2020-04-08

何を願います

それほど遠くない未来、ある春。

その年の数年前には原発メルトダウンがあったが、どこかなし崩しに、多くの人々からは忘れ去られていた。科学は発展しても人々はさして進化はしない。

「忘れ、目を背けることこそが人間美徳なのだ」とネクタイを締めながら、N氏は思う。

N氏には身寄りがいなかった。友人と言える友人もおらず、複数の持病を抱え、身体不自由だった。

N氏は身支度をしながら、鏡の前で剃り残した髭に気づいたが、そのままにしておくことにした。「どうせ、誰も気が付きやしない」とN氏は思っていた。


どうやら、今年はウイルスらしい。

医療崩壊しそうだ」「不要不急の外出は避けてください!」と、朝のテレビではニュースが騒ぎ立てる。

このウイルスは、感染力が強いが症状が出づらい。しかし、いったん発症すると急激に重度の肺炎になりやすく、治療効果のある薬が見つかっていないそうだ。

「まあ、それでも、私は仕事に行かなくてはいけないんだよな」とN氏は独りごちた。

政府がいうように遠隔操作仕事が出来る人たちはいい。羨ましいくらいだ。N氏には不要不急の外出などどこにもない。インフラを支える仕事下請け下請けである

といっても、そもそもウイルス蔓延する前からN氏の年収は激減し、遊びに行く余裕などなかった。さらに、もともとの体力のなさもあり、休日は自宅で寝るだけで精一杯だった。

TVの中では「社会的距離とりましょう!」とキャスターヒステリックに叫んでいる。

続いて、中継で繋がっているコメンテーター弁護士。彼はモニターの向こうの、さらに向こうのモニターから政府対応の遅さを批難していた。しかし、医学知識が全くないせいか、その内容は素人目にみてもまるで見当違いだった。N氏は恥ずかしいような気持ちになり、TVを消した。

バカらしい、あなたたちと私たちは既に大きな距離があるじゃないか

ウイルス流行ろうが流行りまいが、私も、私の周りもそもそも死んでいたようなものだ。あなたからは私のことは見えてもいないだろう。「いや、距離ではなく、壁があるのか」とN氏は自嘲めいた笑いを浮かべ、小声で呟いた。



「おそれいます。では、こんな時に3つの願いを叶えてもらえるとしたら、どんなことを願いますか?」

N氏の背後に突然、黒いスーツを着た男が立っていた。不思議と恐怖感や驚きは少なかった。

そして、N氏にはすぐにわかった。

男はゆっくりと、落ち着いた口調で言った。

「そう。私は死神でございますよ。願いを叶える代わりに魂をいただきうございます

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