うつが 甘えでも、病気でも そら個人の解釈ってものはあるだろうが
「うつ病は甘えだ」
と発言しても、世の中に貢献しない。
甘えだとして、じゃぁ、どうすんだ?って話なのに、
「うつ病は甘えだ」
は思考停止。
ウェブ上でしばしば、「うつ病は甘えだ」という文句を目にする。
そしてこのことについて考えてみる。
うつ病は甘えだ、とは、別の言葉で置き換えると、自己評価の低さは自分に責任がある、とできはしないだろうか。
つまり、低い自己評価は、それを努力なり工夫なりで高めることができて、そうすれば自己問題は解決することができるというのだ。
ただし、そのアプローチはあくまで建て前であって、本当はそれよりもやっかいな構造をしているのである。
というのも、自己評価が(過剰に)低いということは、同時に自己評価が(過剰に)高いということでもあるからだ。
つまり、低いものを高めることで解決する種類の問題ではない、ということになる。
だから、うつ病というのは当人にとっては、甘えであってまた厳しさでもある。
そして甘えることもできず、厳しくすることもできない心の内なる叫びなのである。
「ロクでもない」とは単に「あなたの好みに合わない」以上の何か意味があるのか? 「俺らの好みには合うぞ!」といわれたらどうするつもりだ?
公共性(public)云々の話になるのなら、じゃあえっちなものを集めた赤線(protected)を復活させて、個人(private)がその中でちょっとえっちな本買うことはよしとされる、で解決するんじゃないの。
ガラケーって批判されてるんだっけか?国内じゃ売れてると思うが?海外で売れてない? いや、海外でマトモに売ろうとしてるんだっけ?
そりゃ無駄にしないことは出来ると思うけど、
お笑い芸人の水道橋博士が、何かの番組で、「面白いということは、強さなんだ」ということを言っていた。
この強い(強さ)とは何か。
例えば水道橋博士の師匠であるビートたけしの芸には強さがあり、それは内在する純粋な狂気がもたらしている。
そしてその狂気は、タレントとは別の北野武としての映画作品により顕著に露呈している。
一方、最近の新しいお笑い芸人、あるいは創作者一般でもいいが、この強さ=面白さという要素が弱化してきている。
それはなぜか。
新しい世代には、古い世代の持っていた純粋な狂気が不在しているからであり、それにかわってイノセンスが補填的な力として代用されているからではないか。
イノセンスとはピュアさであり、素直さでもあり、また己の弱者性ということでもある。
そのようなイノセンス的な芸というものは、フレームを破壊したり、新しく一から構築するといった力はなく、あくまでも従来のフレームを踏襲したものであるにすぎないことが多い。
けっきょく、イノセンスというのはそれそのものが甘美なものであるから、そこから目新しくて力強い面白さが発揮されることはないといっていい。
お笑い芸人の島田紳助は、ウェブ上ではとても嫌われているみたいだ(リアルでも嫌われているのかもしれない)。
私はそうでもなくて、でもあまり島田紳助のテレビ番組を見る機会はない。
ところで、彼が松本人志との共著の著書の中で、「日本は自分勝手な国で、アメリカは自由の国だ」ということを言っていた。
日本は、アメリカから自由という思想を間違って、自分勝手だと解釈して輸入してしまったということであった。
日本は自分勝手な国…、それは真実かもしれないし、また真実ではないかもしれない。
しかしながら、アメリカの自由ということと、日本の自分勝手ということは、(高度)資本主義にとっての両翼のイデオロギーであるのかもしれない。
http://anond.hatelabo.jp/20100410064212
普天間基地移設問題で抑えとく要点
http://anond.hatelabo.jp/20100520084546
なので、結果的に普天間飛行場の移設先を日本側は政府として決定できず、アメリカに提示も出来ず、形だけの日米協議は存続するもののズルズルと普天間飛行場はなし崩し的に使用継続するという最悪の結末になると予想する。
http://www.asahi.com/international/update/0114/TKY201101140521.html
普天間移設「期限設けぬ」 米国務次官補、先送りを容認
