2013-10-23

エスカレーター問題に気付く繊細さ

http://www.msng.info/archives/2013/10/escalator.php

エスカレーターでは片側を開けず、並んで立つ」問題がこれだけ物議を醸し出す事の本質

「急ぎ度合いによってエスカレーター階段を使い分ける」問題でも

集団心理による安全性に対する意識の低下」問題でもなく

エスカレーターを歩く人が万が一転げ落ちても、そんな奴は知ったことじゃない」

と、無意識に思ってしまう自らの思考をどうしても許容できない「感情」の問題だと思う。


だって、「片側を歩いても転げ落ちないエスカレーター」が登場すれば解決する問題である以上、

「現状ではいつか誰かが転げ落ちる」という想像からは逃れられないから。

0.0001%以下のほんの僅かな可能性であっても、自らの倫理に反する状況が想定される限り許容することができない。

その可能性に気づくような繊細な感情の持ち主にとって、社会とはとても生きにくいものとして映っていると思う。

一方で、我々の多くはこの問題に何かしら考え、言及したとしても、寝て起きればこの問題を忘れ、

次の日からまた素知らぬ振りしてエスカレーターを歩くだろう。なんら罪悪感を感じることも無く。

「実際身の回りエスカレーターを歩いて転げ落ちる人間はいない。別に現状でも上手く機能してるじゃないか

そんなことより明日会議プレゼンどうしよう・・」

エスカレーター協会も中身は人間だ、多分うすうすこう思ってる。

「片側を歩いてもほとんどの場合危険性は無い。多分大丈夫だよ。昔はそうさせてたし。

ただ、実際にエスカレーターを転げ落ちる事件は過去に起こったし、また同じことが起きてそれがセンセーショナルに報じられたとしたら

エスカレーター協会が一斉にバッシングされて自分役職が危うくなる。俺には家族がいるんだ。

保険として、こちら側の主張としては歩行禁止という事にしておこう」

あの看板存在意義はおそらくこういうことだと思う。

私たち道徳感覚は、自分違和感を覚えないごまかしの量と関係がある。

要するに、私たちは「そこそこ正直な人間」という自己イメージを保てる水準まで、ごまかしをするのだ。

『ずる 嘘とごまかしの行動経済学



しかし世の中には自らの矛盾した思考を鋭く見抜き、その繊細さ故にその感情を許容できない人達存在する。

エスカレーター問題においては、エスカレーターを歩く人が転がり落ちる事故に自らが加担する可能性を放っておけないのだ。

何も考えずにこの問題を素通りすることは悪である、と。

私は矛盾した存在である、ということがどうしても認めることができない。

鬱病を患うまで深く考え込んでしまう。

だが、そういった矛盾身の回り無限存在している。

「今俺が持ってる包丁を使って、やろうと思えば家族全員を殺すことができる、だからといって包丁をこの世から無くしていいのか?」

「この捨て犬を飼って救うことができても、この世の捨て犬すべてを救うことができない」

といった子供の頃に誰もが抱いた感情

あるいは宮崎駿

子供は野山を自由に駆け回って遊ぶべきだ」という主張を盛り込んだアニメを発信する一方、

「そのアニメ子供が何度もビデオで観ている」という状況に苦しんでいることも同じ思考回路だし、

引退作「風立ちぬ」はそこに対する一つの回答だと思う。

こういった矛盾を受け入れたり、無視することが、ある意味社会人として生きる処世術の一つなのかもしれない。

だが実際に言葉にして提示されると、表向きは正義をかざしたくなるのも、自らの軸を壊さないためにも必要なのかもしれない。

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