「試験」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 試験とは

2024-06-13

[]anond:20240613200534

https://utf.u-tokyo.ac.jp/project/pjt83

h抜きする意味が解らないのでリンクしておくね

地方母子家庭出身の女さんが東大博士号を取るまで

生活保護博士号ニキとか授業料値上げの報道かに触発された。

残念ながら、いわゆる理解のある彼くん要素がある。

長いと思ったら一番最後だけ読んでくれるとうれしい。

東大に入れたのは単純にペーパーテストがめちゃくちゃできたからだが、目指すようになったのは模試の結果を見た高校教師が勧めてくれたことがきっかけ。たぶん高2の春。

それから東大意識するようになって、現国問題で毎回おもしろ文章読めて最高〜、図書館で出典探して著者経歴を見ると東大出身者多いな〜、東大に行けばこういうおもしろい考えにもっと出会えるのかな??ぐらいの浅い動機東大第一志望にし始めた。

金のことはあんまり考えてなかった。

高校私立だったが奨学生として学費は全額免除してもらっていた上に(その条件で入学した)、民間団体が県住民対象でやっていた給付型奨学金支給されていた。

学力も授業だけで問題なかったので予備校に通う必要もなく、教育費はほぼゼロ

大学も同じように学力さえあれば行けるし、貧乏人にはそれ相応の奨学制度があってそれで何とかなると思っていた。だってそうあるべきじゃないか?

父親ギャンブルによる借金が原因で離婚し、母親非正規雇用で働き始めていたというのが数年前から我が家の状況だった。養育費もなく、突然働かざるを得なくなった母親は当然ストレスを抱えていた。その捌け口になったのが私。

自分の娘が東大に行けるはずがない、父親似の目つき・言葉存在その全てがとにかくムカつく、おまえもどうせ父親と同じだ、あんたは地頭が悪いからだめ、性根が良くなければ勉強なんてできたってなんにもならない。色んな言葉をぶつけられて、まあ限界でしたわ。

A判定しかない模試の結果を見せ続けてもだめ(ふーん、だから?)、日本学生支援機構の貸与奨学金の話をしてもだめ(あんたも父親と同じで借金踏み倒すんだろ!)、年収400万円以下が対象になる授業料免除の話をしてもだめ(ちゃん免除される保証がどこにあるの!?)、格安学生寮の話をしてもだめ(入れなかったらどうする、女なんだから余計な下宿費がかかる!)。

給付型奨学金地方のしょうもねえ高校全然情報はなく、先生たちも諦めるなぐらいしか言ってくれない。

自分で調べろって? 調べた上で給付型奨学金勘定から外していた。

募集人数がめちゃくちゃ少ないのに、「学業優秀」で「経済的に困難を抱えている」学生自分が「絶対に」該当するなんてどうして言い切れるんだ?

そんな不確かなものを頼みにできるわけがない。

地方、女、貧困が混ざるとこうなる事例としてぜひ参考にしてくれ。

制度存在することと、使えると認識することは違うんだ。うちの場合だけかもしれないけど。

結局「何とかなる」でゴリ押して、受験すること自体同意を得たのは高3の12月浪人なんてできるはずもないので、東大に落ちたらすでに受かっていた防衛大に行くつもりだった。とりあえず家から逃げることが第一目的に変わっていた。その上で大学おもしろそうなことを勉強たかった。そうじゃなきゃ生きている意味がないと思った。

無事に受験できて、合格した。合格たからってごちそうが出たわけでも金一封が出たわけでもなかった。

翌日に大震災。見事に被災して、なーーーーんも調べることもできないまま、ほぼ丸裸で上京した。

大学のこともなんもわからんし、クラスなんそれ、語学ごとに性格あるんだへー、五月祭なんてものがあるのかー、演習ってなんだ?

こんな感じ。臆病な自尊心合格発表前に色々調べておかなかった私も悪い。

ていうかみんな発言ちゃんとしすぎ、英語喋れすぎ、そしておしゃれすぎ。それに対して私は何もかもが終わりすぎ。

慣れない電車通学、週20コマの授業、母親言葉フラッシュバックで病んだ。健康診断の段階で精神科を勧められて受診はしたけど、医師震災サバイバーズ・ギルトですねで終わらせたのもあってその後の通院には結びつかなかった。

毎日何とか自殺先延ばしにして、大学に通い続けた。おもしろ講義を聞いている時だけは生きている感じがした。

そんな感じで大学と寮の往復で友人もできないまま夏学期が終わり、冬学期が終わった。試験対策が高度に制度化されているおかげもあって、単位には困らなかった。ぼっちこそ東大に行け。

2年生になって少しメンタル回復してようやく友人ができた。ようやくふつう大学生に近づけたと思った。3年生のときには友人の繋がりでのちの彼くんとの付き合いも始まった。

優秀かどうかは分からないけれど、友人になったのはみんな良い人たちだったし、私が母子家庭であることを公言していないせいか、友人たちが気を遣ってくれていたおかげか、対等な付き合いができたと思う。劣等感のようなものもそれほど感じなかった。仲良くなったのが都市部出身ゴリゴリ強者ではなく、地方中流〜上流家庭出身者ばかりだったというのも大いにあると思う。父親教授とか銀行員とか(母親は当然専業主婦)、そんなのばっかりだったけど。


仕送りは当然なかった。しかし、授業料全額免除家賃が月1万円程度の学生寮、さらには運良く引っかかった給付型奨学金のおかげで、経済的に困窮することもなかった。自分でも意外なぐらいに何とかなってしまった。

毎年授業料免除のために母親源泉徴収票を手に入れていたのだが、当時の母親年収200万に満たない程度である。たまに母親仕事が嫌になって無職になったり、転職を繰り返したりしていたので、提出書類をそろえるだけでも一苦労だった。

ちなみに震災の影響で提出できなかった書類を改めて提出するために訪れた奨学係で、たまたまリストを渡してもらえたか給付型奨学金に応募できた。


3年生になるとあっという間に就活ですよ。院進も国家公務員試験留学も考えてなかった。そういうのはタフでグローバルなふつう東大生がやるものなので。

自己分析しているとまた病んで眠れなくなった。家と大学図書館の往復の日々を過ごしてきた私に書けることなんてなかった。どうして自分ふつう東大生になれなかったのか。私と彼ら彼女らで何が違ったのか。

考えるのが嫌になって、手持ちのタマが切れた段階で就活をやめた。留年ぼんやり意識し始めて、さてどうしようとなったのが生活費授業料

特に遊びに行くわけでもなく、自炊を続け、節約しまくっていたのと、貸与型・給付型奨学金と細々としたアルバイトのおかげ何とかなりそうな貯金はすでにあった。

しか留年すると、奨学金は止まる上に、いくら世帯年収が低くても授業料免除対象から原則として外される。授業料分までの貯金はなかったし、家に頼ることはできなかった。

結局めちゃくちゃアルバイトをして授業料相当額を稼いで、留年に備えた。


「とりあえず留年」の先に何か目指している進路があるわけではなく、毎日自殺を考えていた。しかし、たまたま履修したゼミに救われて、大学院進学を考え始めた。もっと救われたかった。

成績だけは相変わらず良かったので、無事に合格できた。また、ようやくメンタル問題と向き合う決心がつき、学内カウンセリングに通った。留年した年の学費はこのために支払っていた気がする。

院進後は授業料免除奨学金も復活し、博士課程では生活費研究費付きのプログラム採用してもらえたから何とかなった。


博論書けない無理とふつう院生のように悩んでいたところ、身体を壊してしばらく入院することになった。標準年限の3年で上がれないのが確定したこと生活費のあてがないこと、研究アルバイトを両立させるような体力はないこと、その状況でまた授業料を支払わなくてはならないこと。何度も自殺は考えてきたけど、ついにその時が来たなと思った。

