僕は「弱者男性」と聞くと田舎の実家で親と同居して未だに結婚してない「こどおじ」に成り果ててしまった小中高時代の友人たちを思い出す。
彼らのほとんどはちゃんと働いているものの、なにせ田舎なので低所得だろうし、何より親と同居という点で婚活市場で女性から嫌われる不利な立場にあるのは間違いない。
でも、女性の仕事の機会が「制度的」に制限されていて独身で生きていくのが今よりも難しい時代であれば、彼らの多くは結婚できていたのではないかと思う。それこそ彼らの父が見合い結婚したり、男性社員のお嫁さん候補として雇われ25歳までに寿退社することを強く望まれていた女性社員と「恋愛結婚」したりしたように。
「フェミニズム叩き」「女性叩き」で溜飲を下げても、決して「幸せにはなれない」理由
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/81804?page=7
女性に比べると、男性のつらさは制度的なものというよりも実存的なものである側面が強い。たしかに男性のつらさのなかにも、再分配を手厚くするなど制度によって軽減できる種類のものもあるだろう。しかし、女性やパートナーがいないことによる孤独や承認の問題は、少なくとも近代的なルールを前提するならば、制度をどう変えても対処することは難しい。個々人が自分の人生に向きあいながら対応せざるを得ないものだ。
かつて「制度的」に就労を制限され、子産み育て機械・家事機械・農作業手伝い機械・義父母介護機械になることを強制された女性の多くが独身でも生きられる所得を手に入れ、苦しみから解放されたのは、リベラリズムやフェミニズムの偉大な勝利なのだが、
その分だけ結婚できない「こどおじ」が発生し男性の「実存的」な苦しみが増えてしまったのではないだろうか?
現代の民主国家で「近代的なルール」を引っ繰り返すというのはまず無理なんだけど(ジーンズ姿の女性達にヒジャブを強制したイラン・イスラム革命のようなものでも起こさない限り)、だとすれば「こどおじ」ができることは子供部屋から世界を呪うことだけじゃないかなあ。