はてなキーワード: あいとは
過去にボーナスを貰ってから辞職した議員を攻めていた蓮舫が、全く同じことをしていて「ブーメランブーメラン」と揶揄されているのを受けて、「失敗や批判を恐れずに攻めの姿勢を取れるのが蓮舫さんの素晴らしいところ!」ってますます団結して盛り上がってるので、あいつら本当に無敵だなって思うし、恐怖すら覚える。
規模としては段違いにしょぼいけど、どう考えても勝ち目なんかないのに「天皇陛下万歳!天皇陛下万歳!」と盛り上がってバンザイ突撃やカミカゼアタックかましてくる日本人を見た時、多分似たような恐怖をアメリカ人は感じたんだろうな。そりゃ本土空襲や原爆投下するわ…。話が通じないんだもん…。
どれだけ嫌な事があろうが、満足している瞬間が少しでもあればそれだけで人生を肯定出来る。それは自己実現の喜びであってもいいし町中で買える喜びであってもよくて、重みは問題ではない。
そもそも重みなどない。快不快を勘定しようとする事自体がナンセンスだ。限界効用だのアドレナリンの分泌量だのと数字を持ち出してお茶を濁した所で、我々が常に瞬間的に感じている快不快とは定性的なものなのだから。
こういう風に考えれば、生きることに対して割と無条件に近い状態で希望を持てるような気がする。というよりは悲観に屈しないといった方が正確かもしれない。
こうありたいような気もする。安直なヒューマニズムとはまた違うと思う。リアリストを気取っていてその実単にペシミストでしかない奴は嫌いだし。おれはニヒリストではあるけれど、ああいう連中はいけ好かない。
ただあんまり無闇矢鱈に人生は素晴らしいと考えるのも、それはそれでなんかなって思う。少しでも引っかかりがあるのなら、そこを無視して人生バンザイと言うのも自分に不誠実な気がする。
やっぱりなんとなく心の中に秤をイメージして、総体的に納得ある人生を送れているかを気にしてしまう。
自分の望む生き方を出来てる人はこういう考えでも別に問題無いんだろうけど、そうでなきゃ辛い。
辛さをバネに、とかそういう気にもあんまならんし。
不快な気持ちに特別な意味を見出したり、道具として支配してやろうってのもなんかなあって思う。嫌なことをただただ嫌なだなあと受け止めるのも大事に思えてならない。 まあ嫌なことは嫌だし、大して楽しくもないのに面倒臭さだったり不快さだったりを抑えながら生活に追われるくらいだったら死んだ方がマシだろ……
みたいな考えが頭の中をぐるぐるぐるぐる回ってる。
結婚でもするなりして他人への奉仕に生きよう、なんてのはありがちだけど、それを実践してる人が果たして幸せそうかというと微妙なところはある。他人な上に立場も違えばもちろん視点そのものが違うし、そういう人らの人生のほんの一部しか見てないから何とも言えんのだけど。
ワイ、この間税務調査に入られたところやったんやで。
年収240万、親の年金加えて世帯年収400万弱なんだが(額面)
両親ダブル介護で去年は入れ替わるように二人とも入院し手術したり、そんために住宅改修するハメになったり、医療・介護費だけでワイの年収分かかったわけよ。
介護のために今の仕事になる前にもらった退職金とか、両親も多少はためてた金とか出してさ。
そんで、それを全部医療費控除にぶち込んで確定申告したわけだ。
それを2年やったら、見事に怪しい申告書が出来て、それで税務調査が来たわけだよ。
資料は全部ファイルに閉じてあったし、何の問題もなく優しくしてくれたし何も起こらなかったんだが。
ワイのような所に来るくらいなら、ああいう人のところにできるだけ早く入って申告させたほうが有意義だったと思うんだよな。
税務署員は「元々税額が少ないので全部申告しなくても」って言われたけども。
その後、両親だけ世帯分離して生活保護申請して、それで施設に入れるという手があるよと福祉の人に提案された。
どうしたもんか。
「失敗したら誰も助けてくれないかも」程度の不安で行動をやめるやつが
イノベーションを起こす胆力があるのかというとない
そもそもイノベーションって誰に認められなくても突っ走る精神力と先見の明と才能がないとダメじゃん
なんでイノベーション起こす人間と、失敗の不安で行動を起こさなくなるメンタル弱弱人間が
同一人物ってことになってるの?
