はてなキーワード: 楽器とは
ミクの4分33秒が4万以上再生されていることから思いついた釣られエントリでした。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1088800
「脱構築」とかびっくりです。wikipedia見たけど難しすぎてわからんかった。
あと、思いがけずブクマついたので以下蛇足。
年寄りが感動しやすいのは、世界が永続する安心感ではないと思います。(自分が死んだあとの世界の存続に思いをはせるくらいヒトが優しいと思えたら、私はもっと幸せなのですが。)
単純でエゴイスティックに、音による刺激+子どもというアイテムとその言葉を使って、追憶という麻薬を味わっているのです。
これは音楽の楽しみのひとつで、うまく年を重ねると経験が音楽をより豊かなものにしてくれる。
年寄り×じゃなくてうらやましい。むしろ「その引き出し少し分けてくれ」という気持ちです。
今日の「スーパーピアノレッスン」を見て、その気持ちをまた新たなものにしました。シフすげえ。
あと「言葉は飛び道具」は、うまいこと胸を打ち抜いてほしいという気持ちもこめて書きました。
時々頭を打たれて頭痛がやまないことがあるので、マジ勘弁してほしい。
個人的には旋律と言葉が「ピッタリ」であることは、歌モノの音楽に最低限要求したい。
そしてできれば「ピッタリ」を越えて、言葉ではとりこぼしてしまう「何か」を感じさせてもらいたいものです。
自分のスイッチを調整しろという話かもしれませんが、これは譲りたくないところ。
元増田のお詫び云々は読んだけど、満を持して釣られたつもりだったので、かなりガックリしました。
ちなみに私はできれば生演奏、ピリオド楽器でお願いしますという古楽原理主義者の端くれです。まれに金をもらって歌います。
ボーカルは楽器です。ボーカロイドの技術は「歌唱」の秘密を解き明かしてくれるのではないかと期待しております。
…なんだかなー
キャラクターとして年齢、体格と得意なキー・テンポ・ジャンル以外特に性格設定などが存在していないはずのボーカロイド。
挙句ロイツマMADのパロディから派生した「ミクの持ち物=ネギ」がクリプトン側も認めているのか半ば公式化し、ユーザ側からは新ボーカロイドが発表されるたび持ち物論争(笑)が持ちあがる。
ソフトシンセ=楽器としてのボーカロイドはともかく、性格付けした上で偶像化するような風潮は理解に苦しむところはあるし、巡音ルカの発売前にさんざ持ち物論争していたのは「まだデモ曲すら発表されてないのに…」と半ば呆れ気味に眺めていたけれども。
最終的にボカロと肉声、どっちが絶対的に優れてるとは言い切れないかな。
過剰な持ち上げ方には疑問があるけど。
そして性格設定やら持ち物論争なんてのは、擬人化萌えに近いものを感じる。
(個人的には過度の人間味を持たせない、過度に神格化?されていないほうが、持ち味を生かすという面で好ましくはある。)
肉声には肉声の良さがある。
(機械的に正確すぎずぶれのある方が心地よく感じることも多い。)
だからカヴァー曲に関して「人間よりも上手い!」「原曲よりいい!」という(ある種の狂信者的な)意見は原曲が好きな側から見てかなりガッカリするんだよなあ。
「CDは、そこに入っている音のみで評価されて売れるべきものだと思っている。」
すごく無理がある。
おそらくは彼自身も音のみで評価なんてしていないと思われる。
している「つもり」ではあるだろうけど。
実際音楽をCDに入っている音のみで評価するなんて不可能に近い。
文化的背景なくして音楽は生まれようが無い。
人が作るものなんだから、その人の生きた、人生、社会、時代、そして文化、
そういうものが渾然一体となって、音楽に反映される。
だから、音楽を鑑賞するときには文化背景を知るとより深く鑑賞できる。
そしてそれは演奏する人にとっても同じ。
それこそ「新世界より」の意味を知らずに演奏してるプロなんてほとんどいないだろう。
クラッシックの話で説明すると大仰だけど、JPOPだろうが、初音ミクだろうが、みんなおんなじ。
ダライアスの音楽が好きだって言っても、ゲームを抜きにして音楽の話は語れない。
だって作り手もゲームを抜きにしては作っていないし、
歌っているのは、男か、女か、楽器は何を使っているのか、
いつの時代の何処の国の、どんな境遇の人が何を思って作った音楽なのか。
みんな大切なことだ。
「人間が作っている」ってのはそういうことだ。
逆に、もし彼が頑なに音楽を音だけで鑑賞しているのだとしたら、
それはもったいないから、ぜひもっと、
その音楽が生まれた広い文化や歴史や風土と一緒に鑑賞することをオススメする。
分からなかった音楽が、分かるようになるよ。
音楽を通して、相手の文化に触れることができるようになるよ。
初音ミクが楽しんでいる人は、Pと呼ばれる作り手の試行錯誤にリアリティを感じている人達。
初音ミクの声やキャラクターから沸くイマジネーションを共有することができた人達。
楽しめない人は、音だけを聞いた人達。
文化的断絶があると楽しめないのは、いたって普通のこと。
あとデジタルのA/D・D/Aが嫌なら、CD聴くのも止めたらいいんじゃないかな!
