はてなキーワード: 帰属意識とは
http://anond.hatelabo.jp/20080104030949
自分の祖父母であれ両親であれ、殺す者がいるのは事実。自分以外は他人だ。他人を擁護するかしないかは利害関係がすべてだ。
日本国への帰属意識はさまざまだ。国家規模で物事を考えるスケールの大きな人間は日本国への帰属意識も強いのだろう。他校の生徒とケンカに明け暮れるDQN学生は自分の高校への帰属意識が強いが、同じ都道府県の同士とは思えないのは、帰属意識のスケールが小さいからだ。仕事に燃えるサラリーマンは自社への帰属意識が強い。とくによりどころの無い低レベルな者は日本国に帰属意識を持ち他国の低レベルな者に噛み付き自尊心を得る。戦争でも起きない限りぶつからずに済む遠い場所の相手だからだ。
欲望のカースト制という見えない構造がある。
そのために見た目、性格、コミュニケーション能力をより良いものにし、お金を増やさなければならない。
うまい飯は安くで手に入るけど、いい女は簡単には食えない。
「食欲」「性欲」という人間の二大欲望のうち、「性欲」が多くの人の幸福あるいは不幸と直結しているのは、飽食の現代日本人にとって必然なんだろう。
欲望のカースト制の上位には美男美女が楽しく集う芸能界があって、広告代理店が性欲を中心とした消費欲をあおる。
「消費しなければ幸福にはなれない」というメッセージが飛び交い、スポンサーの商品が売れる。市場経済が回る。
自分はあまり幸福ではないと感じている人は、ネット上にあるルサンチマン爆発の非モテな文章を読んで「下には下がいる」と安心し癒される。
そして次の日にはまた「いつか自分もいい女とセックスしたいな」と思う。いや、下半身がそう思う。
そして絶望する。こうして人は、非モテというカーストに対して、コミュニティ意識を持つようになる。「欲望のカースト制」というシステムはより強固になっていく。「上位カーストへの憧れ」と、「現在のカーストへの帰属意識」は同じ欲望の裏表であり、両者は強く結びついているから。
そんな欲望のヒエラルキーなんか、さっさと降りてしまれえばいいのに。
欲望の種類はもっと多様だし、気持ちいいことは他にもいっぱいあるはずなのに。
一つの欲望が満たされていないからといって、他の欲望も満たされなくなる訳じゃない。
しょうもない思いつきなんだが、"はてな村住人は??だ"という考え方は、"○○沿線住人は??だ"というのと似てると思った。住人(はてなユーザ)のイメージが醸成され、やがて一人歩きするあたりとか。
元エントリはこちら
http://d.hatena.ne.jp/hejihogu/20071005/p1
元々は、単純に「この路線、いいかも」、「あの路線は、私には便利」で越してきた人たち。
本来、縁もゆかりもない他人同士なのだけど、一定の傾向が確かに存在していたりする。
「××沿線住人は一人暮らし学生が多い」、「○○沿線住人はファミリーが多い」といった具合に。
例)はてなユーザは、IT系の人が多い
暮らしているうち、沿線住人のイメージが皆の間に醸成されていく。
「××沿線住人は高学歴、高収入っぽい」、「○○沿線住人は品が良いイメージ」といった具合。
例)はてなユーザは理屈っぽくて、間違ったことを書くと容赦ない感じ
しまいには「東横線住人とは仲良く慣れそうにないなぁ」「南武線住人とはなんか腹割って話せそう」とか、イメージが完全に一人歩きし始める。
この辺り、なんだか”はてな村住人”という捉え方に似ているなぁという気がする。
ついでの話。沿線住人自身は利用している路線(サービス)に対して、妙な親近感と、微妙な距離感を同時に持っていたりすることが多いんじゃないだろうか。
"沿線住人であるあなた"とくくられて喋られると「(なんとなく)悪い気がしないなぁ」とか「でも、別に意識してないよ。気に食わなければ他所に移るし」とか思っていたりするんじゃないだろうか。
(そして、帰属意識どころか、○○沿線住人だなんて考えたこともなかったという人も大勢いる。主に他沿線と比較機会が少ない人たちだ)
この辺り、サービス提供者(○○電鉄、あるいは はてな)に対しての、ユーザ側の心理的な距離のとり方が似ているような気がする。
やっぱり”沿線と沿線住人”より”街とその住人”の方が、より適切な気がしてきた。
(住人の街に対する帰属意識が、ちょっと強すぎる気もするけどけど)
※眠いので書きなぐり。元気があれば後日修正するかも(もし読んでくれる人がいるなら、乱文でごめんなさい)
http://anond.hatelabo.jp/20071010141634
http://anond.hatelabo.jp/20071010142430
あー。なるほど。「その場で」ってのはたしかに重要だ。
日常の中で感じられる問題解決感? お手軽成敗感?
電車運行システム自体とか、ヘッドフォンの構造とか重い問題は考えたくないから、
とりあえず目の前の若造にガツンと言ってやればいいか、的な。
http://anond.hatelabo.jp/20071010143217
わかったわかった。おれもなんで不快なのかわかった。
「お前がおれを嫌いなのはわかったが、それを敷衍すんな! 一人称で言え!」というか。
かんたんに「公共」とか「社会」に帰属意識を持って、それを是としちゃってる奴らが大嫌いなんだ。
お前は孤人主義すぎる、って? そうかも。
あとうまい喩え話を言いたくなるのはわかるけど、だいたい精度が落ちるので止めましょう。これは忠告と自戒。
今回も落ちちゃってるし。
逆に帰属意識が強くなりすぎて他を認められなくなる例もあるから善し悪しだ。
悪い側面ばかり見るのはどうかと思うが、さりとて良い側面ばかり見るのもやはりバランス悪いので、せいぜい「必要悪」程度に認識しておくのがいいのかな。
自民族への帰属をことさらに他人に求めるのは息苦しいというのはわかります。
ただ、「私たちは同じ民族です」(「国民です」でも)という気持ちを国の中で割りと広く持っていないと危険なこともあります。
たとえば、国の中で部族単位で細分化された帰属意識を持っている場合はどうでしょう。
もし役人と国民とで帰属する部族が違っていたとしたら、役人は国民の安全や食を省みなくなる危険はないでしょうか。
別に帰属意識が共有される必要は無いからあやふやであること自体は別にどうでもいいんだけど。
民族に帰属意識を感じる人たちは、「民族って何よ」ってことを考えたことはないんだろうか。
考えた上で帰属意識を認識したんだとすれば、いったいどう定義づけたんだろうか。そこが気になる。
http://anond.hatelabo.jp/20070510190710
日本人って「宗教」も「民族」も意識することがないから、「昔こんな過ちを犯したんだ、だからそれだけは覚えておいてね!」ってことを歴史で習うぐらいで、結果として悪いものみたいに見ちゃうよね。宗教の場合エホバの証人(キリスト系)の宗教的躾の末の子殺しとかイスラム教原理主義者のテロとかキリスト教の魔女狩りとかオーム真理教(仏教系)のサリン事件とか創価学会(仏教系)のあんなこんなとか。でもほとんどの常識的な考えを持った信者・宗派は悪いものじゃなくて、じゃなけりゃそんな概念生まれないわけで。
仮に「民族」という概念がなくなったら、周囲から食われてしまうんじゃないかな、お隣さんには物騒な民族が結構いるし。そして民族が食われるとそこにあった文化の多くが消滅する。文化は少なくとも発生当初には必然性があって生まれたものばかりで、今後も社会的価値を産み続けるものだってかなりあるわけだけど、それがなくなってしまう。たとえばごく最近寿司が世界で流行したけど、その前に日本にある民族が根こそぎ消滅していたら諸外国に文化を潰されて「魚を生で食う」なんて他民族から見たらおかしい(と思われていた)文化は消滅する可能性が高くて、少なくとも今みたいにはなってなかったわけだ。
世界は広くていろんなものがあって、その多くは他民族には理解できない。全ての人類を画一化してしまうとおそらくそのロングテールのほとんどは消滅してしまうんだよ。多様性の維持のために民族は必要だ。
もちろん強制が当たり前みたいになったら下らないと思うから、そういうこと言う奴がいたらグーパンチしていいよ。
http://anond.hatelabo.jp/20070510222510
それ結局「地元」の定義が今の「民族」と同じになってしまうだけだと思うけど。要するに文化や風土なんかの共有者集団ね。あと複数項を共有しているのを民族と呼ぶから「共通母国語集団」を代替にするのはちょっと無理がある。
http://anond.hatelabo.jp/20070510222510
地元とか言語だって民族と同様に厳密に考えればあやふやなもんだと思うけど。バイト敬語ややニちゃん語も日本語として使われてしまってるし、隣近所よりもっと遠くの職場や学校ほうが深い関係だったりするのになんで民族の場合だけ理解できなくなるのかわからん。
それとも隣家の人と話したこともないくせに地域に帰属意識を感じたり、日本語の乱れとして嘆いてる老人が共通母語集団としての帰属意識を押しつけるのは民族に帰属意識を感じたりそれを押し付けたりするより納得できるモンなんだろうか。不思議なものだ。
やっぱり「民族」の名のもとに行われた過去のあれやこれやの大惨事を知っているか否かが
帰属意識が「民族」という単位になる必要性が理解し難いというだけ、かな。
地元への帰属なら「地元」でいいじゃん。日本語を共通項としているなら「共通母国語集団」でいいじゃん。
それが国単位でも地球単位でもいいんだけど、「民族」という実体のないものを単位として認識するのがわからん。
「純血種なら」ていうのはそういう意味で、帰属の区切りとして種が使われるなら納得できるということ。
たとえば地元を好きな人が集まって帰属意識を持ったりすることから民族という概念が出てるわけだけど、別にそれ自体が悪いわけじゃないでしょ。発展して愛国心強制とか考える馬鹿みたいなのがいるからいけないのであって。出身地と地域特有の文化や風土を愛することの何が悪いんだろう。逸脱は馬鹿だし消えるべきだけど別に元の概念は滅びる必要なんて無いんだけど。
それとも悪いところが存在するなら根本の概念から消滅させないといけないと考える極端な人なのかな。もしそうなんだったらまず人類全員ロボトミーすべきってことになっちゃうよね。
関西人が関西人であるのは、アイデンティティをどこにおくかというところに比重を置けばよいので、本籍地はそれほど気にする必要はないでしょう。よそに引っ越して、関西や関西文化への帰属意識をほとんど失っている人を見て、「同じ関西人」とは思いにくいですよ。言語的には我々と共通していても。
30女の出現に危機感持っている人なんて一人か二人しか居ないから。別に帰属意識とか遊び場意識なけりゃ気に成らないし。
2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ [絵文録ことのは]2007/01/13
「2ちゃんねらー」と言ってもいろいろな人たちがいるのは当然である。たまたま検索結果で2ちゃんねるのページを閲覧した人も、毎日毎時間書き込んでいるvipperも、どちらも「2ちゃんねる利用者」であることには違いがない。
このページでは仮に「2ちゃんねるコミュニティに帰属意識がある人」と定義してみたい。つまり、2ちゃんねるが批判されると腹が立つ人である。これは私が以前から使っている定義であるが、私の嫌いなのは、こういう「2ちゃんねるコミュニティに帰属意識がある人」たちの振りかざす社会正義なのである。
「オウム信者」と言ってもいろいろな人たちがいるのは当然である。たまたま教義に感化された人も、実際にサリンを撒いた犯人も、どちらも「オウム信者」であることには違いがない。
このページでは仮に「オウム真理教に帰属意識がある人」と定義してみたい。つまり、オウム真理教が批判されると腹が立つ人である。これは私が以前から使っている定義であるが、私の嫌いなのは、こういう「オウム真理教に帰属意識がある人」たちの振りかざす宗教的正義なのである。
こうですか!わかりません!