2017-09-22

食べているもの気持ち悪いと言う同僚

会社での昼食は家から持ってきているものを食べていることが多い。ごはんとおかずがセットになった質素弁当

今までは白米だったが、最近はなんとなく健康に良さそうな気がして買った玄米を食べている。玄米特別好きというわけではないが、それなりに美味しいと思う。わたしのなかで白米と玄米の美味しさは並列で、それぞれに良いところがあり序列はない。

だが昼食をともにする同僚の女性にとってはそうではないらしく、

「うげ。また玄米か。うわー」

だったり

玄米きらいなんだよねー」

とか

玄米はまずい」

などと、毎日のように否定的意見をくれる。わたしはなるべく波風を立てたくないので、

匂い苦手な人多いみたいだね」

とか

「独特な味だよね」

とか

「そういう考え方もあるよね」

などとお茶を濁してから、まあわたしは好きなんだけどね、などと独りごち、食べる。

わたしズボラ性格なので、お弁当づくりも適当である。だから先日はフードコンテナに豚の軟骨はいった醤油ベース芋煮をいれていた。特にそのことを告げず、昼食に豚の軟骨をボリボリと食べていたら、音を不審がられ何を食べているか彼女に尋ねられた。

わたし

「ごめん軟骨

とだけ言った。何かを言うとき相手にどこかしらマイナス感情を読み取るとわたしはまず謝ってしまう癖がある。

彼女

「うわー。気持ち悪い。嫌いな食べ物ベスト3にはいる。無理無理」

と言った。

人間にも軟骨あるじゃん、とわたしは言った。彼女は鳥にしか軟骨はないんだと思ってた、と言った。鼻と耳は軟骨だよと言った。どうやら硬骨もしくは肉の塊だと思っていたらしかった。

仕事が終わって道すがらこのやりとりを思い出した。すると、突如わたし尋常じゃない怒りに駆られた。は?軟骨うめえし。玄米もうめえし。

怒りの感情は膨れ上がり、悲しみを通り越し、憎いと思った。なんだかよくわからないが、その時は心底彼女が憎かった。嫌な記憶数珠繋ぎになって想起され、わたしは身動きがとれなくなった。

わたしはなんとなくだが、怒りという感情に鈍感だ。いつも適切なタイミングで怒れない。気がついた時にはすごく怒っている。

前述のできごとによって、わたしは強い怒りに駆られた。自分ではなんとなく、我慢できると思っていたみたいだった。だが毎日のように自分の口のなかにはいもの気持ち悪いとか、食べるものじゃない、と言われて、自分のなかのバケツが溢れた。わたしは家で一人でとても怒っていた。制御できなかった。

なぜこれほど腹が立つのか考えた。そうしてわたしひとつの考えに思い至った。わたし彼女好き嫌いの激しさを許容「してあげている」と思っていたのだ。本来は強く非難されてしかるべき好き嫌いの多さを、わたし非難しないで「あげている」のに、それを無下にするなんてひどい、と思って怒っていたのだ。わたしリベラルぶった偽善者だったというわけである

もともと彼女食べ物好き嫌いが激しい。そのことによって冗談交じりに非難されているところもよく見るし、親しくなりたての頃はその好き嫌い境界線マグロ刺身ダメだがツナOK)を探るのが楽しかった。しかし、なぜ好き嫌いが多いかという話になり、

「小さい頃、親がお腹こわすといけないって言って生魚とか食べさせなかったらしいんだ。それで食べられないんだと思う」

という彼女自身による原因分析を聞いてから、あまり好き嫌いに触れないようにしようと思った。それは彼女自身にはどうしようもなかったことだからだ。

誰にでも生きてきた人生がありバックボーンがある。わたし彼女が生きてきた人生を愛しバックボーンを受け入れることが、今の彼女に対し親愛な気持ちを持つことだと思って疑わなかった。だから好き嫌いについて非難したり馬鹿にしたようなことを言わないと決めた。

だがわたしにとって、食べもの好き嫌いがないことは純然たる正義だった。

人間、生きている限り徳を高めなければならないとわたしは信じ、日々よりよい人間であろうと思っている。食べ物好き嫌いなく食べることはそれの最たるものだ。馬鹿馬鹿いかもしれないがそうなのである

わたし好き嫌いがほぼなく、大抵のものは美味しいと思って食べている。そもそも向こうは命を奪われているのである。関わってきた人もいる。美味しいと思わなければ申し訳ない。そんな幼稚ともとれる考えにいまだに支配されており、わたし食べ物好き嫌いなく食べることは純然たる正義だと信じていた。

わたしは自らの信じる正義正義だと信じながらも、彼女のことを認めて「あげている」気持ちになっていた。わたし本心としては、食べもののことを気持ち悪いということは信じられないことだった。わたしは食べられないものがあることを内心恥じていてほしかったのだ。わたしわたし正義を押しつけたかったようだった。

だが、人が今まさに食べているもののことを気持ち悪いと言うことについてはやはりやめてほしいと思う。わたしはそう言われるとえづいてしまいそうになる。不快であるテレビなどで独自生活様式を持つ「部族」などと呼ばれる人が昆虫を食べる様子を気味悪がる場面があるが、あれも本当に失礼極まりないと思う。なぜ人のバックボーンを受け入れないのか。その人がそうしている歴史を受け入れないのか。わたしには玄米や豚の軟骨を食べたくなるようなバックボーン存在すると、どうして考えてくれないのだ。自分勝手かもしれないがそう思う。

わたし人間独善的な有りようは紛れもない悪だと思う。だが独善的な有りように対し決して受け入れまいとするわたしもまた独善的である。だが独善的な有りようを許容してしまうとこの世は独善的な有りようが占めてしまう。ノーと言うべきか否か、ジレンマに板挟みになる。

わたしわたしが食べているもの気持ち悪いと言われることが嫌なことがわかった。今後どうすべきか、方法は以下のとおりだろう。

①食べているもの気持ち悪がられると嫌だと伝え、控えるように言って一緒に食べる

②上記の理由を伝えたうえで一緒に食べることをやめる

③上記の理由を伝えず一緒に食べることをやめる

彼女の嫌いじゃないものだけを食べる

ぱっと見①がまっとうだが、考えるに、彼女にとって彼女の嫌いなものを目の前で食べられることがストレスなのだ想像する。また、自分の食べられないものを貶めることで、普段好き嫌いについて非難されることへのフラストレーションのはけ口にしているのではないか。よって①は却下である

②はまず伝えることへのストレスがある。④はまだ玄米が8キロある。よって③が妥当だと考える。

うだうだ人の悪口を言うような奴は勝手に一人で食ってろって話であるわたしはまずこの徳の低さをなんとかしたほうがいい。考えすぎかなとも思う。書いてスッキリたかというとそうでもない。

だが玄米と豚軟骨に罪はないこと、これだけははっきりしておきたい。わたし玄米も豚軟骨も美味しいと思います

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