彼くんに頼ることは全く考えていなかった。しかし、結婚し、しか授業料も出すことをあっちから提案してきた。実は親戚に博士号持ちが多く、本人もかなり稼いでいたこと。これが「博士号取得にやたら理解のある彼くん」の背景にあった。

それまでは割り勘だったしお互いの家の話もロクにしていなかったので、そこそこお坊ちゃんであったことに驚くとともに、これが東大生の家庭なのかと惨めな気持ちになった。

しかし、自分人生にここまで賭けてくれる人がいるという事実は単純に嬉しかった。自分の救いのためだけではなく、応援してくれる彼のためにもさっさと博論を仕上げようと奮起し、かなり短期間で博論を仕上げて博士号を取った。

これがいかにして地方母子家庭出身の女が東大博士号を取ったかだ。要するに学力幸運に恵まれていたから。

高校民間公益財団法人東大の奨学制度博士課程学生向けプログラム、そのすべてに感謝している。うまくやれてる限りにおいて、選ばれる限りにおいて、多くを望まない限りにおいて、意外なほどに制度は充実しているというのが一当事者感想


まれながらに貧困だったわけではなく、しばらくはそれなりの生活を送り、両親もそろっていたので、ガチ不利層というわけではない。だから代表者ヅラする気はない。あくまで一つのケースとして見てもらうのがよい。また、学力自体最初から備わっていた。だから学力格差と関連する機会の平等の話ではない。

学力があっても受験自体が危うかったこと、経済的に一度でも詰んでいればそこで諦めていたであろうことが私がお伝えしたかった点である。詰まなかったのは単なる偶然。


博士課程の最後一年ふつう東大生が過ごしてきた環境なんだろうなとも思う。教育のために金を惜しまず、授業料を払い、衣食住が保障されて、何よりも心から応援してもらえる。率直にずるい。それなりにプレッシャーはあるし、生活保障されていても勉強研究が大変なのは分かったけど、でもずるい。

もちろん、そうじゃない人たちもたくさんいた。授業料免除申請の大行列、寮の住人たち、親との折り合いが悪く仕送りもないのに授業料免除から奨学金から対象外にされて私なんぞよりよっぽど厳しい経済状態にあった知人たち。彼ら彼女らと連帯することはなかったけれど、どうにかそれなりの人生を歩んでいることを願ってやまない。



授業料の値上げの必要性は理解している。国立大学法人改革はクソ。競争資金はクソ。

しかし、値上げの代わりに経済的に困難を抱えた層への支援を充実させる案には、次の5点の問題があることから反対の立場だ。むしろ授業料免除制度なんていらないくらいに、学生アルバイトで賄える範囲授業料を下げるべきだとさえ思う。

第1に、書類準備の手間。住民票、源泉徴収票アルバイト先・RA先生に書いてもらう収入関係書類、とにかく書類が多い。家族に提出をお願いする書類も多い。私の母親書類に関しては協力的であり、私自身の事務処理能力もそこまで低くないので何とかなったが、自分家族書類準備能力が不足している場合、あるいは家族が非協力的な場合、容易に詰む。しちめんどくさい書類を準備させる手間を経済的困難層に課すことは正しいことなのか? その手間を背負わされる学生たちを増やすことは正しいことなのか?

第2に、スティグマ。本当に困っている人の授業料免除されるならいいけどという言説はキャンパス内にも普通に存在した。生活保護と同じようなもので、授業料免除されているということは「恥ずかしい」。払えるものなら、こっちだってすばらしい授業と指導の対価として気前よく授業料を払いたかった。

第3に、高い授業料を払う層と授業料免除される層の発生による、「合格さえすれば平等であり対等なコミュニティの仲間である」という虚構崩壊

第4に、親との折り合いの悪い人々が制度狭間に陥る。学部生の場合独立生計を認められるハードルはめちゃめちゃ高かった。つまりたとえ親から仕送りが全く存在せず、世帯から恩恵を全く受けずに自分アルバイト等のみで生計を立てていたとしても、授業料免除対象に入れてもらえない。個人的にはこれが一番の問題。「親との折り合い」を判定条件に入れて、不正を見逃さずに、本当に支援必要学生を正しく判別できるのか? できるなら教えてくれ。そしてすぐ実行しろ。もしかしたらすでに改善されているのかもしれないけど。

第5に、留年すると原則対象外になるので、失敗・留年覚悟の挑戦ができなくなる。


他方で、なぜ高卒の人々には支援が行われずに、同じ年齢の大学生に対してのみ支援が行われるべきなのか、私には分からない。日本社会の発展に繋がるから? 勝手に期待して我々の未来を決めないでくれ。

高卒の人が一足先に社会で働いて収めてくれた税金が巡り巡って私の就学を支えていてくれていたこと、しか学歴理由に彼ら彼女らが下に見られること、さら生涯年収に大きな差が生まれることを考えると、勉強ができて大学入学できたというだけで大学生が優遇されていて非常に不公平だと思う。若者支援というくくりで全員に対して支援をやらないとおかしい。

最後、一番言いたかたこと。

結局東大に金がないのが悪いんだから、「貧しい家庭出身でも能力があるなら東大に行ける」、そういう理想を守りたいんなら自分で金を出してくれ。つまりみんな直接東大に寄附すればいいよ。「修学支援事業基金」っていうまさにその目的のための基金もある。

ttps://utf.u-tokyo.ac.jp/project/pjt83

ちなみに税額控除対象政府に回る金を減らして直接自分の思う公益のために金を投下できるすばらしい制度税額控除だ!

理想を実現するためには金がいる。金もさないくせにごちゃごちゃ抜かすな。口だけの偽善者になるな。

6月13日現在の今年度の寄付総額は約130万円、寄付件数は80件だ。

この数字が増えることを楽しみにしている。

地方母子家庭出身の女さんが東大博士号を取るまで

生活保護博士号ニキとか授業料値上げの報道かに触発された。

残念ながら、いわゆる理解のある彼くん要素がある。

長いと思ったら一番最後だけ読んでくれるとうれしい。

東大に入れたのは単純にペーパーテストがめちゃくちゃできたからだが、目指すようになったのは模試の結果を見た高校教師が勧めてくれたことがきっかけ。たぶん高2の春。

それから東大意識するようになって、現国問題で毎回おもしろ文章読めて最高〜、図書館で出典探して著者経歴を見ると東大出身者多いな〜、東大に行けばこういうおもしろい考えにもっと出会えるのかな??ぐらいの浅い動機東大第一志望にし始めた。

金のことはあんまり考えてなかった。

高校私立だったが奨学生として学費は全額免除してもらっていた上に(その条件で入学した)、民間団体が県住民対象でやっていた給付型奨学金支給されていた。

学力も授業だけで問題なかったので予備校に通う必要もなく、教育費はほぼゼロ

大学も同じように学力さえあれば行けるし、貧乏人にはそれ相応の奨学制度があってそれで何とかなると思っていた。だってそうあるべきじゃないか

父親ギャンブルによる借金が原因で離婚し、母親非正規雇用で働き始めていたというのが数年前から我が家の状況だった。養育費もなく、突然働かざるを得なくなった母親は当然ストレスを抱えていた。その捌け口になったのが私。

自分の娘が東大に行けるはずがない、父親似の目つき・言葉存在その全てがとにかくムカつく、おまえもどうせ父親と同じだ、あんたは地頭が悪いからだめ、性根が良くなければ勉強なんてできたってなんにもならない。色んな言葉をぶつけられて、まあ限界でしたわ。

A判定しかない模試の結果を見せ続けてもだめ(ふーん、だから?)、日本学生支援機構の貸与奨学金の話をしてもだめ(あんたも父親と同じで借金踏み倒すんだろ!)、年収400万円以下が対象になる授業料免除の話をしてもだめ(ちゃん免除される保証がどこにあるの!?)、格安学生寮の話をしてもだめ(入れなかったらどうする、女なんだから余計な下宿費がかかる!)。

給付型奨学金地方のしょうもねえ高校全然情報はなく、先生たちも諦めるなぐらいしか言ってくれない。

自分で調べろって? 調べた上で給付型奨学金勘定から外していた。

募集人数がめちゃくちゃ少ないのに、「学業優秀」で「経済的に困難を抱えている」学生自分が「絶対に」該当するなんてどうして言い切れるんだ?

