2023-01-15

批判攻撃が直結してしまう人

何年か前にどこかの大学先生が言っていたと思うのだけれど、

近頃の学生は人の意見批判的なことをいうのをとてもためらうのだそうだ。

建設的な話し合いをするためには同調ばかりでは議論が深まらないのだけれど、

学生批判的な意見悪口やその人の否定と捉えて配慮してしまうのだそう。

否定から入る誹謗中傷まがいの意見に溢れたネット言論空間を見る限り、

批判を避けたがるような配慮微塵も感じられないのだけれど、

顔見知りの間ではそれが正当な議論の場であっても人間関係を優先したいということなのだろう。

あるいは非匿名環境では言いたくても言えないストレス匿名空間で吐き出されているために、

人に対する意見反論中傷と言い得るほどに過激化してしまうのかもしれない。

なにかを批判的に書くことは攻撃排除だろうか。

そうした意図をもって書かれる批判批評ももちろんあるだろうが、

私は自分にとって耳の痛い批判の声を攻撃とも排除とも考えていない。

批判してもらうことで初めて気づくことのできることもある。

そこに侮蔑罵倒人格攻撃曲解がなければ、

まったくこちらの意見同意してもらえていなかったとしても、

その批判は傾聴すべきありがたいものだと私は考える。

その批判が名指しをして誰かを非難したわけでもないのに、

かに自分批判をされたと感じた人がそれを攻撃と捉えて反撃を仕掛けてくる。

批判に対する反論であれば良いことではあるが、批判攻撃と捉えた人の反論には、

罵倒人格攻撃曲解が少なからず含まれ、おおよそ感情的議論を成立させるような信頼関係を築くことができそうにない。

マウントを取られたと思い込んだ人がマウントを取り返しにいくような言い争いは不毛の極みであり、まったく生産的ではない。

寛容の必要を訴えたら寛容でないひとを受け入れないのは不寛容だというような皮相的な言葉遊び時間を浪費するのは、

私にとってもあなたにとっても何一つ利益にならない。

不寛容な人を受け入れられない人は不寛容か、多様性否定する人を否定するのは多様性否定か、

これをテーマとして議論すること自体不毛だとは思わないが、

揚げ足取りマウントの道具として消費するだけのことであればそれは不毛しか言いようがないだろう。

それでもあなたはやはり批判攻撃断じて反撃したくなる衝動に抗えないだろうか。

攻撃している人を攻撃している」と脊髄反射的に言いたくなってしまうのだろうか。

なにか冷笑的な言葉を浴びせずにはいられなくなるのだろうか。

  • 意見のすり合わせやら批判やら議論やらができないってのは不幸だよな まあそういう訓練は意見が対立した時しかできないもんだから、日本式の人付き合いの中だとなかなか訓練自体で...

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