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2021-09-12

「なぜ彼らはそこにいたのか」

加藤聖文「日本にとって満洲支配とは何だったのか」 - 紙屋研究所 https://kamiyakenkyujo.hatenablog.com/entry/2021/09/11/182421

なぜ彼らはそこにいたのか。

スマラン事件話題になるたび、同じ事を考える。

日本軍の慰み者になった気の毒なオランダ人少女

日本軍慰安婦制度の占領地おける「強制連行」の証拠として挙げられることの多い実例だが、

なぜスマラン島・現インドネシアオランダ人がいたのか?

というのは、日本軍の加害性とは別に意識されなくてはならない。

それが世界史思考だ。

その後、インドネシア独立戦争で、どれだけの人が犠牲になったかも含めてね。

2021-03-02

世界史の履修をめぐって

べき論の前に、現行指導要領(もうあと2年だが)では、

世界史A(近現代中心・内容やや薄め・文理合同の場合の必修向き・標準単位2単位:週に2時間

世界史B(古代〜近現代通史・内容網羅的・文系向き・標準単位3単位:週に3時間

となっているが、まずこの標準単位では教科書が終わらない。

進学校でも世界史Bには6単位くらい費やしている所が多いのではないだろうか。

まして底辺校では、世界史Aを週2時間教科書を終えることな不可能だ。

建前上は教科書は隅々まで教えることが義務となっているが、それをやろうとすると物凄いスピードで進むか、内容を薄めまくってミクロな話をすっ飛ばした授業にするか、いずれにしても無理が生じる。

どうしても近現代が大切だーの声が大きくなるが、実は世界史の核は16世紀19世紀だろうと思う。

まりヨーロッパいかアメリカアジアアフリカ植民地化したか、だ。

それを抜きに、いきなり日本開国からやってもな、という気がする。歴史総合のことだ。

その一番大切な土台があってこそ、日本軍がインドネシアオランダ人女性慰安婦にした、という事件を、世界史的なスコープで見ることができる。

大東亜共栄圏肯定する訳ではないが、なぜインドネシアスマラン島にオランダ人がいたのか、そこを抜きにスマラン事件を語ることはできない。

2015-05-26

慰安婦連声明について

http://www.torekiken.org/trk/blog/oshirase/20150525.html

 第一に、日本軍が「慰安婦」の強制連行に関与したことを認めた日本政府見解表明(河野談話)は、当該記事やそのもととなった吉田清治による証言根拠になされたものではない。したがって、記事の取り消しによって河野談話根拠が崩れたことにはならない。強制連行された「慰安婦」の存在は、これまでに多くの史料研究によって実証されてきた。強制連行は、たんに強引に連れ去る事例(インドネシアスマラン中国山西省確認朝鮮半島にも多くの証言存在)に限定されるべきではなく、本人の意思に反した連行の事例(朝鮮半島をはじめ広域で確認)も含むもの理解されるべきである

国際的にも主流の見解であり, 女性人権問題として現在にいたる問題でもある異論のない話だと思う。

 日本軍慰安婦問題に関し、事実から目をそらす無責任な態度を一部の政治家メディアがとり続けるならば、それは日本人権尊重しないことを国際的に発信するに等しい。また、こうした態度が、過酷被害に遭った日本軍性奴隷制度被害者尊厳を、さら蹂躙することになる。今求められているのは、河野談話にもある、歴史研究教育をとおして、かかる問題記憶にとどめ、過ちをくり返さな姿勢である

ここでは「日本軍性奴隷制」という非常に硬直した語、 定義がそれほど緩くなく、議論を呼びそうな単語が入ってる。初出ではないのだが、あまりメディアでも登場しない言葉だ。この言葉が「従軍慰安婦」のように慰安婦問題議論錯綜することは、誰にとっても望ましくないはずだ。どうしてこの単語を入れてしまったのか、これは安倍政権にたいする敵意から勇み足ではないか。

最近この議論に参加するとき拡散した論点の枝葉を切り落として本質に向かうような努力をしているのでこの言葉が入ったことに戸惑いを感じている。

また、安倍首相の極端な歴史認識に影響され感情的ベクトル議論の両陣営に広がってることにも猶予せざるえない。熱くなった論争はイデオロギー二極化を生みはじめてる。この対立の激化の行き着く先に光は見えない。

いま必要ものは冷たく、小さくても堅牢言論ではないだろうか。政権の勢いに恐怖するあまり、闇雲に対処療法的な方法に走ることはもはや逆効果だ。安倍首相就任からネトウヨナショナリズム問題にたいして行われた「レッテル貼り」が効果を上げていない現実から目を背けてはいけない。「攻撃のための言論」は真に人には届かないということを身を持って知りそれを改めるべきだろう。あるべき姿を見せることこそが道であり、鏡になってはいけない。論争の先になにを残すのか、それを心しておきたい。

 
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