そんな不確かなものを頼みにできるわけがない。


地方、女、貧困が混ざるとこうなる事例としてぜひ参考にしてくれ。

制度存在することと、使えると認識することは違うんだ。うちの場合だけかもしれないけど。


結局「何とかなる」でゴリ押して、受験すること自体同意を得たのは高3の12月浪人なんてできるはずもないので、東大に落ちたらすでに受かっていた防衛大に行くつもりだった。とりあえず家から逃げることが第一目的に変わっていた。その上で大学おもしろそうなことを勉強たかった。そうじゃなきゃ生きている意味がないと思った。

無事に受験できて、合格した。合格たからってごちそうが出たわけでも金一封が出たわけでもなかった。

翌日に大震災。見事に被災して、なーーーーんも調べることもできないまま、ほぼ丸裸で上京した。

大学のこともなんもわからんし、クラスなんそれ、語学ごとに性格あるんだへー、五月祭なんてものがあるのかー、演習ってなんだ?

こんな感じ。臆病な自尊心合格発表前に色々調べておかなかった私も悪い。

ていうかみんな発言ちゃんとしすぎ、英語喋れすぎ、そしておしゃれすぎ。それに対して私は何もかもが終わりすぎ。

慣れない電車通学、週20コマの授業、母親言葉フラッシュバックで病んだ。健康診断の段階で精神科を勧められて受診はしたけど、医師震災サバイバーズ・ギルトですねで終わらせたのもあってその後の通院には結びつかなかった。

毎日何とか自殺先延ばしにして、大学に通い続けた。おもしろ講義を聞いている時だけは生きている感じがした。


そんな感じで大学と寮の往復で友人もできないまま夏学期が終わり、冬学期が終わった。試験対策が高度に制度化されているおかげもあって、単位には困らなかった。ぼっちこそ東大に行け。

2年生になって少しメンタル回復してようやく友人ができた。ようやくふつう大学生に近づけたと思った。3年生のときには友人の繋がりでのちの彼くんとの付き合いも始まった。

優秀かどうかは分からないけれど、友人になったのはみんな良い人たちだったし、私が母子家庭であることを公言していないせいか、友人たちが気を遣ってくれていたおかげか、対等な付き合いができたと思う。劣等感のようなものもそれほど感じなかった。仲良くなったのが都市部出身ゴリゴリ強者ではなく、地方中流〜上流家庭出身者ばかりだったというのも大いにあると思う。父親教授とか銀行員とか(母親は当然専業主婦)、そんなのばっかりだったけど。



仕送りは当然なかった。しかし、授業料全額免除家賃が月1万円程度の学生寮、さらには運良く引っかかった給付型奨学金のおかげで、経済的に困窮することもなかった。自分でも意外なぐらいに何とかなってしまった。

毎年授業料免除のために母親源泉徴収票を手に入れていたのだが、当時の母親年収200万に満たない程度である。たまに母親仕事が嫌になって無職になったり、転職を繰り返したりしていたので、提出書類をそろえるだけでも一苦労だった。

ちなみに震災の影響で提出できなかった書類を改めて提出するために訪れた奨学係で、たまたまリストを渡してもらえたか給付型奨学金に応募できた。



3年生になるとあっという間に就活ですよ。院進も国家公務員試験留学も考えてなかった。そういうのはタフでグローバルなふつう東大生がやるものなので。

自己分析しているとまた病んで眠れなくなった。家と大学図書館の往復の日々を過ごしてきた私に書けることなんてなかった。どうして自分ふつう東大生になれなかったのか。私と彼ら彼女らで何が違ったのか。

考えるのが嫌になって、手持ちのタマが切れた段階で就活をやめた。留年ぼんやり意識し始めて、さてどうしようとなったのが生活費授業料

特に遊びに行くわけでもなく、自炊を続け、節約しまくっていたのと、貸与型・給付型奨学金と細々としたアルバイトのおかげ何とかなりそうな貯金はすでにあった。

しか留年すると、奨学金は止まる上に、いくら世帯年収が低くても授業料免除対象から原則として外される。授業料分までの貯金はなかったし、家に頼ることはできなかった。

結局めちゃくちゃアルバイトをして授業料相当額を稼いで、留年に備えた。



「とりあえず留年」の先に何か目指している進路があるわけではなく、毎日自殺を考えていた。しかし、たまたま履修したゼミに救われて、大学院進学を考え始めた。もっと救われたかった。

成績だけは相変わらず良かったので、無事に合格できた。また、ようやくメンタル問題と向き合う決心がつき、学内カウンセリングに通った。留年した年の学費はこのために支払っていた気がする。

院進後は授業料免除奨学金も復活し、博士課程では生活費研究費付きのプログラム採用してもらえたから何とかなった。



博論書けない無理とふつう院生のように悩んでいたところ、身体を壊してしばらく入院することになった。標準年限の3年で上がれないのが確定したこと生活費のあてがないこと、研究アルバイトを両立させるような体力はないこと、その状況でまた授業料を支払わなくてはならないこと。何度も自殺は考えてきたけど、ついにその時が来たなと思った。

彼くんに頼ることは全く考えていなかった。しかし、結婚し、しか授業料も出すことをあっちから提案してきた。実は親戚に博士号持ちが多く、本人もかなり稼いでいたこと。これが「博士号取得にやたら理解のある彼くん」の背景にあった。

それまでは割り勘だったしお互いの家の話もロクにしていなかったので、そこそこお坊ちゃんであったことに驚くとともに、これが東大生の家庭なのかと惨めな気持ちになった。

しかし、自分人生にここまで賭けてくれる人がいるという事実は単純に嬉しかった。自分の救いのためだけではなく、応援してくれる彼のためにもさっさと博論を仕上げようと奮起し、かなり短期間で博論を仕上げて博士号を取った。


これがいかにして地方母子家庭出身の女が東大博士号を取ったかだ。要するに学力幸運に恵まれていたから。

高校民間公益財団法人東大の奨学制度博士課程学生向けプログラム、そのすべてに感謝している。うまくやれてる限りにおいて、選ばれる限りにおいて、多くを望まない限りにおいて、意外なほどに制度は充実しているというのが一当事者感想



まれながらに貧困だったわけではなく、しばらくはそれなりの生活を送り、両親もそろっていたので、ガチ不利層というわけではない。だから代表者ヅラする気はない。あくまで一つのケースとして見てもらうのがよい。また、学力自体最初から備わっていた。だから学力格差と関連する機会の平等の話ではない。

学力があっても受験自体が危うかったこと、経済的に一度でも詰んでいればそこで諦めていたであろうことが私がお伝えしたかった点である。詰まなかったのは単なる偶然。



博士課程の最後一年ふつう東大生が過ごしてきた環境なんだろうなとも思う。教育のために金を惜しまず、授業料を払い、衣食住が保障されて、何よりも心から応援してもらえる。率直にずるい。それなりにプレッシャーはあるし、生活保障されていても勉強研究が大変なのは分かったけど、でもずるい。

もちろん、そうじゃない人たちもたくさんいた。授業料免除申請の大行列、寮の住人たち、親との折り合いが悪く仕送りもないのに授業料免除から奨学金から対象外にされて私なんぞよりよっぽど厳しい経済状態にあった知人たち。彼ら彼女らと連帯することはなかったけれど、どうにかそれなりの人生を歩んでいることを願ってやまない。




授業料の値上げの必要性は理解している。国立大学法人改革はクソ。競争資金はクソ。

しかし、値上げの代わりに経済的に困難を抱えた層への支援を充実させる案には、次の5点の問題があることから反対の立場だ。むしろ授業料免除制度なんていらないくらいに、学生アルバイトで賄える範囲授業料を下げるべきだとさえ思う。

第1に、書類準備の手間。住民票、源泉徴収票アルバイト先・RA先生に書いてもらう収入関係書類、とにかく書類が多い。家族に提出をお願いする書類も多い。私の母親書類に関しては協力的であり、私自身の事務処理能力もそこまで低くないので何とかなったが、自分家族書類準備能力が不足している場合、あるいは家族が非協力的な場合、容易に詰む。しちめんどくさい書類を準備させる手間を経済的困難層に課すことは正しいことなのか? その手間を背負わされる学生たちを増やすことは正しいことなのか?

