「正当防衛」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 正当防衛とは

2009-01-25

http://anond.hatelabo.jp/20090125205735

自己又は他人を防衛する意思を超えて、積極的に相手に攻撃を加える意思があったら正当防衛は不成立。

また、防衛行為がやむを得ずにした行為でなく、防衛の程度を超えたものだったら過剰防衛。

2.1.はたぶん正当防衛が成立。

ほかは上記二点を満たすかどうか状況によって決まる。

と思う。実務がどうかとかは知らない。

2009-01-09

人を殴れない人間が弱さを自覚せずに人に物を言うもんじゃないと思うんだが。

殴れないなら黙って微笑んでるほうがましでござるよ

口だけしか動かせないのは最低だと思う。

http://blog.livedoor.jp/kaibu222/archives/51362128.html

ここの管理人には悪いが持論言いますフォイ。

殴ることがいいことじゃない。でも殴らないとわからないやつがいる。大事の前の小事という言葉がある。ケースバイケースで考えたほうがいいと思う。

くだらない信念にこだわって人を殴れない人間なんて役に立たないと思う。なんでも一言でまとめてそれを正しいとしちゃうのは危険なのでは。極論になってしまうがそういうこと言う人は正当防衛の話になれば、それはしょうがないじゃんですませたりする。卑怯なんじゃないかな。

「人を殴るやつは最低だ」

ほんとかな?

教育の場合において子供があまりにひどいことをしたとき殴らないと駄目だよ。正確に言えばやってはいけないことだと強くなんらかの方法で躾ける必要がある。ここではわかりやすくそれを殴る、と置き換えさせてもらう。もちろん無意味暴力は反対だョ☆

僕は小さいころごく普通喧嘩をしてた。もちろん大人から見れば可愛いものだ。母親はいっつもゲラゲラ笑ってた。だけどとてもいけないことをしたとき、親父が、母が殴ってくれた。万引きをしたとき、自殺未遂をしたときだ。

そのときに「これはそんなにもしてはいけないことなんだ」って瞬時にわかった。千の言葉より一発の拳のほうが伝えられるものが俺には大きかったよ。もちろんお家に起こる事情も千差万別だからがんがん殴れといわないが、そうしなければならないことがあることはわかってほしい。

嫌われることを怖がって殴らない言い訳を「暴力反対」に置き換えて逃げてませんか?

あなたが殴らなかったら他の誰もそいつに気付かせてやれないと思うよ、といいたいことがたくさんある。

わかりやすい例が学校問題だと思う。

今教師は殴れない役にも立たないやつもいるかもしれないが、こいつにわからせてやりたい気づかせてやりたいともどかしい気持ちの人もいるんじゃないかな。今どんな理由でも子供殴ったら教師が悪く言われる風潮になってる。子供がツケあがるのも当然だ。

そんなとき殴ってやれるのは親や友達くらいなものだろ。他のなにかに頼る時代じゃなくなってきてるんだよ。じぶんでやんなきゃ。

言葉だけじゃ伝わらないことがたくさんある。

人を殴る、特に女を殴るのはたしかに心の部分でとーっても気が引けることだけど、それで逃げた方向に進んだり、過ちを見過ごすようなことは殴ること以上にひどいんじゃない?

「だから言ったのに」なんてセリフ吐いて自分が精一杯忠告したんだと正当化するのは、自分正義に酔いしれているだけで非常に無責任

最初からかまわないほうがいいですよ。

しかしながら、こういったことを「自覚して」忠告するのなら仕方がないとは思う。

人は弱い。そして嫌われるのはやはり怖いもの。それに殴ったり怒るのは疲れる。

まぁこんなかんじで物事は分けて考えきゃいけないこともあると思う。一言でまとめて表面的な理解で終えてはならない。人を殴ってはいけないという言葉の裏には「基本的には」というフレーズを内包させてると考えたほうがいいのでは。まぁ社会でこういった正義が貫けるかどうかという問題は別ですが、まわりにいる大切な人に対しては誠実でいたいものですね。

ちなみに誠実ってのは嘘をつかないというよりは、気持ちをそむけないってニュアンスです

だから俺は世間的な意味合いでの「人を殴るやつは最低だ」という信念はやはりくだらないと思う。

なんて偉そうに書いてみました。(どきどき

2008-12-19

高校生に絡まれたときのためのイメージトレーニング

土下座しろ、とか言われたらさくさくっと土下座しとこおっと。

どうせ日本語とか通じないし。英語も通じなさそうだけど。

運悪く土下座せざるを得なくなったときには

http://anond.hatelabo.jp/20080831034245

これは勉強になる!

足が痺れたら逃げられないから、時間はほどほどにしないといけないなあ。

あとはどうせ殴られるなら、正当防衛も主張できるし、先に殴られた方が良さそう。

目とか鼻とか殴られると厄介なので、少しお辞儀をする形で前頭部あたりを殴ってもらうのが理想形。

頭は固いので、あわよくば手の骨でも骨折してもらおう。

年末DQNが街に繰り出してくるから、なるべく出歩かない。

DQNを見たら、距離を取る。間違っても近寄らない。ライオンとかの方がまだ話が通じる。

万一DQNとすれ違ったりしないといけない時は、コンビニに飛び込むとか逃げ場所を考えて確保しておく。

携帯には110番や119番を登録しておく。

車で移動する時は、明らかなDQNの車の後ろには付かない。

車を寄せて何台かに追い越してもらおう。

前の車を決して煽らない。クラクションを鳴らさない。

少しくらい前の車に急いでもらっても目的地に到着する時間はさほど変わらない。

お釜を掘られたりしてる方が時間がかかる。

自分スーパーサイヤ人か何かと勘違いしないようにしておこう。

自分ヤムチャにやられる雑魚キャラである事を理解しておこう。

間違っても殴りかからにないように注意しよう。

自分DQNにボコボコに殴られていても、意外と地球のみんなは元気をくれない。

映画主人公のような活躍をするよりも、何事もなく年を越すのが一番だ。

http://anond.hatelabo.jp/20081218234943

2008-10-30

http://anond.hatelabo.jp/20081030145348

いっぱいいっぱいの状態で診る余裕がまったくないのに「受け入れられない」と言ってほしくないって、じゃあどう言えばいいの?診られる医者がいないから受け入れることができないんだよ?それで受け入れて死んだらどうするの?

自分も同意は出来ないけど意見としてあるとは思うよ。それを踏まえたうえで「それはどうなのよ?」ってこと。この意見によって心の折れた医療関係者が去ったら、今後受け入れ不能事件がまた起こる一因になりかねないから、意見意見と放っておけなくて、その理由とかを説明せざるを得ないっつうかね。これは根がかなりフクザツな問題なので、例にあげたのは失敗だった。すまんです。

自分の場合、事件記事を見たら「受け入れられなかった理由は何か?」「何度も同じような事件が起こるけどそれはなぜか?」ってことがまず浮かぶのよ。

殺人事件でもそう。『会社員、隣人を殺す』って事件記事があったとする。「殺人なんて絶対ダメ!」とは思うけど、よく読んでいったら真相は隣人が会社員女性を襲って正当防衛の末に殺してしまった場合もあれば、単純に会社員快楽殺人鬼で隣人を殺した場合もある。

どんな理由があっても殺人は悪であることは前提としてあるけど『会社員、隣人を殺す』というタイトルだけで「隣人かわいそう」って思っちゃうのは危険な思考じゃないかなーって思うわけ。

先回りしてるつもりもないので、後半はちょっとわからなかったので答えがたい。

2008-10-05

http://www.earthfield.net/new/life.htm

恋愛日常編)

◎なにも悪いことしてない人

自分以外の誰かのために一生懸命頑張って、自分を置き忘れていませんか?

自分にも価値を認めないと支えきれずに潰れてしまいます。

自分自身も周囲のものも大切にして、活かす道を探りましょう。

◎「いいひと」

自分のことを「普通、どちらかと言うといい人」と思っている人の中には、「どうでもいい」人がいます。様々なものを見捨ててしまっているが故に「気になることや問題はあまり何もありません。」と言います。

過渡期の現在、本当に良い人なら当たり障りのない人生は過ごしません。常に自分と周囲のための改善を図っていくことでしょう。時には困難もあるかもしれませんが、実りの多い人生となるでしょう。せっかく生まれてきたのですからライブ楽しみましょう。演る側にまわりましょう。

◎優しい?人

自分のことを「優しい」と評価する人のなかには、弱い人や易しい人もいます。気を使い、相手の強引さに負けやすく、自分の弱さの為に何かを譲ったり我慢をしたりする人です。

真の優しさとは強く、時には相手にも自分にも厳しいものです。 優しく、気高く、そして誇り高く在りなさい。

もう一踏ん張り、そしてもう一踏ん張り、譲らないことをトレーニングしましょう。

◎「頭ではわかっているんだけど・・・・」と言う人

理解が浅いか、深層では矛盾した考えを有しているか、思考と感覚や感情等との統合がとれていません。矛盾点がないかもう一度考え直しましょう。自分を棚上げせず、普遍性や立場が代わった場合等他のケースではどうか見直してみましょう。感情や感覚に合わせてみましょう。----自分では、あるいは周囲の人に聞いても、どうしても解決に繋がらなければ、本当は知らないのです。何かが根本的に間違っています。 諦めて、エネルギーワーク等をお受け下さい。

