海猿の映画がすぐに思い浮かぶが、救命モノでよく見る「二者択一でしか命を救えないとき、あなたはどっちを選ぶか」
という議題がある。大体は「どっちも救う!」なんだけど、そりゃそうしたいよ、でも出来ないから悩んでんでしょ……って毎回もやもやしてしまう。
ハンターハンターの試験では「答えは沈黙」なんだけど、いや、悩んでるし……って毎回もやもやしてしまう。作中でもあったけれど、いつかは答えを出さなきゃいけない。答えを先送りにしてるだけじゃんと。
言いたい事はわかるんだ、いつも悩んで、何が価値かを考えろ、いつも悩んで悩み続けろって。でもやっぱり答えが欲しい。
みんなも同じ気持ちを持っていたんだろうと思う。だからこそ、進撃の巨人のように「何かを得るためには何かを犠牲にしなきゃいけない」という思想の作品が増えていったのだと思う。
でもそれが行き過ぎて最近、「犠牲を出せば何かを得られる」みたいな思想になっている。仮想通貨が流行った時も、「リスクをかけなきゃ利益を得られない」と言いながら、
崖から飛び降りてる人を何人も見た。そしてそれを自業自得と見つめる人も。二者択一という言葉を見た瞬間、「どっちかを切り捨てなきゃいけない」という強迫観念に支配されてるように思えた。
約ネバの孤児院脱出編は、それらに対する一種の答えを出してるんと思うんだ。
「二者択一でしか命を救えないとき、最後まで諦めない。最後の最後までダメだったら見捨てる」
簡単なようだけど、海猿は「最後まで諦めない」しかできていなかったし、それ以降はそもそも初めから諦めていた。
約ネバの主人公は、最後まで諦めなかったし、無理だったら自分たちだけで行くという決断も(友達によってだけど)できていた。
それでもアッと驚く方法で皆で脱出し、読者に諦めない事の大切さを伝えて見せた。それだけじゃなく、行く先々で出会う「二者択一で即切り捨てる人」の心を動かし、
「皆を救う」という選択によって、自分たち自身も救われていく事になる。
ある意味「皆を救わなければ自分は居なかった」という呪いをかける事で、救われてきた。もちろんそれによって全滅する恐れもある。
現実世界で、僕たちは皆誰かに生かさている事を忘れて、まるで何かを切り捨てて生き残っていたような顔をしている。
そもそも「皆を救う」事を諦めなかったからこそ、薬が出来て、一応植民地支配を免れ、一億総玉砕まで行かなかったんじゃないかと。(ここら辺はたとえとして、実際はどうかは今は置いといて)
それを忘れて何を切り捨てるかばかり考えたら、たぶん自分も、世の中も何も無くなってしまう。
勿論、アメリカのアフガンゲリラ戦で、アメリカ軍の「同胞は見捨てない」というルールでゲリラに突っ込み、さらなる被害を拡大してしまった事案もあるけれど、
そのルールによって救われた人も多分いるはずだし、同胞を見捨てた時点で多分その軍は、国の信念は終わってしまうと思うんだ。
甘っちょろい考えではあるけれど、そんな甘っちょろい考えが思い浮かぶたび、るろうに剣心の言葉が思い浮かぶのだ。
「けれども拙者は そんな真実よりも 薫殿の言う甘っちょろい戯れ言の方が好きでござるよ」と。
俺薫じゃないけど。思い浮かぶのだ。