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はてなキーワード: 非決定論とは

2023-06-25

anond:20230625025452

ゲームだとむしろ自由意志」は扱いやすい気がする。

決定論で動いている世界に対して、決定論の外から介入できるの存在(=プレイヤー)が「自由意志」だという構図が

はっきり実現できているので。

 

現実世界は、まず決定論かどうか、決定論じゃないとして確率決定論なのか、

非決定論だとしたらどこに介入しているのかとか問題が多い。

デカルトは「意思」で脳の一部に非決定的な介入ができると無邪気に考えていたが、

科学世界の仕組みを解き明かしてしまったので、今や「意思」で非決定的な介入ができる余地を残しているのは

量子領域確率挙動くらいしか無い。

2022-07-23

当たる占い師

占いに凝っていたことがある。

しばらくして、何の根拠もないな、とごく普通結論に至って熱が冷めた。

その後、家族が某心理系診断にハマった。(どうぶつ占い的なやつ)

よくもまあこんな詐欺的なものを大層な名前でやっとるなと思ったが、それ(診断結果)を踏まえて行動様式を変えようというアプローチには百歩譲って一理あるなとも思わないでもなかった。(まあ大元が腐ってそうなのと、根拠ないことを理解してない人いっぱいなので拒否反応しか出なかったが)

本題。

まず占いが当たると仮定してみた。

そうすると2系統に分かれる。当たる占い師。

ひとつは、相手の話を聞いたり反応を見たりで、結果をアジャストしていく占い師。

タロットでも他の占いでも、読み取り方によってどっちともとれることが多い。

別れ、清算意味するカードだと、彼氏との関係との別れともとれるし、不安定な状況の清算みたいに肯定的にもとれる。例があってるかどうかはもう忘れたが。

こっち系の占い師は、まあ相談者として無益ではない。


もう1系統の当たる占い師はほぼオカルトだ。

たまたま”都合よくタロットシャッフルできる偏り(運命)をもって生まれた人。

たまたま自分占い合致やすい客が訪れやすい人。

馬鹿馬鹿しいようにも思えるが、運の偏りはあると思ってる。

カオスとかバタフライエフェクトとか、量子力学っぽい浅井千絵とかかじったらそっち系の考えが浮かぶ

そこからなんだかんだあって結局、決定論非決定論とか自由意志の有無みたいなころで行き詰まる感じ。

シミュレーション仮説とかまで広がってまた平常に戻って占いとか細かいこととか深っぽいこととか気にしなくなってのループが始まる。

2022-07-22

スピリチュアル的なものに関しての男女差

今はどうかわからないし、一部にしか当てはまらないとも思うけど、主体性だと思った

女子あくま占い師なり本なりが本尊

占いを信じてラッキーカラーを身に付けたりおまじないを実行したりの行動は指示されるまま、というのが多い。信じるし疑わないし、踏み込まない。そのうち飽きる。

男子自分主体

オカルト知識を活かそうとする。万一妖怪出てきた時のために攻撃手段として九字覚えたり。

幅広く色んなオカルトを試してみる。気が向いたら踏み込んで調べる。ムーとか読む。そのうち飽きる。

飽きる前に、踏み込んでるか、疑ってるか、それに妥当性がないことを薄々気づけているかという差が出てくる。

いわば免疫みたいなもので、中二病経由の男子のほうがオカルトとかスピリチュアルものや偽科学にハマりにくくなっていそう。

逆に、そういう精神安定剤的なものがないかおっさんで苦労してる人も多いが。


ここからは余談。(ここまでも余談みたなものだたt)

ムーワンダーライフMMRとか読んでてそれこそ中学生の頃は半分信じてた。

そっち系ネタで仲間内で盛り上がったし。

ほどなくして自分霊感とかないことで絶望する。現実を見てしまった。ここ何年もかめはめ波が撃てるか試してない。どどん波ぐらいならワンチャンとはひそかに思っているが。

20歳超えてから、まだ可能性を捨てきれず、第二次オカルトブーム的なのが到来して、風水タロット数秘術を学んだ。

学んだといっても図書館にある本だいたい読んで、アマゾンで数千円する書籍を5冊ぐらい買って読んだだけだけど。

色んなジャンル占い本を読んでみると、おお、根拠がねーと気づく。

同時期量子力学に興味を持ち始めた。

科学的側面からオカルト力を発揮する道筋がないものかと検討してみた。脳量子波みたいなのがあればワンチャン

哲学の読み物とか読んだりしてると、決定論的なのと非決定論的なので悩む。世界はどちらか。

そこでまたスピリチュアルなところと会合する。

自分増田)は全部薄く浅くしか知識がないが、科学を突き詰めていくと宗教的な考えに至る(高名な学者エピソードをちらほら聞いたことあるのだけど実例は一個も出てこない。)のもなんとなく理解できる気がする。

それは真理の追究を放棄したわけでもなく、古来の教えやどこかの教祖の言うことをそのまま信じるのでもなく、なんとなく非科学的なもの(今はまだ科学とされていないもの)がぼんやりと遠くに霞んでいるのを感じたような。

 
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