はてなキーワード: 著作とは
ポスト構造主義的マルクス主義は、構造主義とマルクス主義の要素を組み合わせつつ、両者を批判的に再解釈し、社会や経済の分析を行う理論的枠組みです。このアプローチを代表する重要な思想家の一人がジャック・デリダであり、彼の弟子とされる学者には以下のような人物がいます。
1. **スラヴォイ・ジジェク**
- ジジェクは、ラカン的精神分析、ヘーゲル哲学、そしてマルクス主義を融合させ、現代のイデオロギーや政治を批判的に分析しています。彼の思想はポスト構造主義的マルクス主義の影響を強く受けています。
- ランシエールは、デリダの影響を受けつつも独自の政治哲学を展開し、平等や民主主義について深く探求しています。彼の著作は、ポスト構造主義とマルクス主義の融合を感じさせるものです。
- ラクラウは、チャンタル・ムフと共に「ポストマルクス主義」の理論を発展させました。彼らはヘゲモニーとポピュリズムの概念を再構築し、デリダの影響を受けつつ、マルクス主義を批判的に再解釈しました。
- スピヴァクは、ポストコロニアル理論の主要な学者であり、デリダの解構学を用いて、サブオルタナート(被抑圧者)の声を取り上げています。彼女の研究もポスト構造主義的マルクス主義に関連しています。
これらの学者たちは、それぞれが異なるアプローチを取っていますが、共通してポスト構造主義とマルクス主義の対話を通じて現代社会の諸問題を分析しています。
もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事の書類ばかりとなった昨今。
でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。
書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。
生まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖の詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。
頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初の感想だった。普通に文章だったからだ。
調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで
「韻」という言葉もその時初めて知った。
井上靖の詩集を手に取ったのは、国語の教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。
というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初の詩集だった。
小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。
季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなものが短歌や俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。
特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平の短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉のニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。
幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。
自分の世界の表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。
例えば、雪という詩がある。
雪
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
みつけた詩だ。雪が降って来ると、
私はいつもこの詩のことを思い出す。
中学生の私は、なるほどと思った。
詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉のなかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。
鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。
当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。
いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。
ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。
山頭火は面白い。普通の俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。
定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌のエントリーポイントとなって、
しかし俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。
いつしか手にしていたのは、興津要の解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。
剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代の言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。
その後は巴毎晩組み敷かれ
木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代の川柳で妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい。
一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。
俵万智のサラダ記念日がベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。
例えば、こんな一首。
あさま山荘事件を起こした連合赤軍の幹部、坂口弘が収監中の東京拘置所から毎週のように短歌を朝日歌壇に投稿していた頃だ。
朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌の表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。
風花って知っていますか
渡辺松男と太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇をリアルにみていた人にしかわからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱が発酵すると詠んだりする太田美和。
実生活で恋をしていた私は太田美和の言葉に自分を重ね合わせた。
でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。
大学を卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。
生活が一変した。
書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。
世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。
山頭火も武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接と資格だ!という日々。
就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。
たまに思い出しては、現代短歌の最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。
若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。
それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。
そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。
思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分が死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。
中年になっていいかげん自分の限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖の感覚がとてもよくわかるようになった。
これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。
詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。
どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。
鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯な子供の姿を思い浮かべる、という
文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワインと食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。
ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種やビンテージ、気候土壌などさまざまな情報がある。
しかしワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのときの話題、体調などに大きく左右される。
水だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。
マリアージュという言葉があるように、ワインは一種の調味料として機能するため、食べ合わせは重要だ。
ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見のワインでしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。
逆に偽の情報を表現豊かに補完してしまえば、コンビニで販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。
ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的な規律として表現することはできない。
詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。
井上靖が「小学校の教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき、井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。
その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。
どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときのメンタル、いわば偶然の力だと思う。
渡辺松男と太田美和が並んで歌壇に掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。
失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会。
そのときに自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。
ところで、先日、Yahooの芸能ニュースをみていたら、TBSのプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人が俳句の先生から5点と酷評されたと報じていた。
消しゴムが 白き水面に ボウフラを
というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味を説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。
ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人の俳句が酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組の演出・脚本としてはそれがオチなのだろう。
演出もさることながら、これは、他の出演者の俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。
虹の下 クレヨンの箱 踊り出す
天王山 黒ずむ袖に 薄暑光
薫風や 隣の君と 教科書を
こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。
バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージで作品のクオリティが補完されてしまうのだ。
しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校の児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。
消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月の番組で文房具だからまだ気持ちはフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。
ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。
それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。
いいかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。
一方で白い水面(ノートの隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。
ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。
と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ。
ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。
また、どんくさいもの、弱者がボウフラというノート上のより小さい存在に視線をフォーカスする、という手法は小林一茶の方法とも通じるところがある。
番組の評者は、この芸人の俳句を酷評したうえ、次のような添削をしたという。
夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。
しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組だからね。
ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界は一種のルッキズムだ。夏休みとかいって勝手におめかしさせようとするんじゃねーよ。
そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつの動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語や川柳で身につけたものだろうから、ゆりやんの一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。
ブライアンマックリッグって書いた人の本がソースで最新の研究に基づいて算出したみたいなこと書かれてるが信憑性がよく分からん。
次のような批判もあるが経歴とか出してる本とか見る限りでは問題を特に感じない。
リッグの論文とその提案方法は、ラウル・ヒルバーグと英国の歴史家デヴィッド・セサラニによって批判され、彼らはそれらをセンセーショナルで完全に正しいわけではないと定義した
https://it.wikipedia.org/wiki/Bryan_Mark_Rigg
彼の著書『ヨーロッパのユダヤ人の破壊』は、著者によって何度か改訂されており、ナチス・ドイツの官僚機構が「申請書」を使って実施した、いわゆる「ユダヤ人問題の最終解決」に関する最も権威ある研究の一つと考えられている。
リリアナ・ピッチョットによれば、ヒルバーグはショアの最も著名な学者の一人とみなされ、1961年に「基礎的著作『ヨーロッパユダヤ人の破壊』 […]彼は感情に流されることなく、理性的な精神でショアを読むことを彼から学びました。
以下、抜粋
「社会的強者の癖に気分はシンデレラか何か知らんがお嬢様気分でいやがるの、端的に恥ずかしいと思わんのか?」
「根本原因は、北村紗衣の異常性格。裏アカで批判されただけの話を大騒ぎ」
「何でああもただ取り巻きに承認されたい欲求の塊なんだと思いますが、まぁ、ああいう地味顔のフェミスターみたいな人は人文系ではチヤホヤされるので、という闇」
「北村さえぼうみたいな気が狂った連中に関しては業界として「粛学」レベルの痛烈なる批判が是非共必要だと思う」
「あんだけ頭が『ミサンドリーという名のミソジニー』というか他罰性にハマり切って狂ってたら考察の方はやっぱり狂ってそうだが」
「北村さえぼう、小宮友根など、Twitterでこいつクソやなと思うポリコレリベサヨうんこ学者の本を読んでみる会というのをやってみたいな」
「買わせて頂きました!!!!!!!」(北村の著作に向けて中指を突き立てている画像)」
「さえぼうセンセは今まで三十ウン年それでやってきたんだし、今更変えられねンだな卑怯者が!生きてて恥ずかしくないのかよ!」
https://www.tokyo-np.co.jp/article/321875
「世界の100人」に宮崎駿氏 米誌タイム、上野千鶴子氏も選出
宮崎氏を「アニメ界の歴史で個人として最も影響力のある監督」と評し、最新作「君たちはどう生きるか」は多くの人を引きつける「名作だ」とたたえた。上野氏については著作が中国で人気となり、フェミニズムの概念を広めるとともに、結婚と出産を巡る重圧に抵抗する中国人女性らの「ロールモデル」になったと紹介した。
マルサス以来誰も出来なかったんだよ。
社会を変えた貢献はそれ以上では。
上野先生が文系のノーベル賞のいくつかを授与されても不思議じゃなさそう。
はてブを含むネット上で落合陽一は過剰に持ち上げられるか過剰に貶されるかのどちらかで、バランスの良い評価が無い気がするので、なるべく色眼鏡を外すよう努めつつ個人的な見解を書く
作品の評価に好き嫌いはあると思うが、世の中の「メディアアーティスト」たちとポートフォリオを並べた時に上位にいることは間違いないんじゃないか。作品が貶されてるところも割と見るけど、メディアアートって良くも悪くもこんなもんでしょ。個人的に彼の作品は割と好き
発表文献リストは長いが、アカデミアで「業績」にカウントされる査読つきフルペーパーは少なく、いわゆるポスター発表・デモ発表の類、査読なし会議や競争率の低い論文誌での発表が多い。したがって「研究者として膨大な実績がある」というような評価は明らかに誤り。ただ、トップレベルではないとはいえ、世の中の「准教授」の標準くらいの業績はあると思う
彼の研究室の学生に話を聞くと、先端的なイベント・企画に参加させてもらって得難い経験をしているようで、面白そう。ただ、研究指導はほとんどされてなさそうで、勉強や研究が苦手な人が学位を取りたい場合は辛いかな…
これは明らかに向いてない。瞬発力があるタイプではないのか気の利いたコメントが出てくる事がない…というか、むしろ何を言ってるのか分からず司会者が困ってるシーンに良く遭遇して見てて辛い。滑舌も辛いので、この仕事を続けるつもりなら最低限ボイトレは受けてほしい
政府系の会議体の構成員などの仕事、これは便宜上「有識者」と言われるが実際のところ特に有識ムーブは求められてない事が多い。ぶっちゃけ私もやったことあるけど「各界の声を聞きました」という証拠を残す目的が主で結論は初めからだいたい決まってる。彼は名前が売れてるし似たタイプの人材がないので、特に裏の事情などが無くとも政府から声が掛かりやすいのは理解できる。
時間停止したモノに衝撃が蓄積されるやつ
あれの歴史を調べたい
SFにおける時間停止モノの歴史はH・G・ウェルズ「新加速剤」が元祖だろう……
SFにおける「時間停止」ギミックの歴史としては先行研究として以下の私家翻訳を見つけた
#ライマン・フランク・ボーム #翻訳 捕まった《時の翁》 - カスガの小説 - pixiv
▼『オズの魔法使い』シリーズの作者として知られるライマン・フランク・ボーム(1856年~1919年)の童話集“American Fairy Tales”(1901年10月)に収録された“The Capture of Father Time”の拙訳。私が知る限りでは、世界で最初の「時間を止めてイタズラをする話」です(ウェルズの「新加速剤」は1901年12月)。
▼「透明人間になってイタズラをする話」の元祖が紀元前4世紀のプラトンの著作にまで遡れるのに対して、「時間を止めてイタズラをする話」の歴史は意外に浅く、時間停止ジャンルの古典とも呼べる上の両作ですら1901年、「性的なイタズラをする話」となると、1962年のジョン・D・マクドナルドの『金時計の秘密』まで待たねばなりません。あるいは、これより古い時間停止作品の例があるのかもしれませんが、今のところ私には見つけられていません。
うーむ、「時間停止したモノに衝撃が蓄積される」というサブジャンルについてはなかなか情報が見つからない
いわゆる「ステイシスフィールド」「停滞フィールド」と呼ばれるギミックとも隣接しているんだよな
「停滞フィールド」のWikipediaにクラフトワークもビタロックも言及がある
英語版Wikipediaの「Stasis (fiction)」にも有力情報なし
それ以前で見つけることが出来るかどうか
DLSiteの同人誌で「時間停止」タグが付いたものを古い順にみてみるか……うーん、2000年より古くは調べられないのか
しかし古めの作品で快感蓄積系はぱっと見だと見当たらないように見える
エロジャンルにおける時間停止モノで快感が蓄積されるギミックの歴史はもうちょっと浅いのかもしれんな
(関係ないが、同人誌で取り扱われたものの流行の変遷って後世の人が調べるの超大変だな……資料が散逸している)
ドラえもんのひみつ道具で時間停止系のものはないか?そのなかで衝撃蓄積するタイプは無いか?
pixiv百科事典の記載が全網羅しているとは思わないが、簡易的に調べるにはまあいいだろう
「ウルトラストップウォッチ」「狂時機」「時門」「むだ時間とりもどしポンプ」「ちょっと待っタイマー」「わがまま時計」「タイムコントローラー」「倍速時計」どれも蓄積しなさそうだなあ……
ドラえもんのひみつ道具で無いなら……もうないんじゃない?という気もするが
星新一のショートショートだとどうだ?いや、結構読んだけどちょっと覚えがない(忘れているだけかも)
え、まさか「クラフトワーク」が元祖?そんなわけないという勘が働いているんだがな……
調べ方が悪いな……
時間停止能力を持つキャラの一覧みたいなリストはニコニコ大百科とかにあるから、上から順番に見ていくしかないかもしれない
あるいは時間停止にこだわらず衝撃を貯めておけるギミック、ガジェットの呼び名を考えるべきか
ワンピースの衝撃貝みたいな(そういえばノロノロの実もまんま衝撃蓄積できるタイプのギミックだ、2004年)
一旦調査ここまで
日記です
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あっ
ジョジョ3部の「ザ・ワールド」の時間停止中にラッシュ突きして相手が吹っ飛ぶってことはこれも時間停止中に衝撃蓄積してるじゃん!
発動者が超高速で動いているから発動者が100回殴れば通常速度世界側では一瞬で100回殴った衝撃がやってくる(スタープラチナ・ザ・ワールドの時間停止中オラオラで相手が吹っ飛ぶのも納得だ)
加速装置ギミックも一応調べるか……サイボーグ009だと衝撃蓄積みたいなことはしてなかったと思うんだがな……
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ロックマン2(1988)のタイムストッパー、これは時間停止中に他の武器使えないから衝撃蓄積できない
敵キャラを時間停止させて(凍らせて、みたいな)攻撃叩き込むみたいな……
逆にSF小説だと時間停止中に衝撃蓄積の概念は育ちにくいんじゃないかという予感もある
衝撃蓄積and解放はビジュアルイメージが伴ったほうが面白いと言うか文章オンリーだと映えないというか
……いや、いやいや早計だぞ
まずは「新加速剤」読むべきでは?という勘が働いた
加速装置系だしな
Kindleでサクッと買って読みましょうね……Kindleに無い!はぁ〜
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一旦この件は保留
妄想を炸裂させているはてブが居たので、本当かどうか気になっているけど私には事実検証ができないので詳しい人が居たら教えて欲しい。
→単純に商業作家なので出版社が原稿料からあらかじめ10.21%(100万を越える部分は20.42%)が源泉徴収されているから、その残りではないでしょうか?
3年で2億6000万だと税率はおそらく45%なので、そこから源泉徴収されている分+税理士が計算した経費等を諸々引いたら18%が所得税として計算されるのは妥当なところだと思うんだけど…
→法人化している証拠が見付からないんだけど、どこ情報なんだろう? 上述のはてブを鵜呑みにしてるだけ?
→不動産購入という報道はあるが、それを投資として見るかどうかは微妙。単に連載長期化を見据えてアシスタントが入りやすい事務所を構えただけかもしれない。
私の友人の漫画家は無難に事務所用にマンション買ってたが、中には個性豊かすぎる自宅を建ててしまい売ろうとしても売れずに途方に暮れてしまう漫画家も割りと居る。
脱税した金で不動産購入という報道もあるが、単に納税サボってたから残高にある金額を使っただけではなかろうか?
→(私が関係者からヒアリングした限りでは)ままれ氏本人は世捨て人のような生活をしていて、印税関係などの処理を親族に丸投げしてたら騙されていたとのことなので、ある意味大谷選手と似たような境遇かと。
ねこクラゲ氏とは脱税の仕方が違うとは思うが、見せしめ報道という意味で同じコースというのならこの発言も理解できる。
→本人のツイートからはそのような雰囲気は見て取れない。現代文で作者の意図を述べよ、という問題の必要性がよく理解できるはてブ。
→ハイスコアガール事件を誘発した編集部やぞ? 漫画家をきちんとケアする編集がいるなどというナイーブな考えは捨てろ。
私は友人に漫画家や小説家が複数いるが、彼等彼女等の大半はこの手の雑事が非常に疎かであることが多々ある。
私がまだ若い時に「毎日コツコツやれば苦労しないでしょ?」と酔った時に迂闊にも助言したところ「夏休みの宿題を計画的に進めることができる人間は漫画家なんかになってない!」と反論されてぐうの音も出なかった。
それでも妻帯者で子供が居る場合は子供を保育園や学校に通わせる必要性があるため最低限の社会性は持つようだが、独身の場合はかなり危ういと感じた。
私はねこクラゲ氏のことは著作以外詳しく知らないが、私の狭い漫画家の交友関係から帰納的に類推する限り、税金関係をズボラにしてたら遂にのっぴきならない状況になって役所から盛大にお説教を食らって慌てて納税したが、額が額だし話題性がある作家だから見せしめに報道された、というのがしっくりくる。
それも私の妄想でしかないが、少なくとも報道と本人のツイートのみが証拠なので、それ以外は妄想でしかないのでこのような妄想投稿場所でしか表明しないつもりである。
妄想を炸裂させているはてブが居たので、本当かどうか気になっているけど私には事実検証ができないので詳しい人が居たら教えて欲しい。
→単純に商業作家なので出版社が原稿料からあらかじめ10.21%(100万を越える部分は20.42%)が源泉徴収されているから、その残りではないでしょうか?
3年で2億6000万だと税率はおそらく45%なので、そこから源泉徴収されている分+税理士が計算した経費等を諸々引いたら18%が所得税として計算されるのは妥当なところだと思うんだけど…
→法人化している証拠が見付からないんだけど、どこ情報なんだろう? 上述のはてブを鵜呑みにしてるだけ?
→不動産購入という報道はあるが、それを投資として見るかどうかは微妙。単に連載長期化を見据えてアシスタントが入りやすい事務所を構えただけかもしれない。
私の友人の漫画家は無難に事務所用にマンション買ってたが、中には個性豊かすぎる自宅を建ててしまい売ろうとしても売れずに途方に暮れてしまう漫画家も割りと居る。
脱税した金で不動産購入という報道もあるが、単に納税サボってたから残高にある金額を使っただけではなかろうか?
→(私が関係者からヒアリングした限りでは)ままれ氏本人は世捨て人のような生活をしていて、印税関係などの処理を親族に丸投げしてたら騙されていたとのことなので、ある意味大谷選手と似たような境遇かと。
ねこクラゲ氏とは脱税の仕方が違うとは思うが、見せしめ報道という意味で同じコースというのならこの発言も理解できる。
→本人のツイートからはそのような雰囲気は見て取れない。現代文で作者の意図を述べよ、という問題の必要性がよく理解できるはてブ。
→ハイスコアガール事件を誘発した編集部やぞ? 漫画家をきちんとケアする編集がいるなどというナイーブな考えは捨てろ。
私は友人に漫画家や小説家が複数いるが、彼等彼女等の大半はこの手の雑事が非常に疎かであることが多々ある。
私がまだ若い時に「毎日コツコツやれば苦労しないでしょ?」と酔った時に迂闊にも助言したところ「夏休みの宿題を計画的に進めることができる人間は漫画家なんかになってない!」と反論されてぐうの音も出なかった。
それでも妻帯者で子供が居る場合は子供を保育園や学校に通わせる必要性があるため最低限の社会性は持つようだが、独身の場合はかなり危ういと感じた。
私はねこクラゲ氏のことは著作以外詳しく知らないが、私の狭い漫画家の交友関係から帰納的に類推する限り、税金関係をズボラにしてたら遂にのっぴきならない状況になって役所から盛大にお説教を食らって慌てて納税したが、額が額だし話題性がある作家だから見せしめに報道された、というのがしっくりくる。
それも私の妄想でしかないが、少なくとも報道と本人のツイートのみが証拠なので、それ以外は妄想でしかないのでこのような妄想投稿場所でしか表明しないつもりである。
# 私の中国武術の調べ方
## 文章の集め方
本屋、古本屋、図書館、Amazon、メルカリ、ヤフオクなどで根気よく探します。
特に雑誌は出回っている時期が限られるものがあるので、定点観測が必要です。
日本における中国武術は1990年前後に流行していたので、新しいものより古いものの方が情報が充実しています。
最低、簡体字、繁体字、英語の3つの言語で検索して、探します。
本土だけでなく、香港や台湾、米国にしか伝承されていないものがあるためです。
ヨーロッパなどにもあるかもしれませんが、探すのが大変で自分はそこまで手が回っていません。
孔夫子、逸文武術文化有限公司の2つのECが特に珍しいものがあります。
書籍は自炊してPDFにして、OCRをかけた方が取り回しやすいのでおすすめです。
集めた文章を適当なナレッジツールに整理します。繁体字と簡体字が混在すると検索に不便なのでどちらかに寄せることをおすすめします。
人物別に整理しつつ、著作を時系列順に並べておくのと研究に利があると思います。
同じ人物でも初期の著作と後期の著作では異なる内容があり、そこが研究の要点になるためです。
また経験的に、武術には地域性があるため、どこで書かれたかも分かれば研究の一助になります。
横断的な論点については、タグを付けたり、記事をまとめたりして整理します。
## 翻訳
DeepL、ChatGPT、Claudeなどの選択肢があると思いますが、今であればClaudeが有力です。
真面目に研究するのであれば、有料版以外の選択肢はないというのが個人的な感覚です。
事前整形、翻訳、翻訳チェックの3つのプロンプトがあれば、作業が便利になると思います。
もっと便利な翻訳専門のツールもありそうですが、自分は使っていません。
## その他
動画であれば、YouTubeか优酷を探せばほぼ足りるでしょう。調べ方は文章と同じです。
最近は字幕を出す方法がいくつもあるのでそれを使って研究すると楽でしょう。
また、中国武術の文化的背景には道教、儒教、仏教、中医学が深く関わるため、日本語でいいのでこの辺りの知識を押さえておくと、理解しやすくなります。
## 総論
気になるねえ
何故気になったのか
「自然薯を探すときはまず特徴的なハート形の葉を探すとよい」のような説明がされることがままある
「ハート形」という概念が無い昔の日本だと自然薯や山芋の葉のような形を何と呼んでいたのか、というのを知りたい
調べましょうね
なるほど、西洋からいわゆる「ハート」概念が伝来する以前から土器や織物にハート形の文様が存在する、と
神社仏閣など建築物には「猪目」と呼ばれるハート形の意匠が施されている、と
なるほどねえ
じゃあ昔の日本で自然薯を探すときは「猪目型の葉っぱを探すとよい」と説明されていたのだろうなぁ~
……とはならない
「西洋ハート伝来以前から猪目と呼ばれるハート形の文様が存在した」イコール「自然薯など芋系のハート形の葉っぱを当時の人は猪目のような形の葉っぱと呼んでいた」とはならない
芋掘りする農民が「猪目」というある種の専門用語を日常的に使用するか?という点を疑う
農民が子を連れて山に入り、山芋の探し方を教える時に「山芋はこういう形の葉っぱだ」と伝える時、その葉の形をどういう形と表現するか?
勘だけど逆なんだろうな
すなわちハート形を「芋の葉のような形」と呼んでいたのではないか……という勘
その場合、
の問いの答えは「自然薯や山芋の葉のような形はそのまま『芋の葉のような形』と呼んでいた」ことになる
農民が子に山芋の探し方を教える時も、山芋の葉の形を何かに例えたりせず「こういう葉っぱの形は芋の葉の形だ」と表現する……?
さて、この勘由来の仮説を検証するにはどんな文献を探せばいいのか
いろいろぐぐってみるか
1911年(明治44年)、奈良県農事試験場(現農業研究開発センター)がツクネイモの品種試験を開始した。黒皮ツクネの特徴として「所謂大和薯にして本県の原産なり 蔓褐色にして太く葉は広き心臓形にして葉肉厚く濃緑なり 草勢強壮にして本県の風土に能く適正す 塊根は球状にして豊肥凹凸なく外皮粗厚にして小亀裂をなして亀甲形の斑点をなす 肉質純白水分少なく粘気強くして品質頗る佳良 料理用菓子用蒲鉾用等に用途広く四ヶ年平均反当収量六百三十二貫四百匁(2.37t)にして種薯に対する生産割合は約八倍に達し供試各品種中第二位にありと雖も其価格高きが故に経済上は寧ろ第一位を占む 該薯は零余子(むかご)は頗る小にして二ヶ年間栽培せざれば種薯に供養し難し[9]」と記録されている。
キリスト教伝来から300年以上経過しているからハート形という概念が浸透していても不思議じゃない
いや、リンネの分類学の著作が日本に伝来した時期あたりも調べる価値があるか?
西洋の植物図鑑で「heart-shaped」のような説明がされているのが翻訳されたことで明治期に一般に普及の可能性……
『日葡辞書』になんか自然薯の記述とかないかなあ……いや、あったとしてもポルトガル目線の記述だから意味ないか……
園芸アサガオの葉っぱの形で「芋葉」と呼ばれる変異パターンがあるようだ
時間切れ、また夜に調べるか……
三つ葉葵紋は西洋人にハート形と誤解されたみたいな逸話をどこかで読んだような……
これは日記です
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Wikipediaの「葉身」の「葉の概形を表す用語」を見ると興味深い
自然薯や葵のような葉は「心臓形(cordate)」と分類されている
その一方でカタバミのような葉は「倒心臓形(obcordate)」と分類されている
きっと西洋でメジャーなハート形の葉が葵みたいなタイプで、後からマイナーな側に倒心臓形と名付けられた、みたいな流れがあるのだろう
ヨーロッパでメジャーなハート形の葉っぱの植物……西洋菩提樹とかかなあ
知らんけど~
おそらく現代人の葉っぱの形に対する分解能が昔と比べて落ちている
色の分解能が上がって青と緑が別々になった現象の逆
葵の葉の形と芋の葉の形を現代人は一括りにハート形としてしまうが、昔の人は正しくそれぞれ「葵の葉のような形」「芋の葉のような形」と認識していた可能性がある
ゆえに、「ハート形」に類する形を指す言葉は不要だった……とか
その場合、
に対する回答は「ハート形より細分化されたそれぞれの植物の葉の形に例えられた表現で呼ばれていた。芋の葉は芋の葉のような形と呼ぶほかないし、葵の葉は葵の葉のような形と呼ぶ。」
となる
そもそも葉っぱ以外でハート形をしたモノが例えば江戸時代にどれだけあったというのか、という話がある(桃とか……しかし葉っぱを指すときに「桃の形の葉っぱ」とは言わんやろ、たぶん)
市松模様とか唐草模様とか、古くからある文様でいわゆるハート柄っぽく見えるものはないっぽいしなあ……一応「猪目文」があるのか
それこそ数少ない葉っぱ以外のモチーフでハート形が現れたときそれを「猪目」と呼んでいたのではないか
検証できるかどうか
うーんどうだろう、例えばこういう攻め方はどうか
博物学と医学薬学の中間みたいなジャンルという認識なのだが、植物の葉の形で分類するみたいなことをやっていたらしい
ただなぁ~、学者先生が使う言葉や認識と、市井の人々の使う言葉や認識って別だろうからな……
とりあえず1759年ごろに書かれた『花彙』という名の植物図鑑を国会図書館デジタルコレクションで読んでみよう
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面積を求める和算の問題で、ハート形の図形の面積を求めよ……みたいな問題あるかもな
もしあったなら「〇〇に似たこの図形の~」みたいな記述があるかも
一応調べること
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調査がとっちらかったので自分の関心の向き先を言語化しておこう
・「ハート形」という概念が無い昔の日本だと自然薯や山芋の葉のような形を何と呼んでいたのかの調査(昔の人は山芋の探し方をどうやって伝えたのか問題)
■サブクエスト
・昔の日本における(芋の葉以外の)「ハート形」と類似した図案、文様の使用例、またその呼称の調査
・幕末~明治期の文献から「ハート形」」「心形」「心臓形」の記述を探して市井の人々の中に「ハート形」という概念が定着していった流れの調査
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メモ:
こういう調べものをしていると古辞書に何と書かれているか確認したいというシーンがしばしばある
また、現代語訳された古辞書が書籍として売ってあるなら購入も検討すること
また、もしも辞書に「猪目」が載っていないなら当時の一般的な語彙の中に「猪目」が含まれていないとみなすことが出来るかもしれない
ここまでの調べものは「猪目は確かに日本古来から存在するハート形の模様だけど、昔の日本の多くの人は猪目って単語を知らないのではないか」という話が前提にあるので、その裏取りにもなる
神社仏閣に猪目模様があって、その模様があると知っている人でも、その模様の名前を知っているかどうかは完全に別
例えば……コンクリートブロック塀の松みたいな模様の穴が開いたブロック、あれの名前を知っている現代人は少ないのではないか
似たような構造があることを疑っている←この例は適切ではない……「身近にある模様でも名前を知らないものはある」という意図で例示したが、……上手く言語化できないな、後で再考する バックスペースを押さないことがアウトプットしやすくなるコツみたいな文章を何かで読んだ
トランプのハート柄が「猪目柄」と呼ばれないという傍証はあるんだけどな……→昔の日本人でも猪目という単語を知っている人は少ない説
それはそれとして、そろそろくずし字を読めるようにならないと調べものが滞る……教材を探して勉強してみるか
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・「ハート形」という概念が無い昔の日本だと自然薯や山芋の葉のような形を何と呼んでいたのかの調査(昔の人は山芋の探し方をどうやって伝えたのか問題)
→率直に「芋の葉の形」と何にも例えず呼んでいた、あるいは「芋の葉に似た植物の葉の形」を例に挙げて説明していた……と思われる
しかし古い植物図鑑を見ていると、例えばサツマイモの葉の説明をするときに「葉は朝顔に似る」のように別の植物で例える記述が多くみられた
(余談だがアサガオはヒルガオ科サツマイモ属なので葉が似ているのは納得、リンネ式階層分類体系は偉大っすなあ)
■サブクエスト
・昔の日本における(芋の葉以外の)「ハート形」と類似した図案、文様の使用例、またその呼称の調査
芋って家紋のモチーフにないんだなあ、考えてみるとちょっと意外(芋桐紋とかあるけど、これは芋ではなく桐モチーフと呼ぶべきだろう)
♡の幾何学的な図形の特徴を指す呼称という意味では、そのような概念は存在しない……か?
猪目が一応それではあるんだけど、市井の人々に広く知られた概念ではなかった(これも証拠なし)
だからこそ芋や葵の葉も「♡の幾何学的な図形の特徴を指す呼称」で形を例えられないということになる
・幕末~明治期の文献から「ハート形」」「心形」「心臓形」の記述を探して市井の人々の中に「ハート形」という概念が定着していった流れの調査
→ https://web.archive.org/web/20181002182121/nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/261341.html
ツイッター上で好きだったイラストレーターさんや漫画家さん、絡んでもらってたフォロワーさん等々が続々AI規制派発言をするようになっていってて辛い。吐き出させてくれ…
SNS上で見かける規制派の意見がマジで理解できない。何あれ?
規制派が「これは絵描きの総意です!」みたいなノリで言ってることに全然共感できない。
あの人たちは自分の中の絵描き像が大事で、自分の想定するようなスタンスでない絵描きのこととか想定もしていないんだろうな。
インターネット上の主張は主語がデカくなりがちとは言え、「この属性の人たちはみんな同じ気持ち!」みたいな態度キツいっす。
私も趣味で描いてる絵描きだけどあの人たちと同じ考えは全然持てない。
絵画の著作物でとりわけアニメ調や漫画調の人物イラストを別格の存在と思っていそうって言うか…
規制派の人がよく訴えてる「絵は我が子のようなもの。機械学習にかけられることは我が子をミキサーにかけられるような気分になる」みたいな例え話に一ミリも共感できない。
何故なら私は私の描いた絵に対して生まれてこの方一度も我が子だとか思ったことがないので。
絵は絵じゃん。
自分の絵を見て「よく描けた」「好きだ」とか思うことはあっても「これは我が子だ」みたいな感覚は湧いたことがないのであれ系の例えに全然共感できない。
絵を描く人間がみんな自分の絵に対して「我が子」と認識すると思わないでほしい。
と言うか、私が今までネット上に公開した絵について機械学習された可能性があることについて私は特に何の感慨も抱いていないんだけど。
「ふーんそうなんだ」くらいにしか思えないって言うか…
何も思ってないことについて「絵描きは怒るべきだ!」みたいな圧を感じるの怠い。
怒ってないことに別に怒れないよ…
イラストであれ写真であれ、画像データである以上はピクセル一つ一つに色の情報が乗ってるだけって性質は引き剥がせないじゃないですか。
私は機械学習の技術的な仕組みとかよくわからないけど、あれは「『人間』というタグが付けられた画像ではこの色情報を持つピクセルの横にこの色情報を持つピクセルが配置されている傾向にある」みたいなデータ配列の偏向を学習してるだけなんじゃないの?理解が間違ってたらごめんね…
そう考えると生成AIが学習段階でやってることは別にコラージュでもミキサーでも単純な複製でもなくない?
いや、機械学習、データ解析の過程で複製が伴うとしてもそれは権利侵害に当たらないと規定しているのが著作権法なのだろうけど…(法律の理解がガバってたらすまん)
未だに「生成AIはコラージュだ」みたいな誤情報を信じている人がいるのよくわからん。
データ配列の偏り方を学習してるだけであって盗んでもいないし切り刻んでもミキサーしてもいないよ。
あと「権利上の問題がある」「著作権的に違法だ」みたいな主張も謎すぎ。
学習権みたいな権利は日本の著作権法には規定されてないと思うんだけど。
どこの国の法律を見て言ってるんだろう?
私が不勉強なだけで実は日本の法律に存在するとかだったらマジで教えてほしい。勉強したいから。
著作権って単語を「自分の作ったものを好き勝手されない権利」って雑に理解しているのか?
あらゆる形での他人の利用を拒否できる権利ではないと思うんだけど…
たぶん「著作権」って単語を相手が怯む魔法の言葉だと思って使ってるんだろうな…
「外国では集団訴訟されている問題のあるツールだ」みたいな訴えもよくわからん。
外国で起きた訴訟はその国での法律で争われるのであって、外国の裁判で出た判決が直ちに日本にも適用されるとか無くない?
日本でも新たな法が作られるとかの時には海外の事例も参考にはされる可能性もあるだろうけど、日本の外で起きている事柄を根拠に「日本も倣うべきだ」みたいなノリがよくわからん。
と言うか日本での訴訟があるなら是非知りたいんだけどどなたかご存知ないですか?
著作権路線で生成AIを責めるならSNSの運用もちゃんとしてほしい。
生成AIに反対している人のツイッターアカウントを見に行ったら、著作権が切れていなさそうな漫画の切り抜き画像や映画、アニメ、TV番組のスクショ画像を引用の要件を満たさずに投稿していたりするのを見て頭抱えた。
生成AIを他人の著作物を蔑ろにするものと主張しながら自分はバリバリに他人の著作物の権利侵害行為してるのはダブスタすぎるでしょ。
あとpic it upとかの「自分で描け」的な主張に本当に賛同できない。
もし仮に私が「自分で描け」的な思想に賛同したら、それはありがたくも私のイラスト素材を購入し使ってくださっている方々に対して失礼じゃないですか。
自分で描く力や時間がない時、描き方がわからない時とかにそういうツールを使うって点で考えれば、手描きのイラスト素材も画像生成AIも役割として変わらないじゃん。
求めるイラストを作るためのツールを適法に使うことを悪だとする思想には私は賛同できないです。
というか、「自分で描け」「手描き詐称するな」みたいなご意見をお持ちの方々は、職務著作という制作体制が存在することについてどういう理論でその意見との整合性を取ってるの?
要は、その絵を自分で描いていないのに自分が著作者だという名目でその絵を発表することを非難なさっているんですよね?
でも例えば、漫画家さんが作画アシスタントさんを雇用して漫画制作に参加してもらう…みたいな制作環境はよくあるわけじゃん。
で、そうやって漫画家さんが指示を出してアシスタントさんに描いてもらった背景や効果、モブ等々は漫画原稿の一部となり、最終的に漫画家さんの名義で漫画雑誌やwebページ、単行本の形で発表されるわけじゃん。
そうやって作品が発表される際に作品に表記されるのって漫画家さんの名前だけですよね?漫画家さんが自分で描いていない部分もあるのに。(時々単行本の本文内でアシスタント名を掲載されている場合もあるけど雑誌掲載時はその限りでないですし)
自分で描いていないのに自分の名義で発表するというケースはこういう漫画制作現場の例に限らず世に無数にある。
著作権法では職務著作という名目で一定の条件下でそれを可能にする規定もあるんですが、「自分で描け」「手描き詐称するな」みたいなご意見をお持ちの方々はその辺の法律とはどういう風にそのご意見との整合性を取ってるの?
「自分で描け」「手描き詐称するな」という主張を通すなら職務著作についても非難することにならない?
知ってる上であんなめちゃくちゃな主張を言っていたとしたら主張のロジックがガバガバすぎるでしょ…
生成AI使用者を盗人、犯罪者呼びするのもやめといた方がいいと思う。
お手持ちの画像データはご自身の画像フォルダやネット上のサーバーからひとりでになくなったりしてないでしょう?
マジでお手持ちのデバイスから画像データが盗まれて消えたとかならサイバー犯罪だと思うから警察とかに相談した方がいいですよ。
第一、ネット上にアップロードした絵を複製されることが嫌って言うならネット上に画像をアップロードしない方がいいと思うのですが…
誰かがネット上にアップした画像を他人がネットを介して閲覧する際にはその他人が使ってるデバイスにその画像データが複製されるのはネットの仕組みとして当たり前にあるって言うか…
インターネットってものがそういう仕組みをしていて、尚且つイラスト投稿サイトやSNS等を利用して画像をアップロードする際に「あなたがアップロードしたものはこういう風に使いますよ」って規約に同意した上でサービスを使っているわけじゃないですか。
適法かつ契約内容に則ってネット上にアップロードされたデータが使われることに対して盗人、犯罪者呼ばわりするのは筋違いじゃないか…?
と言うか、どんなに正当な怒りがあっても他人に対して暴言を言うのは誹謗中傷とか侮辱になる可能性があるからやめといた方がいいですよ。
特定のイラストレーター風のLoRAが作られるのが嫌って気持ちも分からなくはないけど、絵柄や作風ってものには著作権の保護は及ばないし…
と言うか絵柄や作風にまで著作権を及ばせようとする規制派の主張は怖いっす。
著作(財産)権は著作権者の死後70年も効力を発揮する強力な権利じゃないですか。(団体名義での公表であれば公表後70年だけど)
そんなに長い期間似たような作風、絵柄での作品制作を規制するのはだいぶ無理筋では?
制作過程にAIを使用してもしなくても私は自由に絵を描きたいよ。
絵柄や作風にまで著作権の保護を及ばせようとする意見には賛同できないっす。
いわゆるimage to imageの手法でご自身のイラストが加工されたことに関しては、加工の結果の生成物が依拠性と類似性があると判断できるならば複製権等の侵害として使用の差止請求や損害賠償請求をすればいいのでは…?
そうした上で使用をやめてくれないのであれば裁判しかないかなぁとは思うのだけど…
裁判費用に関するカンパとかするなら私も多少は出すから裁判頑張ってほしい。
頑張って!頼む!
規制派の人たちって、法律やAI、普段自分が使っているネットやデジタルツールの仕組みへの無知と無理解から、新技術に対して不安や不快感を抱いている印象がある。
自分の作品を守りたいという気持ちがあるのなら、法律では自分たちにどのように権利が与えられ保護されているのかや、自分たちが普段使ってるツールや技術がどんな仕組みをしてるかについて知っておいた方がいいよ。
文化庁のホームページなら無料でそれ系の知識を漁れるし、もっと体系的に知りたいなら知的財産管理技能検定のテキストを読むのとかおすすめ。3級なら内容もだいぶ簡単だし。
つーかこの1年程SNS上で見てきた規制派のプロのイラストレーターさんやプロの漫画家さんたちが著作権法に関する基礎的な理解も無さそうな様子にぶっちゃけかなり驚いている。
プロでしょ?
我が子とか魂に例える程に大事なんでしょ?
グレイズとかえまもりってサービスの提供するノイズフィルターがあるらしいじゃん。
そのノイズフィルターかけてない画像をネット上にアップロードする行為を「(これをしていないと)あなたも無断学習による加害行為の加担者になります」みたいな非難を規制派の誰かがツイートしてるの見てだいぶキツかった。
私は自分で考えた上で別にそういうフィルターかけなくても問題ないと思ってるからノイズフィルターかけてないだけなんですけど。
それを加害への加担?はあ?言い掛かりすぎない?
前述したように私はネット上に自分がアップロードしたものが機械学習されようが特に何も思わないし、仮に機械学習されたくなかったとしても、元画像が肉眼で容易に判別できる程度のうっすらしたノイズをかけたくらいで機械学習防止の効果があるとは思えなかったからノイズ加工してないだけなんですけど。
効果があると信じてご自身でご自身の画像にご使用になるのは何とも思わないけど、他人が自分と同じように行動していないことを加害への加担とか言うのは失礼すぎない?
してない人間にだってしてない人間なりの感情や考え方があるんだよ。
愚痴だいたい書き終わったな。
彼らの思想では私のような絵描きがいることは想定されてないっぽいし。
何が嫌かって、私自身が何も思ってないし問題視もしてない物事について絵描きって属性だけで雑に規制派陣営から味方認定されて同士として振る舞え的な圧が感じられるのが嫌。
規制派の言ってることは創作の自由度を狭めることに繋がると思う。
この1年ちょっとで好きなイラストレーターさんや漫画家さんが続々そっち方面になってしまったのは本当に心の底から残念。悲しい。
私は「適法であったり個別に結んだ契約等に反しない範囲であるなら自由に好きにどんなツールを使って描いてもいいじゃん」ってスタンスの絵描きです。
だからこそ、自分の描いたイラストが誰かの役に立てばいいなって思ってイラスト素材の販売もしているのだし。
生成AIの登場や広まりに特に何も反対してない絵描きもいるってのだけ覚えていってもらえれば…
まぁこんな場所で匿名で愚痴ってるのは規制派によるネットリンチが怖いからなんだけどさ。
自由に好きなツールを使って絵を描いて公開してもネットリンチを受ける心配のない世の中になってほしいよほんと。
長々と書いたけど私も法律とか技術的な知識をその道のプロほど十分に知っているわけではないです。
技術や法律に関する記述が間違ってたり不足してるなって思ったら適当にコメントしてください。拝読いたします。
私もまだまだ勉強したいんで。
今から22年前の2002年に、11歳の脳障害児である日木流奈が話題になった。
俺は彼が本当に奇跡の詩人であり、自分の言葉で話していると信じていた。
NHKで放送され、ネットなどの批判によりNHKは謝罪したが、俺は彼を信じていた。
彼の話法は、母親が彼の手を取り、50音が書かれた紙を指差して話をするというものだ。
「実は母親が指差しているだけでは?」と指摘されていたが、俺は違うと思っていた。
「そのまんまでいいよ」「心配しなくていいよ」という彼の詩に感銘を受けていたからだ。
そこから20年経った2022年に、俺はなんとなく再度彼の動画を見直してみた。
すると、どうだろう。これは明らかに、母親が彼の手を故意に動かしているではないか…?
なぜ俺は気付かなかったのだろう。
その時俺は、コロナ禍で危うく反ワクになりそうなほど、陰謀論に傾きそうになっていた。
しかし大人になった俺はなんとか陰謀論を逃れ、ワクチンを打った。
だからこそ、日木流奈くんが操られてることに気付けたのだ。
遅い、遅すぎた。
https://sp.nicovideo.jp/watch/sm16732325
まあこれだけでも彼が操られてることが分かると思うが、次に彼の2019年の状態を見てみよう。
『日木流奈さんインタビュー/第1回 「何が起きても大丈夫!」という人が増えてほしい』
https://starpeople.jp/seijingoroku/hikiruna/20190503/4279/
どうだろう。
俺は彼の著作を市販されているものは全て持っていたのでわかるのだが、彼の話し方や内容はは全く変わっていない。
…だが、そんなことあるのだろうか?
このインタビューには具体性がない。成長がない。11歳だった彼と変わらない受け答えがそこにあった。
「やはりこれは母親が答えているだけでは?」
そう思わざるを得なかった。
おそらく、母親は自分の子供が脳障害児であることを受け入れられずに、天才だと思うことによって自分を保ったのではないか?
それが今まで続いているのではないか?
当時からそのような指摘はかなりあったが、俺はそれを少し前まで気付かなかったのだ。
本当に恐ろしい。
本来は周りの人間がそれを指摘して彼を救うしかないのだろうが、それももう叶わないのだろう。
今後彼の母親が先立った時、やっと彼の自由が叶うのかもしれない。
これが俺の懺悔だ。
増田でバズった某エントリーの通り、『株主に突っ込まれるまで無視』が正しい戦略なんですよね
なぜなら炎上に気づかない人たちは謝罪にも謝罪に気づかないからです(コストが無駄。なんなら謝罪きっかけで話を知ってしまうまである)
自分たちのメイン客が、『倫理的消費(エシカル消費)に気を使う余裕のある所得を持っていない』 or 『ネット感度低い』 とわかっている場合は、
謝罪しない方がお得です
でも何を思ったのか、よもやHuluやジブリの会社としてどっかからツッコミでも入ったのか、
倫理的消費に興味がなくネット感度の低い大衆向けサービスをやっている日テレが、
おそらく1円の得にもならないのに、まさかの内部調査チームを立ち上げ上げたんですよね
ここまででもだいぶ驚きなのに、内部調査のコメントには腰を抜かしました
26日の日テレの定例会見で「できあがった作品の二次利用などについては契約を結ぶが、ドラマ制作の詳細について契約書は存在しない」
制作過程や著作者人格権に関わる契約については、「作品ごとにはない。法律に基づいた枠組みでの了解は当然あるが、約束事を文書で取り交わしているわけではない」
コンプライアンス担当の取締役執行役員が責任者を務め、顧問弁護士ほか、外部から著作権分野に詳しい弁護士、コンテンツ制作の契約法務などに実績のある護士を招く
とりあえず、TV業界御用達の脚本家協会のひとつは下記のように書いているので、著作人格権と著作財産権、特に著作権法第20条の規定の解説から、日テレ弁護士さんにお願いしたいです
あと契約書についても日テレ弁護士さんに解説をお願いしたいです
【日本シナリオ作家協会・脚本契約7原則】
(1)「オリジナル企画」および「オリジナル脚本」の脚本家は、原作者として尊重されなければならない。
(2)「オリジナル企画」および「オリジナル脚本」が映像化に至らなかった際は、特段の取り決めがある場合を除き、いかなる場合も著作者である脚本家が任意に利用できなければならない。
(3)企画開発費と脚本料を一元化してはならず、企画段階の企画書・プロット執筆、脚本執筆には、別途ギャランティが支払われなければならない。
(4)脚本料は受注時に取り決め、長期間に及ぶ脚本執筆 の場合は随時支払われるものとし、決定稿を提出した後、速やかに支払いが完了されなけれ ばならない。
(5)企画開発および脚本執筆のために必要とする取材費、資料費、交通費その他の実費については、発注者が負担しなければならない。
(6)氏名表示に関して著作権法第19条の規定を遵守し、宣伝・広告活動の際にも配慮されなければならない。
(7)著作権法第20条の規定を遵守し、脚本家に無断で脚本を改訂してはならない。
ある著作者は原作を守るように伝えて、別の著作者は好きに改変するように伝えた
どちらのケースも原作の使用の許諾を与えることで人格権を保持していると言える
https://www.star-law.jp/news/nhk.html
NHK側は,平成23年11月に講談社との間でドラマ化の契約を締結し,
平成24年5月に連続ドラマとしてスタートするため,脚本の執筆や出演者の
一部内定などの準備を進めていたところ,平成24年2月に講談社から
「白紙にする」と一方的に契約を破棄された撤回されたと主張し,
ドラマの準備に要した費用等が損害にあたるとして6000万円余りの
損害賠償を求めていました。
ドラマ化されてしまうと心配したのも無理はない。脚本が承認されていない以上,
ドラマ化の契約が成立していたとは言えない」として,NHKの請求を
この判例に準じるならば、
脚本が出来上がって、承認された上で、脚本通りにドラマが作られるとしたら、
著作人格権は保持された上で、原作の二次利用の許諾されたことになる。
だから日テレも原作者の承諾を得た脚本で制作をしていることを強調している。
本気でそう考えているなら編集部は原作者に脚本を書かせるべきではなかった。
あくまで脚本家に脚本を書かせて、ダメ出しをする、NGを出すのみにして、
原作者自身で手を入れさせることはないようにしなければいけなかった
締め切りが迫っていようが、放送日が迫っていようが、
脚本が原作者の思いどおりに上がらない限り、許諾するべきではなかった
上記の判例に従えば脚本もできていないうちにドラマ化の契約は成立しない
出版社と放送局は別方法人である以上、ガバナンスは契約によるしかない
今後、出版社が本気で原作者を守りながら作品を映像化したいと考えるなら
このことを前提にして、放送日程スケジュールより先に脚本をもってこいと言い
脚本がてきていなければ許諾しないことを明確にして進めるべき
ある著作者は原作を守るように伝えて、別の著作者は好きに改変するように伝えた
どちらのケースも原作の使用の許諾を与えることで人格権を保持していると言える
https://www.star-law.jp/news/nhk.html
ーーーーーー
NHK側は,平成23年11月に講談社との間でドラマ化の契約を締結し,
平成24年5月に連続ドラマとしてスタートするため,脚本の執筆や出演者の
一部内定などの準備を進めていたところ,平成24年2月に講談社から
「白紙にする」と一方的に契約を破棄された撤回されたと主張し,
ドラマの準備に要した費用等が損害にあたるとして6000万円余りの
損害賠償を求めていました。
ドラマ化されてしまうと心配したのも無理はない。脚本が承認されていない以上,
ドラマ化の契約が成立していたとは言えない」として,NHKの請求を
ーーーーー
この判例に準じるならば、
脚本が出来上がって、承認された上で、脚本通りにドラマが作られるとしたら、
著作人格権は保持された上で、原作の二次利用の許諾されたことになる。
だから日テレも原作者の承諾を得た脚本で制作をしていることを強調している。
本気でそう考えているなら編集部は原作者に脚本を書かせるべきではなかった。
あくまで脚本家に脚本を書かせて、ダメ出しをする、NGを出すのみにして、
原作者自身で手を入れさせることはないようにしなければいけなかった
締め切りが迫っていようが、放送日が迫っていようが、
脚本が原作者の思いどおりに上がらない限り、許諾するべきではなかった
上記の判例に従えば脚本もできていないうちにドラマ化の契約は成立しない
出版社と放送局は別法人である以上、ガバナンスは契約によるしかない
今後、出版社が本気で原作者を守りながら作品を映像化したいと考えるなら
このことを前提にして、放送日程スケジュールより先に脚本をもってこいと言い
脚本がてきていなければ許諾しないことを明確にして進めるべき