2021-09-12

国語偏差値は忘れたけれど。

国語偏差値が70云々という、はてなブックマーク話題を目にして「高校生の頃の偏差値をよく覚えているなあ」と感心した。私は自分偏差値を忘れてしまった。センター試験自己採点で国語数学英語がいずれも190点超えていたことは覚えている。しかし、わざわざそれを他人アピールする機会も意味も、私には無かった。

アピールする意味が無いのは、自分頭脳は良くないと自覚しているかである大学生になったは良いものの、私はイプシロンデルタ論法についていけず大学数学挫折した。数学以外も似たようなものであった。ペーパーテストではない、実験研究という大学の活きた学問は、まるでダメだった。地方国立大学入学できる程度には受験勉強が出来たし何とか卒業もしたものの、大学の本格的な勉学に挫折した私は、平凡な人間であった。

それで今更の話なのだが、現在の私は数学勉強し直している。別に仕事に役立てようとか、そういうつもりは全く無い。全くの自己満足である。では、自己満足の欲求の源は何処かといえば、それは私の両親である

私の両親は、高校中退である。私の両親の世代では、地方低所得者層に生れた子が、生家の経済的理由から学業を断念せねばならないというのは、珍しくない話であった。珍しくない話ではあったものの、やはり両親にとっては心の傷だったのだろうと思う。

父は、一冊の古い辞書を大切に持っていた。私が小学生の頃には既に、ページは手垢で黒ずみ、ボロボロ状態だったのを覚えている。母は、横溝正史松本清張文庫本を何冊も持っていて、これまたページはボロボロであった。学業不本意に断念させられたことの埋め合わせだったと、私の両親は言っていた。本物の勉学を経験した人たちから見れば、たか辞書推理小説を読む程度で勉学の埋め合わせを名乗るなどお笑い草かもしれない。しかし、私の目には、両親の姿が尊く見えた。親馬鹿ならぬ子馬鹿と言うべきであろうか。それでも構わない。私が今更ながら数学勉強し直しているのは、明らかに両親の真似である

就職して幾許かの金を自由に使えるようになった私は、両親の欲しいものリクエストに応えて買い物をした。平家物語を読みたいと言うので、古語辞典と一緒に買って送った。お経や論語も読んでみたいと言うので、これらの本や漢和辞典も買って送った。母はアガサ・クリスティ作品を読みたいと言うので、これも買って送った。父は写経したいと言うので、筆や硯も買って送った。いずれも大した額の買い物でもないのに、両親は大袈裟なぐらい喜び、何度もありがとうと言っていた。

しろありがとうと言うのは私の方である家族共用の本棚に、子供向け百科事典児童文学のセットを置いてくれて、子供の私が本を読むように育ててくれた。それに、私の読書趣味に決してケチをつけなかった。国語試験偏差値は忘れたけれど、本を読むことの楽しさならば私も忘れないだろう。本を読むことが楽しいと私に教えてくれて、ありがとう

蛇足だが、数学の再勉強ノートをとりながら「どこまで理解できているやら。これでは写経だな」と思い、父子で写経好きというのが何だか可笑しく感じた。

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