はてなキーワード: 現代とは
『日本』はsageずにはいられないけど、『東京』sageには物申さずにいられない『リベラル』を標榜する人達。これかなり面白い現象だよな。
『愛国心』は唾棄すべきものだが『愛郷心』は無条件に尊ばれるもの、と意識的か無意識か知らないが彼等彼女等はそう定義しているということになる。以前ネトウヨの間で「ナショナリズムはダメだけどパトリオティズムなら良い(=愛国主義は正しい)」的な言説が広まってたことがあったけど、それは「言葉遊びに過ぎない」と誰かが喝破していた覚えがある。個人的にはそのことを思い出した。
東京にリベラルの首長がいるとかならまだわかるんだけど、実際はテロサポ発言したウヨ知事が再選されるような感じだしなあ。『愛郷心』の場合は誰が政治の舵取りを担っているかは考慮されないのだろうか。
でもまあ東京は色々な意味で中心地だし、総合的に見れば日本で1番マシなところではあるだろう。ただしそれは東京だけで成り立つものでもないんだよな。顕著なのが出生率で、地方から人材を吸い上げては繁殖しないということを繰り返しているし、電力確保に必要な原発や関連施設は地方の僻地にしかない。
あとは誰もがするわけじゃないんだろうけど地方蔑視なあ。九州とかひどいけど、そもそもあらゆる面で東京並とはいかないのに、現代的な価値観とかは東京基準を求めてくるのおかしいと思うの。
でも興味深いことなのでこれはずっと考えていくべきだよ。
一人で山奥で野垂れ死ぬとかでない限り、それは決して一人では完結しないものだ
一人で山奥で野垂れ死ぬ場合でも、発見されたら大騒ぎになるのでやはり一人では完結しない
人間とは本当に面倒なもので、死を死として受け止める為に何かしら儀式を必要とする
石器時代でも儀式をしてたくらいだ、現代の人間がそこから逃れることはできないだろう
俺は無宗教だし無神論に近い思想を持っているので、焼いて埋めれば衛生的にそれでいんじゃねと思うのだが周りがそれを許さない
日本人に限らず死というものに直面した時の対応はどこの国でも宗教観がモロに出る所ではないだろうか
自分がそうやって見送られたいから儀式をするという面はあるだろうが、人は人の生に意味があると思いたいのだ
意味という概念は人が作ったものであり、この世界の存在からして意味はないのにな
自ら作り出した概念に囚われる悲しき生き物だ
ハッキリ言って、日本でいうバブル昭和時代レベルの文化を基準に考えられた概念をありがたがって、プルデュー()とか言ってる人の時代遅れ感半端ないよね。
いや理系の普遍的な科学理論を基に語るなら理解できるけどさ、昭和の文化的な価値観が現代に通じるわけないじゃん。
ただでさえポリコレだとかフェミニズムでもインターネットでもいいが文化への価値観が正反対になったりしてるわけで
この説明だと
この紙切れは特定の価値を意味し、商品やサービスと交換できる。
現在はさらに高い抽象レベルを扱っている。クレジットカードはカネをデータ化している。
この紙切れは特定の価値を意味し、商品やサービスと交換できる。
現在はさらに高い抽象レベルを扱っている。クレジットカードはカネをデータ化している。
60年代、無料研修医らの労働搾取抵抗デモを破壊するため、損保カルトは共産学生を動員して安保闘争を始めました
損保カルトに逆らう医師が増えてしまうと、医療差別による人身損害調査不正が困難になると見られたためです
したがって満州同仁会が消滅した現代でも医療差別が残っています
見えませんか?
美術館やライブハウスはあくまで文化を流通させるためのハードウェア。
文化資本は個人が物質、肩書き、振る舞いとして所有できるもののこと。
まあインフラがなければ多くの庶民にとってそれらは得難いものではあるが、
文化インフラに恵まれているというのはあくまで文化資本獲得の機会に恵まれているということでしかなく、
機会を利用せずただ住んでるだけで身に付く事はない。
この投稿は、一部の社会的な風潮や過去の美意識に対する批判としての側面を持つ一方で、全ての男性を一括りにする不適切な表現や偏見が含まれています。過去の美意識が女性に対して与えてきた影響は理解できるが、現代の多様な価値観を認める姿勢が重要であると考えられます。
今まで、一部の日本人男性が「女の子は痩せてて小さい方が可愛い」と言って、自らの好みを押し付けてきた結果、女性に小柄であることを求める社会的プレッシャーが存在していました。このようなプレッシャーの中で、女性が小柄で栄養失調になるまで食事制限をしていたケースもあったと言われています。
しかし、最近では、一部の男性が「高身長の女性が好き」と言い出していることに対して、戸惑いや疑問の声が上がっています。日本において、女性の平均身長が他の先進国と比べて低いという事実があり、その一因として過去の美意識が影響している可能性があります。
一方で、「日本人男性は全てロリコン」という偏見や全体を一括りにした表現は不適切です。多様な美意識が存在し、一部の男性の好みを全体に適用するのは誤りです。現代においては、女性の身長や体型に対する美意識も多様化しており、「高身長の女性が好き」という好みも一つの傾向として認められるべきです。
過去の美意識が女性に与えてきた影響を考慮しつつ、現代の多様な価値観を認める姿勢が重要であると言えます。まずは、男性がこれまでの女性に対する抑圧について少しでも思いを馳せ、多様な価値観を尊重することが求められます。
ちなみに、先進国で最も背が低いのは男性も一緒なのでそもそも最初の問題設定が間違っているのだが、そこまでは指摘してくれないところが今のAIの限界かもしれない。
現代は金や競争や能力にフォーカスしてきたような人間以外まるっと憂き目に遭っていて、
異常な事態の異常性をただ嘆き散らかすか「自分」を切り捨ててあちら側に就くかの
実質二択を迫られているように感じる。
昭和時代もさんざん戦争があって、それに連動して公害薬害があって、新聞紙とテレビ数分で報じられるだけでも無秩序や混沌を感じさせたものだ
現代はネガティブ組織を晒しやすくなっており、公害は以前より起きにくくなっているはず
しかし産廃不正や紅麹事件、イジメや不審死があり自殺率も高い、汚職起訴率は低い、厚労省分野の隠し事は相変わらず多い
文化資本。
この言葉はフランスのピエールという社会学者が提唱した概念らしいが、
「地方にも素晴らしい文化資本があり、東京と差がないどころか優位性がある」
みたいな話がよく上がってくるのを見かける。
けど、この話ってちょっと前までは「地方民が東京との文化資本格差を嘆く」って構図だったはずでは…?
日本で文化資本の研究が盛んになったのは90年代頃からのようだが、
2010年代以前には内田樹がブログで使ってるのがよくヒットするものの、まだ一般に広まってるワードとは言えなかったようだ。
また、この頃はあくまで単語として出てくるだけでそれ自体をテーマとしているわけではなく、都市部と地方の地域間格差などについても特に触れられてはいない。
そこから2010年代に入るとシロクマの屑籠、はてな村定点観測所といったブログの中でも使われだす。
あいにく後者の記事は見れず、またこれらのブログをよく知らないので詳しいことは分からないが、
この時点でもやはり文化資本という概念自体がメインディッシュとして語られているわけではない。
大きく取り上げられるようになるのは2015年頃。
2014年に登場した「マイルドヤンキー」という単語の議論で先程の2つに加えボン兄タイムスといったブログ等で「文化資本」が盛んに使われるようになり、
そこからメインの議題へと昇格…という流れのようだ。
マイルドヤンキー自体が田舎に多く都市には少ないという性質のものとされているので、
本格的に都市部の文化資本における優位性を論じてバズったのは2018年のこの記事。
「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由(阿部 幸大) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
田舎には都市生活者には想像できないレベルの地域格差が存在し、教育を受ける機会を想像することすらできないこともある、
ということを語ったこの記事は1800を越えるブクマを集め、はてな以外でも大反響だった様子。
ここからコロナ禍の間まで、東京に茄子が生えてほしいと願う増田が現れたり、在華坊氏がはてな三大論点として"文化資本東京格差"を挙げたり、羊文学は信用できないというツイートが出てきたり、
この時期の空気感こそ、まさに私のイメージにある東京と文化資本についての語られ方である。
東京はライブにすぐ行けていいなというtogetterのまとめにアウトドア趣味だと逆というコメントがついたり、
当初はまだそういった穏やかな空気感の反応だったが、
今年に入るとかなり強い口調で東京都民の傲慢を批判する流れが生まれ、現在に至る。
潮目が変わった原因は正直分からない。単に時間経過でバックラッシュが現れたというだけなのだろうか?
まあ「地方民が東京都民の無自覚な傲慢さを批判する」という構図自体は変わらないのに、
その主張が真逆の方向に変わっているのは興味深くはある。
ただそこからピエール瀧の原著に立ち返って改めて文化資本とは何かについて考察したり、
将来安泰のエリートで家柄もつり合うし人柄も悪くないが、結婚するとしたら娘は仕事をやめ遠方の相手の地元について行って
主婦として支えなければならない(女中は雇う前提だろうけど)であろう花岡
いまいち頼りなくすぐ腹を壊し、高等試験(司法試験)にも結局受からず仕事は自分が世話して自分の会社で雇ってやってる状態、家柄も格下だしすでに実家はない、
でも(姓は娘側が改姓したが)事実上は婿入りで嫁実家同居のマスオ状態でいてくれて、優しく娘を理解して娘のやりたい事を自由にさせてくれる優三
寅子が選んだのは優三だが、寅子の父親は今わの際に「本当は花岡君が良かった」とぶっちゃけた。
戦前の良家の父親であればそれが妥当な考えだっただろうと思う。
でも現代だったら?
私は、弁護士資格を持っているような娘であれば現代なら家柄や男の稼ぎにこだわる必要もないし
それを捨てて主婦になるのが前提の花岡より、やりたい仕事をさせてくれて理解もある優三の方がいいよね?と思ったけども
夫は現代でも父親が娘の結婚相手として考えるなら同じ(花岡を選ぶ)だよねと言っていた。
男性はそんなもんなんだろうか。
男性の自殺率が高いのは「弱い」からだけなのか? 統計データから読みとく
男性の自殺率が高い背景には、複雑な要因が絡んでいます。厚生労働省の統計によれば、日本の自殺者数は男性が女性の約3倍1と、先進国の中でも高い水準です。以下に、男性の自殺率が高い理由を考察してみましょう。
性別による偏り: 長年にわたって、男性の自殺者数は女性よりも常におおよそ1.5~2倍も多い傾向があります2。2020年4月から10月までの自殺者数を男女別で確認してみても、どの月でも男性の数が顕著に多いことがわかります。男性という性別が自殺に影響を与えていることは明白です。
社会的圧力と男らしさ: 男性は「弱音を吐けない」という固定観念によって、自分の弱さや不安を表現することを避けることがあります。特に中高年男性は、このような社会的圧力を感じやすいとされています3。男性は「男らしさ」の枠組みの中で長年培ってきたノウハウが、現代の環境変化に適用しづらく、不安を抱えていることがあります。
経済的・家族関係のストレス: 経済的な困難や家族関係のトラブル、社会的な閉塞感、感染に対する恐怖心など、多くの要因が考えられます。特に経済的な問題は男性に影響を及ぼしやすいとされています。
自殺対策の重要性: 自殺対策を立てていく際には、これらの要因を慎重に分析し、適切な対策を講じることが必要です。男性だけでなく、女性や子どもの自殺対策も重要であり、日本全体で対策を進める必要があります。
自殺予防には、社会的なサポートや心のケア、適切な専門家の支援が必要です。4 また、男性自身が「弱さを見せてもいい」と感じられる社会環境を整えることも大切です。
by Copilot
X界隈で「若い女の子に嫉妬するおばさんなんかいねえよw」って話題になっていて
1980年代生まれゴリゴリおばさんの私も個人としては賛成なんだけど、世の中には嫉妬するおばさんもいるんよ、てか、いたよ。
Xではやたらシスターフットを神聖視する風潮あるけど、老若男女問わず味方もいれば敵もいるよ、流石に美化し過ぎかと思う。
んで、嫉妬するおばさんはまあ一定数いるんだけど、嫉妬の方向性がそこに出てくる男性の想像とはちょっと違う。
話題の発端になった男性は、35歳女性が若い女性に嫉妬した結果「40代の男性が若い女性と結婚したいなんて図々しい」と言った、と考えている様だけど。
嫉妬するおばさん、は全く逆のこと言うのよ。
「若い男性が良いなんて選り好みすんな!若い女でも40代男性と結婚してあげて子供産んであげて一生面倒見てあげなさい!」って。
35歳だとかなり微妙な年齢だけど、もうちょい上の「おばさん」世代(おばあさん世代はもっと顕著かもしれない)は『家庭に入れ・夫を立てろ・子を産め』と言われてきたので、
現代を生きるそうじゃない若い女性に嫉妬している人は時々見かける。
「私はこんなに大変だったのに!アンタ達はそれをしなくて良いなんて!ズルい!羨ましい!」っていう嫉妬。
だから『若い女に嫉妬するおばさん』はむしろ多少難のある男性でもガンガンにカップリングしようとしてくると思うよ。
なんかキラキラした楽しそうな人を羨ましく思う、が行き過ぎて嫉妬に駆られる人って一定数いるので、別におばさん=若い女の子の味方って訳じゃないよ
自分が嫌だったことはどんどん消えてなくなって欲しい派だから。
格好良いおばさん、格好良いばばあ、へと進化できるように頑張る。
イギリスとノルウェーのすべてをレビューすることはできませんが、ロンドン(Lūndonjon / Lūndyn / Lunden)をレビューすることができます。
西暦873年にそこに立っていたであろうものの多くは欠けています。ユービーアイソフトの歴史家は、ウィキペディアからこの地図を参考にしたようだ。
https://en.wikipedia.org/wiki/File:Map_Londinium_400_AD-en.svg
しかし、その地図には、当時のロンドンの少量の建物が含まれています。このレベルの歴史研究では、ウィキペディアのような一般的な知識サイトは不十分です。
一般:
または、フォーラムの南にあるCandelwic Strætのロンドンストーン(Millarium / Praetoriumゲート)から放射する道路のパターン:
Trajectus Way:Douegæt(川までダウンゲート)からLondon Stone(Candelwic StrætのPraetoriumゲート)まで
Wæcelinga Stræt(Praetorian Way):南東からニューゲートまで
Earninga Straete (Ermyn/Ermine street a.k.a.オールドノースロード)は、Wæcelinga Stræt southwarkに同行し、南西からDouegætに入り、Cripplegateまで北上しました
ヴィシナルウェイ(フェンチャーチ通り)TrajectusからAeldgate(旧門)を通ります
フォーラムの東:
フォーラムの西:
クリップルゲート:
ルンデンウィッチ:
ゲームには一般的な「Lundenwic Abbey」が1つあります。9世紀には、ルンデンウィッチには5つまたはおそらく7つの修道院があっただろう。
他のいくつかの観察:
生きる意義など簡単だ。今日まで脈々と命のバトンを繋いできてくれた先祖代々のご恩に感謝し、子供たちと未来に対して一生懸命働くことで恩返しする。
欧米の個人主義に毒された現代の若者たちは、こんな簡単なことすら見失ってしまう。
いただいたご恩に感謝し、日々額に汗を流し、次代の世に尽くす。
これは本当にそうで、別にゴリゴリ働く男と家庭を守る女の夫婦がいても良いわけで。
それを社会制度として固定するようなことをしないほうがいいよね、男性も女性も普通に働けるように法制度を整備しておこうね、くらいのスタンスが「多様性」なんだけどな。
この制度設計と多様性の認識の雑さが生んだものとして、現代における女のイージーさを保障する根底としての、キャリアライフと家庭ライフの2残機制がある。
「女は自立すべき」と主張している女は、家庭に入ってヌクヌクする権利を(使っていないだけで)留保している。この残機2の卑怯さよ。
たとえば1950年代において、女性は家庭的であるべきとされた
つまり
現代人はAを支持できるか(Aを否定するのを我慢できるか?)で多様性に対するスタンスが変わると思う
まあ昔(1950年)は「主義Bなんてとんでもない」が主流だったので分かりやすかったんだけど
現代は多様性の時代とされてるからややこしいんだよね、偽物の多様性主義者がたくさんいる
ちゃんとした多様性主義者は、どの時代、どの場所、どの立場でも「AもBも認める」というべきだけど
偽物の多様性主義者は、ポジションや現代の価値観に引きづられる
この人たちのことを同調主義者(Conformity)と呼ぼう
同調主義者が多様性を支持しているのは、あくまで現代において多様性がメイン主義だからだ
でも偽物だからボロが出る
非常にめんどくさいのは、多様性をアピールしている企業や団体が、単なる同調主義者であることが多いことだ
よくよく見ていくとそれは多様性ではなく、メイン主義への同調と、メインがどれになるかの争いでしか無い