2014-03-02

ネトウヨという「危険

田母神俊雄氏は、都知事選選挙演説をする時に、日本国旗を挙げることを遠慮するよう支援者たちに要請していたと言う。その理由は、「ノンポリが引いてしまうからである

現在日本では、嫌韓本が流行し、「そこまで言って委員会」が高視聴率を誇っている。ほとんど毎日のように危険排外主義をひめた言葉議員首長、それどころか首相からも発せられている。

はいえ、多くの一般市民はいまだなお、そうした言説を「危険もの」として受け止めている。

戦後レジームからの脱却」や「日本を、取り戻す」ことを大義に掲げ、憲法改正を強行しようとする人びとは「危険」であり、

歴史修正主義排外主義と手をつなぎ、強者論理を押し通そうとするネトウヨ勢力は客観的に見て「危険である

・・・ところで、若者たちにとって「危険」ほど魅力的なものはない。

危険」なことをすれば少なから社会からレスポンスもあるのであって、「現実に参加している」という確かな手応えを感じることができる。

デモヘイトスピーチをすれば多くの知識人がそれを非難するだろう。しかしそれは彼らにとって逆説的な承認であるのだ。

原発デモ場合とは異なり、彼らにとってヘイトスピーチで叫んだことが「実現」する必要はない。

話題にしてもらえること──たとえそれが批判や非難であっても──そのこと自体が彼らにとって「勝利」であったのではなかろうか・・・

自分の発言が、いかなる形であれ、社会を動かしていると実感できることが「勝利」なのである

さて、それでは「サヨク」と呼ばれる人々の方を振り返ってみよう。

共産党社会党は「憲法九条」を頑なに守ることを掲げている。

2月26日におこなわれた「参議院憲法審査会」で共産党は「憲法審査会の開会そのものに反対を表明」した。

私はその意見に賛成するものであるしかし、こうした現状維持を肯定する言説ほど「危険」でないことはない(実質はともかく少なくとも見た目においては)。

それは名だたる知識人たちお墨付きの選択でもある。少なくとも護憲を叫ぶことだけでは「危険」扱いをされることは少ないだろうし、話題になることもあるまい。

しか共産党が「危険」だと考える風潮もいまだに根強い。とはいえ、それは「死んだ危険」ではないだろうか?

共産党においては、個人より前に組織があるのであって、古い組織のもつ強固な「危険」を多くの人びとは見出す。

端的にそれは「魅力的な危険」ではない。それにそもそも主張が道学者的だ。

私たちネトウヨに対抗して「魅力的な危険」を作るべきなのだろうか? その結論が短絡的すぎることは承知している。

というか、正直なところ、私はどうすればいいのか途方にくれているのだ。

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