社内の老獪どもが面倒だという理由で利便性の高いオンラインサービスを使おうとしない。
いうなれば放っておけばE-mailで止まってしまったような状態だ。(あまりに久々にE-mailという単語を入力したせいでEが大文字だったかハイフンが必要だったかすらしばらく考えてしまった。)
スマホを支給してなんとかLINEまで使わせられるようになったが、機密性を考慮してグループウェアに移行したいと言おうものなら怒涛のような拒否感で否定されてしまった。
そうはいっても自分ももう40といい年だ。老獪だなんて大げさな書き方をしたが、彼らだってまだ50になるかならないかくらいなのだ。
古くはポケベル、ガラケーの不便さに飼いならされてきたはずなのに、どうして新しいものを受け入れようとしないのだろうか。
確かに新しい物に取り組むにはエネルギーが必要だしストレスもかかる。やっと手に入れた利便性を手放さなくてはいけない無力感もあるかもしれない。
しかし、その先に新しい価値やより多くの利便性が待っているはずなのだ。
それを未だに就業時間に関係なく電話を鳴らすような神経のほうがよほどどうにかしているとしか思えない。
そうまで考えてみて、テクノロジーの溝とはそのままコミュニケーションの溝になり得ていることに気がついた。
元に、若い子達は様々なコミュニケーションツールを様々な状況に合わせて使いこなしている。
つまり、そうして幾重にもあるレイヤーでコミュニケーションを切り分けているのだ。
しかしそれを苦手だとか不要だとか言う理由で切り離している世代はどうだ。
未だに直接会うかメールか電話でしかコミュニケーションの手段を持っていないのだ。
そんな次元のレイヤーなんて、今の若い人間は支障がなければ切り離してもよいレベルのレイヤーだ。
それを老獪どもは自らが選んでいるような素振りをしているが、何の事はない。どう考えてもギリギリしがみついているレベルでしかないではないか。
昔であれば社交場の違いや隠語がコミュニケーションのレイヤーを作り上げていたが、今は同じ室内においてもはっきりとコミュニケーションのレイヤー分けが行われているのだ。
その事実に気づいてからというもの、少なくともどんなサービスが流行って、どんな使われ方をしているかぐらいには首を突っ込んでおく必要があると思えた。
そうでなければテレビから流される何次ソースかもわからない情報を盲信し、若者に適当にあしらわれた挙句に自分教(といってもメディアに作り上げられたものだが)の教祖を気取って狭く完結したコミュニティで世間から隔離されたまま死を待つだけになってしまうからだ。