まっすーの中では一致するの?
いわゆる成功者なんて心身ともにタフなゴリラかサイコパスばっかりなのに?
そもそも不安なやつって一つの不安取り除いたって次から次に不安になるから、成功に至るには精神力を試される試練ばっかだし。そんな生やさしい話じゃないし。
漫画の読みすぎじゃない?
いやいや、PanasonicのカメラWebサイトに過去から今に至るまで撮影サンプルが「1枚も」ないのがどれだけ異常か分かって無いのでは?
炎上してくれたからようやくマシなWebサイト準備してくれると思う
「警察に届けろ」ってトラバがいっぱい付いてるけど、自分も同じような状況になって警察に電話したことがある。
自分の場合はデートじゃなく打ち合わせに向かう途中。道端、目の前を歩いてたお年寄りが突然転倒したので声かけて警察と救急車を電話で呼んで来るまで付き添ってた。
で、救急隊員と警察官が来たので状況を説明しようとしたら、ガン無視されたのね。
「お前の話はどうでもいいから」みたいな感じで、居ても居なくてもいいような扱いされたから、不貞腐れて離脱しました。
おかげで打ち合わせに遅れましたよ。事情を説明したら先方からは怒られませんでしたが。
まァこれ以降、こういう状況に遭遇することはないけど、次に遭遇した場合、元増田のように家の連絡先が書いてあったらそっちに連絡するが、警察や救急には連絡しないかなぁ。あいつら通報した人に対する敬意が無いから。
先週土曜日のホーム戦、対福岡にあっさりと負けて今季の黒星はいくつになったのでしょうか。わかりません。数えておりません。三節が終わったあたりから順位表も見ていない。降格の危機にあることと、今の首位くらいしかわからない。
開幕前、現在の首位を降格筆頭候補に挙げていた人たちは何を思うのか。
理由は監督です。別に黒田監督が悪いわけではない。ただ嫌いなだけ。黒田監督に似た人が。小学生のときの担任と黒田監督が激似で、本当に本当に、視界にいれることが無理。
その担任はメタクソに贔屓をするクソだった。気に入った生徒にはニコニコして何をしても叱らなかったけど、気に入らない子に対しては冷徹そのものだった。どちらかといえば自分は気に入られていたほうで、ひどいことをされたりはしなかったのだが、あまりにひどい贔屓っぷりが気持ち悪くて仕方なかった。
贔屓クソ野郎が贔屓するのは、比較的勉強のできる子や、明るくてクラスの中心になる子、可愛い子。それは女子ばかりだった。学年で一番可愛いような子が同じクラスにいたのだけど、その子と仲良くしていたある男子に、いきなり冷たくあたりはじめたときには本気で引いた。可愛い女子には媚びへつらうと言ってもいいくらいに猫なで声になるのに、女の子と仲良くした男子や、大人しめの男子、勉強出来ない子にはあからさまに冷たかった。これ、小学二年生のときの話だよ。そんな、右も左もわかんない年齢の子どもに、明らかなエコヒイキしてたんだよ。本当に最悪な担任だった。そして学年の主任だった。
黒田監督は何も悪くない。悪くないのはわかっているけれど。でも、黒田監督を初めて見たとき、あれは何年だったか忘れたけど、高校サッカー選手権の中継で。
は????あいつ今高校サッカーの監督してんの????と一瞬にして吐き気を覚えた。
まったくの別人だとわかってもだめだった。生理的に無理だった。脳が拒否する。青森山田サッカー部の試合は見られない。
でも入れ違いのような形で昇格できた。やったね。
やったね。と思ったのに、あれよあれよと快進撃で黒田監督が一年目で昇格を決めた。
あ、今の首位には、テクニカルコーチがこっちから行ってます。結果に結びついているようで何よりです。いや、何より悲しい気持ちなのだけれども。
テクニカルコーチを持っていかれたからこっちが~とかそれだけではないのも重々承知しています。
ああ、別に、移籍したことをここでごちゃごちゃ言いたいのでもないです、それは本人が決めたことだし、そういう人だったということで。この話は終わりです。
話を戻して
重要ピースが抜けたとしても開幕前ならそこへの対応はしておくべきなわけですね
てか今のテクニカルコーチが云々と言いたいわけではな・・・・・くもないけど
アルベルさんが残してくれたものを食いつないでいくにせよ、そこに今の監督・コーチ陣がプラスして研鑽して結果に出せていけるのか、いけそうなのか、がちょっと期待が持てなくなってきている現状ということです。
ここ数試合の有り様は如何ともし難く希望もなにも持てなくなってきている。
なまじ、攻撃の形ができてしまっているだけに、惜しいシーンが手の中をすり抜けていき、気がつけば先制され、失点を重ね、最後の最後になんとか一矢を報いて終わる。
ボールを保持するのもパスを重ねているのも、一体何を目的としているのか。ボールキープもパス成功率も、それが目的ではない。ボール保持もパスもゴールに繋げるための手段でしかない。その基本的な部分を見失っているとも思わないけれど、ボールを受けてからの判断が遅い、悪いケースが多すぎる。
それは勝ちから遠ざかっているための消極的さや焦りからなのか、パスを繋げることに意識が行き過ぎているからなのか。でもパスを受けても、対峙する相手やスペースも見えてないのになんでその判断になる?ってのも多い。
パスを繋いで組み立てていくのは生命線のはずだけど、今シーズン開幕してから逆にその生命線を自ら断ちにいっている気がする。最終ラインでボール回すところをプレスされて狙われてというのを何回見たか。
と、まぁ、不満を書き出せばきりがないのでやめます。
2003年11月23日の初昇格を決めたあの日から、J2降格を経験し、再度の昇格を果たし、石にかじりつき辛酸を嘗め耐え難きを耐え忍び難きを忍び、やっと手が届きそうだった、ひとつ上の段の「縁」。
上りきれるかはわからない。でも、やっと、そこへ、手を指を掛けられるかも、と
ずっと壁しかなかった視界に、乗り越えた先の風景が、少しでも遠くにでも見えるのかも、と
そんな前途の拓きを抱いて迎えた今シーズンだったわけです。
でも、黒田監督が率いる昇格クラブは、あっさりとその「縁」に、手どころか足を乗せた。いや、飛び越えていった。あれだけ羨望し焦がれた「段」を、「縁」を、それはもう軽々と。
大宮が無敗記録を作ったとき思ったのは、うちはそういう記録めいたものには程遠いなということと、そういう意識もないなということだった。
たぶん悔しいんだろうとは思います。悔しい、勝てなくて弱くて悔しい。なんでこんなに弱くなってしまったんだ。
嫉妬とは、自分が努力していない・しても勝てないと理解している・理解しているのに認めたくないという心理が働き、自分よりも優れている人に対して抱く感情。
J1昇格を成し遂げてくれて、アルベル監督のサッカーを継承してきた松橋監督に対し、監督交代とかそういうことを少しでもつぶやくと
結果を出さなければならない立場にいて、結果が出ていないなら、厳しい目を向けられるのは仕方ないし。タヒねとか誹謗中傷や罵倒は論外ですが。
反町監督がいたころ、当人が苦言していた「俺を肩たたきする人がいない(クビと決断する人がいない)」という状況は好ましくはないと思いますね。感謝と、現場としての結果からの判断は、やはり切り離して考える必要がある。
札幌や京都みたいに、クラブも何らかのアクションを起こしてもいいんじゃないですかね。残留を最優先とする戦い方へ切り替えなければならない時機は過ぎたんじゃないかなあ。
去年までのうちなら、首位だろうがなんだろうが臆することもなかったし、むしろ「勝てるっしょ」と思えたのだろうけれども
すみません、この状態で「首位食ったるで!」と思えない自分は弱いです。強気をくじき、とか、中位力、とか、そんなのを拠り所にできる心の余裕がない。チームを、監督を、選手たちを、信じていないわけじゃない。信じていても、「でも」が出てくる、それは自分の心が弱いだけ。弱いのは私の心です。
https://realsound.jp/tech/2024/05/post-1676581.html
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/realsound.jp/tech/2024/05/post-1676581.html
名前で会話をやろうとしている、それは対象外が入り込んでいる状態なのでは?
孤独・孤立の問題を抱えていない人が余裕ぶっこいている状態なのでは?
裏返すと「できるコミュニケーションを求められるストレス」なのでは?
第三者がプレイヤーの補助として名前になにか大事なことを記している、そういうのもあるだろう。
ただ「ガチ孤独です」みたいなのだとじゃあ他の人はそんなガチじゃないのかな?っていう感じもする。
例えば盲目向けのバースがあったとする(既にある気もする)。なんでか知らないけど音オンリー空間じゃなく「見て」もわかるようにできてたとする。弱視も受け入れようとしているのだろうか。半端に目で見て理解できるものだから、そこに視覚に異常のない人がやってくる。
バース先住民は「この人は動物園でも来たつもりか」、そう思ったりしないだろうか。そして体験して投げかけられる感想、「ディストピアみたい」
やってられなくないかこんな扱い。
付き合いあったけどほんとどいつもこいつもって感じ
自分の子供はちゃんと勉強させてまともな大学にやらないと、ああいう価値観の世界で一生stackさせちゃう羽目になるんだなと恐怖した
文化資本。
この言葉はフランスのピエールという社会学者が提唱した概念らしいが、
「地方にも素晴らしい文化資本があり、東京と差がないどころか優位性がある」
みたいな話がよく上がってくるのを見かける。
けど、この話ってちょっと前までは「地方民が東京との文化資本格差を嘆く」って構図だったはずでは…?
日本で文化資本の研究が盛んになったのは90年代頃からのようだが、
2010年代以前には内田樹がブログで使ってるのがよくヒットするものの、まだ一般に広まってるワードとは言えなかったようだ。
また、この頃はあくまで単語として出てくるだけでそれ自体をテーマとしているわけではなく、都市部と地方の地域間格差などについても特に触れられてはいない。
そこから2010年代に入るとシロクマの屑籠、はてな村定点観測所といったブログの中でも使われだす。
あいにく後者の記事は見れず、またこれらのブログをよく知らないので詳しいことは分からないが、
この時点でもやはり文化資本という概念自体がメインディッシュとして語られているわけではない。
大きく取り上げられるようになるのは2015年頃。
2014年に登場した「マイルドヤンキー」という単語の議論で先程の2つに加えボン兄タイムスといったブログ等で「文化資本」が盛んに使われるようになり、
そこからメインの議題へと昇格…という流れのようだ。
マイルドヤンキー自体が田舎に多く都市には少ないという性質のものとされているので、
本格的に都市部の文化資本における優位性を論じてバズったのは2018年のこの記事。
「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由(阿部 幸大) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
田舎には都市生活者には想像できないレベルの地域格差が存在し、教育を受ける機会を想像することすらできないこともある、
ということを語ったこの記事は1800を越えるブクマを集め、はてな以外でも大反響だった様子。
ここからコロナ禍の間まで、東京に茄子が生えてほしいと願う増田が現れたり、在華坊氏がはてな三大論点として"文化資本東京格差"を挙げたり、羊文学は信用できないというツイートが出てきたり、
この時期の空気感こそ、まさに私のイメージにある東京と文化資本についての語られ方である。
東京はライブにすぐ行けていいなというtogetterのまとめにアウトドア趣味だと逆というコメントがついたり、
当初はまだそういった穏やかな空気感の反応だったが、
今年に入るとかなり強い口調で東京都民の傲慢を批判する流れが生まれ、現在に至る。
潮目が変わった原因は正直分からない。単に時間経過でバックラッシュが現れたというだけなのだろうか?
まあ「地方民が東京都民の無自覚な傲慢さを批判する」という構図自体は変わらないのに、
その主張が真逆の方向に変わっているのは興味深くはある。
ただそこからピエール瀧の原著に立ち返って改めて文化資本とは何かについて考察したり、