はてなキーワード: スマランとは
べき論の前に、現行指導要領(もうあと2年だが)では、
・世界史A(近現代中心・内容やや薄め・文理合同の場合の必修向き・標準単位2単位:週に2時間)
・世界史B(古代〜近現代通史・内容網羅的・文系向き・標準単位3単位:週に3時間)
進学校でも世界史Bには6単位くらい費やしている所が多いのではないだろうか。
まして底辺校では、世界史Aを週2時間で教科書を終えることなど不可能だ。
建前上は教科書は隅々まで教えることが義務となっているが、それをやろうとすると物凄いスピードで進むか、内容を薄めまくってミクロな話をすっ飛ばした授業にするか、いずれにしても無理が生じる。
どうしても近現代が大切だーの声が大きくなるが、実は世界史の核は16世紀〜19世紀だろうと思う。
つまり、ヨーロッパがいかにアメリカやアジア・アフリカを植民地化したか、だ。
それを抜きに、いきなり日本の開国からやってもな、という気がする。歴史総合のことだ。
その一番大切な土台があってこそ、日本軍がインドネシアでオランダ人女性を慰安婦にした、という事件を、世界史的なスコープで見ることができる。
大東亜共栄圏を肯定する訳ではないが、なぜインドネシアのスマラン島にオランダ人がいたのか、そこを抜きにスマラン事件を語ることはできない。
http://www.torekiken.org/trk/blog/oshirase/20150525.html
第一に、日本軍が「慰安婦」の強制連行に関与したことを認めた日本政府の見解表明(河野談話)は、当該記事やそのもととなった吉田清治による証言を根拠になされたものではない。したがって、記事の取り消しによって河野談話の根拠が崩れたことにはならない。強制連行された「慰安婦」の存在は、これまでに多くの史料と研究によって実証されてきた。強制連行は、たんに強引に連れ去る事例(インドネシア・スマラン、中国・山西省で確認、朝鮮半島にも多くの証言が存在)に限定されるべきではなく、本人の意思に反した連行の事例(朝鮮半島をはじめ広域で確認)も含むものと理解されるべきである。
国際的にも主流の見解であり, 女性の人権問題として現在にいたる問題でもある異論のない話だと思う。
日本軍「慰安婦」問題に関し、事実から目をそらす無責任な態度を一部の政治家やメディアがとり続けるならば、それは日本が人権を尊重しないことを国際的に発信するに等しい。また、こうした態度が、過酷な被害に遭った日本軍性奴隷制度の被害者の尊厳を、さらに蹂躙することになる。今求められているのは、河野談話にもある、歴史研究・教育をとおして、かかる問題を記憶にとどめ、過ちをくり返さない姿勢である。
ここでは「日本軍性奴隷制」という非常に硬直した語、 定義がそれほど緩くなく、議論を呼びそうな単語が入ってる。初出ではないのだが、あまりメディアでも登場しない言葉だ。この言葉が「従軍慰安婦」のように慰安婦問題の議論が錯綜することは、誰にとっても望ましくないはずだ。どうしてこの単語を入れてしまったのか、これは安倍政権にたいする敵意からの勇み足ではないか。
最近この議論に参加するときは拡散した論点の枝葉を切り落として本質に向かうような努力をしているのでこの言葉が入ったことに戸惑いを感じている。
また、安倍首相の極端な歴史認識に影響され感情的なベクトルが議論の両陣営に広がってることにも猶予せざるえない。熱くなった論争はイデオロギーの二極化を生みはじめてる。この対立の激化の行き着く先に光は見えない。
いま必要なものは冷たく、小さくても堅牢な言論ではないだろうか。政権の勢いに恐怖するあまり、闇雲に対処療法的な方法に走ることはもはや逆効果だ。安倍首相の就任から「ネトウヨ・ナショナリズム」問題にたいして行われた「レッテル貼り」が効果を上げていない現実から目を背けてはいけない。「攻撃のための言論」は真に人には届かないということを身を持って知りそれを改めるべきだろう。あるべき姿を見せることこそが道であり、鏡になってはいけない。論争の先になにを残すのか、それを心しておきたい。