第2に、スティグマ。本当に困っている人の授業料免除されるならいいけどという言説はキャンパス内にも普通に存在した。生活保護と同じようなもので、授業料免除されているということは「恥ずかしい」。払えるものなら、こっちだってすばらしい授業と指導の対価として気前よく授業料を払いたかった。

第3に、高い授業料を払う層と授業料免除される層の発生による、「合格さえすれば平等であり対等なコミュニティの仲間である」という虚構崩壊

第4に、親との折り合いの悪い人々が制度狭間に陥る。学部生の場合独立生計を認められるハードルはめちゃめちゃ高かった。つまりたとえ親から仕送りが全く存在せず、世帯から恩恵を全く受けずに自分アルバイト等のみで生計を立てていたとしても、授業料免除対象に入れてもらえない。個人的にはこれが一番の問題。「親との折り合い」を判定条件に入れて、不正を見逃さずに、本当に支援必要学生を正しく判別できるのか? できるなら教えてくれ。そしてすぐ実行しろ。もしかしたらすでに改善されているのかもしれないけど。

第5に、留年すると原則対象外になるので、失敗・留年覚悟の挑戦ができなくなる。



他方で、なぜ高卒の人々には支援が行われずに、同じ年齢の大学生に対してのみ支援が行われるべきなのか、私には分からない。日本社会の発展に繋がるから? 勝手に期待して我々の未来を決めないでくれ。

高卒の人が一足先に社会で働いて収めてくれた税金が巡り巡って私の就学を支えていてくれていたこと、しか学歴理由に彼ら彼女らが下に見られること、さら生涯年収に大きな差が生まれることを考えると、勉強ができて大学入学できたというだけで大学生が優遇されていて非常に不公平だと思う。若者支援というくくりで全員に対して支援をやらないとおかしい。


最後、一番言いたかたこと。

結局東大に金がないのが悪いんだから、「貧しい家庭出身でも能力があるなら東大に行ける」、そういう理想を守りたいんなら自分で金を出してくれ。つまりみんな直接東大に寄附すればいいよ。「修学支援事業基金」っていうまさにその目的のための基金もある。

ttps://utf.u-tokyo.ac.jp/project/pjt83

ちなみに税額控除対象政府に回る金を減らして直接自分の思う公益のために金を投下できるすばらしい制度税額控除だ!

理想を実現するためには金がいる。金もさないくせにごちゃごちゃ抜かすな。口だけの偽善者になるな。

6月13日現在の今年度の寄付総額は約130万円、寄付件数は80件だ。

この数字が増えることを楽しみにしている。

    2006スロベニア大会の第3問は問題自体東大でも20年前から扱われてきた最大値を求める問題だが、核心は、a≦b≦cの対称性を飛躍的に利用するという点にあり、

  これの対称性が保存されているから全体が成功する。 2b=a+cの条件を満たすように、 2つの不等式を抜き出すといいということで、完全無欠なようにやる

    東大二次試験に出せるくらいの内容の問題、  平成4年ごろに似たような問題が出ているが、 スロベニア大会問題は、対称性に関する特段のアイデア必要とするもの

  なるべくしてそうなるというんですか

     模範解答を考えて書いたのは宮岡洋一先生であるというが、本当かどうか分からない。 

   宮岡洋一が何で出来ないか自分で考えてできるとは思わないかである。  完全無欠な式変形をするテクニック必要っていうか、結局、東大理3者もできないわけだから

  東大の後期試験で、才能をみるとかいって、この種の特待試験実施されたこともありません。 だからなんっていえばいいのかね、斎藤秀司とかも、つまらないわけよ。なんでかって、何で一番

 エレガントな技術必要とする数学問題をそんなに執拗に扱わないのか。 超対称性、完全補題パスカル定理、これらを答案を書くときに出すというのは魅力です。

  その一番面白い奴を扱わないか平成受験数学はつまらないんだよ。

2024-06-12

花海佑芽が苦手

私は花海咲季が好きで、最近ちょっとずつプロデュースしている。他の子を先に進めていたので、まだ親愛度8でトゥルーエンドだって行けていないけど、努力家で自信があって勝ち気な彼女のことが好きだった。

咲季をプロデュースするにあたって、切っても切れないのが佑芽の存在だ。

ストーリーではずっと言及されるし、最終試験では恐ろしいほど追いかけてきて一位をかっさらう。全く勝てなくて、本当に怖い。

正直、前からずっと咲季と佑芽にそこまで能力の違いがあるのかと疑問に思っている。ビジュアルは好みが分かれるので置いておくとして、最近追加されたライブも歌も、佑芽がずば抜けているとは思えない。

運営の都合であるキャラクター持ち上げられることがあるのはわかっているけど、どうしてもそんなにパラメーターに差があることが納得できない。

元々主人公ライバル立場が逆だったのはよく聞く話だが、もし初期設定のまま進んでいたら咲季はもっと強かったのだろうか?

いや、きっと佑芽は主人公補正でどんどん姉を追い抜いていく。

じゃあ咲季の存在はなんなんだろう。面白そうだからという理由ライバルポジから主人公ポジになったキャラクター、そんな風に見えて可哀想でならない。これ以上プロデュースするのがつらい。

自分が一番になりたいのに、全てにおいて妹が真似してきて勝ちにくる。

私の妹もそうだったから、自分気持ちが入り込んでしまう。勝手自己投影して、勝手に落ち込んでいる。

勝ちたい。妹に失望されたくない。お姉ちゃんであり続けたい。そのためには献身的サポートをやめればいいのに、そんなことはできない。お姉ちゃんから

佑芽はこれから一生、どんなことも、なにがあろうと全てを真似して追いかけてくる。

自分能力客観視できず、姉が一番だと思い込んで全力でぶつかってくる。怖い。私はそんな彼女のことを好きになれない。

からといってここでプロデュースをやめるのは咲季に失礼なので、トゥルーまでは行こうと思う。

何を書いているのかわからなくなってしまったけど、学マスはこういった自分価値観とのズレが多くて、そのうち私はいらないユーザーになるんだと思う。

anond:20240612121835

おれのかんがえたさいきょうの試験は、お前らの試験上位互換

とか言われてもダメものダメです

勝手試験内容を変更したら、それは別の試験です

anond:20240612105934

寿司を握れるということは弱者男性じゃないじゃん

 

弱者男性寿司作らせたら、ハンター試験クラピカみたいなやつ出してくるよ

2024-06-11

基準を明示できない時点で詭弁かつ大ホラ吹きでしょ

自動車メーカー不正試験の件で、メーカー側はより条件が厳しい試験をしてて国交省側が融通が利かないみたいなアホみたいな自動車評論家(笑)記事あったけど、メーカー側が別基準を明示できない時点でアウトでしょ。

いわばメーカー側は、国交省が定める基準より良い基準を使ってるという主張なわけだが、そこを明確にできない時点で、ルールを守る気ない大ホラ吹きである

仮に、厳しい基準を使ってるのが本当だと仮定して、国交省が定める基準ラインクリアした車種の集合をAとする。厳しい基準が本当なら、そこでクリアされたものは部分集合A'に必ず含まれる。これは数値基準を厳しくても、検査項目を増やす場合でも同様である。このA’はAに含まれるので何も問題はない。