【ワシントン=伊藤宏】米政府の対日政策を取り仕切るキャンベル国務次官補(東アジア・太平洋担当)が13日、朝日新聞との単独会見に応じ、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題について「我々は再び期限や時期を設けることはしない」と明言した。米政府として、今春の菅直人首相の訪米までの決着にこだわらない考えを示したもので、事実上先送りすることで日米が一致した形だ。
普天間飛行場の移設問題をめぐっては、日米両政府が昨年8月末に出した報告書で、次回の日米外務・防衛担当閣僚会合(2+2)までに、位置や工法などが最終決定されることが明記されている。
次の2+2は首相訪米前に開かれる見通し。キャンベル氏の発言は、こうした期限にこだわらず、中国や北朝鮮などの東アジアの問題や、より広い地球規模の問題に日米が対処するための協議に重点を置く考えを示したものだ。
ゲーツ米国防長官が、日米両政府が見直し作業に入った2005年策定の「共通戦略目標」を普天間問題と切り離して進める考えを示しているが、対日政策の中心となっている米高官が米政府の方針をさらに明確に述べた形だ。
キャンベル氏は「我々は昨年、普天間問題に焦点を当てすぎたために、日米間の多くの課題を進展させることが困難になった」と指摘。普天間問題の扱いについて「日米両国は沖縄に関連する問題について前進を続けるが、同時に、より緊急性の高い戦略的で地球規模の問題にも目を向ける必要がある」と述べた。
沖縄県の仲井真弘多知事が県外への移設を強く求めていることには「コメントしない。我々は、これは日本の国内問題と認識している」と述べ、日本政府の対応にゆだねる考えを表明。菅内閣が沖縄県を説得できる見通しは立っておらず、日米両政府が合意している2014年の期限までに移設を完了させることは極めて厳しい状況だ。
経過は違うが結末はおおよそ的中しつつあるな。
海賊版をアップルストアに登録していたのは中国からだったようで、山塞国家らしい所業である。しかし、著作権侵害の被害を主張するには、出版の事実が必要であり、国境を越えて流通させられるインターネット上においては、地域や国境や言語域に限定された発行しか行っていない著作物で、全世界的な出版権を主張するのは、無理があるとなる。条約上は保護されるとなっていても、権利者を僭称する者が現れれば、その者から許可を取ったとして、発行し放題になる。今回のアップルストアにおける海賊版は、このパターンである。
DVDをリージョンコードで分割させておきながらも、ハリウッドは全世界同時公開を実行しているように、権利を主張するには、発行の事実を作り、権利者が誰なのかを主張しなければならない。物質媒体にこだわるのであれば、そして、権利を主張するのであれば、全世界同時公開という手法を取らなければならなくなる。それが、インターネット以後の著作権の現実である。インクのついた紙の束という媒体のリスクを、スキャンされてデータだけがインターネットに流される事だと考えているようだが、それは、リスクではない。むしろ、発行の事実が無制限に公表されるわけで、権利を主張する手段となりえる。インターネット以後の、本当のリスクは、アップルストアにおいて海外から勝手に海賊版を登録されてしまったように、インターネットを否定したビジネスを行っていると、権利成立の穴が発生する為に、パクられたり、権利者を僭称して勝手に商売されるようになる事にある。
一時的に文庫本業者をにぎわしていたライトノベルであるが、ついに力尽きたようである。
ライトノベルはハッピーエンドの読み捨て娯楽小説であり、男性向けハーレクインロマンスというコンセプトであった筈なのだが、どうも、このコンセプトを理解していない人が増えた結果、読者に対する訴求が弱くなってしまったようである。
書き手や編集が勘違いして、少しでも売れている作品は、続編をいつまでもだらだらと続けさせるという、少年漫画雑誌のような引き延ばしが始まり、ぜんぜんライトじゃなくなってしまっているのである。
