私はいわゆる虐待をされて育った人間で、常に「お前は正しい事のために消費される以外に価値のない存在だ」とか「生きようとするな」とか「お前は数合わせで作ったがお前のせいで人生が不幸になってしまった」とか「お前は最高の人間の血を引いているのだから最高の成績を収められない場合それは血への裏切りでありこの家の子供ではない」等と言われてきたのだが、
それでも親に愛されたかった私はその言葉を忠実に継承しながら成長し、高校を出るころには夢も希望も自分を生かす意思さえもない、求められていた立派な廃人に育つことができた。
育ってみると自分を大切にしようとしないというのは結構便利な性質で、事故や事件で困っている人がいればリスク度外視で助ける事ができるし、病気や災害で本当に死にそうになってもヘラヘラしていられるし、悪意に晒されようが異常性から人に縁を切られようが影響を受けずモリモリ自分の仕事ができる……となかなか素晴らしい性能を発揮できていた。
(本質的にはそれが祟って死んだ自分を見たら流石の両親もそれまでのことを悔いて謝ってくれるのではないかという打算もあった。私は命令通り自分を使い潰して死ぬことで親に背くことなく解放されたかった。)
ところが肝心の親は私より先にこの世からいなくなってしまい、そこから数年あれこれ悩んだ結果、最近の私は私は私のために生きていていいのではないかと思うようになり、毎日がハッピーハッピーな感じになってしまう。
これはまあ基本的にいい事であり、頭にはやたらと爽快感があるし、初めて自分の人生を生きられている感じはあるのだが、
自分を許すという事は同時に持っていた自殺パワーを失うという事でもあったので、これまで私を頑張らせていたものが皆不安定になってしまった。
最近の私は過労死はおろか病気も怪我も嫌がるし、休みには子供の頃のように遊びたがるし、笑うし、泣くし、滅茶苦茶である。
その事自体は私の問題なのでいいのだが、たまにやっていた身内での(平たく言うと頭の病気仲間での)お悩み相談の精度が落ちてしまい、困っている。
私のやるお悩み相談というのは私がどん底であるが故に相手への理解が成立して可能になるというものだったので、ハッピーな状態の私では相手の病みについていけないのだ。
(以前の私は憎しみで活動していたので大体の憎しみに同調できたし、「この世にいいことなんてない」と認識していたので返ってイケてる解決策を探したりできていたのだが、最近は「いいことあるよ」で止まってしまいがち)
相手は多分私が話を聞いてやらなくては参ってしまうだろうが、憎しみを失くした私は多分もう理解者としての資格を失っていく一方だろう。
無免許素人カウンセラーようやく共依存を脱出するの巻かな おめでとうです
裏切りでも不義理でもないから お悩み相談はやめて自分のことだけ考えて生きな