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レズビアンとして最初の喪失は,女性ではなく,男性だった。頭のてっぺんからつま先までストレートな白人男子。「この男が私の親友になる」などとは思いもしなかった。でも出会いというのはそういうものかもしれないし,始まりがどうであれ,うまくいくことはある。同性愛について何も知らなかった当時,自分をゲイとして受けいれるとき,彼は私を支えてくれた。二人して彼女探しに精を出し,彼に彼女ができた(これでとりあえず孤独な老人は一人減るわけだ。よかった)。そこからは苦難の道だ。彼女は私たちの関係を疑った。私がゲイなのは知ってたんだけれど。私たち二人の,か細く編まれたつながりは,ゆっくりとほころんでいった。元に戻せないくらいに。ある雨の夜,私たちは車の中で泣いていた。「どうして? 私たちの間に何かあるんだったら,とっくの昔にやってるでしょ」「あの子は恐れているのは,僕らが寝ることではなくて」「仲がいいことなんだ」思い出すのはいつもそのことだ。
The Half of It は当初ティーンエージャーの映画ではなく,20代の親友たちの物語だった。お互いのつながりを十分に理解できないまま,レズビアンとストレート男子が愛を理解しようとする物語だ。そこで私は壁にぶつかった。(100ページもない話に)私が納得いく形でみんなを満足させられるようなエンディングを書けなかったのだ。自分の経験をもとにすれば破局になるし,自分の経験を書き換えて理想のお話にすることは,できそうにない。あの時,愛をつなぎとめるためにどうすればいいのかわからなかったし,今もわからないままだ。行きづまって,「これをハイスクールの話にしたらどうだろう」と考えた。あらゆるものが色濃くあらわれるのは,ハイスクール時代だけだ。そこで感じることは初めての,そしてそれゆえ一度きりの経験になる。それに,恋愛については,みんなティーンエージャーに回帰していくのでは? とも思う。書き進めるうちに登場人物たちがひとりでに動き始め,三角関係ができあがり,完全に別の物語が生まれた。
私の現在地は,中年期におののきながら,ティーンエージャーの映画を作り終えたところだ。一仕事終えて,よく見えるようになったことがある。一つ目:私はかつて愛のかたちは一つしかない,と考えていた。A+B-C=愛,みたいな。愛にはいくつものかたちがあることは,この年になってわかるようになった。私が想像してきたよりもずっとたくさん。
もう一つ:エンディングが難しいのは答えを求めるからだ。15年前の最初の作品 Saving Face では,「このエンディングはやりすぎではなかろうか」とずっと自問していた。登場人物たちにふさわしいと思う一方で,現実世界でもこのハッピーエンドがありえるだろうか,と言わねばならなかった。でも一人のクイア女性として,それが私にも訪れるのだと信じるために,私はあのエンディングを欲していた。あれでなければならなかった。* この The Half of It では,登場人物たちは一緒になれるのか,これはハッピーエンドなのか,という質問をよくされる。私からは,この映画はだれかとだれかがくっつくという話ではないのだ,と伝えたい。これは,3人の若者が人生のある時点でぶつかり合う中で,あるべき自分になろうと思ってよいのだ,という確信を得て,別々の道を歩みだすまでの物語だ。映画の終わりは,彼ら一人一人の始まりを意味している。最高のハッピーエンドだと,私は思っている。
(*註:15年後の今,だれもあのエンディングがやりすぎだとは思わなくなった。世界は変わったのだ。そのことがとてもうれしい。
そして私はあの友人を思い起こす。私は The Half of It を,あの友情の喪失を乗り越えるために書いたのだ。振り返ってみれば,私が解こうとしていたのは間違った方程式だったのかもしれない。あの関係をつなぎとめるには,この喪失を避けるにはどうすればよかったのかと苦しみ続けてきた。でもたぶん,そこに答えはなかったのだ。何が起こったにせよ,あの関係があって今の私があるのだから。かつての深夜の恋愛作戦会議で大事だったのは,彼女とか,恋愛とかそういうものではなかった。おバカな二人が,互いに気遣い,理解し,受け入れたこと。エリーとポール,エリーとアスターたちが愛おしいのはそういうところだ。そして彼と私も,そうだったのだと,今になってようやくわかる。