メディアミックスも、問題を大きくしている。小説は小資本で実験ができるジャンルであり、ここで成功したら、コミックやアニメといった、コストのかかるメディアに進出していくという考え方自体は間違っていないのだが、問題は、その元ネタが読み捨ての娯楽小説であるという点にある。読み捨ての娯楽小説の筈が、メディアミックス中は新作を発表し続ける事で相乗効果を期待することから、長大なサーガみたいになってしまって、全然ライトじゃなくなってしまう。おまけに、それだけの長編・大作になってしまうと、新規の読者はついてこれなくなる。惰性で買っていた古馴染みの読者がもういいやと買わなくなると、尻すぼみになって、売れ行きが落ちる事になる。しかも、業界トップを張っている有名作品の売れ行きが伸びず、平台に積まれたままとなると、他の本の売り上げにも響くのである。あのジャンルは全然売れていないのではないかと、新規の読者が入ってこなくなる。
相乗効果によって消費者からお金を絞り取るというのは、理解はできるが、モノには限度があるし、旬の時期を意識して切り替えていかないと、ライトノベル業界全体のイメージが翳ってしまうのである。
ハーレムで俺Tueeeというのが、ライトノベルの王道であるとされているが、これは、まさに男性向けハーレクインロマンスそのものの構造であり、異論は無い。しかし、それゆえに底が浅く、ハッピーエンドにするしかないのだから、パターンはあっというまに消費し尽くす。だから、文体や筆名を変えてという芸と量産の能力のある書き手でなければ通用しないコンセプトだった筈なのだが、作家性やら文芸のお作法やらで、そういった芸や能力ではなく、面白いのが書けるか否かという、私小説作家のような書き手しかいなくなってしまっているのであった。
私小説もどきのアマチュアライターと、僥倖で面白い作品が転がり込んでくるのを待つ編集では、先が無い。メディアミックスという資本の物量作戦を考える能力はあっても商品適性を判断できていないわけである。ジャンルそのものを企めるような編集者とまでは言わないが、せめて、コンセプトを理解して、それに適した売り方やタイミングといった判断能力ぐらいは、あって欲しいものである。
海江田万里経済財政担当大臣(当選5回)を経済産業大臣に横滑りさせ、経済財政担当大臣に、無所属になった与謝野馨(当選10回)を当てるという改造が行われるようである。しかし、この二人は、いずれも衆議院東京1区なのである。
よりによって、同じ選挙区出身者を、同じ分野の大臣に当てるとは、何を考えているのであろうか。
民主党の海江田万里に比べれば、元自民党で大臣を歴任し、官房長官まで勤め上げた与謝野馨の方が、力量的には、はるかに上である。自民党でうまく立ち回っていれば、首相にすらなれたであろうと言われていたくらいであり、菅首相よりも、能力的には上であろう。
菅首相に使いこなせるかと言えば、絶対に無理であるし、同じ分野の政策を担当する同僚が、同じ選挙区で血を血で洗う票の争奪戦を繰り広げてきた相手となれば、どう考えても、足を引張るとしか考えられない。
官僚機構としては、民主党の代議士よりも、与謝野氏の方が、話も通じるし、いろいろと説明しなくても状況を理解しているという事で、影の官房長官、影の総理大臣として担ぎ上げられてしまうという可能性もあるが、どんなに頑張っても、民主党政権においては、報われる事は無いであろう。上司は無能で同僚が仇敵である。
次の選挙で民主党の代議士の大部分は落選するであろうから、多少なりとも使えそうなのに唾をつけ、勢力を作り出すというプランなのかもしれない。小泉チルドレンから若手を引き抜いて子分にしたように、小沢チルドレンからも子分を集めようという狙いならば、考えられなくも無い。リクルーターとして乗り込むのに、大臣の肩書きは使える。
ただし、子分を集めるには、鳩山氏や小沢氏がやっていたようにお金を集めて配り、選挙の度に人を送り込んで地盤固めのやり方を教え込むという泥臭い事をやらなければならない。与謝野氏は、それをしなかったが為に、自民党内で勢力を作れなかったとも言える。勢力や地盤を固める為にハコモノや補助金をばら撒く族議員になり、利益誘導の為に働くばかりとなるのは本末転倒であるが、それを否定するならば、新しい手法を実現しなければならない
c = a/bとすると、c*b = aだろ。これは分数(割り算)の定義。
f = (a/b)/(d/e)とすると、上記定義からf*(d/e) = a/b。両辺にeを掛けるとf*d = e*(a/b)。さらに両辺をdで割るとf = (e/d)*(a/b)となる。
自賠責は、交通事故で発生した被害のうち、死亡や後遺障害に対して保険金を出すという仕組みである。この仕組みは特別会計の一つであり、保険料を取り過ぎていて剰余金として積み上がった約6000億円を、国庫に対して貸与している。
この貸与金は、来年度に全額返済される筈だったのだが、税収の不足を理由に、先送りされた。埋蔵金として使い込まれてしまったと言ってもいいであろう。つまり、自賠責契約をしてきた人々は、6000億円分、何の法的根拠も無く徴税されたという事である。
自賠責の保険金の支払い額が増えているので、保険料を値上げしたいと言う主張も、出てきている。これには二つの理由がある。一つ目は、飲酒運転厳罰化の影響で、轢き逃げによる被害者の重態化や死亡者が増加したという点で、法改正の失敗が原因である。もう一つは、保険会社等の経営上の都合である。保険は、本質的に統計データが直接採算に反映される仕組みであり、平均値が変動すれば、その変動に対して採算も変動する。国民の所得水準が低下しているということは、加入者数が減少していくという事であるのに、保険会社の人件費や営業所維持費といった固定費は変わらない。天下りや監督省庁幹部の縁戚といった縁故採用した人の人件費も下げられないし、リストラも出来ない。さらに、生命保険やガン保険といった非損保分野の売り上げが低迷している分を、所有者が強制加入になる損保分野でまとめて補おうという話になっているのである。非損保分野の余剰人員を損保分野に回すというのは、保険会社の雇用の維持という点では正しいが、部分の最適化が全体の最適化にとっては真逆の効果に繋がるという、典型的な合成の誤謬となっている。
損保分野の採算悪化は、若者の自動車離れが直接の原因であるが、非損保分野を含めた保険というビジネス全体の採算悪化は、若者世代が独立した世帯を持てないような経済環境が根本的な原因である。さらに、税収の悪化と社会保障コストの増大は、家族制度を破壊して核家族化を進め過ぎたという政策の失敗と、既存企業を優遇する余り、新技術や新製品・新サービスの開発・実現が不利な愚行となってしまっている、産業政策の失敗にある。
実行すべき課題は目の前にあるのに、自賠責保険料の値上げや消費税の増税といった財源が問題であると矮小化して時間を浪費するという点では、民主党政権も自民党非改革派政権でも変わらないようである。
増田も寄付は大好きだよ! 施すほうじゃなくて、受け取る方としてならね!
なんだか一億総ポトラッチ化が進んできました昨今、増田が由緒正しきネトウヨであったら「ゲヒヒ、次は国を隣国に寄付ですか?」と揶揄の一つも売ってやるところだけどはてサは恐いし、増田はそもそも右翼じゃない。ただの逆張りが好きな女子中学生だ。そう考えて読むと気分いいよ?
流行ものをとりあえずdisとくのはウェブに生きる天邪鬼としてのたしなみだよ! みんなも若いうちは、無闇やたらに反発するといいんじゃないかな?
でも実際twitterとかでこの手の逆張りやってんのは三十代のピザデブハゲ女子中学生たちなので、きみたちの健康と精神に大ダメージを与えるよ! 貧弱な想像力は時にみずからの命を助けるね!
ところでなんでぼくらはタイガーマスクきどりどもが嫌いなのかな?
不思議? ふしぎだよね!? だって、寄付ってすごいいいことなんだよ? ただの偽善じゃない。誰も傷ついてない。与えるほうも貰うほうも、みんな得してる。死んだビジネス用語でいうところのwin-winってやつだね。そうそう、未だに会議でwin-winなんていう単語出してくる上司をみかけたら、さっさとその会社の四階から飛び降りたほうがいい。
なぜか。
まあそんなことは上でさんざん申し述べてきたように、ぼくらが「どうしようもない天邪鬼だから」で済むんだけど、世間はそれじゃあ納得しない。反対するなら説明すべし。感情論は排してな。
と、ぶっちゃけバカに理論的な説明求めるなんてバカなんじゃねえのと思うむねがあるかもしれない。けれど、ココは天下の往来はてな匿名ダイアリー。またの名を皆殺しの増田。
説明責任逃れは問屋がおろさない。せめて嫌悪感の根源くらいはつきとめないといけない。
とはいうものの、「なぜ私は寄付ブームが嫌いなのか」を論理的に説明するのは、おそらくアジを三枚におろすより難しい。
この手の喧嘩でよく使われる殺法は「だって被寄付者が迷惑がってるじゃないかやめてあげなよ白豚野郎」と「親切の押し売り、大きなお世話」を強調するやりかただ。
ここでぼくら天邪鬼は施す物-施される物、という図式を瞬時にして加害者-被害者という関係に塗り替えることでスペクタクルとカタルシスをおぼえるんだけど、それで非難される無辜の大学生ボランティアとかはいい迷惑だよね! いい気味ですね!
そう、善意の悪人は悪意を自覚している悪人よりも罪が重い。なんだかよくわからないけど、ぼくらはそう信じちゃってる。漫画か何かの影響ですよね。あるいはお母さんについて、何かトラウマがあるのか。
まあ、ともかくしかし、タイガーマスクについてはなかなか「迷惑してる」という話は聞かない。少なくともビル・ゲイツより広くておーつねさんより狭い増田の観測範囲では、見当たらない。被害者は存在しない。まあ「あの手の寄附行為ばっかり報道されて恒常的に寄付を行なっている人たちが無視されてる」って声もあるけど、そんなもん、もともと無視されてたわ。
「みんなが得した」ここが、今回の件でやっかいなところだ。火のない所に煙は立たないし、煙が高いところにのぼらなければバカもまた踊れない。
さて、実はここに今回のぼくらが抱えるフラストレーションの一端が隠されている。
つまり、「いつもとおなじように偽善者を叩けると思ったら、おあずけくらってしまった」ってわけ。これってとってもストレスフルな状況じゃない? 犬みたい? 哺乳類と比べられるだけマシさ。
偽善ってなんだろうね? 寄附行為に限定して考えてみよう。広辞苑の定義を持ってくるのは、頭の悪い学生にやらせておけばいい。ぼくらには集合知の究極体、wikipediaさんがいるのだから。
「寄付(きふ、本来の用字は寄附。寄付は代用字)とは、金銭や財産などを公共事業、公益・福祉・宗教施設などへ無償で提供すること」
「無償」とはつまり、見返りをもとめないということだ。税金控除される時点で見返りもクソもないだって? まあ、それはここでは関係ないから頭から弾いてくれ。
この議論は彼らが「見返りを得ているか」の一点に集約される。
もちろん、違うよね? 物質的な恩恵はもちろん、名誉すら得られない。だって、匿名だもの。キャラクターだもの。「タイガーマスクはえらいですね」っていくら古舘さんがつばはいてコメントしても、それは神奈川県在住の庭師・津田大介さん(48)を褒めたことにはならない。まあ、2chでアンカもらえたときみたいに「存在すること」の承認を貰える快感はあるかもしれないけど、自己承認欲求そのものが満たされることはない。ランドセルは一個9000円。六つで54000円。あなたは2chでアンカもらうためだけにこれだけの金額を払おうと思う?
でも、実際金髪……津田さん(仮名)は「いいこと」やったじゃん。子どもたちの反応はともかく、施設は受け入れてるじゃん。全然ひとりよがりな自己満足ちゃうやん。
自己満足っていうのは充足してるってことです。いわゆるリア充。
はいみんな思い出してー。
っていうか、今回に限らず「ボランティアフォビア」だの「NGO死ね」だの「人権団体とか環境団体とかバカヤロウ」だのを表層だけで叩いてるとか、
っていうか、ぼくらが何者かを叩くときの原動力は、たぶんだいたい、コレ。
だって妬ましいじゃないですか。嫉ましいじゃないですか? 死ねばいいじゃないですか?
自分が善人だって自覚するのはなにより強烈なうぬぼれですよ? ましてや、ヒーローに自分をかさねて? 「悪ふざけだもん」ってみんなにバレバレな形で照れ隠ししてたりして?
ハンッ!
そんな綺麗事、罪じゃないわけないじゃないですか。
彼らはまごう事無き「善人」であるからこそ、叩かれるに値するのです。
それがイヤならアラを探すんだ。マスクどものアラを。徹底的にひとりひとりの素性を洗いだして、瑕疵を探しだせ。これだけいるんだ、ひとりふたり後ろめたいのやら奇抜なのやらは混じってるだろう?
特殊な例を普遍化しろ。延焼させろ。大火がみたい。燃やし尽くせ。
でも今回はそれが通じるかしら? しょせんは匿名が個人を葬るための技術。
匿名が匿名を殺す、新しい時代の戦争に対して、ぼくらはあまりに無知でありすぎる。
もうどっか別のとこに聞きに行ってるだけだろw