はてなキーワード: 中二病とは
家に居れば行き詰った家族、学校に行けば思春期オーラで悶々とした教室。
バイト先は明らかな人員不足で、常に忙殺される割に時給が低いブラック飲食。
かような境遇の中で、俺はというと慢性的に悪化する中二病患者。どうしようもない。
学校が終わる。一刻も早くいなくなろうとして、廊下を進んでいる最中、
突如として、上記の肥溜め的な環境で暮らしているという実感が脳から臓器群を汚染し通過し足の先まで充満した。
荒廃し、暗い狂気が渦巻く監獄のような雰囲気が全身を支配し、外部に漏れ出しているような実感があった。
数メートル先に階段がある。異常に不快な精神状態が作用したのか、死に直面している気分になっていて、それが更に気分を害した。
そのとき、前方1メートルほどに、向かいから笑いながらふらついて来た女子が居た。あまりに能天気に見えて、思わず軽蔑してしまった。
それゆえこの怨念をぶつける事に躊躇は無かった。目が合った。無言で睨む。自然に浮かんだ方法だった。恐怖に陥れるにはこれで十分過ぎる、と確信していた。
楽しげな雰囲気だった女子は、一瞬で動きを止め、表情が固まった。俺は睨み続ける。女子の足が下がる。どうにも間がある。
次の瞬間、名前も知らない女子は悲鳴を上げ、よろめきながら歩いてきた廊下を逆戻りし、教室に逃げ込んだ。「今、マジで怖かったんだけどー」切迫した声が響いた。
いや、中二病ともいいきれないんだ。
完全にはその状態から回復できていない。一部の内容は今でもあてはまる。
っていうけど、実際それはある程度はその通りなんだろうけどさ。
あの、野球場に行ったら、すげーいっぱい人がいて、その中の一人でしかないという自分のちっぽけさに愕然として、しかもあんなにいっぱいいた野球場の人のさらに何千倍何万倍もの人間が日本にはいて、世界にはもっと……って考えてどうこうってやつ。
あれって結構簡単に皆「よくある中二病」みたいに片付けてるけど
実は根の深い問題というか
ほとんど現代の人間の究極的な問題じゃないかと思う。
というか、だからこそ、答えが出ないから、皆「便宜的に」考えるのをやめるだけなんじゃないだろうか
中二病wとかいって簡単に茶化すけど、実は結構根が深い問題が多い。
だからこそ若い時に悩むし、大人になって「そんな事考えてる暇がない」「考えてても飯が食えない」となったときに捨てだす。要するに「成長したから」「もう解決したから」「そんな問題はなんてことないことが分かったから」とかいうより、単に「便宜的に」忘れた、あるいは忘れようとしているだけ。
こういったある種の哲学的問いは、無意味だとか、生活に役立たないとか言われるけど
確かに哲学的問いを考えていればホカホカのご飯がたけるわけではないが
別にうんこをすればホカホカのご飯がたけるわけでもない。
実生活に役立つことはなにもご飯だけじゃないってこと
うんこも必要だし
でも必要のベクトルが違うから、他の「必要」では他の「必要」を埋められないだけで。
哲学的問いはそういった別の意味で飯と同時に「必要」で実生活に直結していると考える。
でも本当難しいよね
なんで俺は特別じゃないのかってさ
こんだけ人がいるとアイデンティティも結構容赦なく揺らぐし
何をしたって代わりはいるし、承認欲と承認される条件とそれを満たすことの追いかけっこをずっと続けなきゃいけないのか
それでしか埋められないのか
といえばそれは違う気はするがだからといってどうするのか。
中高の友達と彼女はいるけど四六時中連絡取れるわけじゃないので暇。もてあましても周囲の人々に迷惑なので友達を作ろうと彼女のマイミクにコンタクトを取る。
一回目。変態キャラの人に変態的なことを送ってみる。その人本人からではなく、周りの数人からいたずらメールが帰ってくる。その後、彼女から「マイミク切られた」と苦情。ちゃんとしようと思う。
二回目。ちゃんと良識的で教養あるっぽい内容。ちゃんと話はできて、チャットする。本や音楽の話に対して、自分が思うこととかを話してみる。相手の話を聞き、自分なりに考え直してみる。楽しんでいたはずが、チャットを一方的に切られたと思ったら後にその会話を揶揄する内容の日記。翻訳&要約すると「スノッブきめぇ精神病院いけ」。いい加減にしてくれと彼女に言われる。
サークルには入っていない。というのも、やりたいこと(一応、学術系?)ができるサークルで一番まじめそうだったものが新歓で未成年に平気で酒を勧めるような内容。飲んではいけないと思ったうえ、活動内容にかかわるような話を聞いても「まあ今は難しいこと忘れて飲もうよ」。また「文系だと就職厳しいから」といった話をすると「君なんでそんなに暗いの?」。一番まじめそうなのでもこんなのかとムカついてどのサークルにも入らなかった。結果、孤立。自業自得だけど代替案はほしいと考えて、上の失敗。
思えば二外のクラスでもそんなことが起きてた。一番最初に仲良くなった人が、こちらが誰と話そうとも割り込んでくるうっとうしい人だったので遠ざけたらすべての関係性を失った。これもしょうがないと思う。
演習クラスでは数人と仲良くなった。そのうち一人の女子と悩み相談的なメールを交わす中「大丈夫だよ」「心配ないよ」みたいな長文メールを送りまくったら無視される。気持ち悪がられたというより怖いと思われたのだろう。その後、向こうから暇つぶしのメールが送られてくる。普通の会話。その程度には許してくれてありがたかった。他の男子と仲良くなり、そのうち一人とは割と話せる間柄。ただし向こうが忙しいので会ったりはできない。というより会わせる名目が浮かばない。
思えば、目的や事情がない限り人を誘ったり呼び止めたりできない人間だった。気になる人がいた時はいったんその場から離れ、用件を捏造してから戻ってきて呼び止めたりもしていた。会話の流れを頭の中で脚本みたく組み立て、その通りに行かないと二度と話しかけられない。旧友や彼女からは「そんな考えすぎなくてもいいのに」といつも言われる。考えすぎない方法を知りたいのに。気楽にやったら即座にボロがでるじゃん。
たぶん、友達になろうとした人を遠ざけたり変に距離を迫ったりするのが傍から見ていると気持ち悪いんだと思う。わかってはいる。ただ「まじめに」「楽しませよう」とするたびにスベってしまうんだ。それが余計不気味に見えるんだ、多分。
中学以降で新しいクラスとかに入った際は、いきなり突拍子もないお笑いキャラを演じて相手をびっくりさせてきた。それなりにウケていたし、場も和んでいた。というより最初から臨界点を計算づくで見せとけば、後で素の自分に引くような人は最初から去ってくれるだろうという願いだけれど。事実、いまだに付き合えてる仲間は全員その時に近づいてきてくれた人だったし。本当の人間関係しかほしくないとか考えてた。
正直今、薄く広い人間関係を得たい。……いや、どうなんだろう。でもとにかく、良かれと思ったり楽しませようと思ったことで周り中に迷惑を掛けるようにはなりたくない。自分でも何をどうすればいいのかわからないけれど、もっと普通になりたい。みんなと楽しくやりたい。それなのに、四方八方に迷惑なことを繰り返してしまう。今度こそうまくやろうといいながら、このままだと多分ずっと。
僕は何がおかしいのでしょうか。絶対何かあると思うのですが。
自己愛性人格障害とアスペルガー症候群を自分で疑ったことはありますが、問題がそれほど致命的じゃないので病院にいけません。
授業や課題をサボるようなやつなので病的な潔癖症でもないですし、単純にプライドが高いんだと思います。
学校でイスぶんなげて暴れたことが小中高とあるので精神科に通ってたことはありました。
今は「この瞬間イスをぶんなげなくてはいけない」「でなきゃお前クズ、死ね」みたいな変な強迫観念はないので行ってませんが。
そのときの病名は統合失調症だったらしいですが、「聞こえない声が聞こえる」とかは中二病的キャラにあこがれて自己暗示してただけなので仮病だったと思います。
でも「病気を装おうとする」ことと、「こうしなくてはならない」みたいな変な考えは何かおかしい気がします。
中二病・大二病は、日本人の特性なんじゃない?だから、多くの日本人は、大二病。もちろん俺も。
下記のエントリーをみて、改めてそう思った。
http://anond.hatelabo.jp/20090924092317
http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/e/7eaba4bbf3409d6bf7151d9501304ff2
http://anond.hatelabo.jp/20090924093733
要約すると、八ッ場ダム建設問題において、建設派と建設中止派の両陣営とも、「マスコミは自分の陣営が不利になるような情報ばかり伝える。その情報は誤り、もしくはごく少数派の意見である。このような情報を垂れ流すのは、報道ではなくプロパガンダだ。」みたいなこと言ってる。実際は、この問題に対する報道は、一つの記事・番組内では多少偏りがあるものの、すべてのTV局・新聞がどちらか一方の味方をしているという状況ではない(と思う俺もTV・新聞をすべてチェックしてるわけじゃないが)。
しかし、建設派と建設中止派の両陣営とも、プロパガンダに感じてしまう。なぜか?それは、両陣営とも大二病だから。
両陣営とも、その人の"常識的に考えて"(通称jk)圧倒的に自分の陣営の主張が正しい、もしくは圧倒的多数派だと考えてる。そのため、相手陣営に有利な報道が少しでもされると、プロパガンダに感じる。マスコミという、見えない敵(悪い組織)と戦ってしまう。両陣営とも大二病である。
原因は、「"常識的に考えて"圧倒的に自分の陣営の主張が正しい、もしくは圧倒的多数派だと考えている」ことにある。一般的に、このような両陣営が長年もめてる問題で、圧倒的に片側の陣営が正しいということはない(少ない)。大抵の場合は、いい意味でも悪い意味でもお互い様だ。しかし、"常識的に考えると"圧倒的に自分の陣営の主張が正しいと感じる。そして、自分と異なる主張をするやつは、常識がない人や情報が足りない人(情弱)、悪の組織だと考え、それらの人や組織に説教したり、戦いを挑んでしまう。大二病の発病だ。
さらに原因を掘り下げると、"常識的に考えて"*が、原因なのがわかる。もっというと、人々が異なった常識
【常識】
(1)ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/93867/m0u/%E5%B8%B8%E8%AD%98/
をもっていることが原因である。当然、皆が日本社会に属していている。しかし、同時に、東京都や群馬県などの地域社会、医者・SE・科学者などの専門領域(社会)に属している。異なった社会で身につけるので、異なった常識(知識や判断力)を持つ。それを日本社会の常識と考えるから、大二病が発症する。
先日の選挙も、多くの日本人が、自民党・民主党・公務員・マスコミという見えない敵(その組織の誰が悪いとはわからなし、全員が悪いわけじゃないが、その組織の中にいる悪)と戦っていた。多くの日本人が大二病なのかもしれない。いや、大二病は、日本人の特質なのかもしれない。
大二病を治すにはどうしたらいいか?大二病発病中の俺は、以下の方法で闘病していくつもりである。自分を常識的な人間だと考えるのをやめて、なんらかの専門家だと考える(ある意味、高二病の発病)。同時に、他人もなんらかの専門家だと考える。悪と戦うのではなく、異なる分野の専門家と議論すると考える。具体的には、異なる分野の専門家(知識労働者)が社会の中心となっていく的な本、「プロフェッショナルの条件」 P・F・ドラッカーでも読み直し、洗脳されてみようと思ってる。
今日たまたまBOOK-OFFでTWIN SIGNALの外伝を見かけた。
TWIN SIGNALってのは今でいう腐女子向けのロボット漫画で、やたら美形の男性型ロボットが(テクノロジー関係で)中二病的な設定のもとで活躍する少年漫画。
少年ガンガン本誌(途中からWINGに移行した気がする)で連載していた。
当時中学生だった俺は(ちなみに当方20代半ば♂)この作品にどっぷりはまりこんだ。
当時は作中に出てきていた「MIRA」「SIRIUS」の正式名称も覚えていたし、A-ナンバーズも全て暗記した。
(ちなみに、MIRAはMetalomorph of Inner-Reflexive Articulationの略、SIRIUSはSiliconoid Regenerator by Integrated Unisonous Solar-raysの略。)
今でもA-ナンバーズはすべて言える。
もちろん主人公のシグナルはかっこよかったし,パルスもカルマもオラトリオもコードも好きだった(非同性愛的な意味で)。
でも何より憧れたのは音井親子(じーちゃんと父さんの博士コンビ)やみのるさん、カシオペア博士、ジョルジオ・ハンプティ博士などの天才たち。
ロボットの生みの親、そして世界最高峰のシンクタンクの構成員たち。
彼らの目線で見る世界ってどんなものだろう。
ロボット工学ではないが、それでも憧れていた彼らの位置にちょっとづつ近いづいている。
きっと、TWIN SIGNALを読まなかったら、あんなに工学部に行こうと思わなかっただろうし、受験勉強も頑張らなかっただろう。
この作品に出合ったからきっと俺は今の状況に在る。
というのを久しぶりに思い出したので久々に全巻揃えたくなった(前集めてたのは親に処分された、笑)のだが、どうも絶版らしい。
非常に残念だ。
この場を借りて、TWIN SIGNALを描いた大清水さち先生に御礼を申し上げる。
先生の作品がなかったら私は全然違う道を歩んでいただろうから。
ひっかかっているのはここか?
「洋楽サイコウ邦楽はクズ」という発言が中二病的かどうか、ということだよな?
たぶん、世間一般的に「洋楽サイコウ邦楽はクズ」という発言は中学生以外はあまりしない。
なぜかというと、洋楽は洋楽の楽しみがあり、邦楽は邦楽の楽しみがあるからだ。
もちろん、ある一定の価値観に立てば「洋楽サイコウ」に決まっている。
メロディラインの美しさ、純粋に音楽としての文化の深さでは邦楽は洋楽には絶対に勝てない。
だが、邦楽には邦楽の文芸的な肌合いや、日本特有のまったりした空気感のようなものがあり(日本の文化に浸っているものとしては)これはこれで心地よい。
だが「洋楽サイコウ邦楽はクズ」は極端に一方に偏った価値観の表明だ。
余計な喧嘩の種をまくだけだし、実際に両方の価値観を認めてしまっているのだ。
どちらか一方だけを聴くということはまずない。
「洋楽サイコウ邦楽はクズ」という発言はつまり「世界が狭い」んだ。
音楽について少ない経験値しかないってことを明言してしまっている。
たぶん世間的には「オレはあんまり音楽聴いたことないです」って言うのと同義。
大人になってしまうとそれがわかるから、たとえそう思っても言えなくなる。
これは大人にはできない発言なんだ。
中学生ゆえの特権的発言内容だよ。
なんとなく独り言をつぶやいてみたくなって、なぜ「しんぼる」に僕は感動したかについて書いてみます。ちょっと長いから興味無い人はスルーで。
まあ言うとくと、一作目の「大日本人」も「しんぼる」も、いつも「ガキ使」や「HEY」で見ているような松っちゃんを期待すると肩透かしくらいます。特に「大日本人」はそれが顕著。
まず「大日本人」ですが、「え?これって笑うところなの?」みたいなシーンがいくつも続きます。
スタッフの笑い声みたいなものが一切ないために、つられ笑いもできません。メイキング見て初めて「なぜここで笑わなきゃならんのか」ということがわかる、もうわかるやつだけついてこいという、ものすごい閉鎖的で排他的な映画です。
「ごっつええかんじ」から「ビジュアルバム」へと続く、松本が自著で説いた「演者は客を選べる」という思想に基づいて、観客をふるいにかけているようなコント作品の集大成が「大日本人」。
これらの作品は「わけわからん」と言って切り捨ててしまっていいと思います。「大日本人」を観て爆笑しているような人間には近づかんよーに。
まず間違いなく「オレだけが松本の笑いを理解できるんだ!」病をこじらせてしまっている松本教信者です。中二病と言い換えてもいいかも。肥大した自意識をこういったもので武装してるんですな。
だから僕は「大日本人」を観て、「ああ、松っちゃんはこれから信者引き連れて信者のための映画を作っていくのかなあ・・・」なんて思ったりしました。
で、「しんぼる」ですが・・・
正直言って面白かったです。感動さえしました。
今までずっと閉鎖されたコミュニティに向けて自分の本当の笑いを発信してきたあの松本が、プライドを捨てて一歩を踏み出してくれたのだと思っています。
「突如挟まれるアメコミ調」 「天丼」 「大声や奇声を張り上げる」などといったギャグが「しんぼる」には大量につぎ込まれています。
これって、電波少年の企画で撮った「サスケ」というコントで特に外人ウケがよかったギャグなんですよ。つまり、「しんぼる」の下敷きは「サスケ」です。基本的にこれの延長線にあります。
でもこういうギャグって別に外人に限ったわけじゃないんですよね?我々日本人にとってもわかりやすく、笑いやすいギャグだと思うんです。
つまり、万人に向けての笑いだと。
「しんぼる」って、映画単体で観ると、まあ色々酷評されているように、よくできた映画とは言えないかもしれません。
しかし、僕みたいな元松本教信者からすると、ずっと閉鎖的だった松っちゃんが外に、万人に向けて発信してくれた!ってただただ感激しちゃうんですよねえ。
こういった面から観ると、「しんぼる」は非常に革新的な映画だと思います。「映画」というフォーマットに対してではなく、「松本人志」に対して、ですが。
私の姉は精神病を患っている。詳しいことは知らない。統合失調症とか、うつ病だとか、分裂症だとか、まあそこらへんだと思う。よく分からない。ちょっと前までは多重人格のようなことを口走っていたけれど、最近は聞いていない。
症状は、荒れに荒れた中学時分の反抗期が終わったぐらいから何年も続いていて、最近は落ち居ているけれど、少し前まではかなり大変なことになっていた。
夜。何かといちゃもんをつけては外へ飛び出す。自分は要らないのだ。ゴミなのだ。存在することが誰かの迷惑になるのだと両親にぶつけて、両親は決死の思いでそうじゃないと繰り返すのだけれど、一度主張しだしたが最後、頑固な姉は過去のことを穿り出して来て、最終的に深夜に家を飛び出しいた。心配して起きて待っている両親をよそに、コンビニなどへ行って、二時三時に帰ってくることがたくさんあった。
私の姉(一概に姉といってももうひとりいるので、以降は長女とする)は、わがままな頑固者で、人とのコミュニケーションの距離感覚が異常なまでに近い上に正義感が強く、するりするりと繰言を繰り返しては、結局最初に述べた理論を押し通すような人間だ。
一通りの中二病的精神状態を経てからは、どうやら一定レベルの精神年齢で思考を停止することを覚えたらしく、言動が幼くなり、五十歳も目前に迫っていた両親に肥満の巨体でじゃれ付いては、大変そうな表情を見つけて、居なくなった方がいいのだと言い募っていた。
まったく面倒くさい奴である。正直、私は長女のことが苦手である。一時は本気で嫌いだと思っていた。死にたいならさっさと死ねばいいと、家を出て行きたいのならばさっさと出て行けばいいと思った。まあ、その思いは、基本的なところで今も変わらないのだけれど。私も大概ひどい奴である。
さて、以下にそんな私の姉を中心とした私の家族を列ねてみる。個人的に、我が家はそれなりにどこにでもある家庭で、それなりにみんなが問題を持っている家族集団だと思っている。普遍的な家庭ってことだ。
最初は母だ。
基本的に短気な人である。長女との喧嘩でよくよく言わなくていいことを言ってしまうし、無視しあしらってしまえばいいような場面でも全力で受け答えをしてしまう。もう何度も経験して、その言い方をすればどんな結果に辿り着くのか傍目から見ても明らかなのに、同じ道筋を辿ってしまうのだ。学習能力がないと、家族からからかわれている可哀想なお茶目さんだ。
そして、寡黙なのを押し通して、最後の最後まで手を出さないよう、あるいは最後には俺しか居ないのだと構えている父。
母と長女が諍いをしているのをじっと黙ったまま見ていて、最終的に立ち上がってみるのだが諭すことに失敗する。成功例もいくつかあるように思うけれど、失敗した時は姉が飛び出た後で母を責めていたような気がする。いや、あんたにも責任はあるだろうとは度々思ったものだ。個人的に煙草の煙が大嫌いなので止めて欲しい。
祖母は、要らないところで口を挟むKYな人物だった。
聞いていてはらはらするのだ。基本的に関知しないことを潔しとしていた祖母だけれど、感極まって口を出すことがあった。それで口喧嘩になる。長女には敵うわけがないのだから、結局は無駄なのだからやめたらよかったのに。未だにバリバリと働く元気なお祖母ちゃんである。
次は次女だ。
私と同じで、基本的に部外者だったのだけれど、私に比べて彼女は家族思いだった。離れていても母親とメールのやりとりをしたり、いろいろ話も聞いていたんだって。更には、一度飛び出した長女の頬を張ったこともあったらしい。その後、ごめんと謝って、叩いていいよと返した次女は結構恰好いい女だと思う。うん、本当に。
そして、私である。
厨房の頃は耳を塞ぎ、高校生の頃はどうにかできるのだと、私が何とかするのだと義務感に燃えていた無謀な馬鹿である。頭の中で何度も長女とのやりとりにおける対策を考えては、両親や祖母の向かい方を小馬鹿にして、私ならこうするとシミュレーションを繰り返していた。
でも、実践では惨敗。自分が要らない人間だと言う姉との会話の中で、お前は嫌いだと言われ、更には冒頭で死ねばいいとか思っていながらも、もう飛び降りると川に身を乗り出した姉の身体を抱き止めたこともあった。一貫していない阿呆である。そして、あの時手を離していたらどうなっていたのだろうと、最近考えてみたりしている。詮無いことだけれど。
まあ、結局私は無力だったのだ。若気の至り。世間知らずもここまで来ると可愛らしく思えてくるのではないか。黒塗りの消しゴムでぐちゃぐちゃに消し去ってしまいほどに。
さて、そんな我が家には犬が一匹居るのだが、これまた可愛いのだけれどもとっても可哀想な犬となっている。以上に上げたような人物たちなので、かなり怒られてばかりなのだ。また、長女は基本的に独占欲の強い人なので、愛情の示し方が自分のモノとして支配下に入れることで成り立ってしまっている。
つまりは、尻尾を力を込めて踏んだり、皮を力一杯抓ったり、頭に思いっきり噛み付いたりすることがあるのだ。きゃんきゃんと喚く愛犬の姿は、見てみてはっきり言って気持ちのいいものでない。要らない場面で要らない命令(ご褒美も上げないのに、お手とかジャンプとかをさせる)を出すのも気分が悪くなる。
が、それでも、長女は我が家の犬を愛しているのだ。餌をやるのは自分の仕事だと自負していて、先に他の誰かにやられてしまうと拗ねやがるのだ。今年、たぶん25歳ぐらいになるのに(恥ずかしいことに、私は家族全員の誕生日はおろか、正確な年齢すら把握していない)。大きな幼児が居たものである。
ただ、そんな長女だけれど、少しずつ症状が和らいできているように思える。依然として過去のことに拘り、うだうだと五月蝿いことはあるのだが、それでも入院した後は積極的にバイトに行くようになったし、ネットで知り合ったらしい友達の輪も増えたように思える。
母も、まだ気苦労は耐えないだろうが、気長に付き合っていくことを覚悟しているようである。
父は、問題は両親と長女だけの間で解決するのだと気負っているし、祖母も、最近ではあまり空気の読めない発言をすることがなくなった。
次女は、実は一度家族(主に長女に対して)に抱いている暗い感情を気の知れた人物に吐き出したことがあったそうだ。掛け替えのない家族なのに、邪魔だとか面倒くさいとか居なくなってしまえばいいのだとかひどいことを考えてしまうのだと、泣きながら吐露したのだという。
素晴らしいではないか! 私には到底できない芸当である。次女を筆頭に私は家族のことを(もちろん長女も含めて)結構尊敬していると思う。
さて、最後に一番ひどい奴だ。何だかんだ書きながらも、必ずどこかしらで家族のことを見限っている私だ。こんな詰まらん分析もどきをしてみたり、どうでもいいようなことを考えている私である。社会になど馴染めないと、すでに諦め腐っている。
しかしながら、だ。私は私のことがそれほど嫌いではない。かと言って好きでもないのだけれど、まあいいかなと思っている。だから、本心から自分のことをひどい奴だとか思って悔やんでいるわけではない。そう言う人間なのだと受け入れているのだ。
おそらく、人とのコミュニケーションの距離が近すぎたために大変な目に合った長女。
短絡的ながらも、結構いろいろ考えていて悩み苦しみながらも家族のことを思っている母。
憮然と外部から見守って、ちゃんとみんなを支えてくれている父。
できる仕事をしながら、ちゃんと家族として邪魔にならないよう居場所を作っている祖母。
遠くから人と接しながらも、根は優しくて、最近仕事に疲れきっているニコ厨の次女。
私は彼らのことを受け入れて認めている。愛しているなんて言わないけどさ。
でも、家族ってそう言うもんだと思う。愛すことができなくても、憎たらしくて殺したくて死んでほしくなったとしても、それでも認め受け入れざるを得ないものなのだと思う。
そりゃあ、過去に何かがあったかもしれない。親にひどいことを言われたりとか、逆に子供から言われたりとか。
でも、そんなものを全部飲み込んで包んでしまうのが家族なんじゃないのだろうか。完璧な親が居ないように、完璧な子供が居ないように、完璧な家族だって存在しないのだから。温かいだけじゃなくて、生臭くて、汚くて、苛々して、泣きたくなって――
まあ、それでも耐えられなかったり、辛い人もいるだろうし、家族って何ぞ? って思うような孤児の方も居るかもしれないけれどもさ。
要は、家族って面倒くさいんだよ。滅茶苦茶面倒なんだよ。飽き飽きするし、嫌いになるし、憎んで、殺意を抱いたり、でもそれでも感謝することもあったり、いい意味でも悪い意味でも時々励まされるものなんだ。
だから、結局何なんですかって話になるのだけれどね。
私にも分からん。そして終わり方も分からないから、こんな中途半端で一区切りつけることにする。
うーん、これじゃあブクマは増えそうにないな。難しい。
不評だったから冒頭消しました。
ブクマ云々は冗談のつもりだったのだけれど、無意味以上に性質の悪いつかみになってしまったみたいだ。
常々、私は冗談が巧くないと自認していたけれど、ここまでひどいと楽しくなってくる。
もういやだ。チクショウめ。
来年成人するから選挙の機会もあるだろうし、いい加減ちゃんと政治に関して知っておきたい。
けれども政治についての知識を例えばネットから得ようとしても、正直言ってどれを信じていいかがわからないから困っている。
例えば民主党か自民党か選べって言われたとして。
民主党を選ぼうとすると「政策にどうやら問題があるらしい」みたいな声が聞こえて、逆に自民党だと「政策実行力に欠ける」とかそんなイメージがわく。で、どっちが正しいかを判断しきれる情報が見つからない。というより、仮に民主党の問題点が列挙されたとしても「自民党支持者が書いた詭弁」に見えてしまうし、その逆もまたそうなのだ。自分で政策を見極める頭もないし、特定の政治団体に偏らずにそれを会得する方法も浮かばない。本でも読む? では何の本を? ロック、それともケインズ? むしろいっそアリストテレス? ああもうぐるぐるしてくる。
問題なのは、誰のどの情報も信頼できない状態なんだと思う。特に「団体」の構成員からの意見がどうしても信用できない。政治に限らず。
ものすごく真剣になってる人のなりふり構わない感じがどうしても気持ち悪くて、それは多分小さい頃にオウム真理教事件とかの報道を見たり同時多発テロ以後のお祭り騒ぎに流れてったからだとも思うんだけど、ともかく誰かが自分に必死になればなるほど冷めてしまう。懐疑的になってしまう。ドン引きしてしまう。感情的にこうなりたくないって思ってしまう。
そういえば、中学の時に通っていた塾が「合宿」と称して自己啓発セミナーまがいのことをやっていたっけ。当時好きだった女の子が涙流しながら「頑張るぞー」って絶叫してた。宗教としか思えなかった。その子はたまに手首を切りながら難関進学校に合格し、けれども志望大学には行けなかったらしい。集団でイデオロギーのプールに浸かることに、ものすごい抵抗を覚える原因はここなのかもしれない。
僕の政治団体に対するイメージはたぶんこんなのだ。偏見ですよね、気を付けます。
とにかく自分で判断したいとは常々思っている。投票に関しても、所詮は自己満足であり一票にそれほど価値が無くとも、政治に関わる以上は見極めて一票を投じたい。けれども特に政治の話を誰かから聞く場合、その人の支持政党とかそんな情報まで入ってきてしまう。で、このとき聞き手は話し手に説得されただけになってしまい、じゃあ彼と同じ政党を……ってなるのはすごくいやだ。自分で選んでないから。潔癖症かな。中二病だな。
本当にもう、政治を見極める視野ってどうすれば身に付くんだろう。
ていうか皆さんはどうやって投票されたんですか?
まずどこでどんな知識から入れていったんでしょうか?
テレビもネットも人も信用できないんです。
メディアリテラシーを教育するメディアって、何がもっともふさわしいんですかね?
所詮は『程度の差こそあれ、全ての教育は洗脳である』とは言えども。