◎全てを許せと教えられた人

全てを許すなら、自分の素直な反応も許しましょう。怒るべき時には怒りましょう。

反応を止めることはエネルギ−の流れを止めることであり、無理を生じて破綻を来します。

自分の自然な反応を許さず他の「全てを許す」というのは「見放している」というのと同じことです。

自分という存在さえ見捨ててしまっています。自分を許さずに世界を許すことはできません。

自分の為に過去を赦し様々な未来を許可すると自分と世界が緩くなります。

◎「してもらうのが当然」の人

「してもらうのが当然」なら「してあげるのが当然」でなくてはなりません。

してあげるのを嫌がると流れが止まり運が尽きます。もらう以上にあげるぐらいが良好です。

◎同じを求める人

あなたと相手が同じになると流れが止まり、お互いの芽を摘むことになります。

活かすとは変異を認めることにあるのです。自分と異なる点も大事にしましょう。

◎傷ついた人

感情面で傷ついたり気に障るのは、そこに感情障壁があるからです。

あなたがバリアーを張っていて、そこに何かが触れたからなのです。

痛いだけのバリアーをはずしましょう。そうすると心の傷も一緒になくなります。

◎自信のない人

自信のエネルギーポイントは胸にあります。

うつむかずに顎を引き、肩を張らずに胸を張りましょう。そして自分のできたことを思い出しましょう。

周囲の人のできたことばかり思い出される人は、そこにあなたのサポートがあったことを思い出しましょう。

自分が何者かを思い出したら、自分の望む方向に粘り強く進みましょう。

その歩む行為があなたの自信となります。

◎暗い人

人や何かのために行動して褒められたり成果が出ると明るくなります。

褒められないのは、

 足りないか

 相手を間違えているか

 あなたの「人を測ったり責める気持ち」>「人に感謝や嬉しいの気持ち」だからです。

節操のない人

節操のない人は真実に届きません。尻軽にあちこち飛び歩いていると大事なものさえ見過ごしてしまいます。おいしそうなものばかりつまみ食いするのではなく、一つ一つをよく噛み締めましょう。そうすると人生が実りあるものとなります。

◎他人の応援ばかりする人

あなたと応援している相手との方向が同じとは限りません。むしろ人はそれぞれ別の存在です。

あなたにもできます! 自分のために自分の力を発揮しましょう。自分を応援しましょう。

◎他人のせいにする人

「あの人がこう言ったから。」等と自分の行動を他人のせいにする人は、その成果や喜びも自分のものとはできません。それでは奴隷「ひとでなし」と同じです。

やりたくないときは、断固「否!」を通しましょう。自分の意志でやりましょう。自分の責任でやりましょう。

自分のやる気でやった時に、達成感が生まれるのです。つまんない人生とサヨナラしましょう。

◎期待に沿えなかった人

期待に沿う必要はありません。期待は重石です。あなたに重石を載せるような人の言うことを聞く必要はありません。

あなたがやりたいだけできたなら、それでいいのです。

◎迷惑をかけてはいけないと教えられた人

迷惑はかかるものです。「迷惑をかけてはいけない」を厳密にすると生きていけません。そして「これぐらいなら許される」というものでもありません。ですからむしろ自分がどれだけ他の存在に迷惑をかけているのか意識して正確に測りましょう。同時に御返しについても測りましょう。その量が多いということは、自分を活かし他人を活かしているということです。

◎恩返しできなかった人

受け取ってもらえなかったり、いなくなってしまったり、そのとき自分に力が無かったり。悔やんでも悔やみ切れず自分を責めてしまう人は、恩を下に返しましょう。そうして人類は良い行為を続け増やしてきたのです。「私も昔してもらったから・・・」というあなたに助けられる人は、どれほど多いことでしょう。

◎どうしたらいいか判らない人

どうしたら良いかは、調べ、考え、尋ねれば分かります。その先は自身の実践と試行錯誤の繰り返しです。

「兵は巧遅より拙速を尊ぶ」とも云います。実践し、経験し、やり直しましょう。前進あるのみです。

◎気遣いの多い人

気遣いが多いのは、人や問題を深いところで捉えず、表面的に取り繕うことばかりを繰り返しているからです。

気遣いは、「人に嫌われたくない」「責められたくない」「仲間はずれ村八分にされたくない」という恐怖心から発しています。

恐怖心から発する行動に、愛はありません。愛は深く強く、障害をものともしない、すべてを生かす力です。

目を逸らさず人や問題を直視しましょう。根本的な問題解決を図りましょう。ときには手を出さず見守ることをトレーニングしましょう。

◎「気遣いがない!」と怒る人

自分の機嫌が悪いのを八つ当たりしていませんか? 本当は気遣いは必要ありません。

愛があれば良いのです。

自己中心的な人

自己中心的な人には中心がありません。自己の望みを知らず空洞の円の周囲をグルグル廻っています。そのため満足を知らず、感謝助け合い意味が解らないので怒り、勝手な振る舞いをします。

自分の望みや満足を問い直しましょう。作戦を捨てて一直線にそれに向かい、人のありがたさを知りましょう。適当生き方なんて辞めてしまいましょう。

◎なぜか時間に遅れる人

できない約束やしたくない約束を重ねてきたのかもしれません。自分の中で「守らなくちゃいけない」と「縛られるのは嫌だ」がケンカしています。気遣いや「いい顔をしたい」等は捨てましょう。やりたいことだけ約束しましょう。そして約束は「しなくちゃいけない」義務ではなく、その時になったら「やってもいい」許可だと受け取りましょう。

憂鬱な人

あれもこれもと望み過ぎです。自己矛盾や嘘、言い訳や無理矢理がありますから、諦めましょう。

やれることからこつこつやって、自分の出来を愉しみましょう。

◎待ちくたびれた人

あなたは実際の時が来る前に想像イメージトレーニングを行い、同時に生命エネルギーも使い果たしてしまいました。

エネルギーを使い果たした状態ではイメージ通りに行くはずがありません。

想像するのを止めましょう。その時間は何か他の愉しみに使いましょう。

現実世界の変化は多様ですから、「うまくやろう」という考えは捨てて、臨機応変に世界と自分の変化を楽しみましょう。

◎意地や見栄を張る人

意地や見栄を張るのは、立場を失うのが怖いからです。でもその立場は砂上の楼閣です。

維持するために出費がかさみ崩れ落ちてゆくでしょう。

本当に守りたい何かのために恐怖を乗り越え最適な立場に移りましょう。全てを失う前にカミングアウトしましょう。

プライドの高い人

人間関係上下関係だけで捉えていませんか?

いつも「あいつの方が上だ、悔しい。」「自分の方が上だ、ふふん。」「みんな、間違っているよ。」なんてやっていると疲れてきますし周囲の人も離れていきます。良いアドバイスももらえなくなりますし、アドバイスされると傷つけられたような気分になって真っ当に受け止められないでしょう。

本当は世界は開かれている協力関係にあります。横つながりの助け合い世界です。

素直に「できないの。」「お願いね。」「ありがとう。」って言えるようになりましょう。

心を開きましょう。

プライドと自負心

プライド(pride)は「群れ」です。プライドの高い人は、時に周りの評価に振り回されます。

また、自負心の強い人は、自分で自分に負わせた重荷に耐えかね潰されることがあります。

目指すところは同じです。自分を大切に。周りも大切に。

◎優劣にこだわる人

こだわり過ぎると自分と相手との間に壁をつくり、自分を閉じ込め孤立させます。

囚われず視野を広く持って人それぞれ条件が異なることを知り、自分と相手お互い各々の「素敵!」を見い出しましょう。

◎一番になれば認められる、と思った人

できるかどうかと、他人が認めるかどうかは別です。例を挙げれば、歌が上手だからといって歌手になって有名になるとは限りません。他人が認めるとか有名になるというのは、その「一番」とか「できる」とは別のもので、努力の方向性が異なります。考え直しましょう。

◎他人が羨ましい人

あなたはその人の人生の素敵なシーンだけを見ています。

人はそのポジションにつく為に様々なものを支払い、いる為に条件を科しています。あなたにとってマイナスと思われるそれら全てを引き受ける覚悟があるか、自分に問うことです。そして覚悟があるならそれに向かって行動しましょう。

◎兄弟姉妹間の嫉妬について

親や兄弟姉妹と比べるのは辞めて全人類と較べなさい。兄弟姉妹がどうかではなく、自分の内側に答えを問いなさい。

その時あなたは独立した存在となれるでしょう。

◎父の教え

我が父は私にこう教えました。「ぼくは人生は円のようなものだと思う。生まれたところを中心に円を描き、その円から次の人がまた円を描く。」

父母を競争相手のように感じている人は、間違いです。そもそも発進点が違うからです。 どのような円を描くかが大事です。

◎二番目に多くある問題

セカンドはトップとよく比べられ、自分でも比べます。比べるときに、人は物や行動や他人の評価を物差しにすることがよくありますが、間違いです。物質化した結果を比べている限り、セカンドはオリジナルに成れません。大事なのは優れた結果を生み出した考え方です。セカンドやコピーであることを悩む人は先ず「比べる」ということを止めてみましょう。結果を真似て超えようとするのではなく、考え方を学び自分で練ってみましょう。

◎張り合う人

周りと同じでないと不安なくせに、横の人より優れていたいというのは、自己矛盾です。自分を見直し抜け出しましょう。

◎1番にしがみつく人の問題

「OOのトップ」とか「スーパーOO」とか呼ばれる人のなかには、そのポジションにしがみつこうとしている人がいます。このような人は後ろから迫ってくる人のことが気になって実力が発揮できません。ネガティブキャンペーンなど内部抗争に気をとられているうちに外圧に潰されます。今までのように前を向いて走りましょう。次を目指しましょう。身に合わなくなったポジションなぞ、置き去りにしましょう。