この流れの中で、目に留まるかどうかもわからないし、本当は増田じゃなくてblogで書いてもよいのかもしれないけど。
http://slashdot.jp/~TarZ/journal/450116
http://noroom.susumuhirasawa.com/modules/H3/2008/08/23/dhuooea/
ミュージシャン平沢進が自己の音楽にひっそりと取り入れていた例です。
だから女性の声は全部アレだと言っているのだ。磨けばプロになると言っているのだ。ソプラノだろうが何だろうが徹底的に調整すれば出るのだ。ちなみに「白虎野の娘」も「確立の丘」のコブシ回しのお姉さんも皆同じエンジンだ。
僕はこの曲のコーラスが機械で作られたものだなんて一瞬も思わなかったし、何度聴いてもすごく厳密に計算された、音楽的なものだと感じる。
元増田には是非聴いてほしい。人間VocalのVocaloidは別の楽器だ。サックスが生まれてもクラリネットやその他の楽器の存在にまったく影響を与えなかったのと一緒で、別物として処理されるべきだ。
僕は別にアンチ初音ミクではないし、新しい技術に否定的なわけでもない。ただ、初音ミクの音楽は何か気持ち悪いと感じることが多い。声に「表情」がないからだ。
人間が歌を歌った場合、悲しい歌では悲しい声になるし、幸せな歌なら幸せな声になる。たとえ歌詞がなくて全て「ダバダバダー」で歌ったとしても、マイナーコードの部分は悲しげな声に、メジャーコードは楽しげな声になるものだ。これは、意識してやっているわけではない。そのような表情が、不可避的に「ついてしまう」のだ。ちょっとやそっとエコーをかけたぐらいでは、ついてしまった表情をはがすことが出来ない。それが、人間の歌の宿命でもある。
楽器でも同じである。悲しい曲を演奏すれば悲しげな音に、楽しい曲なら楽しげな音に「なってしまう」。
しかし初音ミクや電子楽器では、そのような表情がついてこない。悲しいと言いながら、全然悲しそうじゃない。嬉しいと言いながら、全然笑っていない。そこらへんが、気持ち悪いのだ。
電子楽器を使った音楽が全てクソだと言っているわけじゃない。カラオケボックスで流れるmidiの伴奏なんかは99%クソだが、熟練した技術者が綿密な計算に基づき丁寧にプログラミングした電子音楽は、そのような表情をちゃんと感じられて、感動できる。
……いや、未熟を自覚していて、日々精進しているのなら良いのだ。仮に、そんな技術は必要はない、音に表情など要らない、っつーか音を聞いても表情なんてわかんねーよ、みたいな職人が増えているとしたら、それはゆゆしき問題だ。声を聞いて相手の思いを感じられることは、人間のコミュニケーションの基本中の基本なわけで。人間としての基本的な想像力が消えつつある、ということになってしまう。
今の初音ミクの曲は、他人とコミュニケーションがとれないひきこもりの音楽である、と言わざるを得ない。だが、シンセサイザーのようにプロの技術によって豊かな表情を生み出すことだって不可能ではないはずだ。
どうかそのための模索を諦めないで欲しいと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20090308152436
気になったのでなんとなく。
何で買う人がいるのか。好きになったから買う。まあそれだけ。
ミクを知っている人は調声が凄いとか買ったとかそんなんな気がする。
また、生声じゃなくて機械声、又は機械的に編集された声だからこそ
映える音楽もあることは解ってほしい。
今回の曲については生声でも機械でもどちらでもいいと思うけど、
テクノやエレクトロ・ポップはそのままの生声ではなかなか馴染みにくい。
ひっくるめて合成音楽で感動するなんて頭おかしいっていわれている気がして心外だ。
それに苦労の分売れるべき、なんてことはない。結局買う側の好み。
メジャーな人も、貴方が知らないところで本当に頑張っている歌手たちも、
買う人が聴いた時に惹かれるか、どれだけの人が惹かれるかだとおもう。
http://anond.hatelabo.jp/20090308152436
元増田さんがまだ残ってるかどうかわからないけど、もし居たらぜひこの記事について意見を聞かせて欲しいんだ。
http://slashdot.jp/~TarZ/journal/450116
ちなみにMEIKOというのは初音ミクと同じクリプトンから、初音ミクよりずっと前に売り出されていたボーカロイド。
平沢進氏が自分の楽曲にボーカロイドを使っていたなんて、本人が発言するまではほとんど誰も気付いていなかった。
この事実についてどう思う?
あと、個人的な意見を言うとryoさん(Supercell)はあんまりボーカロイドの調整が美味い方ではないと思う。
(楽曲自体は素晴らしいところがいっぱいあるし、いっそのことこれをキッカケに生身の歌手のための作品を作るプロになってくれたらいいんじゃないかと思ってるけど)
だからryoさんの作品だけでボーカロイドすべての「実力」を見切ったつもりになられると、いちボカロFANとしてはちょっと悔しい。
平沢氏のように、生身の人間とまがうばかりの調整をさせる人もいれば、ボーカロイドならではの特徴を生かして、ボーカロイドでなければ歌い得ない作品を作ってる人もたくさんいる。
(ここで迂闊に紹介するとその作者に迷惑がかかるかもしれないので控えますが)
ボーカロイドというのはまだまだいろんな可能性を秘めた新しい「楽器」なんじゃないか、少なくともその可能性は大きいはずだと思ってる。
まず否定ありき、で入ってきてる人には、その可能性はなかなか気付けないのかもしれないけど……。
もしかして、50年、100年後になってふり返ったら、実は今の私たちは音楽の歴史の大きな転換点に立ってたんだと気付くかもしれないよ?
ただ単にボーカロイドという技術の話じゃなく、プロ、アマチュア、という区別や、著作権というものの在り方そのものもどんどん変わってゆくのかもしれない。
(ニコ動におけるボーカロイドのもう一つの魅力は、ひとつの楽曲があらゆる人にどんどん引用、改変され、名作にはあっというまにアンサーソングが作られたり、たくさんのPVや「歌ってみた」動画が作られてゆくこと。こんなことは今の著作権にがんじがらめに縛られたプロの世界ではなかなかできない。作品レベル云々ではなく、そういった生々しい”躍動感”に惹かれている人も多いはず。本来、「生きた文化」というのはそういうものであったんじゃないか、河原で演じられる大道芸に投げ銭を投じるような、即席で吟じられた和歌に返歌するような、そんな時代がネットによってもう一度復活しようとしてるんじゃないか、とさえ個人的には思っているのですが)
せっかくこんな面白い時代に生まれ合わせたのに、元増田さんみたいに凝り固まってるのは、なんとなく勿体ない気がします、よ?
非オタが聴くような曲を抑えて上位になったものだからさあ大変。
和気藹々とボーカロイド曲の低レベルさについて盛り上がっている所にオタが
「ボカロは機械じゃなくて人間の声だ」の一言をきっかけにオタを擁護する言葉を連発。
CDになった時点で人間の声だって機械だとか、テクノや打ち込みも否定するのかとか、
ボーカルだって楽器のひとつなんだからボカロを認めない人は弦楽器も認めないの?とか、
無理ありまくりの屁理屈に対する周りの引きっぷりなんか眼中なく酒も入ってないのによく喋る。
あまりに頭に来たのでオタに向かって
その理論だとテクノ買ってる奴は100%馬鹿ということになるね。機械の音だから。
MIDIとかDTMの音楽で感動する奴は馬鹿なんだよね?JPOPは低予算のだと打ち込みで音作ってるよね?アニメとか声優の歌なんてほとんど打ち込みだよね?そういうの買ってる奴も馬鹿なんだね。機械の楽器が奏でる音だから。
論理がおかしいw
「俺は断言するが、あの初音ミクの機械の声を聞いて感動してCDを買う奴は馬鹿だ。これは100%断言できる。」
100%断言(笑)する理由が後に書かれている文だと思うが、全然説得力がない。
あれは単なる歌詞を載せられる楽器。そもそも音楽には本物、偽物なんて概念が存在するのか?
「プロの歌手が普段どんなことをしてるか」なんて事、お前みたいに想像はできるかもしれないが本当に知ることはできないだろ。
我々一般人が知ってる筈もないし、知る必要もない。「努力にお金を払う」なんて事、それこそ音楽へ対する冒瀆だよ。
おまえはちゃんと頭が冷えてるのか?w
その程度の音楽知識は最低持ってるべきだろう。
あと、古賀政男の曲もピンキリだろうけど、安易に「平凡」とかいうと
猛烈なツッコミくらいかねないぜ。
音楽性
クラシック音楽を基礎とし、極めて器楽的である。使用楽器も室内楽のものに準じることが多い。ギターが使用されることもあるが、クラシックギターである。譜割りも現在のポピュラー音楽と違い一定の規則を守っており、その中で個性を出すことに作曲家の才能が試されていた。
後世からは「演歌」と混同されることが多いが、音楽性の面から見ても大きな誤りである。流行歌の音楽性は現在の演歌・歌謡曲に加え、クラシックの声楽曲などさまざまな分野の要素が渾然一体となった様相を呈しており、演歌以前の独立的な音楽性が認められるからである。
私も言葉の意味を分からずに歌う子どもの合唱にジジババが感動して泣くことが理解できなかったが、年をとるとだんだん分かってきた。
音楽とは誰かに聴かれたときにはじめて成立するもので、それは演奏者の意図した感情とか技巧ではなくて、聴衆がかきたてられたなんらかの感情が「音楽」なんじゃね?
言葉を発するのはヒトでなくて、ミクでも、九官鳥でもいい。聴くほうにメインスイッチがある。
君の方に感受性がないんだ。残念だったね。
個人的にはインストルメンタルや、ヴォカリーズには感動できない詩先の輩は、ある意味音痴なのだろうと思う。
ミクは楽器で、作曲者(データ入力した奴)の感情と技巧と言葉がこめられている。
そういう意味では新しい音楽とは言えないけど、バッハやモーツァルトやジャズやロックもこんな風に言われただろうし、やっぱ新しいものなのかもね。
子供の頃、よく子供向けのクラシックのコンサートを聞きに行った。
何度か行ったうちの一回の前説で、心に残っている事があった。
高学年にはなってたけど、流石に覚えきってないので、大体こういう事を言った、という記憶。
少しでも子供にクラシックに触れてほしいから、普通だったらありえない金額でやっています。
だからこそ、絶対にクラシックを”面白い”と思ってほしいんです。
今から、「XXX」と「YYY」と「ZZZ」という曲をやります。
多分、みなさん「ZZZ」の曲で寝ます。
お父さん、お母さんも寝ると思います。これは眠るために作られた曲ですから、是非寝てください。
そこで次に「###」という曲を演奏します。
みなさん、ここで起きます。
母親は、クラシックには疎くて、それでも折角の機会だからと何度も連れて行ってくれていた。
見事に母親は眠って、言ったとおりに目を覚ました。
当たり前といえば当たり前なんだけど、
試行錯誤して考えているんだとすごく感動した。
曲の背景の話があったり。
演奏の裏話があったり。
普段はやらないような演奏の仕方をしてくれたり。
売る方からしたら、「ボーカロイド」って「楽器」じゃなくてあくまで「アイドル」みたいなもんだろ。
「アイドル」の歌が上手かろうが下手だろうが、売れればいいだけで、ボーカロイド自体にはクオリティはさほど求めていない。
楽曲のクオリティもよかったからCDを出した。売れた。万々歳。じゃあ次は?
飽きられるまでアイドルには働いてもらうだけだろ。
http://anond.hatelabo.jp/20090308152436
あのさあ、例えばさあ、CDにする時点で「機械の音」じゃん。たくさんの人がすでに書いてるけど。
で、生ライブでもさあ、ボーカルの前においてあるのは何?マイクだよね?機械だよね?で、その機械がケーブル通してどこにつながってるかっつうとやっぱり機械なわけじゃん。PAのミキサー卓でオペして調整してスピーカーっつう機械から音を出すわけじゃない。楽器も同様ね。
DTMやミクとどう違うのっつう話ですよ。確かにあれ変な声だけど、その音が楽しい、て層ももちろんいるわけ。音楽なわけ。それを否定する権利は別に君には無いわけ。
君は何を問題にしてるの?まさかオペラ以外音楽じゃないとか言い出す気じゃないよね?
全然論点が見えてこないんだけどさ、何が結局主張したいことなの?
じゃあ単なる矩形波とか波形メモリとかFM音源を聞いて感動してCD買ったりしてた俺たちは馬鹿だったわけ?
何であれがいいという人の気持ちがわからないの?
誰だってあれ聞いて機械だって言うのは一瞬で分かる。だからなんなの?
素直に綺麗な音だったら感動するしそうじゃなかったらダメってことだろう?
グラディウスの未使用曲も、
ダライアスの最終ボスのメロディも、
ソーサリアンのオープニングとかエンディング2も、
どれも素晴らしい音であり、それは感動に値するものだったし今でもまだしみじみ聴ける良さがあるんだ。
でも単なる矩形波なんだ。もう僕は矩形波が適切な周波数ずれで重なってて適切なエンベロープで鳴るだけで綺麗な音だと認識してしまうんだ。
同じ矩形波でもアミダーとかスクランブルとかで鳴ってた奴とか
PC-6001で最初に「シンセサイザ搭載」とか言って嬉しがってplay文で鳴らしていた音なんて
当時の音楽家からすれば馬鹿にすんなというより「これは音楽じゃない」レベルだっただろう。
でもその音とダライアスの最終ボスのメイン音はほぼ同じ音源のはずなんだ。
最初はクソだと思っていた音が、どこかで感動を与えてくれるものに変質する可能性があるんだ。
当然あのときにも「生楽器とかとは比べ物にならないね」とかそういう変なことを言う奴は居たけど、
そもそも違うものなんだから比べようがないだろう。
要するに今彼らが初音ミクを気に入らないのは、単純に彼らの聴いたことのある初音ミクのボーカルがいまいち綺麗でないからなのであり、機械の声かどうかなんて関係ないのではないかと思うのだ。
つまり人間の感性がおかしくなってたら、それはおかしいって言って
その流れを止める人間が必要なんだよ。
というわけで既にみんなおかしくなってて機械の音を平気で聴けるようになっちゃってるんで、流れを止める必要があるというのなら初音ミクが出てくるより前にやっておくべきことだったんだ。もう遅いんだよ。
まったくその通りで、逆にある程度の量、洋楽を聴いてると、英語が理解できたとしても英語の歌声はまず「意味」より「音」なんだ、ってわかってくるんだよね。楽器の一種としての声。
そして、その価値基準みたいなものに染まってから邦楽を聴くと、「意味としての言葉の発音」をハッキリやりすぎてしまって、「音」としての性質をダメにしてることがわかってくる。
昔2ちゃんねるかなにかで書いてる人がいたけど、その人はディープパープルのレコードが発売された時、クレジットに「歌と演奏:ディープパープル」と書いてあるのを見てトホホとなったらしいんだけど、本当に日本は「歌と演奏」の文化なんだよな。両者は切り離されてる。
俺の価値基準から言えば、そんなに「意味」が独立してしまうんなら、何も音に乗せないで演説でもすりゃいいじゃんかと思うんだが。
茶化した増田だが、
真面目に書いた?主張が間違っていない?
半分冗談で書いたと思ったから茶化したわけで。
他の増田が書いてるのとかぶる部分もあるけど
これだけの突っ込みどころがある文章を、どうしてまじめに書いたと思えるだろうか?
ミクにしても、テクノにしても、打ち込みにしても、シンセサイザーすらも、否定するのかな?
音楽は道具=楽器を通じて進化してきたし、メディアを使って一般化してきた。
でも、それはみんな人間が求めて作り上げたもの。
DTMだってもはや一昔前のテクノミュージックだけのものじゃない。
アコースティックの音と区別が出来ないほど、自然な音をシュミレートしてる。
ミクだって、シュミレーター。それはたまたま人間の声をシュミレーとしているだけって事。
音楽は自由でいいと思う。
アカペラの、人の声だけの歌も良い。
テクノもポップも自由自在。
そこから何を受け取れるのか、聴き手の感受性を試すもの、それが音楽。
ということで、頭ごなしにミクを否定することの意味は無いと思う。
だからといって、人の声の持つ感情表現を否定するものでもない。
とにかく直接的に感情を伝えれば感動できると思ってるようだ。
ついこのあいだまで音楽なんてものは、絵画や彫刻みたいに金持ち文化人のものだったんじゃないかなって思う。
音楽も録音できるようになって、大量生産できるようになって、いわゆる「作品」、「誰かのもの」じゃなくなったんじゃないかと。
CDなんてものはプレーヤーのボタンを押すと曲が流れる、もはや「楽器」みたいなものだ。
電気ポットのデザインに意匠者の息遣いを感じられるほど、僕らは敏感ではなく、ただなんとなく生きてる。
同じように、音楽を聴くという行為に対して、コーラを選ぶかスプライトを選ぶかくらいの軽さくらいにしか曲そのものに考える部分はない。
俺の場合ね。