http://www.msng.info/archives/2013/10/escalator.php
「エスカレーターでは片側を開けず、並んで立つ」問題がこれだけ物議を醸し出す事の本質は
「急ぎ度合いによってエスカレーターと階段を使い分ける」問題でも
「エスカレーターを歩く人が万が一転げ落ちても、そんな奴は知ったことじゃない」
と、無意識に思ってしまう自らの思考をどうしても許容できない「感情」の問題だと思う。
だって、「片側を歩いても転げ落ちないエスカレーター」が登場すれば解決する問題である以上、
「現状ではいつか誰かが転げ落ちる」という想像からは逃れられないから。
0.0001%以下のほんの僅かな可能性であっても、自らの倫理に反する状況が想定される限り許容することができない。
その可能性に気づくような繊細な感情の持ち主にとって、社会とはとても生きにくいものとして映っていると思う。
一方で、我々の多くはこの問題に何かしら考え、言及したとしても、寝て起きればこの問題を忘れ、
次の日からまた素知らぬ振りしてエスカレーターを歩くだろう。なんら罪悪感を感じることも無く。
「実際身の回りでエスカレーターを歩いて転げ落ちる人間はいない。別に現状でも上手く機能してるじゃないか。
エスカレーター協会も中身は人間だ、多分うすうすこう思ってる。
「片側を歩いてもほとんどの場合危険性は無い。多分大丈夫だよ。昔はそうさせてたし。
ただ、実際にエスカレーターを転げ落ちる事件は過去に起こったし、また同じことが起きてそれがセンセーショナルに報じられたとしたら
エスカレーター協会が一斉にバッシングされて自分の役職が危うくなる。俺には家族がいるんだ。
保険として、こちら側の主張としては歩行禁止という事にしておこう」
私たちの道徳感覚は、自分が違和感を覚えないごまかしの量と関係がある。
しかし世の中には自らの矛盾した思考を鋭く見抜き、その繊細さ故にその感情を許容できない人達が存在する。
エスカレーター問題においては、エスカレーターを歩く人が転がり落ちる事故に自らが加担する可能性を放っておけないのだ。
何も考えずにこの問題を素通りすることは悪である、と。
私は矛盾した存在である、ということがどうしても認めることができない。
「今俺が持ってる包丁を使って、やろうと思えば家族全員を殺すことができる、だからといって包丁をこの世から無くしていいのか?」
「この捨て犬を飼って救うことができても、この世の捨て犬すべてを救うことができない」
あるいは宮崎駿が
「子供は野山を自由に駆け回って遊ぶべきだ」という主張を盛り込んだアニメを発信する一方、
「そのアニメを子供が何度もビデオで観ている」という状況に苦しんでいることも同じ思考回路だし、