さて、皆さんは2Lペットボトルを見たことはあるかと思いますが、このペットボトル、相当な大きさがありますよね。
家に置いておくのは結構ですが、持ち運ぶとなると一苦労。結局出先では然程嵩張らない500mlのペットボトルを持って行くのがベターとなります。
しかし僕は「外ではペットボトルを持って行くのが良いか」という至極どうでも良い話をしたいのではありません。
――――華麗な美少女のお腹の中に、2Lペットボトルと同じ量のおしっこが溜め込まれているとしたら――――
様々な理由によりトイレに行けず、なまじ女の子の”我慢”の能力が強かったが為に解放を許されずに居る大量のおしっこ。
それは結局はただの液状の老廃物でしかありませんが、我々生物の持つ社会的機能/思考により"恥ずかしいもの"という意味を付加させます。
”恥ずかしいもの”、つまり下品、異常なもの。それらを隠していくことで、正常であり、立派なものと見做されます。
当然”恥ずかしいもの”を皆の前で露呈させるわけにはいきません。出しても良い場所に移動するまで、必死に必死に我慢します。
しかし彼女の膀胱の中に入っている2Lの量のおしっこは相当な物です。本来一般女性の限界容量は平均500mlと言われており、1L以上我慢出来る人は稀有であると言われているほど。
(因みに、実際に2L以上の量を我慢した例は存在しており、この量は非現実的な数字ではないということを明記しておきます)
本作では着ている服装の関係から下腹部の膨らみは見られないだろう、と言う事で描写を省きましたが、彼女の下腹部は大量のおしっこでみっともなく膨れ上がって居ます。
見てて痛々しくなる程にパンパンに張った彼女のお腹。そこまでお腹を膨らませた原因はおしっこであり、実に下品で”恥ずかしいもの”そのものであると考えられます。
しかし同時に、そこまでしておしっこを必死に我慢する行為には「彼女が”正常”で”立派”なものであろうとする」ことへの拘りが感じられます。
”下品な身体”と”立派な思考”。おしっこが詰まった彼女のお腹は、そんな二つの側面を兼ね備えているのです。
勿論そこまで我慢をしていて平気な筈がありません。恥ずかしい部位に意識を集中させ、身体を捻らせ我慢をしなければその場でお漏らしをしてしまうことになります。
必死に足をクネらせ、手は恥ずかしい部位をグッと押さえ、腰は引け、お尻はもじもじと捩り、顔は真っ赤になり、目は涙で滲み、頬は汗が伝う。
その姿は、この手のフェチシズムを持たない人でも扇情的に映るでしょう。そしてそこまでの醜態を晒しても尚、出口からじわじわと染み出る熱水。
駄目だ、漏れちゃう、もう我慢が出来ない。彼女の思考はおしっこに関することで埋まります。
暴力的な尿意による痛み、公共の場で醜態を晒さなければならない辱め。しかし真に辛いのは、それほどの苦痛を味わいながらもまだ我慢をしなければならないという状況にあります。
おしっこを本当に漏らしてしまえば全てが終わる。その恐怖から逃れる為に、彼女は必死に尿意を我慢するのです。そう、お腹をみっともなくおしっこで膨らませながら。
僕はそんな彼女に「じっと立ってろ」と命令したいのです。おしっこを我慢している彼女には無理な話ではありますが、無理矢理じっとさせます。
そして服を捲り、パンパンに膨らんだ下腹部をじっくり観察したあと、その神秘的なお腹をギュッと押したいのです。
その固い感触、触って改めて感じさせられる途方も無い量のおしっこ。そしてその瞬間に喘ぐ彼女の声、同時に響くド派手な水音。
滝の様に溢れ出る下品な熱水は下着を突き抜け、あっという間に巨大な水溜りを作ってしまいます。
その水溜りは僕の方まで伸びており、彼女と僕の足元はおしっこでビショビショ。我慢に我慢を重ねたおしっこの匂いが、より”お漏らしをした”という事実が事実であることを強調します。
一通りおしっこを出し切ったあと、泣き喚く彼女。僕はその場を離れます。最早この場において、僕は不純物だからです。頬を伝った彼女の涙が、水溜りの中でぽちゃんと鳴り響くのです。
※コピペ