よりよくしようという
考えをもっていなく「自分はこれでいいのだ。自分がただしいのだ。」とおもっている頑固な性格だ。
その延長で「子供のことを考えているいい母親」を私に押し付けてきているように、感じている。
母親は専業主婦であり、子育てだけに心血をそそいできた子煩悩である。
そのせいもあってか、未だに子離れができていない。
「こんなにいい母親としてがんばってきたのに、学校を卒業したら子供が振り返ってくれない。」
ということに対して失望感や悲壮感を抱いており、ときおり、そのようなことを伝えてくる。
これもイラっとする。「なら、早く自分の趣味でもみつけて子離れしろよ!」と思ってしまう。
私としては、自分がもっと大人なって冷静に母親の性格や行動をうけとめられればよいのだが、
帰省して本人を目の前にして「いい母親なのよ」という様々な押しつけを受けているとイラっとしてしまう。
けんかしたりはしないのだが、だんだんコミュニケーションをとるのが面倒になり、食事時以外は自分の部屋に籠ってしまう。
そういう自分もだめだなあ、もっと大人にならないとなあとおもって、実家から帰るといつも憂鬱な気分になってしまう。
母親への不満や自分への不満をかいてきたが、基本的にはもっとお互いに自立した良い関係を築きたいなあと思っている。
そのためには、私がもっと大人に成ることも必要ではあるが、母親の子離れも必要なのではないかとおもっている。
どうやったらそれが達成できるのだろう。母親が亡くなる前にそういう状態になりたい。
このようなことで悩んでいる方や自分はこういう風に解決したよ、こういう風に乗り越えたよ、
という方がいらっしゃれば教えていただきたいです。
長文、乱文失礼しました。
誰が平凡な人生を望んでいると言ったの?
キミにとっては平凡な人が、平凡以下の人生になったとキミが思ったとして、そのキミからみて「平凡以下になってしまった人」は、本当に自分の人生を「平凡以下な人生」だと思っているかな?
キミからみれば「愚直な努力」だったり「ほんとにやりたいことを送っていない人生」だったりするのかもしれないが、本人にとっては「王道」だったり「スマートな努力」だったり「幸せな人生」だったりしないかな?
スマートな努力に注力しないのはおかしい、みんなそうすべきだ、世の中が間違ってる、と思うのは良いけど、それってたった一人の変人が価値観を押しつけているだけじゃないの?
またしても「不快→通報→排除」シーケンスに入ったらしい。相変わらずというか、何というか。
今回「問題」の発端はとあるユーザーが政治関連の長文をPOSTしたことらしい。
このユーザーに関しては以前からしばしばハイク内で他ユーザーと衝突していたが、しばらくするとPOSTが止まっていたので都度収束していた。
しかしなぜか今回はそうはいかなかったらしい。
通報の名目は、戦争でケガ人をした人や亡くなった人の画像を貼っていることが規約に反する、みたいな感じらしいんだけど。
でもこれ、どの項目に該当するんだろう。
第6条(禁止事項)
2-3:倫理的に問題がある低俗、有害、下品な行為、他人に嫌悪感を与える内容の情報を開示する行為。
2-4:迷惑行為、嫌がらせ行為、誹謗中傷行為、正当な権利なく他者に精神的被害・経済的被害を与える行為
考えられそうなのはこの辺だろうか。仮にそうだとしたら相当無理があるような・・・。
黙っていても結果はハイクで報告してくれそうなので(この通報の件もわざわざハイクで報告されてた)、これは取りあえず置いておく。
どうも政治的だったり社会的な内容が絡むと過剰反応を示す人が多いらしく、今回は件のユーザー(便宜上「I」とする)に絡んでいく人が割といた。
その絡み方は様々で、お決まりの「長文ポストは携帯の人が見にくいから控えたほうがいいですよ」みたいな割とソフトな感じのものから、「何がやりたいのかわかんねぇ」といったもの、少数ではあるけどエントリーに対する意見、議論のようなもの等々。
どのパターンを見ても何となく「不快感」が透けて見えて、ひどい場合にはそれの押しつけにしかなってないものがあったりして、事態は平行線を辿っていた。
見たところ(完全に私の私見だが)「ユーザーI」は頑固そうなイメージを受けるし、やや高圧的な部分も見受けられるので、不快感を持つ人がいるのも分からなくはない。
立場によっては「何も知りもしないクセに」と思ってる人がいるかもしれないのも分かる。
だからといって突っかかっていくのはどうなのかと思う。しかもその突っかかり方が中途半端。そして挙げ句に「通報」って。
ハイク村の「自警機能」は凄い。
一部騒いでる人たちは「あの人には何を言っても無駄」とか思ってるみたいだけど、別に「ユーザーI」は誰の話も聞かないとは言ってないんだよね。
信念のようなものを持ってるみたいだし、頑固そうではあるけど自分のエントリーに対して批判も意見も受けるとは言っている。
でも何も変えないのは、あの人を納得させる「ちゃんとした」批判も意見もないから。
取りあえず「不快感」を投げつけるだけのものは論外だろう。「暗黙のルール」を持ち出すのも意味がない。
それなりに理にかなった意見じゃないとダメなんじゃないかしら。と、書くと「上から目線だ」なんて思うかも知れないけど、人に意見する上で当たり前のことじゃないのかな。
日頃、どっかから「わがままな親がどうの」なんてニュース拾ってきて難癖付けたりする割に、それと変わらないことをしていたりするから不思議。
そういえば日常生活ではどうしてるんだろう?同じような「不快感」のぶつけ方してるんだろうか。やっぱり不思議。
単独の意見として「自分のことは棚の上に上げておいて」というスタンスはありがちだし自己完結してる分には構わないと思うけど、誰かに意見する更には何かを変えさせるとなれば、それじゃ通用しないでしょ。
その点にほとんど誰も気づいていない。もしかしたら気づいてるのかも知れないし私が見逃してるだけかもしれないけど、それに類する書き込みは未だ見かけていない。
「そんなことやってられっかよ」って思う人もいるかもしれない。そう思うんだったら「スルー力」とやらを発揮して無視してもらうしかないだろうね。
「だって長文は携帯ユーザーに迷惑」っていうのもダメだろうね。ハイクの機能として可能となっていて、規約等に禁止が明記されていない限りは禁止事項じゃない。
「たまたま」多くの人がそれに納得して気を遣っているだけで、本人が納得しない限り、いちユーザーが強制できることじゃない。不服ならアイデアでもなんでも出すしかない。一応そういう「ルール」になってるみたいだし。
もう少し気になることあったけど、ちょっと長くなってきたから今日はここまでにしておこう。
僕の親はいわゆる「片付けられない女」というやつだ。実家はよくテレビで見るような「ごみ屋敷」そのもの。
そんな家に帰りたいはずも無いが、諸々の都合上帰ることになった。
帰ってみたら、想像通り…いや、それ以上に酷かった。台所のシンクは食器や生ごみの山で、料理できる状況にない。
部屋の床が見えず、フリーペーパーやらで滑って危ない。飼ってる犬はトイレのしつけが出来ておらず、そこら中フンだらけ。
そのせいで、至るところに虫&異臭。ある部屋は、ゴミ袋が背の高さほど積み上げられている。
物が汚れて使えなくなったら、新しく買う。だから、金も無い。そして買いすぎる癖がある。
ファミリー向けの冷蔵庫が、1人暮らしのはずなのに常に満杯。片付けるよう言っても「忙しい」「体が辛い」などの言い訳。
さすがにこのままではいけないと、昨日・今日と僕が掃除をした。
とにかく捨てまくって1部屋をかなりマシにした。これもすぐに汚されるかと思うと切ないのだが…
手伝って欲しいと言っても、「今気分じゃない」「えへ」で済まされる。強く言うとと逆切れするか泣き出す。
ついには(正月だからだが)昼間から酒を飲んで眠いと言って眠り出す。…僕は一体どうしたらいいんだ?
既に結婚して家を出ている兄と、病院に相談に行くか?という話をしている。(ゴミ屋敷の住人は、精神障害を伴っていることが多いらしい)
こんな状況はもう10年は続いているが、そろそろ親は年齢も金銭も厳しい。孤独死でもされて恥をかくのは僕らだ。
金があればハウスクリーニングという手もあるが、そんな金は無い。
1回だけなら払っても良いが、1度やったら甘えて掃除しなくなるに決まってる。
片付けられない女本というのもあるらしいが、それも読まずにゴミになると予想できる。
僕がたまに実家に顔を出して監視したいところだが、家が少し離れているのでそう頻繁には来れない。
おそらく本人だって掃除しなければならないことはわかっている。それにも関わらず掃除できない自分を嫌いになってもいることだろう。
だからといって、する訳ではない。体が追いつかないとか、やろうと思ったら追い込まれて鬱になってしまうとか。
本人だって辛いだろうが、僕らだって辛いんだ。
もういっそ金をこちらが握って、綺麗でない限り渡さないという強行手段に出るべきだろうか。
何とか動物を手放せないだろうか。(ただ、生きがいだから奪うなと言ってくる。僕らも可愛がっているのでなるべくしたくない。だが2人ともペット不可のマンションで引き取れない。動物がいなくても生ゴミ等でどうせ汚れるし)
親戚に相談して解決の糸口は見つからないだろうか。
何を考えてもうまくいく気がしない。もう逃げ出したい。
だがこのまま逃げ出したら、この2日間必死に掃除したのが無駄になる…!
こんなこと、他の誰にも相談できない。だから抱え込んでしまって、余計に辛い。
だから増田で書いてみた。汚い話で悪かった。
子供に連れられ、『映画!たまごっち うちゅーいちハッピーな物語!?』を観に行った。
中盤は眠気に襲われ観ていなかったのだが、結構、衝撃的な映画だった。
猿の「ききっち」というヤツがいるのだが、コイツはませて反抗的な小猿である。
主人公「まめっち」等に対して、映画の序盤で反抗的な態度を崩さない。
そんな中、主人公「まめっち」が実験でごっち工的に「はっぴはっぴーっち」を生み出す。
この「はっぴはっぴーっち」はハッピーを感じている人のところでハッピーなエネルギーを吸収し、不幸な人や沈んでいる人orzな人のところでそのエネルギーを放出しては、強制的にハッピー状態にするという、ほとんどあぶないクスリのようなごっちなのである。
だが、「はっぴはっぴーっち」のアブナイ能力も、お約束のように「ききっち」には効かない。「ききっち」の両親は超セレブであり、仕事優先で「ききっち」を顧みていないというこれまたお約束の設定で「はっぴはっぴーっち」が繰り出す強制ハッピーエネルギーが効かないのだ。
そこで、このこまっしゃくれた小猿が言う。
衝撃的な言葉だ。
アドバイスや良かれと思った発言をする人に対して、ネットではよくこういう対応がなされる。
そう。多くの善意はお仕着せなのだ。そして迷惑な事が多い。
アドバイスやそういう発言をする人には、「ネットみのもんた」という称号が与えられる。
仕事が見つからないと嘆く人に、年収400万円の肉体労働を探してきても、迷惑なのだ。
彼等はもっとクリエイティブな年収600万円の仕事を探していたりする。そういう理想の仕事が見つかるまでは、ニコ動を見ながらニートしている方がマシだということらしい。いつになるかわからないその時までは、ネットみのもんたや政治の無策を叩いて時間を過ごす。
全てのそういう人たちに幸せを与えるのは難しい。
「ききっち」とそういう人々が重なって見える中、主人公「まめっち」は言い放つ。
現実と理想とのギャップと、日本の置かれた現状の厳しさと、格差社会と自らの無力さ加減を思い知らされながら、これはあくまで子供向けのアニメなんだと自分に言い聞かせながら映画を観賞した。
最後まで観賞し、予想通りのありきたりな「はっぴはっぴーっち」のお人よしぶりに、目からかなり水が流れただけだった。
OKOK。話は大変よく分かるし筋は通ってると思う。特に誤解はない。
そうすると、あなたと私の立場の違いは、国歌というのはどういう観点から誰が選ぶものなのか、そもそも何のためにあるのか、という点に関する認識の部分だと思う。
以下、三行でまとめ。
・そこで「開き直り」はあり得なくね? (あと最後に大事なこと言った!)
以上終わり。…とりあえず、暇が有れば以下を読んで欲しい。
国民主権の民主主義国家にあって、国歌を選ぶ主体が国民であることはまったく問題がないし(だからこそ国会で国旗国歌法が定められた以上アレが国歌であることを否定はしないけれど)、その際国民でない人には一票を(たとえ間接的であっても)投じることはできない、というのは実際その通りだ。でもそれは純手続き的な意味でそうであるに過ぎないのではないかな。国の「歌」というのは単に象徴として存在するだけではなく、事実様々な場面で歌わされるものでありそれによって国民の自覚を高め団結を強めるための道具であるわけだよね。神棚に飾ってあるだけでなく、事実使う、という。
従ってそれは、大げさに言えば日本という国の国民が持つ「国家観」に関わるものだと思うのだけれど、日本という国は、私の記憶が間違っていなければ、その憲法前文で「国際協調主義」を謳っておるね。
われらは,いづれの国家も,自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて,政治道徳の法則は,普遍的なものであり,この法則に従ふことは,自国の主権を維持し,他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
我々は日本人として『国家の名誉にかけ,全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓』っているはずだと思うんだ。その点から見て、
つまり諸外国の認識がヒトラー=天皇であるかどうかは関係ない話では?
国民が納得するかどうかと、諸外国が納得するかどうかというのは違う話ですし、諸外国が納得しないから国歌として不適格ってのも変な話です。
…と、これを「関係ない」で押し切ることが適切かどうか、私は日本という国家の『名誉にかけて』この主張はまずいんではないかと思うがどうだろう。
さらに言うなら、そういう国際協調を憲法で唱える国が、諸外国から旧戦争指導者とみなされる存在を讃える歌(そうじゃないという解釈は所詮詭弁だと思うね。戦前に教育を受けた人で『君』が天皇を指さないと考える人など一人もいないよ。歌を変えないが解釈だけ都合良く切り替わるなんという説は『味噌も糞も同じにする』ようなものだ。)を「国民統合の象徴」として用いる、というのは、はたして日本という国の『名誉』の問題として、どうなのかね。
もちろんこれは、根っこのところでは天皇制を存置したことと同じ問題ではある。そして、私は先に述べたようにそれが「充分にやむを得なかった」とも考えている。昭和20年のあの時点で、占領軍には天皇制を存置する以外の現実的な選択肢は無かったという考え方に説得力を感じるよ。だから日本人と占領軍はいわば「コソコソと」天皇制を続行した。君が代はその余録で残ったようなものだね。確実に言えるが、敗戦時に天皇制が廃止され天皇の戦争責任が追及されていれば「日の丸君が代」は廃止されていたんじゃないかね。その状況なら「過去を振り返るためにこれは残そう」などという案は一顧だにされなかったことは確実だ。(…ただし、天皇を訴追していれば、軍の武装解除は進まず、結果確実に内戦が勃発していたと思うがね。)
そして多分その事情は現在もなお変化が無いんだな。法制化された現時点でもまだ「君が代」は「コソコソと国歌らしい何か」として存在するのが唯一やむを得ない正しいあり方であり、いかなる開き直りの余地もそこには無い、と考える方が妥当だと思う。開き直った瞬間に、確実に二つ三つと戦後日本を貫いてきた論理が破綻するからね。
天皇制を存置させた以上、君が代をおいて別の国歌を作ることもできず、かといって君が代を大手振って歌うことにも矛盾が残り……というダブルバインドから、我々は免れ得ないんじゃないかな。
いずれにせよ、「過去をきちんと振り返る」ということはとても大事だし、戦争を振り返ることはとても大事だ。その発想には同意する。同じ意味で「(押しつけであろうが無かろうがいずれにせよ唯一の存在としての)日本国憲法を愛し守ってきた戦後60年の日本人」の歴史の重みもきちんと振り返るべき時期にきている気がするんだ。
前回分にトラックバックが付いていたので、もう一度それについて考えておく。
その内容を読んでみると、言葉が足りなかったせいか今ひとつ私の意図が伝わらなかったみたい。
以下、引用は特に断りがないものはhttp://anond.hatelabo.jp/20081224161454より。
各発言には優劣があるに決まってるじゃない。優劣というのは自分がハイクで楽しむための優劣のことでしょ?判断するのは各ユーザーだよ。
それに自分の発言が“自分にとって”ノイズになるわけないよ。それが全ての中心なんだから。
そんなんだから盲目的に実況を嫌がる人もいるけれど、盲目的に実況を続ける人もいる。誰も「実況だけ」がノイズなんて言ってない。
ここでの「優劣」という表現は少し違和感を感じるけど、受け取る人によって投稿の価値の有無が変わることは分かる。それについては前回書いた。
自分にとって価値がないと思われるものにフィルタリングをかけてより分けるのも特に問題ないと思う。
何度も言っているけど、頂けないなと思うのは、それらのフィルタリングを他人に強要するということ。
そんなフィルタリングを他人に押しつけてまで、前に出すアナタの「発言」にどれほどの価値があるの?っていう。
近頃「実況」周りでそのような雰囲気が見られるから、たまたま引き合いに出したけど、ほかのPOSTに関しても同じ。
きっと自分にとって自分の発言は価値があるものなんだろうけど、その価値観を人に押しつけなさんな、と。
誰の発言も価値が有る可能性はあるし、無価値の可能性もある。そういう意味で優劣はないでしょ?と言っているのです。
つまりさ、俯瞰的な感覚じゃなくて、ハイクユーザーは自分の発言が全体の中でいかに価値付けられるかに必死な部分があるでしょ?って話をしたかったのだけど。
別に自分の発言の価値付けに必死になるのは構わないけど、必死になる方向ズレてない?と思いますけどね。
そんなもんなんだか良く分からない「勝手ルール」持ち出さないで、それこそ自慢のネタでやんなよ、と思う。
「勝手ルール」の布教に精を出すなら、それこそ有無を言わさず星つけたくなるようなクオリティのPOSTのひとつでもしなよ、と。
これは単純にそう思い込んでるだけじゃないですか?
別にみんながみんなTOPページで全発言を閲覧してないと思う。
ひとつ例を挙げると、idページへの絵の投稿でいろんな人からたくさんの星を貰ってる人だっているし。
アナタが思っている以上にたくさんの人がTOPページ以外の「発言」もマメに覗いてると私は思いますけどね。
結局のところ、事例は変わってもいつも問題の根っこのあたりにあるのは、「個々の勝手な思い込み」って感じだ。
そりゃ私もうどんの人に『ここ十数回分は「同じこと」言ってるし』って言われるわ。
だいぶ愚痴。
悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。
驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。
偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。
優しい人になりたいと思う。そう思っていればそのうちなれるのかというと、実際はどうなのだろうと思ってしまう。
例えば、ことあるごとに、自分は不幸です、辛い辛い、生きてる価値がないんです、シニターイシニターイ言う人に対して、表面上は死にたいなんていうもんじゃないよって言うし、まして「なら死ね」なんて言ったりはしない。そんな人でなしなことは、基本的に他人には優しくしたいし、私にも対面とかそういうものがあるから保身の面でもあんまり言えない。
しかし本心では、そんなこと言うなら死ねばいいのに、と思っている。
特に、死ぬなんてうもんじゃないって励ましてくれたり、わざわざ遠いところから自転車で駆けつけてくれたり、悩み事を聞いてくれたりする友人(私ではない。誰か別の人)がいるのに、「僕には友達がいない」とかのたまう奴。
そう思ってしまった後に、自分はやっぱり優しい人間ではないのだろうと考える。
いくら表面上体裁を取り繕っても、腹の中でそんなことを考えていては優しい人ではない…ような気がする。けれど、人間の本質なんてそう簡単には変えられるものじゃないらしい。
鬱病とか、本当につらいことがあったとか、色々事情はあるのだと思う。理由を考えれば、死にたいと嘆きたくなるのも分る人もいる。だけど、どうしても分らない人もいる。気を引きたくて死にたいと言ってるだけじゃないかと、穿った見方をしてしまう。振られた相手に見えるところにそういうこと書いてる奴とか。
本当に死にたいんだろうか。
死人の顔は近しい人の死で何度か見たけれど、あんなふうになりたいんだろうか。
自分はブサイクでモテナイし才能ないし最低だから生きてる価値なんかないんだーと嘆いてる人がいたとして、それでも生きていたいって言うのなら、それなりに応援もしたいって気持ちになる。
でも、そこで死にたいと言い出されたらもうどうすりゃいいのかと。
「死にたいくらい辛いんだね、可哀想!」って同情すればいいんだろうか。「そこまであなたを追い込んだ奴は酷い人だ!あなたは悪くないのに!」って、誰かを悪人認定すればいいのだろうか。それとも、哀れまれるのは嫌だろうか。分りやすい同情は嫌だろうか。
うん、私自身が死にたいような気分になったことないからなんだろうけどね。そして、死にたいって誰かに言ったこともないからなんだろうけどね。きっと、死にたいほど不幸で辛い目にあったことない、幸せ極まりない人生を歩んできたからなんだろうけどね。私が遭った嫌なことなんて、ほんの些細なことに違いないんだ。
…みんな、どうなんだろうとちょっと考えてしまった。
「本当は死んだらいいのにって思ってないですか?」とぶしつけな質問をしてみたいけれど、思っていてもそんなことは表面に出さないのがまっとうな社会人だし、「実は思ってます」なんて言わないだろう。
本心を隠し通せば良いだけの話なのかもしれないのだけれど、残念なことにそこまで器用でもなければ我慢強くもない。
思ってしまった後に「あーあ、思っちゃったよ」と考えるくらいである。
罪悪感があるとしたら、自分の良心に対してなのかもしれない。そう思ったほうがなんぼかまし。
少なくとも、そんなことを思わせた相手に対しては罪悪感なんか抱きたくはない。
その1 http://anond.hatelabo.jp/20081223235800
その2 http://anond.hatelabo.jp/20081224002406
(G-3面右上)
マネーが国境を超えて飛び回る中、主要国の中央銀行にとって欠かせないのは、情報の共有化だ。
金融危機が深まってから、白川がFRB議長のバーナンキやECB総裁のトリシェらと電話会議を開く機会も増えた。米大手証券のリーマン・ブラザーズの破綻前には、バーナンキから白川に状況報告の電話が入った。
ただ、白川には、情報の共有化と、世界の中央銀行が金融政策の決定で足並みをそろえる国際協調とは別次元の話という思いが強い。
10月の主要7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)の直前、中央銀行のトップたちは連絡を取り合いながら協調利下げに踏み切った。日銀は、利下げはせず、欧米の利下げを「支持する」という発表にとどめた。
欧米の中央銀行から日銀に対し「協調行動に加わってほしい」という要請があったわけではない。日本の金利がすでに低いことや、今回は欧米中心の金融危機という判断からとみられるが、「彼らはひと息つきたいのだろう」と本音を推測した日銀幹部もいた。日本との金利差が縮むと、欧米の通貨が安くなり、欧米企業が輸出しやすい環境になるからだ。
欧米はその後も、利下げを繰り返した。日銀が10月末に利下げを決めると、市場には「日本もやっと欧米との協調に踏み切った」という見方が広がったが、白川は「世界的な不景気の中で、利下げの方向が一致しただけ」とそっけなかった。今月19日の利下げも、FRBの大幅な利下げのわずか2日後だったが、白川は「国際協調」という言葉を使っていない。
白川が「国際協調」「政策協調」という言葉を好まないのは、過去に苦い経験があるからだ。
日銀が1985年のプラザ合意以降、「国際協調」の名のもとに米国から圧力を受け、長期間の低金利を強いられた。これが土地や株価のバブルに結びつき、その後の深刻な不況につながった。
「政策協調は、大国が自己の利益を押しつける際の論理として使われることが多い」。白川は2000年、香西泰(現・政府税制調査会会長)との対談でこう語っている。
国益確保の「隠れみの」に協調を演出することは珍しくない。国際社会のリアリズムに比べ、日本の「協調歓迎論」はナイーブすぎないか。白川には、そんな気持があるようだ。■
http://anond.hatelabo.jp/20081223210419
どっかまともな企業に就職して、とりあえず通って真面目に仕事しさえすれば給料もらえて、週休2日で休みの日には溜めていた家事やって、なんてのが、元増田のイメージする「まともな暮らし」なんだろうし、一般的にそれがまともであることは否定しないけどさ。
だから、誰もがその暮らしをすべきだと「説得」するのは、ちょっと待った。
元増田からみれば「いい加減な働き方」にしか見えないであろう、派遣とかだって企業に身を捧げるのではなく、職業に身を捧げるのだという意識でやるなら、立派なキャリアアップなわけだしさ。いい加減ってのは、「良い加減」なんだから、彼女にとっては最適な働き方かも知れないでしょ? 結婚したら「まとも」だなんて、そういう元増田の一方的な価値観を押しつけられたら彼女イヤになると思うよ。
元々、ウツになりやすい人ってのは、真面目なのね。「こうあるべき」というイメージがあって、そのイメージに自分が近づけないから、自分を責めてウツになるんだよ。
『「うつ」をやめれば楽になる』って本を紹介しておくね。中途半端に知ってるってのはまずいって思う人が大半だけど。私は相手を知ろうとすることが大事だと思う。「ウツ」ってどんな病気? 「ウツ」の人には何をしてあげられるの?
自分の価値観を押しつけるのではなく、相手が何を望んでいるのかを知り、それが手に入るように援助してあげること。そういうことが友だちとして出来る手助けだと思うよ。
こういう言い方して通じるかどうかわからんが
「It's your decision」って、ソフィアの問題にできるあなたのメンタリティはわたしの常識からすると、けっこう外側にいるよ…
なので、単なる批難にしかきこえなかったらすまんね。
まあ、こういう考えもあるという程度で。
1.
でだ、あんたが死んでたら、「It's your decision」としか言いようがないのはわかるんだけど、
中だししちゃった当人であるあなたが、責任も決定権もぜんぶあっちに投げ出すのは、信じられん。
赤ちゃんが女性の身体に宿るという、生物学的な男女の非対称性にのっとって、男だけが都合良くなってしまうシステムを
まんま利用してるよね。
いまのご時世、身体の非対称性をいいことに、女性にぜんぶの責任を押しつけてしまう発想はとても支持できるものではない。
ソフィアが発狂するかどうかを、さておいても、あなたは非難されてしかるべき。
ソフィアがどんなDQNかしらないけど、あんた一体、人をなんだとおもってるんだ、と素朴におもうよ。
いや、あなたがソフィアを愛せない、というのは別にいいと思うけど。
愛せようが、愛せなかろうが、「It's your decision」はさすがに人をなめてる。
中だししちゃったあなたの責任でもあるのだから、そこは、愛の有無関係なしに、
あなたはやってしまったことに対して、せめて誠実であるフリぐらいはすべきかと。
2.
とは言っても、わたしのこういう倫理観がたぶんあなたには通じないんだろうから、
上記の感想は単なる参考として流してください。
「発狂はさせたくない」というのが、あなたのギリギリの良心のラインなのだろうとは思うけど、
あなたが相談したいのは、おそらくこういうことか
a.妊娠していた場合に、「発狂させたくない」という、ギリギリの良心のラインを満足させられる手段
b.妊娠しているにせよ、していないにせよ、アメリカの彼女を傷つけたくない。
c.ソフィアに対して、自分に対する感情をすっぱりあきらめさせたい。
であれば、それぞれに対する答えは別々で
a:がんばってソフィアを説得して、堕ろさせろ。発狂しないように、病院通わせたりする責任はあんたが持て。
b.隠し通せるなら隠し通して、彼女を傷つけたくないのはわかるけど。ソフィアに電話番号を知られてしまった限り、やれることと言えば、「妄想系のストーカーにつかまっちゃって…」とかいう自分にとって都合のいいいいわけを、彼女にする、とかいうのはあるかもなぁ。でも、さすがにそんなことしたら、いくらなんでもソフィアかわいそすぎるというか、悪人過ぎる気はするが。
c.ソフィアに嫌われるような典型的なこととかってなんかないの?生理的にソフィアがきらいなタイプのこととか、がまんできないようなこととか。
すると、知人がこんなことをいう。
勿論、おれのやってることが押し付けがましいというか、傲慢な行為だとは思う。
でも、とてもじゃないが「自分で選んだ人生じゃん」なんていえない。
誰かも彼もが自分の思い通りの選択肢を選べるわけじゃない。能力や環境による制限がいつでも付き纏う。
それだけじゃない。そもそもその選択肢があることに気づけないことだって多々ある。
その場合、その選択肢をもっていなかったことになるのかっていうと、おれはうは思わない。
だってそこには、屹然として"そうでありえた世界"が存在するのだから。
あまりにも、人生は遇有性に満ち溢れている。
おれだって今はまぁ人並み以上に恵まれてるとは思う。
でも、もっと幸せになれる道だって当然あったわけだ。
浪人しなかった道や、わけわからん病気にならん道だってあったわけだ。
それをとてもじゃないけど、「自分で選んだ道だから」なんていえない。
他人に関してだってそうだ。
そりゃ、他人の人生悔やんだってしょうがないのは分かってるよ。
でも、もし、おれが、誰かが、一言声掛けてやれたら変わったんじゃないかなと考えるとなんだかやりきれなくなってくる。
ましてや、それが家族や友人や好きな人であったらなおさら。
直接的に自分が関わってしまった時はもっと厄介だ。
あの時もう少し気持ちを考えてやれば、あいつはあんなことにならずに済んで、その結果ああはならなかったのでは、と。
の行動の後の後の後々々まで延々と、全て自分の責任になっちまう。
人生にクリティカルに影響する瞬間ってのは間違いなくあって、そこでやらかしちまうともう一生悩み続けることになるわけだ。
「自分でそれが幸せだと考えて選んだんだからそれでいいじゃない。」
そりゃそうなんだ。そうなんだけれども。おれが自分のエゴを押しつけてるだけだってのも分かるよ。
幸せの基準なんてもんは人それぞれだってのも理解しちゃいる。勿論その通りだと思う。
でも口でそうは言ったって"誰しも共通の幸せ"ってのは確実に存在しているわけだ。
それを失わせちまった責任は過去にでも戻れない限り永遠に取れないわけだ。
例え、そいつが幸せになろうとも、
『もしお前があの時、ああしなかったらもっと早く、あるいはもっとたくさんの幸せを手に入れていたのだよ』
と、責め立てられる。どうしろってんだ。
要は自分でもまとまってないことを書き殴ってみただけ。
自覚症状がある分タチが悪い。
勝てない、辛い、と思ったら即逃げてしまうようになってしまったのは、
遡れば中1の部活からだったような気がする。
俺が中学生の頃は、バリバリのスラムダンク世代ともいえる時期で、
当時の俺はその例にもれず、その地区でそこそこ強豪といわれてたバスケ部の門をたたいた。
運動は得意でない、でも何とかなると思った。
何ともならなかった。絶望の毎日だった。
そもそもボールを持った時頭が真っ白になり、何もできない。
そのうちなめられて俺にボールがきたら何人も群がられなにもできず被スティール。
そもそもちょっと早いパスになるととれなくなる。指が痛い。
そのうちなめられてボールがこない。くるのはそもそも捕らせる気のない、おふざけの剛速球。
このあたりでレギュラー候補の同級生には軽蔑され、それ以外にはストレスのはけ口にされる生活に。
だんだん嫌になって、同じく何にも出来ない子と部活をさぼるようになった。
そんな生活を半年続け2年に進学する時、俺は両親の転勤の都合で別の中学へ引っ越すことになった。
2年生、今度こそはと入ったハンドボール部。
サボることなく、卒業まで続けることができた。
いや、なんどもサボろうとしたけど仲良くなったキャプテンがそれを許さなかった。
でも、何もできなかったことに変わりはない。
顧問にセンスがないと一言いわれてへこみ、それをバネに努力することもせず、結局スタメンに選ばれるどころか
候補に挙がることすら1度もなかった。
高校はそんな努力をすること自体が苦痛で、でも部活に入るのが決まりだからって卓球部で幽霊部員。
残るものと言えば、同じ時間をなんとなく過ごしてきた部員とのなんとなくの繋がり。
大学でもサークルで学祭の店のリーダーをやるも、計画性の無さと人間関係のトラブルを全て他人におしつけ、さぼり、
連絡に来る携帯のバイブに怯え何がしたかったのかわからないまま終わってしまった。
もう少し、自分に暴力的な、暴走してでもいいからなにかエンジンみたいなものがあれば。
たとえば初めてバスケットボールを顔面に近距離で剛速球で投げられた時、
ただ泣くだけでなく全力でボール投げ返すことができていれば。
なにか変わったのだろうか。
おめーにだけは負けたくない、そう心から思って何かにとりくめる人間は強いと思う。
そりゃ動機は負の感情かもしれない、何かトラブルを起こすかもしれない。
けどそういった人間の爆発力には何か、とても憧れてやまないものが入ってる気がする。
なんでこんな事を書いたかっていうと、社会人1年目の今、同期と差が開いてきた気がして、
しかもそれが俺自身がさぼっている、+客にびびっちゃってるのが原因で、
その原因がわかっていながらもう嫌になっちゃって、また今日もサボるという悪循環を
繰り返してしまったから。
自分なりに何とかしようと、本を読んだり戦略練ったりはするものの、実行に起こせない。
アウトプットできないなら本とか読んでも全く無意味じゃないと、
わかっててもできない。
染みついた負け癖逃げ癖不利になったら放棄する癖が
どうしてもどうしてもどうしてもどうしてもとれない。
一回ドロップアウトしてしまったらもう戻れないのかな。
家に帰ってきた今は、こんなにやる気なのに、
寝て目が覚めたらまたいつもの日常になってしまいそうなのが怖い。
>「ただ働き」は【ダンピング】であり、これを推奨するのは狂気の沙汰。
>よって【ダンピング】推奨する釣りエントリにマジレスは不可(dankogaiは除く)。
>つーかIT関係の奴隷労働者はこの手の糞エントリに石投げて、さっさと家帰れ。
>http://anond.hatelabo.jp/20081215113708
手塚治虫。
我々はそのおかげで豊かな一大文化を享受することが出来て、それ故に(特にアニメ関連は)劣悪な環境を強いられる大きな要因になった。
宮崎駿が手塚治虫の追悼文で語気を荒くしていたのは、手塚治虫がアニメを広げたいが為に無茶をしたツケを未来のアニメーターに押しつけたと言うこと。
もしかしたら無茶な低予算でアニメーションを作らなくても今みたいに文化が花開いたかもしれないし、あのタイミングでやらなければ二度と開かなかったかもしれない。
目的のために手段を選ばないことは、目的の設定を誤ると悲惨なことになる。
彼の目的はなんだったのだろうか。
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>つーかIT関係の奴隷労働者はこの手の糞エントリに石投げて、さっさと家帰れ。
奴隷は監督官の許可がないと仕事を離れることは許されません。だからこそ奴隷。
古来から一斉蜂起か外部による解放がなければ、何も変わらない。もう詰んでる。
そいつらはハルキスト。パスタ好き、ウイスキー好き、スワッピング好きだった。いわゆるハル厨だ。
話を聞いていて思ったのだが、最近のハルキストは本当にウザくなった。
人に押しつける。自分の知識をひけらかす。自分達をランク付けする。
俺の時代はこうでなかった。
「『風のうたを聴け』はヴォネガット読んでなくても大丈夫だよ」
「三部作以外も認めるよ」
「『ねじまき鳥』が理解できなくてもきにしない。」
「あるいはそうかもね・・・」
とにかく、くつ箱の中に閉じこもり、他人を醒めた目で見ることでなにか偉くなった気分になっていた。
ところが、最近のハルキストは他人との距離とかどうでもいいらしい。
パスタ好きの子に『アフターダーク』の感想を聞いたら、「読んだことがない」という言葉が飛び出してきて驚いた。
なんで読んだこともないのに、その作品を愛せるのか。『アフターダーク』の話のストーリーすらよく知らないらしい。
そもそも彼らには”デタッチメント”という概念すらない。本当に作品を愛しているならば、他人と距離をとりたくなるはずだが・・・。
彼らの空気感がどうも自分のような古株のハルキストにはよくなじめない。
もっと冷たくデタッチメントおおおと言っておいた。
ネタ元:
>俺の時代はこうでなかった。
ってどこだ?
>人に押しつけない。自分の知識をひけらかさない。自分達をランク付けしない。
むしろ「人に押しつける。自分の知識をひけらかす。自分達をランク付けする。」ってエヴァオタ位なんじゃないかな。
そいつらはオタク。ボカロ厨、ハルヒ厨、東方厨だった。いわゆるニコ厨だ。
話を聞いていて思ったのだが、最近のオタクは本当にウザさがなくなった。
人に押しつけない。自分の知識をひけらかさない。自分達をランク付けしない。
俺の時代はこうでなかった。
「ファーストしか認めないよ」
「押井が理解できないようじゃ甘いな。」
とにかく、知識を詰め込み、それを他人にひけらかすことでなにか偉くなった気分になっていた。
東方厨の子にゲームの感想を聞いたら、「やったことがない」という言葉が飛び出してきて驚いた。
なんでやったこともないのに、その作品を愛せるのか。東方の話のストーリーすらよく知らないらしい。
そもそも彼らには”布教活動”という概念すらない。本当に作品を愛しているならば、他人に熱心に勧めたくなるはずだが・・・。
彼らの空気感がどうも自分のような古株のオタクにはよくなじめない。
もっと熱くなれよおおおと言っておいた。