◎ひがんでいる人

ひがんでいる人は、心に壁があって目からも耳からもマイナスしか入りません。心にプラスが残りません。ですから、周囲の人がいくら褒めた言葉や仕草を与えても気持ちが通じません。結果として本人は「認められていない、認められたい」と思いますし、何かモノをもらったりしても「普段認められていないんだから、これぐらいもらっても当然よっ!」ぐらいに受け止めてしまって感謝が生じません。周囲の人にとっては「やりがいのない人」となります。

ゆがんだ目で見ても物事はまっすぐ視えません。「あいつばっかり良い目にあって」「自分ばっかり損をして」と感じる人の問題は本人にあります。先ず自分のひずみを直しましょう。見直しましょう。あなたの思っている以上に世界は正当にできています。

イライラしている人

あなたはエネルギ−と時間を浪費しています。疲れてイライラして周囲へ当たるのは、既にエネルギー不足を起こしているからです。良い仕事はできません。眠りましょう。

そして自分のエネルギーがどこで浪費されているのか検索しましょう。

◎諦めきれない人

「あきらめる」とは明らかであると知ることです。「諦めたけれど・・・」なんて「〜けれど」がつくようでは未練です。ちゃんと痛手を味わいましょう。

「もし〜だったら」などと逃げないで、その時点のあなたではどうしようもなかったと思い知りましょう。

何かを学んだら自分を許して時に任せることを知り、過去の事は澄ませて、今のあなたにできることをしましょう。

◎手放せない人

「さようなら。」も愛の表現のひとつです。あなたは知っています。

言い訳は止めましょう。あなたと相手のために勇敢に行動しましょう。

そのあとには、自由や平安、新しいチャンスが待っています。

完璧を求める人

「極める」という言葉があります。この世界は変化し続けています。ですから際(きわ)までは突き詰めることができますが、そこには行けません。行ったと思った瞬間にはそこが変化しているからです。完璧とはあり得ないことだと知っておくことです。

求めても得ることができないと知ることが差取りです。

コントロールしたい人

あなたと誰かは別存在です。ですから完全なコントロールは不可能です。あなたがコントロールしようとするほど相手は反発を感じます。あなたもその作業のために自由を失い、やがて破局します。

縛るものは縛られます。相手を自由にし、自分も自由に生きましょう。

◎すぐに見捨てる人

誰かを見捨てたり何かを見放すと、その時はスッキリ良い気分になります。でもそれは自分の可能性を捨てているのと同じです。いつかの可能性の為に見守りましょう。

◎過ぎてしまう人

幸せなとき」で終わるかは切り上げるタイミングです。

時を過ぎると過放電を起こして「疲れた」で終わってしまいます。

◎すぐに助けを乞う人

人は自分ができたことに誇りや喜びを感じるのに、あなたはそのチャンスを逃しています。

自分でやってみましょう。もうちょっとがんばりましょう。壁を越えましょう。

するとだんだん楽しくなってきます。活きてるって感じます。

◎逃げてばかりいる人

問題の多くは自分が引き起こしています。自分からは逃げ切れません。観念して問題解決を図りましょう。

◎逃げることに罪悪感を感じる人

状況に危険を感じているなら、できるだけのことをしましょう。

できるだけのことをして、それでもどうしようもなかったら

あなた一人でも逃げましょう。共倒れや全滅だけは避けましょう。

振り返らずに安全圏へ全速力で進んで、そこからできることをしましょう。

中にいてできなかったことでも、外からならできるかもしれません。

◎思い出に浸ってばかりいる人

過去存在を求める人に未来の席はありません。思い出にふけるのをやめましょう。

未来を視ましょう。今を生きましょう。

◎閉じこもって助けを求めない人

この世界は開放系で成り立っています。自分独りでできることには限界があります。

中でどうしてもできないことなら、外に助けを求めましょう。

閉じこもってフリーズしたりグルグル回っていても問題解決に繋がりません。

閉鎖系や物理限界について学んだら、「有難う」って開放系に切り替えましょう。

◎守ろうとする人

「何か(だけ)を守ろう」とすればするほど、視線は内側を向き、閉じた壁は厚く狭くなり

外は敵だらけとなり、守ろうとしていたものさえ犠牲にして小さくすり潰していきます。

守ることは諦めましょう。閉じた円に先はありません。閉鎖系概念は生かすには矛盾なのです。

手放しましょう。開放系に切り替え、全てを活かす道を採りましょう。

◎「済みません。」しか言えない人

自分を閉ざした考え方のために「相手から奪っている自分」を感じて「済まない」と思うのですが、済まないでは澄みません。心に借金を重ねて濁っていきます。

借金してしまった分はとっとと返してしまいましょう。払いきれない分は「ご免なさい」と免じてもらいましょう。 自分を開いて「ありがとう。うれしいっ!」と感謝と共に元気エネルギ−を相手に上げましょう。

◎自分を責めてばかりいる人

「わたしのせいだ。」なんて自分を責めるだけでは問題解決になりません。また、できないことで自分を責めても仕方ありません。何故それが起きたのか客観的に考えましょう。自分と他人の責任を区別しましょう。再発防止の為に具体的に何が可能か列挙し行動しましょう。ニ度と同じ失敗はくり返さないと知れば、そのことは済まし、自分を澄ましましょう。

◎悪者探しをする人

誰かのせいにしても問題が解決するとは限りません。それが正当とも限りません。親兄弟や周囲の人のせいにしてもあなたは救われません。犯人捜しと問題解決は別です。自分を救うことも考えましょう。

◎「みんなが悪い」と言う人

最も悪いのは、あなたです。みんなに嫌われて当然です。他人のせいにばかりするのは止めましょう。不満タラタラ言いながら「自分にはできない」等の言い逃れをしたり弱者のフリをして助けを求めるのは止めて、自分で行動しましょう。

◎許せない人

本当に相手が悪いのでしょうか。問題の多くは自分が引き起こし、結果を受け止めたのも自分です。

同じことを許す人と許せない人がいます。「許せない」と感じるのは、感情のトラブルなのです。

考えた結果「許さない」という時は、自由や生存等を確保するという理由がついているはずです。何故許せないのか、何故そうなったのかを考えましょう。

復讐を考えている人

逆恨みは論外ですし、報復合戦は問題解決に繋がりません。しかし、理不尽なことをされたのでしたら、復讐は当然です。きっちり片をつけましょう。徹底的にやりましょう。

ただ、もっと賢いのはやられそうになった時にやることです。「正当防衛」なんて言葉もあります。そしてもっと良いのは、やられないことです。「君子危うきに近寄らず」と云います。

また、復讐を果たしたからといってあなたの喪失感や傷が癒えるとも限りません。ですから自分自身の救済も考えておいて下さい。何故それが起きたのかを考査して再発防止運動を行うのも良いでしょう。

◎いつも身構えている人

見境のないファイティングポーズは周囲の緊張を生み、無益な戦いを引き起こし共倒れの原因となります。戦うばかりが能ではありません。共存の道を探りましょう。自分が賢いことを証明しましょう。

◎闘わざるを得ない人

「殺るか殺られるか」という問題解決思考方法は難易度として易しいですが損害も大きなものになります。戦わずに済むが良いです。しかし闘わざるを得ない時は言い訳を考えずさっさと勝って終わらせましょう。

◎我慢している人

あなたの気持は漏れ出ています。溢れてしまっています。いくら笑顔をつくってみても口で何と言おうとも、気持は必ず伝わります。怒りを我慢しているのに周囲の人から「怒りっぽい人」と評価され、何も言っていないのに「言いたいことを言う人」「好き嫌いが激しい人」と言われるのは、全部ばれてしまっているからです。ばれてしまっているのに我慢する必要はありません。自分を出すことです。そして隠すのではなく何故隠さなければならないような自分なのかを考え、解決策を図ることです。

◎期待する人

期待とは自己表現欲求の他人への転嫁です。自分のやりたいことを自分でやり切っていないから欲求不満となって他人の肩に載るのです。

自分をやりましょう。自分でやりましょう。他人は別の存在で、期待通りになっても自分に真の満足感は来ないと知りましょう。自分で切りをつけましょう。

◎心配する人

あなたのネガティブなエネルギ−が状況を更に悪化させています。心配しても良い事はありません。現状を丸ごと承認し、改善のための自分の努力意識を向けましょう。

八つ当たりする人

自分の大切なものを傷つけています。怒りを出してはならないと言っているのではありません。怒って当然の時はあります。その時に怒りましょう。その相手に怒りましょう。我慢しているから溜まって本来向かうべきではない方向に殺すエネルギーが向かうのです。出すべき時に出しましょう。

コントロールのために怒る人

怒りは時として相手をコントロールするために発せられます。怒った時は相手の生命エネルギーを得ていい気になるのですが、他人のエネルギーは長持ちせず、すぐイライラします。不当に怒られた側は次の誰かに八つ当たりするか、予防または反撃を考えるでしょう。他人に依存するのは止めましょう。自分の内側から生命をくみ上げましょう。自分で自分を活かしましょう。

「ありがとう」と言えない人

気の強い人や自尊心の強い人の中には、上手に「ありがとう」と言えない人がいます。

「ありがとう」と言うのが自分の欠点や過失を認めるような気がするらしいのですが、

「有り難い」というのは、人間物理限界を知りそれを認めることのできる心の強い人が感じる感情ですので、

恥ずかしがらずに素直に表現すると良いと思います。

感謝を受け取れない人

餌付きの釣り針でない限り、感謝は素直に受け取りましょう。

そのほうが相手も楽になります。「当然のことをしたまでだ。」なんて肩肘張らないで

あなたは意外にいいことをしたのです。自分のしたことの価値を認めて

相手と一緒によろこびましょう。するともっと一緒に楽しく生きられます。

◎「感謝の気持が通じない」と言う人

感謝は自分がしたら済むのです。感謝の見返りを求めるのはやめましょう。

感謝とは

ニコニコニコ。「うれしいな。」「よかったね。」「ありがとう。」など

内から生命エネルギーが湧く感情や言葉

何かをもらうから交換に感謝するのではありません。

もらっていることに気付くと出る良い気持ちが感謝です。"I am Lucky!!"ってね。

良い気がしない時は、手放してみましょう。なくなると価値がわかります。

◎わかってもらえない人

まず自分や相手の事を理解しましょう。自分の矛盾点を見つけて解除し、自分をスッキリさせましょう。

相手の許容性等も把握しましょう。そして明確な意志を伝えましょう。

◎「何を考えているか分らない人」

情報不足であったり思考能力が足りない可能性と、価値観や思考プロセスが異なっていてあなたの理解外の可能性があります。情報や考え方を伝えましょう。また、理解外を許しましょう。

◎誰とでも仲良くしたい人

無理があります。負荷があなたやあなたの大事な人にかかっています。大事な人とそうではない人を区別しましょう。

人は各々異なっています。全員に好かれるなんて不可能です。嫌な顔を隠しながらお付き合いするのは止めましょう。

群れていたからといって助かるとは限りません。大きな船でも沈む時は沈むのです。良い人とだけお付き合いしましょう。

◎なぜ、嫌いなんでしょう?

「あの人とは付き合いたくない。」という人がいたとします。

その人があなたを傷つける人なら嫌いで当然です。でもそれ以外の理由なら、なぜかと自分に聞いてみる価値があります。

また、その人はあなただけを傷つけるのでしょうか? それとも誰にでもそのような態度をとるのでしょうか? もしあなただけに酷い態度をとるようなら、そこには何か理由がありそうです。周りの誰もがあなたを傷つける態度をとるなら、あなたに問題があるのかもしれません。

理由や問題を検索し、問題解決行動を採りましょう

◎「駄目」や「嫌い」の多い人

「嫌い」「駄目」が多い人はこの世界を楽しめません。その多くは思考制限による感情のトラブルです。産まれてから現在に至るまで家族や狭い社会からプログラミングされてきた結果です。自分で組み込んだものもあるでしょう。よく世界を観ましょう。世界は自由で様々な形で存在しています。自分の制限プログラミングをはずしましょう。

◎ジミー坊やと白ねずみの

心理学では有名なお話です。

ジミー坊やは白ねずみと遊ぶのが大好きでした。優しいおじいさんも好きでした。

ところがある人が、坊やが白ねずみと遊ぶたびに坊やに電気ショックを加えました。

幾度か繰り返されるうちに坊やは白ねずみが嫌いになりました。それだけでなく坊やはおじいさんも嫌いになりました。

おじいさんの長く白いひげが白ねずみに似ていたからです。

ひどい話ですが、似たようなことは誰にでもありうる話です。

例えば、子供の頃苦手だった誰かと同じ名前の人に対して、別人だと解っているのに何故か緊張してしまう等も、このパターンです。

(実際は、本人が気づかない処で混同などが起きていることが多くあります。)

このような制限プログラミングをはずすお手伝いをアースフィールドでしています。

◎奪い過ぎている人

何でも見境なく「私が」「私に」と言う人は、他の誰かのチャンスを奪っているだけでなく、自分の本当に欲しいものさえ見失ったり得る機会を逸したりします。

人には容量があると知りましょう。手を引くことを学習しましょう。そうすると人生が綺麗に流れて、今まで知らなかった世界が広がってきます。苦労していたのが莫迦みたいに思えてきます。

◎信じて裏切られた人

「信じる」とは不安を紛らす等のために現状を思い込みにより認識することです。ですから信じた様にならなくても不思議ないのです。人は変化し言葉は完全ではありません。人や言葉を信じるのではなく自分の目や感覚を信じましょう。予想通りにならなければ自分が間違っていたのです。自分にチェックをかけ直しましょう。

言葉に囚われている人

言葉は事物やイメージを切り取ったものです。その切り取り方は人や状況により異なります。全く同じというのは有り得ないのです。切り取る対象自体が異なる場合もあります。言葉は完全ではないと知りなさい。そして人により状況により言い方や受け止め方を変えましょう。

◎相手に合わす為や支配のために会話する人

その関係は長続きせず、あなたは会話をするのが嫌になるでしょう。会話はエネルギ−の奪い合いの為にあるのではなく、何かを理解し伝えるためにあるのです。無理な会話を止め、知りたい時や教えたい時だけ言葉を使いましょう。

◎不安の裏返しでしゃべる人

物凄くよく喋る人のなかには、自分の不安を覆い隠そうとしている人もいます。内容に殆ど意味はありません。聞く側としては、真面目に言葉を受け止める必要はありません。

自分が不安で喋っていることに気が付いた人は、一人のときに何故何に不安を感じているのか考え、解消しましょう。

◎黙っている人

言葉は完全ではありませんが、言わないと通じないこともあります。言うべきことを言わないと状況はあなたの望まない方向に行くかもしれません。

言いましょう。何を言えば良いのかわからない時は、相手の言葉意味を受け止められていない時です。

解るまでその場で問い質しましょう。

◎「見ザル言ワザル聞カザル」という人

ヒトのすることではありません。自分に関することは、ちゃんと見聞しましょう。言うべきことは言いましょう。自由と権利を取り戻しましょう。

◎言わずにやってしまう人

言わずに人の分まで何でもやってしまう人は、その人の行動するチャンスを奪っています。

問題点があるなら言いましょう。言っても伝わらなければ本人が気付くまで待ちましょう。

その間に、自分が何故それに不満を感じたのか自分の内側の答えも求めましょう。

言うばかりでしない人

あなたは自分の行動能力を失っていきます。自分のすべきことはしましょう。

誰がやっても良いことは手の空いている限り手を出しましょう。手を出して

自分の手で何かができると楽しくなり、あなたの行動能力もあがっていきます。

愚痴を言う人

愚痴を言う」という行為は、相手から生命エネルギーを奪う行為です。

自分は気持よくなりますが、相手は疲れてしまいます。相手に縁を切られても仕方ありません。

また自分が気持よくなるのも一時だけです。問題解決しないので、すぐに不満が溜まり同じことを言いたくなります。

問題解決の為の行動を起こしましょう。愚痴を言わないのも解決法の1つです。

◎恩を仇で返す人

何かをしてもらったり教えてもらった時に、文句を言ったりけちをつけたり愚痴を言うなど礼を失する人は、やがて相手にされなくなります。

お礼だけ言いましょう。何か言ってしまいそうなら頭を下げるだけにしましょう。

ためになったり嬉しかったら感謝も捧げましょう。

◎恩を義理で返す人

恩返しは、感謝と「やりたい」気持でするものです。「半返しにしておくかぁ。」などと金額で測ったり義理で返す人は、恩返しではなく好意に対して取引で応じているのです。礼を失する行為はやめましょう。自分の気持を大切にしましょう。

◎他人の意見占い等に頼りすぎる人

自分の感覚や自由意思を尊重しましょう。あなたの道はあなたの足元にあります。

◎話を進められない人

「考えてみます。」と話を持って帰った後、否定的な考えばかり浮かんだり二度三度と同じ相談をするようなら自分を疑ってみるべきです。誰かに相談して「考えてみます。」等で話を濁しているようでは、あなたの本気が疑われます。本気で問題解決したいなら具体的な部分までその場で話を詰めて、即行動しましょう。

◎愛想笑いをする人

自分に嘘をついています。口は笑っていても声や目は別のメッセージを伝えます。

他人に合わせて笑ったり怒ったりしていると自分の感情を見失います。

自分に正直になりましょう。心の底から笑えるようになりましょう。

愚痴をよく聞く人

愚痴は悪口です。それはあなたの意識を汚します。

あなたに愚痴を言うのは聞きそうな態度だからです。信頼しているからではありません。その人はあなたの悪口を別の人に言うでしょう。何の解決にもなりません。「私に愚痴を言わないで!」と硬く断りましょう。態度で示しましょう。改めれば問題解決法を考えてあげましょう。

◎相談される人

愚痴を言うかわりに人の意見を聞くタイプもいます。

「何々についてはどうでしょう?」と聞いて、ふんふんと頷きながらよく人の話を聞く。

でも実行しないし変化もない。何度でも同じことについて聞く。

聞かれている側は最初は気持が好いのですが度重なると疲れてきます。

自分のアドバイスを再検討するか、相手を再評価するか、時期が来ています。

◎何でも疑ってかかる人

それは期待が裏切られるんじゃないかという恐怖心から来ます。人は時に自己存在さえ疑います。しかし自分まで否定すると何も分らなくなります。ベストは制限のない思考をベースとした体験を積み上げることです。疑うなら行動しないことです。じーっと見てるんです。そして何か「分かった!」と感じた時か欲求が自分の中から起きた時に、その分だけ行動します。余計なことはしません。その分だけです。そしてまた結果やら何やらをじーっと観察するんです。疑うだけでなく「確認」という結果を出していくんです。そうして繰り返しているとだんだん自分と世界のことが解ってきます。そうするとだんだん生きているのが楽しくなってきます。

◎「石橋を叩いて渡る」人

100%はあり得ません。石橋でも壊れる時は壊れるのです。自分で叩き壊しておいて「この橋は危険だった。叩いてみて良かった。」と言うのは止めましょう。

その石橋を叩いて試している年月の間に次の橋が崩壊しているかもしれません。

石橋とわかっているならさ

2008-09-11

911から七年

何が起きて世界がどうなったか

僕の良く行くサイトの人たちはわかっている感じがする

でも、あまりにも当たり前すぎて、わざわざわかりやすく言語化する人は見かけない

パトレイバー2が公開されて、911があって、伊藤計劃虐殺器官が発売され、そしてダークナイトが公開された

みんなきっと同じ文脈として理解してるはずなのに誰も語りたがらない

ここで簡単にまとめたいと思う

911世界に示したことは現代社会では戦争に「前線」なるものは存在せず

人はいつでも隣人を殺せるという簡単な事実だった

前線

これが昔の戦争なら軍需施設を攻撃しないと意味がない効率の悪い攻撃だった

わざわざ戦意を挫くために教会を爆撃した国もあるがそれはもちろん特別なケース

しかし今の時代の戦争はただ単に破壊すること殺すこと自体が目的だ、対象は軍事施設に限らない

そこには兵士たちの前線も国境もなく内部から内部への攻撃が行われる

911以降アメリカイラクに侵攻し現在も駐留していて毎月何人かは死んでいる

死んでいるのはウェストバージニアの貧民とグリーンカード目当ての外国人だが

それでも十分大きなコストアメリカは払っている、なぜこんなことをしてるのか?

石油のため?いや違う、強制的に兵士たちの前線を作り出すことで本国を守っているのだ

テロリストアメリカテロを起こす難易度は以前よりはるかに難しい

単純にアメリカ人を殺すならわざわざ本国まで行かなくてもイラクに行けば殺せる

こうしてハマステロリストたちはアメリカによって飼い慣らされたのだ

だがもう私達は知っている、戦争前線はないということを

「人は隣人を殺せる」

ちょっと前の秋葉原の事件、最近起きた反撃したら意識不明で傷害罪の事件

ダガーナイフが悪いだとか正当防衛なのに捕まえた警察が悪いとか言うけど根本的なことを見失ってる

通り魔は防げない、人は隣人をいつでも殺せる、駅のホームで、街中で、エレベータで、家庭で

本人が捕まる、あるいは死ぬ覚悟さえあれば人はいつでも隣人を殺せる

それを防ぐことは誰にも出来ない

ただ、そんなおかしい奴は何十万人に一人だから社会的リスクとして含めようというのが現代社会

交通事故の死者は道路と車を基盤にした社会の必要な犠牲と同じことだ

おかしな奴が車で轢き殺し刃物を振り回しても、学校で銃を乱射してもせいぜい3,40人しか殺せない

その程度では社会に与えるダメージは少ない、何年に一度は起きるただの不幸な事故ですむ

だがみんなそれを貴い犠牲とは思わない、防ぐことが可能な事故と言い張って社会が悪いことにする

みんな口に出すことが怖いのだ、人は他人を殺せるという当たり前の事実

ダークナイト

ジョーカーは言った

俺の好きなものは「ダイナマイトガソリンガンパウダー、皆安いものばかりだ」

人を殺すのに必要な火薬の量は僅か2g程度で十分らしい

いくらガソリンが高くてもペットボトル一本で地下鉄燃える

これが命の値段、確かに安いものばかりだ

多額の費用と高度な教育を受けた人間を使役して失敗作の毒ガスを作るよりよっぽど効率が良い

ダークナイトはこの時代がテロという国家組織戦争から個人対社会戦争に移行したことを示している

バットマンは個人で強大な金の力をもって戦いを挑むがジョーカーは違う、ただ一つ狂気だけをもって戦う

もちろんジョーカーにも仲間はいるが顔の無い雑魚ばかりだ、同志とは違う

ジョーカーはたった一人で国家より更に強大な社会戦争を挑んだ末に敗れた、バットマンではなく市民

だがこれは映画だ、私達はジョーカーに、狂気を超えた本物の正気に勝てるのだろうか

僕は怖い、満員電車が怖い、街の人混みが怖い、暗い路地が怖い、大きな建物が怖い

自分が殺される僅かな確率におびえているんじゃなくて、だれかがそこで戦争を始めたら、たった一人で戦争を始められるという

世界がこの簡単な事実に気がついてしまったら、モヒカンの徘徊する、あるいは感情を抑制する未来が待っている気がする

それが一番怖い

2008-07-22

http://anond.hatelabo.jp/20080722115834

私は死刑廃止に賛同する。

もっとも、あなたの様に優しくはないし、思慮深くも無いので、フィーリングなのだが。

とりあえず、なぜ殺すのかわからない。

殺人が良いとは思えない。

邪魔だから消すってのも、いかにも安易だ。

仇討ち代行とか見せしめとか言われるが、あまりそういうのは大っぴらにやってほしくない。

殺して無かった事にしたいのか、死んで責任を取った事にしたいのか、そういう、臭いものにフタをする風潮がやだ。

人殺しが許せないのなら殺すのを許すのはおかしい。

人を殺すのはダメ、というのにあまり例外を作ってほしくない。

正当防衛でも、殺さなくて済むなら殺さないほうが良い。

殺す必要が無いのに殺す必要はない。

戦争だから殺しても良いというのは変な話。

だから、人を殺すのはダメ、でよいと思う。

2008-05-23

http://anond.hatelabo.jp/20080522235147

ごめんなさい。30前後女性をみんな攻撃するつもりはありません。


みんなじゃないということは前のエントリからは読めない。

正当防衛だと大目に見てください。


正当防衛が通用するのは加害者だけ。

やってもないひとを攻撃して「やめろ!」って言うのは、過剰防衛。

増田さんが10代のアルバイトが好きでアタックをしているならやめてください。


こういう勝手恋愛感情を持たされるのが一番不愉快

誰もがあんたの加害者のようなことをしている訳ではない。

むしろ稀有な存在

加害者を訴えるなんなりすればよい。

増田で罪もない人々に対して暴言を吐いていて、正当防衛とは片腹痛いわ。

やっちゃった後悔は自分の責任なので、そのマイナス感情を他人にぶつけるな。

被害者の立場だったら何をしてもいいと思う増田が一番性質が悪い。

http://anond.hatelabo.jp/20080522235147

それは正当防衛じゃなくて過剰防衛だよ。

君は今被害者だけでなく加害者でもあるんだよ。気付いているかい。

被害者なら何やってもいいなんて気でいると君を傷つけた人と同じレベルなっちゃうよ。てかなってるけど。

2008-05-22

http://anond.hatelabo.jp/20080522233106

ごめんなさい。30前後女性をみんな攻撃するつもりはありません。正当防衛だと大目に見てください。

増田さんが10代のアルバイトが好きでアタックをしているならやめてください。

2008-05-21

裁判リテラシー講座番外 グリンピースのいう不法領得の意思って?

裁判リテラシー講座を書いてた者です。

グリーンピース・ジャパンという環境保護団体が、西濃運輸の配達中の荷物を無断で抜き取ったのが話題になっています。

この行為には何罪が成立するのでしょうか。そもそも犯罪なのでしょうか。

なお、グリーンピース・ジャパン当人は、「違法性については判断できない」とコメントしていますが、

裁判所が判断すべき事項だと言ってるのなら当然です。

ドラクエで言えば「大魔王からは逃げられない」と言ってるくらい当たり前の話で、何の法的意味も持ちません。

当協会としては違法性はないと思ってると言っているのなら噴飯モノです。

ここで、グリーンピース・ジャパン顧問弁護士は「不法領得の意思がないから無罪だ」といっています。

この反論を踏まえながら検討してみたいと思います。

窃盗罪に当たるには

刑法を紐解いて見ますと、235条に窃盗罪が定められています。

第235条 他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、10年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。

窃盗罪が成立するには、i.他人の財物を、ii.窃取することが必要です。

このように、条文上現れる犯罪の要素を「構成要件」と言います。

構成要件は、基本的に客観的に定められたもので、法がこのような行為をした者に違法性・有責性の推定を与えたものです。

ようするに、「こういう行為した奴は正当防衛とか意思無能力とかの特別の事情がない限り処罰しちゃうよ?」ってなわけです。

これを構成要件の違法性有責性推定機能とか、構成要件は違法行為を類型化したものだとか言います。

今回の事例ではi.については疑いようがないでしょう。

ii.の窃取とは、所持者の意思に反して自己の占有下に置くことをいい、無断で抜き取りという態様を考えれば当てはまると言えます。

しかし、解釈上、iii.「不法領得の意思」が必要だとされていて、学会の通説でもあり、最高裁判例も取るところとなっています。

「不法領得の意思」とはなにか

「不法領得の意思」とは、判例上、「権利者を排除し他人のものを自己の所有物と同様に、その経済的用法に従いこれを利用し又は処分する意思」とされています。

簡単のために前半を権利者排除意思、後者を利用処分意思と言ったりもします。

では、そもそもなぜこのような意思が必要とされるのでしょうか。

上記のi. ii.だけでは絞り込みが足りないからなのです。

i. ii.だけだと、たとえば、無断で一時的に自転車を借りて元に戻した場合でも窃盗罪になってしまいます。

彼が盗んだのは、自転車を利用するという利益であって財”物”ではないので、窃盗罪に当たるとするとおかしいことになります。

また、壊すために盗ってきて、実際に壊した場合に窃盗罪が成立してしまうとすると、

器物損壊罪が軽く定められている(3年以下の懲役又は30万円以下の罰金意味が失われてしまいます。

盗んだものは取り返せるけど、壊したものは戻ってこない。なのになぜ器物損壊罪のような毀棄罪が軽いかというと、

盗むという行為こそ誘惑的で悪性が強く、これを強く禁圧する必要があるからです。

一時利用行為を窃盗から外すために権利者排除意思が、毀棄罪との区別のために利用処分意思が必要となっているのです。

権利者排除意思は、平たく言うと、所有者のモノを自分のモノにしちゃおうという意思です。

自転車の話と同様に、返却すればこれは否定されたかも知れませんが、どうやら彼らは盗んだあげく、返さずにスタッフがおいしくいただいたそうです。

とすると、これは認められるといえます。

利用処分意思は、定義の通りですが、判例上、経済的用法を広く捉えています。

2chなどでもあがっていましたが、女性用下着を男が盗む行為にも利用処分意思を認めています。

下着をアレしたりコレしたりする行為ですら経済的用法に含まれるということです。

そのほかに出てきた例としては、細長いモノを巻き付けるために盗んだ電線を使って巻き付けたというものにも認めています。

彼らは、不正を行っているという証拠物として提出したというのですから、これらと対比しても利用処分意思があったといえるといえます。

食べたというのならなおさらです。

このようにして、弁護士の主張は失当ではないかと思われます。

故意と不法領得の意思の関係

ネット上の言説を見ていると、これらの二つを混同しているモノがよく見られました。

ですが、これらはまったく別物です。

不法領得の意思は解釈上、「主観的構成要件」と位置づけられるのが一般的です。

客観的なのが構成要件というのが原則なのですが、

先のような不都合から、不法領得の意思をも構成要件としないと構成要件の違法性有責性推定機能が達成されません。

なので構成要件です。

一方故意というのは、「構成要件事実認識したのに、これに歯止めをきかせず犯罪行為に出たこと」をいいます。

これは、有責性を基礎づける要件なので、構成要件とは区別されるものです。

両方とも主観的要素なので、法律をかじったことのある人間でないとちょっと難しいと思われます。

認識の対象が違うことだけ押さえておけばよいでしょう。故意は構成要件事実、不法領得の意思は上記の二つの意思。

本件では、i. ii. iii.の事実(厳密に言えば因果関係も)を認識していながらあえてやった場合に故意が認められます。

まあ、彼らも分かってやってるでしょうから(刑法でもこういう場合に確信犯といいます)故意は否定すべくもないでしょう。

まとめ

窃盗が成立するには、i.他人の財物を、ii.窃取し、それがiii.不法領得の意思に基づくことと、それらに故意があることが必要。

弁護士の主張は失当だと考えられる。

故意と不法領得の意思は別物。

2008-04-29

死刑

冤罪の可能性がある

すべての刑罰に冤罪はあるので死刑に限って反対する理由にならない。

さらに、冤罪を理由に廃止してしまったら通り魔や立てこもり犯のような現行犯死刑にできなくなる矛盾が起こる。

命は取り戻せない

取り戻せないことを論点にするなら時間も取り戻せない。

ならば懲役も反対しなければダブルスタンダートである。

死刑廃止世界の潮流である

嘘。死刑廃止は90国、死刑存置は97国。

さらに、潮流とやらで内政を決定しなければならない理由は主権国家である以上まったく無く、

仮にそうならば真っ先にあなたは9条の廃止と正式な軍隊を持つように主張しなければダブルスタンダートである。

抑止力が無い

嘘。非常に大きな抑止力があると証明されている。(一件執行されるたびに殺人が5件減少する)

また、厳罰化の結果飲酒運転は激減しました。罰が重いほど罪を犯しにくいという結果が出ている。

国が殺人を容認するのはおかしい→刑罰は殺人では無く法治国家における正当な司法である。ならば懲役監禁罰金恐喝になる。

犯罪者にも人権がある

自然権以外の人権は国が保障したものであり国の法に反した者の人権を制限することは何も矛盾は無い。

終身刑でいいだろ

日本刑務所は満員を超えて116%の収容率になっている。場所が足りない。税金無駄

さらに、死刑になるような凶悪犯罪に対する罰がその程度では国民が納得しない。国勢調査で8割以上の国民死刑を望んでいると出ている。

自分がいつか殺人を犯すかもしれないだろ!

犯しません。普通加害者になることよりも被害者になることを心配します。

刑務官がかわいそう!

職業選択の自由日本にはあります。

野蛮!

日本はどの廃止国よりも犯罪率の低い国です。ちなみに廃止国は現場で射殺しています。日本では正当防衛で撃っただけで問題になります。

中国中東人権侵害国家と同じだ!

殺人、強姦等の犯罪を犯した者と、政治犯宗教犯を一緒にするな。

神は人間人間を裁くことを許さない

法治国家全否定ですか。

死んだ被害者よりも生きている加害者を助けよう!そのほうがインテリ

んなこと言ってるから支持が得られないんだよ、犯罪者の味方さん。

2008-04-24

http://anond.hatelabo.jp/20080424111526

最低限の緊急非難的な暴力正当防衛として社会的に認められているから、

最終的な殺す、殺さないの判断には細かい場合分け、条件付けが必要だとは思う。

2008-03-16

http://anond.hatelabo.jp/20080316120917

切捨御免ってちゃんと調べてみろ。そんな適当なものじゃないぞ。

切り捨てていい条件というのは細密に法で決められている。

(当時の)法益の元に認められた正当防衛行為なんだよ。

殺人が合法とされていたわけじゃない。合法的な殺人があっただけだよ。

その意味では、例えば現在だって死刑は合法的な行為だ。

>もっと昔には、法律すら無かった。強盗、殺人、強姦、なんでもありだった。

原始時代のお話ですか?

2008-03-07

http://anond.hatelabo.jp/20080307105929

だから、理解されないで当然だしそれが前提ってことだよ。

理解してくれる人がもしいたら、それはラッキーだけどな。

間違った意見を言われてそれを否定するのはいいよ。

ただ、攻撃的な意見を言われて、意趣返しに相手を悔しがらせようとするのはそんなもん正当防衛でも何でもねーじゃん。

俺はそういうの嫌いじゃないし、相手が暴言を吐きたいだけだと思ったら自分も暴言を吐き返すよ。

それは悪いことじゃない。ただそれをやった時点で、言葉の応酬はただの殴り合いになる。

どっちが正しいとかどっちが間違ってるって話じゃなくて、匿名での傷のつけ合いだ。

その自覚はもたないといけないと思うよ。そして、それが外から見られていることも忘れちゃいけない。

で、聞きたいんだけど侮辱罪ってのを持ち出したのは何故?

ここは匿名前提の場で事実あなたも匿名で書いている以上はそんなもんに問いようがないと思うんだけど。

逆に訴える意思もないのに訴えるって言葉を使ったら脅迫に問われるわけでさ、これもお互い匿名だと無効になるのかもしれんけど。

どっちにしたってあなたの侮辱罪発言ってのはもう不条理としか言いようがないよね?

今あなたに注目が集まっているのはまさにそこだよw

2008-02-17

勃起できるのなら

強請ったつもりになっていたが、実は男はなんとも思ってなかったと言えないか?

法的には、男が強請られていた事実を証明できれば、女は有罪になると思う。あとは、これが女が犯罪を実行中に自分の身におきたことだが、さてどうなんだ。まず男は正当防衛としては認められないだろう。押し倒して逃げ出せばいい。

しかしながら、(そういうつもりではないだろうが)小説の筋としては弱いな。強姦したら

男「辱めを受けた事をばらされたくなかったらネタをよこせ」

女「何言ってるの、出るとこ出てあんたを破滅させてやるんだから」

男「いいさ、その代わりお前も恐喝未遂で一生犯罪者と呼ばれるぜ」

女「くっ」

って感じじゃない?

http://anond.hatelabo.jp/20080217152057

2008-02-02

裁判リテラシー講座第五回 証明って? 証明責任って?>

第一回 第二回 第三回 第四回 第五回

コンセプトは、ニュースなんかで裁判の話が出たときに、そのことをきちんと理解して、

その内容を適切に評価する能力の涵養、です。回を追うたびに長文化してすいません。

今回は「証明責任」を取り上げます。「証明責任」というと、法律とは関係のない議論でも使われますね。

「大虐殺がなかったというのは、否定派が証明責任を負うはずだ」「いやいやそんなのは悪魔の証明だ」なんつって。

また、「証明責任」とか「立証責任」とか「挙証責任」とか「主張責任」とか、なにが違うのかよく分かりません。

ここでは、「証明」の概念について簡単に触れてから、これらについて説明したいと思います。

証明

裁判では、当事者が証拠を提出しお互いに事実を主張立証して、権利を(民事)、無罪・有罪を(刑事)得ようとします。

そして、証拠により証明された事実を元に裁判所は判断することになります。

では、証明ありとされて事実があったとされるのはどういう場合でしょう。

法は自由心証主義を定めています。裁判官の心証、つまり理性を信頼して、それに頼っているのです。

かつては法定証拠主義といい、たとえば二人以上の目撃証言があれば有罪、などとしていましたが、

いきおい虚偽な証言や拷問が入り込んでしまったという経緯があるのでこのようになっています。

裁判官の理性のみに頼っていると聞くと、「だからアレ判決が出るのだ」などと思われるかも知れません。

しかしながら、我が国では裁判官にはハードキャリア制をしいていますし、

前例の積み重ねに頼る面もあり、アレ判決は上訴審でも争えることを考えればこの批判は当たりません。

このように理性のみで証明ありなしを判断しているのですが、民事と刑事ではその意識レベルに差異があります。

刑事では、憲法の要請である適正手続を図る必要があるので「合理的な疑いを容れない程度」の証明が必要です(例外もあります)。

感覚で言えば9割かそれ以上あると確信している状態でしょうか。(このような割合を証明度といいます)