だが、実際には国交省がブチギレている。つまり、Aに含まれるようなA'にはなっていないというだけで、厳しい基準にしていたというのが大嘘なのである

そもそも国交省も暇ではないので、基準クリアしているものにわざわざ難癖つける必要がないのである

結局株価下げたくない自動車メーカーの怠慢かつ言い訳である

こいつを成人扱いしていいのだろうかって人が本当にたくさんいるよなぁ

試験判別しろ!!って思うけど

その試験自体がめちゃめちゃ政治色強い物になりそうで怖いよね

   直角三角形4つを持ってくると回転対称性があるし、そういうときは、簡潔な正方形の部分が従う、という実質的ものから超対称性簡単に分かるものではない。

   大体ろくに研究されていない技術であるし、不変量変換があるときは出て来ると信じられているだけで、超対称性は、実質的には、定理発見にも等しい精神作用であるから

   高等学校では、うまくやると、消えてもらわないと困る変数スパスパ消えるのはセンター試験でもたまに話題となるが、超対称性や有名定理の登場による証明、といったことは

   大学入試センター試験でも東大京大二次試験でも、扱われた例が過去にない。

2024-06-10

anond:20240610212943

子曰く、「彼を知り己を知れば百戦不殆、彼を知らず己を知れば一勝一負、彼を知らず己を知らざれば戦う毎に必ず殆し」。増田あなたがその臨時職員の将来を真剣に考えるのであれば、まず彼女意向事情理解することが不可欠です。

あなた情熱賞賛されるべきですが、彼女立場や考えを尊重しなければなりません。それを理解せずに一方通行で説得しようとすれば、反発を招く恐れがあります。まず冷静に彼女本音を聞く時間を設けてみてください。

例えば、次のようにアプローチするのはいかがでしょうか:

貴方能力努力を存分に評価している。しかし、貴方気持ちや考えも知りたい。どうして正規職員採用試験を受けたくないのか、その背景や理由を教えていただけませんか?」

これは、彼女意思尊重しながらも、本音を引き出すための良い方法です。彼女が何を考え、何に不安を感じているのかを理解した上で、解決策を探るべきです。

「進むべき道を見定めることこそが、勝利への第一である」という孫子戦略に従い、まずは情報収集理解を深めてください。それに基づいて次の行動を考えることが、最善の結果につながるでしょう。

正規職員採用試験を受けてほしい

6/11追記です

コメント、皆さまありがとうございました。

実に惜しいのですが、今年はあと1回だけお誘いして、それでだめなら正規職員への勧誘をやめることにします。

ほかの市町村でもそうだと思うのですが、臨時職員場合所属からの(まともな中味の)推薦状があれば、筆記試験面接試験も、ほぼ自動的に通過するようになっています

そのあたりも踏まえて、もう一度だけ説得をしてみますあなたは受けても、不合格になることはないんだよって、もちろん遠まわしに伝えて、やってみます……。たぶん、彼女もそれが不安なんだと思いますので。

皆さま、重ねがさね、誠にありがとうございました。

_____________________________________________________

ちょっと相談してみたい。以前にも、この増田ダイアリー?で質問をして解決したことがある。

私の立場だけど、地方市役所で、管理職ではないけどそれに準ずるポジションにある。

タイトルだけど、今の職場に優秀な臨時職員会計年度任用職員)の人がいる。

の子20代半ばで、民間企業を辞めてから、うちの市の臨時職員採用試験合格した。

すごく優秀な子で、事務企画イベント・式典の運営も、何でもできる。今うちの部署にいる20代正規職員まで含めても、仕事の腕前は一番である。それもダントツで。

ある大事協議では、副市長市長がいる部屋に一緒に入って、彼女意見を発表したこともある。そのあたりの実力は、当の私も、今いる生涯学習部署責任者の人も認めている。

今年のGW明けだった。

私と課長ふたりでその子を呼んで、話し合いの場をセットした。

こんなことを伝えてみた。

あなたは大変優れている

・みんなあなた感謝している。頼りがいがある

・今年度の正規職員採用試験を受けてほしい。課長部長も推薦状を書く。人事にも話はしてある

でも、その子は首を縦に振らなかった。どんな理由があるのか気になったけど、それも教えてくれず……。

でも、あの子の将来のことを思えば、不安定な臨時職員よりも、正規職員の方がいいと思う。

今後のキャリアや、結婚出産のことを考えてもそうだ。その方が絶対にいい。



申し訳ないけど、増田の人に相談させてほしい。力を借りたい。

の子にどのようにしてアプローチをすればいいのだろうか。

私は至って本気である。こんな逸材はほかにいない。何としても正規職員になってほしい。

もう一度断られると、意思を固めてしまいそうで、気が気でない。

風邪をひいたら休め

 ここに、「ニンゲン風邪をひいたら、休め」という規範を示す。

 本稿は、右規範に対して懐疑的なニンゲンを説得するために執筆されたものである。具体的には、下記のニンゲンが本稿のターゲットである。心当たりのある者は、ぜひ熟読せよ。

・「この程度の風邪なら大丈夫」と考え、外出をしたことがある

・「風邪程度で休むのは甘えである」と考えることがある

風邪をひいても休まないニンゲンがいる理由はなぜか?

 風邪をひいたら休めという規範は、①パターナリズムと②蔓延防止という二つの論拠から成る風邪治癒に専念することで、①疫病が悪化する可能性が低くなり、結果として本人のためになる。そして、②伝染病蔓延を防止することができる。

 以上より、右規範合理性があることが明らかである

 ところが、しばしば右規範は破られる。風邪をひいても会社学校へ行くニンゲンと、これを良しとする第三者が後を絶たない。なんとも嘆かわしい。かかる者は如何にして規範を逸脱するのだろうか。

 私は、その理由につき、当該ニンゲンが①パターナリズムのみを重視してしまった結果であると考える。彼らは、「風邪をひいたら休まなくてはならない」という規範趣旨を、もっぱら「私が大変な思いをするからだ」と捉えてしまう。よって、「私は病状悪化という結果を許容しているから、右規範趣旨(本人のために休むべき)が及ばない。ゆえに休まなくてもよい」と結論づけてしまうのである

 しかし、かかる見解妥当ではない。パターナリズムはむろん重要であるが、②蔓延防止の意義を殊更に強調しなくてはならない。

 以下、敷衍する。

★「人を傷つけてはならない」という規範

 なぜ、風邪をひいた場合に、②蔓延防止のために休む必要があるのか。

 まず、「人を傷つけてはならない」という規範は、ハンムラビ法典でも傷害行為禁止されているように、紀元前時代から常識である。これは、現代社会においても、傷害罪(刑法204条)が国民構成要件として配布していることからも明らかである

 そして、風邪をひいた状態で外出をして、特に会社学校等の多数人が集まる室内で過ごせば、自らの病を伝染させることにより、他者生理的機能障害傷害)を与えることで、人を傷つける蓋然性が具体的明らかに予見される。

 したがって、風邪にもかかわらず、休まなかったことで、「人を傷つけてはならない」という規範を乗り越えてしまうことになる。

 よって、他者を傷つけないために、風邪をひいた人間は休養することで蔓延防止に努めるべきなのである

もっとも、休めないときもあるのではないか判断枠組み

 そうであるとしても、いかなる場合にも「風邪をひいたら、休め」という規範適用するのは妥当ではない。風邪自覚症状が無い場合や、どうしても外せない急用がある場合もあるだろう。いか判断するべきか。

パターン1 自覚症状なし

 まず、自らの病状につき善意無知である場合について、いかに解するべきか。

 故意責任本質は、反規範人格態度に対する道義的非難である

 すなわち、自分風邪であり、もしかしたら他人に伝染させてしまうかもしれないという点につき、認識・認容していれば、「他人を傷つけてはならない」という規範に対しての反対動機形成しているものといえる。しかるに、敢えてこれを逸脱したのだから、かかる行為道義的非難に値する。

 よって、自分風邪である認知していたのであれば、休養に努めるべきであるのが原則である

 逆に、自分風邪であると知らなかったのであれば、そもそも「休むべきである」という規範に直面しておらず、反対動機形成できないため、道義的非難に値しない。実際に、潜伏期間存在するウイルスは多いことからも、このような結論妥当である

 以上より、自らの病状につき善意無知である場合には、休まなくてもやむを得ないものといえる。

パターン2 風邪体調不良判断できない場合

 風邪体調不良判断が難しい場合は、いかに解するべきか。

 なお、ここでいう「体調不良」とは、月経片頭痛食中毒などの伝染病以外で身体異常をきたしている場合を指す。

 この点、蔓延防止以前に、そもそもパターナリズム観点からは、風邪体調不良判断できない場合にも休養した方が良いといえる。ゆえに、原則として外出するべきではない。

 しかし、単なる体調不良であれば、他者生命身体侵害することはない。よって、自身が体調悪化につき許容しているのであれば、単なる自由意思範疇にあるといえるから、これを非難される筋合いは薄い。

 したがって、伝染病であるという相当の蓋然性がある場合には、「風邪をひいたら休むべきである」という規範に服するべきである。右判断にあたっては、当人の体温、病状、体質、病歴、自覚症状、過去の行動等を総合勘案して判断する。

 具体的には、下記の事情伝染病である蓋然性を高める。

 ・平熱と比して体温が高い

 ・前日に気怠さがあった

 ・雨にうたれた

 ・知人が熱を出した

 反対に、下記の事情伝染病である蓋然性を低める。

 ・病状が軽微である

 ・月経片頭痛など伝染病以外の体調悪化事情がある

 ・病院伝染病ではないという診察を受けた

 たとえば、体温が37.5℃以上であり、前日から続く気怠さ・咳があるものの、月経による体調不良かもしれないといった場合を想定してみよう。この場合、たしか月経という事情伝染病のおそれを低めるものであるが、咳と月経無関係であり、37.5℃以上という体温は、一般風邪判断されるべきものである

 よって、伝染病である相当の蓋然性が認められるだろう。

 なお、より強度な「明らかに伝染病ではない場合にのみ、休まなくても良い」という判断枠組みも考えられる。筆者は、単なる体調不良場合自由意思尊重するべきであるから、緩い判断枠組みが妥当すると考えたため、かかる見解採用しなかった。

パターン3 どうしても外せない用事等がある場合

 では、自らの風邪自覚症状があり、明らかに伝染病であるものの、どう しても外せない急用等がある場合には、いかに解するべきか。

 この場合、どうしても外せない急用等に参加したいという時点で、パターナリズムは克服されているため、第三者への傷害の有無で判断するべきである(病状悪化をしてでも〇〇がしたいという者に対して、貴方身体のために辞めなさいというのは余計なお世話である)。

 そして、第三者に病を伝染させてでも、自分がやりたいことを行うというのは、結局のところはエゴイズムである冠婚葬祭親族危篤会社学校への出席などは、「自分が行きたいから行く」のであり、エゴイズム第三者身体生命侵害正当化する場面は限定的であるべきである

 これに対して、出席せねば評価が悪くなるため、「行きたいから行く」のではない;やむを得ず風邪をひいてでも外出しなくてはならないのである等の反論が想定されるが、妥当ではない。結局、評価悪化を避けるというのも利己的な目的であり、原則として、そのために伝染病をばら撒いて第三者侵害を行うべきではないいう形式は変動しないためである

 では、いかなる判断枠組みが妥当するか。

 第三者身体生命は、きわめて重要法益であるから、「どうしても外せない用事」との比較衡量で決するべきである。具体的には、用事重要性・症状を鑑みて、第三者身体生命に対する侵害のおそれを惹起してでも、当該「用事」を優先するべきである判断できる場合にのみ、風邪をひいても休まなくても良いものと解する。

 たとえば、冠婚葬祭親族危篤などは、この機会を逃してしまえば二度と立ち会えないイベントであり、用事重要性は高いものといえる。

 もっとも、当人が伝染させればきわめて身体生命への侵害性が高いといえる伝染病を患っている場合は、この限りではない。具体的には、インフルエンザ新型コロナウイルスノロウイルス等の強い感染力・症状を有するものは、真にやむにやまれ事情存在しない限りは、外出するべきではない。

 そして、会社学校への出席は、上記用事と比して、重要度が低いと言わざるを得ない。成績に重大な影響を及ぼす発表や試験等が存在しないかぎりは、外出を行うべきではない。

 そもそも、出席が必要不可欠でない限りは、リモート等の手段を講ずるべきであり、あくまでも「風邪をひいたら休むべきである」という規範を乗り越え、外出を行うという選択肢は、最終手段として留保されるべきである。よって、リモート等の手段を採ることができたのにもかかわらず、他者への傷害惹起する外出を選択するということは、あってはならないのである

★まとめ

 以上より、風邪をひいたら、本人のために休むべきであるのはもちろん、「他者を傷つけてはならない」のであるから、「ニンゲン風邪をひいたら、休め」という合理的規範が成立し、ニンゲン原則として右規範を遵守しなくてはならないということが示せたはずである

 規範限界については、判断枠組みを明確に提示した。

 その他、想定される反論について、下記にまとめる。異論や質疑等があれば、気軽にコメントしてほしい。

★その他、想定される反論質問

・明らかに体調不良ではなく伝染病であるものの、風邪が軽微である場合は?

 症状が軽微であっても、他者に伝染させる可能性がある。そして、乳幼児後期高齢者を想定すれば明らかであるように、自分が軽微な症状であるからといって、第三者もそうであるとは限らない。したがって、伝染によって他社の身体生命侵害を及ぼすという点では、原則として「風邪をひいたら、休め」という規範に従うべきである

 もっとも、上記パターン3の判断時に、症状の軽重は重要考慮要素となりうる。

風邪をひいた状態で出席することに対して、全員の合意がある場合は?

 友人の集まり会社等で、自己風邪を患った状態で出席することにつき、コンセンサスを得ている場合には、伝染による傷害結果の発生につき同意がある以上は、「風邪をひいたら休むべきである」という規範妥当しないのではないか?という反論が考えられる。

 しかし、風邪につき合意した者(合意者)のみと交流することは実際上は困難である。例えば、公共交通機関を用いるのであれば、不特定多数人に感染リスクがあり、伝染による傷害惹起する可能性があるだろう。

 そして、合意者がさら第三者に伝染を及ぼす可能性がある以上は、②蔓延防止の観点からこれを許容するのは妥当ではない。

・病弱なニンゲンにとって、毎回「風邪をひいたら休む」という規範に従うのは難しいのでは?

 たしかに、病弱なニンゲンは休む機会が増えてしまうため、会社学校での評価に悪影響を及ぼすこともありうるだろう。

 しかし、病弱な者は他人を傷つけても良いと考える者はいない。そして、伝染病頒布他人傷害する行為であるから、伝染によって他人傷害してしまうことにつき認識・認容があれば、道義的非難に値することには変わりない。

 また、結局のところ、評価の変動といった事情は先述したように利己的・個人的理由であるからエゴイズム第三者生命身体侵害するという場面は限定されるべきであるという当為規範が変動することもない。

 したがって、上記で示した判断枠組みが変動することはない。

以上

2024-06-09

NetflixRoOT / ルート オブ オッドタクシー

・「最後まで見るかわからないっスね〜

そもそもこのドラマ自体面白いのかアニメ

違う視点追体験するとか

三次元落とし込み解釈を楽しむ二次創作的な楽しさ?」とか

偉そうに思っていたが最後まで観させて頂いた 良さに屈した

・こんなにお金かけられた二次創作みるの初めて

最初は「あのモグラがこんなイケメンに?水原希子フォロワーみたいな

ワンレン髪型サバサバ女子苦手だわ〜」と思ってたけど

途中ちょい過ぎたあたりから見慣れたら気にならなくなった

アニメ実写化した時の俳優さんが声優さん

キャラ発声声真似するの大好き

みんなアニメに寄せててすごかった

和田垣氏と市村タソの発声特にアニメに近くてすごかった

小戸川さんの声もアニメと声質がちょっと違うかも…と思ったけど

喋り方とか見た目もあって慣れるとアニメと同じじゃん!ってなった

ビジュアル三次元落とし込み解釈からが強すぎる

関口さんが関口さん…

山本さんのニュース映像写真のこういう人いる感凄まじくてプロってすごいってなった

ドブさんは若干イケメンすぎない?ってなったけど慣れた

呑楽さんも思ったより少し線が細めというかもう少し粗雑というか

太々しそうなイメージあったけど落語家さんってこういう見た目と雰囲気の人が多いもんなと納得させた

・え?男の娘

最終話アニメエンディングストーリー補完パートは若干雑?って思ったけど

映画総集編時点で垣花さん表彰されてたしアニメ的にも正史なのかな…と思った

和田垣氏のメンタル比較理屈的には理解できる アニメ理解が難しい無邪気なヤバいキャラって感じだったか

・三ツ矢さん、「できすぎて嫌われる」が多すぎるしあの最期だし

悲しき宿命(さだめ)すぎる…

多分幼少期からそんな感じっぽい感すごい

・毎回op曲の入りがオサレ過ぎてよくもまあこんなにネタ切れせず

カッコいいアイデアをお出しできるんや…ってなった

ほんまopカッコ良…

レナさん、お金に余裕なさそうな生い立ちの割に毎回滅茶苦茶オシャレな服きとんな…

最後試験の時の白い服とか多分二桁万円行きそうなデザイナー渾身の服感あるぞ…





とりあえず1週間スマホやめてみる

増田は26歳の社会人仕事はゆるくて暇な時間多いし携帯いじってても問題ない仕事場。部署変わって業務が減り仕事中にやることな時間が増えてスマホいじってたらスマホ指で腱鞘炎なったので、とりあえず1週間脱スマホしてみる。

1週間後に結果報告するので、増田スマホ中毒について語っておく。

増田中学生の頃から親のタブレット2chまとめサイトをよく閲覧しててキニ速もみあげチャーシューを見るのが習慣になっている。大学生になってスマホをもらってからそれに拍車がかかって更にTwitterも始めたことでますますスマホ依存症。更新される記事ツイートから得られるドパミン中毒になっている。

年に何度かまとめサイト閲覧やTwitterやめようとして1週間成功したりしなかったりを繰り返している。大学試験前とかは脱スマホできてた。ちょっと前に流行ったスマホ脳やドパミン中毒って本とかも読んだりした。読んだ直後は脱スマホ成功するんだけど、1週間成功したしちょっと解除しよってなるともと通りになる。

今回は前とは違ってはてなレビューすることを目的とした脱スマホにしてみる。

この1週間はまとめサイトTwitter絶対に閲覧しない。youtubeも観ない。スマホ触る時間は19〜23時にする。使用して良いのはオナニーの時のエロサイト閲覧のみとする。調べ物とかは緊急じゃなかったらメモして決めた時間でやるようにする。仕事で暇な時は暇だなーと思うのみにする。あとベッドで寝ながらのスマホ絶対にしない。必ず座ってする。

1週間後、どうだったかレビューするのでよろしく

2024-06-08

anond:20240608122942

そういうの教育するのが家庭科なんだけどな。

家庭科入社試験にいれろとか派遣採用の時にやれとかは常々思う。

横浜トリエンナーレへの批判を読んで(前半)


文字数制限にかかるようなので、前後に分けて挙げます。)


前置き


第8回横浜トリエンナーレ野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのとき感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています


今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやか感想を述べたに過ぎない」と述懐しています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。魯迅感想短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想もつならば、それで満足です。


人は物事に触れて感想を持つものだと思いますSNS批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というもの自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。


野草』と「文の国」


今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います


今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成るものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的もの追憶的なもの観念的なもの象徴的なもの風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特雰囲気をもった作品集です。


これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります


そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味キュレーター解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレット文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」


しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論余地がありえますが、言葉芸術距離がそう遠いものでないことは確かです。


さらテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきますキュレーター中国出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文文字芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。


作品との対話


いっぽう、日本一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭ものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたか展覧会からあなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。


では、「芸術アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から芸術アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいもの芸術なのか?」とか「言語表現芸術無関係か?」といった問題ゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。


鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります批判ひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要展覧会であったと言えるのでしょう。


友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉時代なのでしょう。考えずして何が現代芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日ちょっと芸術に触れてみよう、子ども芸術に触れさせてみよう、デート美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」


しかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。


私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います


過去トリエンナーレ


ここで、ちょっと過去トリエンナーレを振り返りたいと思います


私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています


2014年の第5回「華氏451芸術世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家芸術家がいか体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治であるという意識が出てきていたためかもしれません。


2017年の第6回「島と星座ガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権さなかにあって、政治右傾化懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)


2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続


きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います


いわゆる「政治性」


今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術政治であることの何が問題なのかとか、政治生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーター中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。


しかに、今回の展覧会ではヨーロッパ戦争に関連する展示や国粋主義者移民反対デモ映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつ世界見立てて、このような出来事遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます


そのデモ映像ひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別デモが行われていますヘイトクライム危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。


思い返せば2014年2017年はかなり「政治的」な展示があったと思いますしかし今回、キュレーター日本問題ひとつも指摘しませんでした。日本美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれ事件もそう遠い昔のことではありません。日本美術表現自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっと自由表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパ安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります


しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品なかに普遍性見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。


ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会なかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅木版画という簡易で複製可能芸術を通じて、民衆文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争撮影した写真が展示されていたのは、芸術政治問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います


(後編へ続きます。)

https://anond.hatelabo.jp/20240608093350


2024-06-07

免許の教習で酷い目に遭った

今でも怒りでイライラして仕方がない。


教習中、私はちゃんと止まるつもりだったのに、それを無視して教官勝手ブレーキを踏まれた。

そもそも悪いのは前の駐車したトラックで、私はそのトラックのせいで信号機が見えなかっただけなんだけど

「あっ!」って気付いた瞬間踏もうとしたら、同時に教官ブレーキを踏んで試験終了。

そのまま最後まで走らずに戻ることになってしまった。


多分、教官側はわざと一回は失格にさせているんだろうね。

運転が上手い友人も必ず一回は失格にさせられていたと口を揃えていっていたし。

私が調べた限り自動車教習所の平均年収は300万に満たないみたい。

ブレーキを踏んで私を再試験に持ちこめば給与が増えるという仕組みとかあるのかもしれない。


お金を払っているのだから、せめて最後まで試験をして

その内容で免許を与えるかどうか判断するようにして欲しい。

こっちだって安くないお金払っているんだから

しないなら、金を返せ。もしくは減額しろ。真面目にそう思う。


トラックナンバーは覚えたか違反通報してやりたい…

2024-06-06

両親がアスペ子供時代地獄

仕事だけはそれなりだから他人にはちゃんとした人だと思われてる。

両親はアスペ同士なので気が合って仲が良い。

でも子供は話が通じないので最悪。

小さい頃は、学校の準備なんかがわからないのに親に何も手伝って貰えない。

それなのに親は外面が良いから、すべて俺が不注意なせいにされる。

小遣いはなんやかやと理屈をつけてない。

必要ものは言えば買うから」と言うが、必要ときに親が家に居たためしがない。

勉強ができないと人間以下のように扱うくせに、「勉強自分がしたいからするもの」とか言って試験勉強否定する。

高学歴の高給専門職なのに、進学のアドバイス就職アドバイスもまるで役に立たない。

そのくせ「太っていると海外では仕事ができないと言われる。うちでは採用しない」と意味不明な脅しだけはかけてくる。

ちなみに顔が丸い程度で腹も出てないし、太ってるというほど太ってはいない。(当時。今はもっと痩せてる。拒食ぎみになったため)

 

それで本人は、子供のために凄くいっしょうけんめいいろいろやってやったと思ってる。

意味がわからなくて泣けてくる。

孤児に生まれた方がましなほどのクソ親って本当にいるものなんだよ。

東大文系試験架空保険重要事項説明書ソフトウェア利用規約などが出題される場合

官僚を目指す人には簡単地方の人はなんとか頑張って読むでしょうね

anond:20240605213619

試験にその問題が出たという事は天国がどのようなところなのか授業で習っているはずなのに覚えていなかったという事で減点なんだろう

試験感想文ではなく学習度の点検から

anond:20240605213619

試験の前に授業があっただろうに。

その授業で「雨が降り続いて作物が出来ずに死んだ信心の篤い男の話と天国の天気のこと」が説明されたはず。

2024-06-05

雨が降らず作物が駄目になり死んだ男がいた

昔、神学学校に通っていた。

そのとき試験にこのような問題が出た。

雨が降らず作物が駄目になり死んだ男がいた。彼は善行を積んでいたので天国に行き、天国の天気はどのようなものであったか

俺は散々迷った末に"雨"と書いた。

だって、これで晴れだったらあまりに酷いじゃないか

結果は不正解だった。俺は納得できず、職員室に駆け込むと先生に尋ねた。

すると先生淡々と答えた。「天国に天気は存在しない」と。

ショックだった。それはまやかしで、単なるおためごかしに思えたのだ。

俺は学校中退し、普通科に移った。

絶対的に神を信じられなくなったわけじゃない。ただ思春期特有の潔癖さがあったのだと今にして思う。それでも天国の天気は雨であるべきだと、今でも思っている。

学マス初めた頃はA+どころかAも絶対無理だと思ってた

でもね、やってるうちにドンドン簡単になってくの。

Pレベルをあげる→強いカードが出るようになる

親愛度をあげる→試験補正が入るようになる(≒試験で使わないからレッスンでPドリンクばんばん使ってもよくなる)

メモリーが強くなる→最初から強いカード使える

本当にドンドン有利になるよね。

スレスパだとカードレリックが増えてもコンボが組みにくくなるから一長一短だったけど、学マスの場合は増えるカードの大部分が初期カードより強いかレベルが上がるほどガン有利。

しかメモリーで強カードを確保した状態からスタート出来るんだから凄いよね。

たとえばスレスパで「バリケード」「塹壕」「ボディスラム」「不動」を最初から持った状態スタート出来たらヤバイでしょ?

学マスはそれが出来ちゃうの。

もうね意味からないよね。

しかキャラカードスタートレリックも選べるからね。

ヤバイね。

そんで一度TRUE見たら最終ステに補正入るし、親愛度を上げる段階で試験は楽になるしカード再選出回数も増えるし、ほんまヤバイでしょ。

ローグライクって基本的にやればやるほどアセンションがあがって難しくなるけど、学マスは違う。

やるほどに簡単になる。

あゆーてチョコボの不思議なダンジョンみたいなやればやるほどドンドンヌルくなるローグライクは昔からあったと言えばそうかもね。

でもなんとなく最近はやるほどにムズくなるゲーム流行っててさ、特にスレスパクローンカード増えるほど闇鍋になってコンボ狙えないかアドリブ解決するしかなくなってくのが、学マスはコンボのしやすさがドンドン加速するわけだから認識バグるね。

マジでさ、ここまでゲーム難易度が下がっていくなんて思わんかったんよマジでさ。

まあA+いつかは見れる仕組みじゃないとしんどすぎるのは本当にそうだと思う。

あんまりムズい課金圧になりすぎるし、緩和されるまで放置する人とかも増えそうだもんね。

まあ逆に皆クリア出来ちゃったらやることなくなる問題はある気がするけど。

たとえばウマ娘ハルウララの隠しイベみたいのがあったからどこかでやり続けてた人とかもいると思うわけよ。

それが案外簡単に見れたらさ、ね?

あゆーて1年して環境めっちゃ緩和してから見てもなーって気はするから学マスぐらいがいいのかね。

I.GPT-4からAGIへ:OOMを数える (3)

ディープラーニングトレンド

過去10年間のディープラーニング進歩のペースは、まさに驚異的だった。ほんの10年前、ディープラーニングシステムが単純な画像識別することは革命的だった。今日、我々は斬新でこれまで以上に難しいテストを考え出そうとし続けているが、新しいベンチマークはどれもすぐにクラックされてしまう。以前は広く使われているベンチマーククラックするのに数十年かかっていたが、今ではほんの数カ月に感じられる。

https://situational-awareness.ai/wp-content/uploads/2024/06/owid-test-scores-1024x723.png

ディープラーニングシステムは、多くの領域で急速に人間レベルに達し、あるいはそれを超えつつある。グラフィック データで見る我々の世界


私たち文字通りベンチマークを使い果たしている。 逸話として、友人のダンコリンが数年前、2020年にMMLUというベンチマークを作った。彼らは、高校生大学生が受ける最も難しい試験匹敵するような、時の試練に耐えるベンチマークを最終的に作りたいと考えていた。GPT-4やGeminiのようなモデルで〜90%だ。

より広く言えば、GPT-4は標準的高校大学適性試験ほとんど解いている。(GPT-3.5からGPT-4までの1年間でさえ、人間の成績の中央値を大きく下回るところから人間の成績の上位に入るところまで、しばしば到達した)

https://situational-awareness.ai/wp-content/uploads/2024/06/gpt4_exams-780x1024.png

GPT-4の標準テストスコア。また、GPT-3.5からGPT-4への移行で、これらのテストにおける人間のパーセンタイルが大きく跳ね上がり、しばしば人間中央値よりかなり下から人間最上位まで到達していることにも注目してほしい。(これはGPT-3.5であり、GPT-4の1年も前にリリースされたかなり新しいモデルである。)

https://situational-awareness.ai/wp-content/uploads/2024/06/math2022-1024x273.png

灰色2021年8月に行われた、MATHベンチマーク高校数学コンテスト難解な数学問題)の2022年6月パフォーマンスに関する専門家予測。赤い星:2022年6月までの実際の最先端パフォーマンスML研究者中央値さらに悲観的だった。

MATHベンチマーク高校数学コンテストで出題された難しい数学問題集)を考えてみよう。このベンチマーク2021年に発表されたとき、最高のモデル問題の5%しか正解できなかった。そして元の論文にはこう記されている:「さらに、このままスケーリングの傾向が続けば、単純に予算モデルパラメータ数を増やすだけでは、強力な数学的推論を達成することは現実的ではないことがわかった。数学的な問題解決をより牽引するためには、より広範な研究コミュニティによる新たなアルゴリズム進歩必要になるだろう」、つまり、MATHを解くためには根本的な新しいブレークスルー必要だ、そう彼らは考えたのだ。ML研究者調査では、今後数年間の進歩はごくわずかだと予測されていた。しかし、わずか1年以内(2022年半ばまで)に、最高のモデルの精度は5%から50%に向上した。

毎年毎年、懐疑論者たちは「ディープラーニングではXはできない」と主張し、すぐにその間違いが証明されてきた。過去10年間のAIから学んだ教訓があるとすれば、ディープラーニングに賭けてはいけないということだ。

現在、最も難しい未解決ベンチマークは、博士号レベル生物学化学物理学問題を集めたGPQAのようなテストである問題の多くは私にはちんぷんかんぷんで、他の科学分野の博士でさえ、Googleで30分以上かけてやっとランダムな偶然を上回るスコアを出している。クロード3オーパス現在60%程度であり、それに対してインドメインの博士たちは80%程度である

https://situational-awareness.ai/wp-content/uploads/2024/06/gpqa_examples-768x1120.png

GPQAの問題例。モデルはすでに私より優れており、おそらくすぐにエキスパート博士レベル突破するだろう...。

続き I.GPT-4からAGIへ:OOMを数える (4) https://anond.hatelabo.jp/20240605205024

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん