近頃の学生は人の意見に批判的なことをいうのをとてもためらうのだそうだ。
建設的な話し合いをするためには同調ばかりでは議論が深まらないのだけれど、
学生は批判的な意見を悪口やその人の否定と捉えて配慮してしまうのだそう。
否定から入る誹謗中傷まがいの意見に溢れたネットの言論空間を見る限り、
顔見知りの間ではそれが正当な議論の場であっても人間関係を優先したいということなのだろう。
あるいは非匿名環境では言いたくても言えないストレスが匿名空間で吐き出されているために、
人に対する意見や反論が中傷と言い得るほどに過激化してしまうのかもしれない。
そうした意図をもって書かれる批判や批評ももちろんあるだろうが、
私は自分にとって耳の痛い批判の声を攻撃とも排除とも考えていない。
批判してもらうことで初めて気づくことのできることもある。
誰かに自分を批判をされたと感じた人がそれを攻撃と捉えて反撃を仕掛けてくる。
批判に対する反論であれば良いことではあるが、批判を攻撃と捉えた人の反論には、
罵倒や人格攻撃や曲解が少なからず含まれ、おおよそ感情的で議論を成立させるような信頼関係を築くことができそうにない。
マウントを取られたと思い込んだ人がマウントを取り返しにいくような言い争いは不毛の極みであり、まったく生産的ではない。
寛容の必要を訴えたら寛容でないひとを受け入れないのは不寛容だというような皮相的な言葉遊びに時間を浪費するのは、
不寛容な人を受け入れられない人は不寛容か、多様性を否定する人を否定するのは多様性の否定か、
揚げ足取りやマウントの道具として消費するだけのことであればそれは不毛としか言いようがないだろう。
それでもあなたはやはり批判を攻撃と断じて反撃したくなる衝動に抗えないだろうか。
意見のすり合わせやら批判やら議論やらができないってのは不幸だよな まあそういう訓練は意見が対立した時しかできないもんだから、日本式の人付き合いの中だとなかなか訓練自体で...