一方、民事ではそのようなものは働かないので、7??8割くらいの証明度でよい。

裁判官の経験が培ったカンを、証明度などと客観的に推し量れるものではないのですが、観念的にはこうなります。

以前お話しした民事と刑事が交錯する交通事故の事件では、

刑事では無罪(あるいは起訴を断念)とされたのに、民事では損害賠償が認められた、なんていうことがよく起こります。

これは、まさにこの証明度の差がもたらすものと言えるでしょう。山形マットいじめ事件でも同様なことになっています。

ともかく、証明ありとされれば、事実を認定し、証明なしとされれば事実を認定しないのが裁判所の取り扱いです。

証明責任

では、証明ありかなしかはっきりしない場合(真偽不明、ラテン語でノンリケットという)はどうなるでしょうか。

「どっちにも認定できないので裁判官は何も判断しません^^」というのもひとつの手ではあります。

しかし実際の事件で、確実に認定できる事実なんてさほどないわけで(全部出来るのは神様だけ)、この手は非現実的に過ぎます。

そこで、現行法では、「証明責任」という概念を導入しています。

「ある事実が真偽不明となった場合に、判決においてその事実がないことにされるという当事者不利益」です。

要するに、真偽不明となった場合には、一方の当事者にその事実なしという不利益押しつけてしまおうというものです。

ここで、「証明責任」というと、なにやら「証明しなければならない責任」という風に読み取るのが自然な感じがします。

ですが、「証明責任」を負った当事者、つまり真偽不明のときに不利益を受ける当事者は、別に法が証明を義務付けているわけではありません。

ただ、不利益を被ることによって威嚇して、証明をがんばらせようと仕向けているだけです。

証明しなくてもいいが、自己責任で。ってやつです。

で、問題となるのが、どちらの当事者に証明責任、つまり不利益押しつけるか。

一応証拠を提出したのに証明なしと同じ効果をもたらすというのですから、押しつけられた方はたまったもんじゃありません。

どのように折り合いをつけているか、まずは刑事の場合をお話ししましょう。

刑事の場合は、どこかで聞いたことがあるかも知れませんが、「疑わしきは被告人利益に」という原則があります。

(「疑わしきは罰せず」と言われることもありますが、より広く、「被告人利益に」とするのが正確です。)

真偽不明はまさに「疑わしき」に該当しますので、被告人利益に、つまり検察官不利益になります。

したがって原則として検察官側が証明責任を負います。

例外として話の種になりそうなのは、児童福祉法60条3項における不知に関する無過失の証明があります。

平たく言うと、児童とエッチ行為した人が「児童とは知らなかったんです><;過失はないんです><;」という証明です。

ここでも被告人利益なっちゃったとしたら、言ったモン勝ちになってしまいますよねえ。ということで例外にされています。

続いて民事の場合。

民事では、刑事のような大原則があるわけではないので、様々な説が唱えられています。

通説的な見解で、実務上も基本的にこれによると見られる説が、「法律要件分類説」です。

これは、法律にどう定められているかで判断するものです。

基本的に法律は次のように定められています。つまり、

「権利の発生については、それを主張する者が証明責任を負う。

権利の障害・消滅・阻止については、権利の存在を否定する側が証明責任を負う。というものです。」

たとえば、売買代金を請求する原告は、売買契約の発生について証明責任を負います。

一方で、これに対しすでに払ったと主張する被告は、すでに払ったこと(弁済)について証明責任を負う、というわけです。

また、よく法律にある「但し書き」については、権利を障害するものなので、本文の証明責任を負わない方の当事者が負うことになったりします。

この考え方は、硬直的に過ぎて、たまに不都合なことがあったりします。

なので、法自体が、あるいは解釈によって、証明責任を転換する場合があります。

こっちに証拠が全くなくて相手方に証拠がある場合には相手方に負わせてもいいですよね。

また、消極的事実の立証を求める「悪魔の証明」となってしまう場合には、基本的には存在を主張する者が証明すべきです。

このように、立証の難易度に応じて証明責任を分配する説を「実質的分配説」と言います。

実務ではこの考え方を補充的に用いています(たとえば準消費貸借契約における原契約の成立について)。

ここらへんの話は、「大虐殺がわーきゃー」という議論にも応用できるかも知れませんね。

主張責任

では主張責任とはなんでしょうか。

「ある事実訴訟に上程されない場合に、判決においてその事実がないことにされるという当事者不利益」です。

裁判所では、当事者の言わないことはなにも判断しないのが原則なので、こうなります。

これを弁論主義といいます。裁判官はどちらの味方にも立たず、あくまでジャッジとしての役割しかしないということですね。

ここでよく考えてみると、「証明責任」に包摂されていることに気づきます。

つまり、ある事実があると主張する者は、その事実について証明ありとしなければならない(証明責任)んだから、

当然にある事実訴訟に上程しなければならない(主張責任)ってことです。

このように、民事では完全に一致します。

刑事においては、例外が発生します。

たとえば、正当防衛があったということは、被告人が主張すべきです。

なぜなら、検察官に毎回、「正当防衛ではない」「緊急避難ではない」などという主張を強いるのは負担が大きすぎるからです。

もちろん、正当防衛が明々白々な場合は検察官がその不存在を主張すべきでしょうが、そもそも起訴されないと思います。

まとめ

裁判では、裁判官の理性により、証明ありなしを判断する(自由心証主義)。

刑事では適正手続の要請から証明度が高く、民事と判断が分かれる場合もありうる。

証明責任は、証明する義務ではなく、証明出来なかった場合に負う不利益(が誰に行くか)。

刑事では「疑わしきは被告人利益に」から原則検察官が負う。民事では法律の趣旨をベースに立証の難易で修正。

主張責任はほぼ証明責任に包摂される。

なお、上では「証明責任」と「主張責任」の語しか使いませんでしたが、実は用語についてはこのようにごちゃごちゃしてます。

証明責任=立証責任(主に民事)、(実質的or客観的)挙証責任刑事

主張責任(主に民事)=(形式的or主観的)挙証責任刑事

学者が好き勝手に使っているので混乱してます。普段は言葉遣いにうるさいくせに、まったく感心できません。

2008-01-09

「人を殺してはいけない」の歴史的経緯

書くところが無いのでここに書きますね。

人を殺してはいけない理由、それは「人を殺すと自分(と身内)が殺されて切りが無いから」です。

大昔は自力救済の世界ですから、人を殺すと報復加害者が殺され、加害者家族がまた殺し返すといった具合に報復の連鎖を生み、結局部族同士の壮絶な殺し合いになったりして大変だったそうです。(今でもそういう地域は存在します。)。そういった歴史の積み重ねから、一人の殺人のせいでみんなが迷惑するのは不合理だということが人々の共通の理解として生まれ、「人を殺したら加害者死刑にされる」、いわゆる同害報復の制度が自然と整えられていきました。それが現代では国家が代行することになって、裁判死刑制度となったわけです。よって現代において人を殺してもいいのは戦争時と正当防衛の時のみですが、それすらも厳しい制限が課せられています。

そういった経緯を知っていると、この話を哲学的な話題として持ち出すのには違和感がありますね。単に社会制度の話だと思うので。

2007-12-04

http://anond.hatelabo.jp/20071204182850

ここらへんとか。

最高裁第一小法廷決定 昭和29年12月27日

警ら中の警察吏員が一通行人の服装・年令・態度・携帯品などから推して、当時同一警察署管内に頻発していた窃盗事件に関係がありはしないかとの疑いを抱き、これを呼止めて職務質問をなし、更にその所持に係る風呂敷包みの内容について呈示を求めたところ、同人がにわかに歩き始め更に逃出す等の異常の態度を示すに至つたときは、これが停止を求め職務質問を続行するためにその後を追掛けても、警察吏員として正当な職務執行の範囲を超えたものとはいえない。


最高裁第一小法廷決定 昭和29年7月15日

夜間道路上で、警邏中の警察官から職務質問を受け、巡査駐在所に任意同行され、所持品等につき質問中すきをみて逃出した被告人を更に質問を続行すべく追跡して背後から腕に手を掛け停止させる行為は、正当な職務執行の範囲を超えるものではない。

職務質問に際して逃走した者を追跡し、腕に手を掛けて停止を求めるのは、警察官の適法な職務行為であって、これに暴行を加えるのは正当防衛といえない。


最高裁第三小法廷判決 昭和30年7月19日

巡査から挙動不審者として職務質問を受け、派出所まで任意同行を求められた者が、突如逃走した場合に、巡査が単に職務質問をしようとして追跡しただけでは、人の自由を拘束したものではなく、巡査の職務行為として適法である。


職務質問のために、窓から手いれてエンジンキー回して車止めるのも適法なんていう最高裁決定もあるので、

素直に従ったほうが早く済むし安全だ。

やましいことないなら、なおさら。

ただ、シャクだってのはわかるなぁ。

2007-09-21

死刑考】他人の死を望んだり喜んだりする感覚って人間としてどうよ

 あいかわらず、この国の死刑制度に対する存置世論は強いようで、、、

痛いニュース(ノ∀`)【光市母子惨殺】 元少年「生きたい」「検察、僕をなめないでいただきたい」…弁護団、涙で「こんなに胸を張って弁護できたことはない」

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1033297.html

 ブログ主の編集方針が偏ってるって事情を差し引いても「吊るせ吊るせの大合唱」状態。あまりに人の命の重さに対する感覚が軽すぎるんじゃなかろうか?

 気に食わないやつが殺されたらスッキリするっていう人権感覚が蔓延したら「正義のための人殺しは容認される」っていうことにならないかと心配だ。

 さてそれにしても、僕にはむしろ悲しみにくれる被害者を救済する手段が「被告の死だけしかない」というこの国の現状こそ問題にすべきだと思える。

 刑事裁判目的が、被害者救済ではなく社会秩序の維持に偏っている(っていうか、それしかない)現状のもとで、被害者家族裁判へ参加することもできず、真実から遠ざけられてきた。(少しは改善がみられるが)

 悔しさを晴らしてくれるのは「厳しい量刑死刑」のみ、それだけが唯一の望みという人生はあまりに虚しい。

 一家の大黒柱を失った被害者に必要なのは、加害者への報復判決よりも、むしろ明日を生きる「生活の糧」じゃないだろうか?


 例えば、殺人事件の被害者遺族が、交通死亡事故被害者遺族が受け取る死亡保険金程度(あるいは、それ以上)の経済的救済を受けられたとしたら、被害者遺族は被告死刑をこれほど強く望むだろうか?

 いまでも量刑の判断基準に「被害者(遺族)感情」が加わっているため、加害者経済的な余裕があれば、賠償金と引き換えの減刑っていうのが現実に行われているけど、これって金持ちなら加害者になっても減刑されるっていう不公平な仕組みだと思う。

 自動車事故のように、過失割合も加味して、被害者に落ち度がなければ100:0、怨恨であれば80:20、正当防衛であれば30:70といった具合に、刑事裁判と民事の救済をセットにして判定をし、はじき出された金額を国庫から支出、加害者財産があれば、それを没収して国庫に充当させるのだ。こうすれば、加害者経済状態に関わらずに被害者全員の救済が行われ、金持ちだけを特別に減刑させる手段を取り上げてしまえる。

 また、社会全体にとっても、死刑にならないことを前提で取り調べが行われたほうが、検察の言いなりになって供述調書にサインをしたり、弁護士の小手先の法廷戦術事実に反する供述調書を丸呑みしたりして「事実の究明=事件の教訓化」よりも「反省の態度=上辺の取りつくろい」を優先するようなケースが減るんじゃなかろうか。

 大事なことは、事件の背景にある社会矛盾人間心理の不条理を解明して教訓化し、社会全体が努力してこれを取り除くことであって、上辺だけの反省は真実の究明にとって邪魔なだけだ。

 そして「だれがそのコストを負担するんだ!?」って反論には「もちろん税金で」と答えたい。っていうか、人命よりもコストを優先する発想って、先進国としてどうよ?

 どうも最近死刑論議・刑事司法論議を眺めていると、感情的死刑存置派の背後に隠れて(時にはそれを煽って)被害者救済や犯罪者厚生のためのコスト負担を安上がりにしたいという国家権力の怠慢を感じる。

 日本先進国として、もうちょっと成熟した国になってほしいもんだ。

2007-07-07

じょしこーこーせー

http://megalodon.jp/?url=http://headlines.yahoo.co.jp/hl%3fa%3d20070707-00000034-mai-soci&date=20070707113652

夜の9時に教室に残って、たむろしてるじょしこーこーせーに「帰りなさい」と声をかけたら、携帯と車の鍵を奪われた

…って事件だろ?

教師は正当防衛。じょしこーこーせーのほうこそ強盗の容疑で逮捕

それにしても、保護者が110番した?バカ親、ここに極まれり。ふぅ…

2007-05-28

人殺し殺し

「―よって、被告人死刑とする」

先日裁判員に選ばれたとの通知が来た。世間では疎まれてるいる裁判員制度だが、私は裁判員制度に賛成だったから、むしろ喜ばしかった。私は人殺しが大嫌いだ。どうして人を殺してはいけないのかなんてことを聞くガキも大嫌いだ。そんなこと理由なんかなくダメに決まってる。そんなこともわからないなんてこの国の教育は本当にダメかもしれない。

そんな私はずっと思ってた。司法に参加して、そういったことを知らしめることができたらなって。だから、裁判員制度ができたときは喝采したし、今回の通知も小躍りするくらい嬉しかった。これで司法に参加することが、人殺しを裁くことができる。

被告は私と同じ歳くらいの若者だった。罪状は殺人。本人は公園で襲われたから正当防衛したと主張しているが、襲った3人の少年を殺してしまっているし、それに正当防衛どころか過剰防衛とも言えないくらいに無惨に殺していた。写真を見せられたが顔などは原形をとどめていなかった。無我夢中で気づいたら殺してしまったとのことだが、前途ある若者を、しかも3人も殺しているのだ。情状の余地はないだろう。

裁判員を交えた評議では他の裁判員は皆やる気がないのかほとんど発言をしなかったので、私は積極的に主張した。裁判官が故意があったかどうかなんて言っていたが、被害者の状況を見れば一目瞭然だろう。被告は我を忘れたなんて言っているが、殺すつもりじゃなければあそこまで無惨に殺せるものか。私が強く主張した甲斐もあってか、最初は中立だった裁判員も私の方につき、6:3で被告死刑になった。

「―よって、被告人死刑とする」

少し前に決まっていたとは言え、やはり判決が読み上げられたときはその思いもひとしおだった。私が大嫌いな人殺しを私の手で裁くことができた。それもやる気のない裁判員達を導いて。私が充実感に浸っていると、突然、被告がこちらの方を向き、

「よお、満足そうだな。あんた。」

喋りかけてきた。突然の事態に誰もが唖然としている中、男は滔々と続けた。

「俺は本当に殺そうと思ったわけじゃない。気がついたら死んでただけだ。突然頭を殴られ、倒れた後に更に蹴られ、わけがわからなかったしな。」

ようやく警官が男を掴み、裁判官が静粛にとの声を発するが、男の声は止まらなかった。

「だけど、あんたは違うな。その満足そうな顔。死刑に入れたんだろ?結構、結構。」

男は愉快そうに笑う。警官も大きな声でやめろと怒鳴っているが、まるで耳に入ってないかのように、ただただ愉快そうに笑っていた。

「何がそんなに面白いんですか!?」

恐怖よりも怒りが勝り、思わず怒鳴った。人殺しってだけでも許せないのに、それがこんな愉快そうに笑うことなんて許せるわけがない!

「何が?そりゃあんた、お仲間が増えることだよ。」

「仲間!?一体何の仲間が増えるっていうのよ!?」

「決まってるだろ?人殺しのさ。」

「――え?」

「そりゃそうだろ?あんたがたの意思で俺は殺されるわけなんだから。」

「な、何を言ってるのよ!私とあなたは違うっ…!」

「何が違うもんだい。それに殺す意思のなかった俺とは違って、あんたの場合は俺を殺そうとして殺すわけだから、俺より上だろう?それも人殺しを殺す。人殺し殺しってか?傑作だな。」

男を止めることは無理とわかったのか、警官はざわつく法廷から男を連れ出すことにしたらしく、男は警官に両腕を掴まれ出口へと歩かされていた。だが愉快そうな笑いは止まらなかった。

「ありがたく、思えよ。控訴はしないでやるよ。俺より上なあんたのために。」

不愉快な笑い声は男が消えた後も私の中で消えることなく残り続けた。

数年後。本当に控訴しなかった男の死刑が執行された。私は男の言う通り人殺しになったのだろうか。人殺しを殺した、人殺し殺しに。

2007-05-19

警察官拳銃持ってるのって

警察官自身の正当防衛とか緊急避難の為だと思ってたんだけどそうじゃないの?

2007-03-19

http://anond.hatelabo.jp/20070319203218

まず人間動物(ここでは人間を含まないということにして)の違いは

理性を持っているか持っていないかとされている(少なくとも人間の間では).

理性「感情におぼれずに,筋道を立てて物事を考え判断する能力」(goo 辞書より)

その一点だけが理由かどうかは自分には分からないが,

人間動物より優れているとみなされている.

信仰心欠片もない私が聖書の冒頭だけ読んだのだが

< 引用 >--

神はまた言われた,

「われわれのかたちに,われわれにかたどって人を造り,

これに海の魚と,空の鳥と,家畜と,地のすべての獣と,

地のすべての這うものとを治めさせよう」

--

となっている.

人間は「動物の生死を自由にしてよい」という暗黙の了解があるように思う.

それと同時に「動物を管理する」という役割も担っている.

1)人間生きる為に理由があって動物を殺すのは「正義」だとみなされる.

2)動物を理由なく無差別に殺害するのは犯罪であり「悪」とされる(よね?).

2)のような行為を行うのは

「感情におぼれずに,筋道を立てて物事を考え判断する能力」を失っている,

つまり「理性」を失っているとみなされる.人間唯一の能力を失っていた時点で

その人は人間である為の条件を満たしていないとみなされ裁かれてしまう.

と,ここまでは一般的に人間動物を殺してよい理由だと思っているが,

人間人間を殺してはいけない理由とはあまり関係がない.

基本的に人間はどんな理由があろうと人間を殺してはならないとされている.

正当防衛などが認められる場合ももちろんあるが)

人を殺すのはその人の「理性」を殺すことであり「悪」とされる.

という考え方はどうだろう??

(では「理性」を失った人間を殺してもいいのかという新たな疑問がわくが…)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん