はてなキーワード: なかにとは
この増田本人では無いので尻馬に乗る感じで申し訳ないけど、ブコメとか見てると未だに理解があやしい人が多い気がする
まず元増田の内容を自分なりにまとめると、「文化資本」に該当するかどうかを計る条件として
の2つの条件が少なくともあり、はてなで言われている「文化資本」の多くはこれに該当しない(そのため、はてなの人達は「文化資本」の意味を理解せずに使っている疑いがある)
特に②についてはそもそも資本とは自己増殖するもので、文化「資本」というからには再生産の要素を含まないと変というのはその通りなんじゃないかなと思う
でその上で、なんだけど
いや美術館が無ければ美術館に行く文化も作れないので「文化を享受できる環境・子に文化を享受させる親の文化」は文化資本なんだが。みんな美術館(物理的な資本)の話じゃなくて美術館に行ける東京の話してるだろ。
例えばこの反応って、①の説明にはなってるけど、②の説明にはなって無くない?何が再生産されているの?
個人的には、文化「資本」を名乗るうえで②の方が重要な気がするので、そっちが片手落ちになっては意味が無いんじゃない?と思ってしまう
上は一例だけど、元増田への反論で②の再生産の部分まで言及できている人が少ないように見える
で、更に、そもそも「東京は文化資本が豊富」と言っている人は、どういう再生産を想定しているんだろう?
ただの資本の場合、単純に金持ちは投資等で更に資本を再生産できる、というよくある話で、これは分かりやすい
対して文化資本は、例えば親が教育の重要性をきちんと理解し、そのおかげで子は十分な教育を経て資産や社会的地位、権力を得られるようになり、それらが再生産される、といったシナリオになる
ただ、「東京は文化資本が豊富」と言ったり、その例が美術館(へのアクセス)だったりする場合、具体的にどういう継承から資産や社会的地位、権力の再生産に結び付く話をしているんだ?
例えば、近くに美術館があってよく通った場合、しかしそれが自身の給料や社会的地位や権力に特に結び付かない事はよくあるし、その場合②を満たさないので「文化資本」とは呼べないよね?
例えば美術に精通する事で上流階級の人とコネが生まれて立身出世の役に立つ、とかだと「文化資本」と呼べると思うけど、現代日本でそういう機会がそもそもある人は(東京内に限っても)何%だろう?
当然、その%が低ければ東京全体でならした時の美術館の「文化資本」寄与率は低くなって、他の寄与から比べると誤差以下になってしまう
という感じで多くの場合②を満たせない割合の多いと思うんだけど、どうだろうか?
具体的にどういう継承・再生産のシナリオで考えているんだろうか?
また、再生産という観点で見た時、そもそも「東京」で括る意味って何?とも思う
例えば「金持ちは文化資本が豊富」ではダメなんだろうか?こちらなら上流階級の振る舞いや教育の重要性の理解等々、再生産に関わる文化資本が豊富なのは頷ける
これに比べて「東京」だと、金持ちでない人も居るし、そういう人が美術館に通っても再生産に繋がらない事が多い
というのも、そもそも機会やノウハウなど、「美術」という文化的素養を資産や社会的地位、権力の再生産につなげるための回路こそ、資産家の親から子へ継承される貴重なものであり、ある意味それこそが「文化資本」だからだ
よって、「東京」という雑多なフレーミングは文化資本を持たないノイズの人達(言い方は悪いけど・・・)を多く含み本質的ではないのに対し、
「金持ち」というフレーミングは再生産に結び付く「文化資本」と本質的につながっているので、より適切なんじゃない?と思えるし、その上で「東京」で括る意味is何?と思えてしまう
「東京は金持ちが多いから、結局文化資本とも相関がある」という人も居るかも知れないけど、それってわざわざ要らない項を噛まして、分かりにくい疑似相関を作ってるだけじゃね?
地方でも金持ちなら教育もするだろうし振る舞いも継承したりコネも引き継いだりするだろうという事で、文化資本と言えるものが多そうだし
結局、文化的ななにかを資産や社会的地位、権力の再生産へとつなげられるかどうかって、住んでる場所より資産や社会的地位、権力に依存するんじゃないかなー、と思うし、それによる寄与と比べると「東京」要因の寄与って誤差に呑まれそうじゃね?と思う
もう一つ大きな、そして根本的な疑問として、元増田の言うように「文化資本」というものが資産や社会的地位、権力の再生産、つまりは格差の再生産を前提とするものだとして、
それが「東京に豊富だ」と言われる事は、その人達にとって嬉しいのか?というのがある
美術なり音楽なりの素養が格差の再生産となるという事は、それなりに差別的な論理が社会のなかに残存しているという事だけど、
そのおかげで得をしている格差の再生産の加担者or受益者と指さされているようなものなので、それ嬉しいか?胸張るような事なのか?と思う
なので、軽々しく「東京は文化資本が豊富」という人は、「文化資本」が前提とする資産や社会的地位、権力の再生産についてよく分かっておらず、つまり「文化資本」の意味をよく分からずに使っているのでは?と思えてくる
ある意味「東京には文化資本による格差の再生産を肯定or容認するような差別的な風潮が残存している」という事でもあるので、本当に意味を理解して使ってる?と疑問
ほら、昔の漫画とかでよくあったでしょ。
コンピュータにガーッと入力してたらエラーが出て、次には爆発するやつ。
懐古主義も極まって、あれを作ろうって思い立ったんだけど実際取りかかるとなかなかに難しい。
キーボード上で指を適当に泳がせてカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタと意味のない文字の羅列を作っているとエラーになってピーピー鳴り出し「ボンッ」と爆発する。
そんな設計にしようと思ったんだけど、途中で「あれ?」と気がついた。
エラーになって爆発する仕様ならエラーが出て爆発するのは仕様通りな訳で、つまりそれはエラーじゃない。
爆発させるためにはエラーが必要で、しかしエラーが生じると爆発させることができない。
私自身は地方都市の大学院に進学し、研究室は学生が少ないこともあって比較的丁寧に教えてもらった記憶です。
返信の中で何人かが書いていますが、院生と社会人で求められるスキルは全く違うので、その教授の言うことは当てにならないと思います。
友人のなかには、大学院を休学して企業のインターンに参加したり、公務員の勉強をしている人もいました。
その友人たちは結果的にその友人は大学院を中退していますが、話を聞くとその選択を後悔しているようには思えません。
あなたのスキルや能力などはわかりませんが、その研究室だけが世界ではありません。何か行き詰ったら外の世界に目を向けてみてはいかがでしょうか?
仲間(かつての)たちAと別の相手たちBとの対立構造が生まれているのを最近しった。
おやおや、と思ってSNSを覗くと、仲間のなかに新たに仲間になった面々がよくないと把握した。
エアリプで悪口をいう、その悪口がセンスがない、匿名で相手に暴言を吐く。どっちがいい悪いでいえば、かつての仲間たちAを贔屓目に見て、対立している側が悪いんだろうなと思っていたが、そのセンスも知性のかけらもない悪口を見ると、ああ、これはAたち、やっちまったなーと感じた。Aたちに正義があるとは思えなかった。
そして、今はもう離れてよかったと噛み締めてる。あまりにもレベルが低い。誰にも言えないけど、そうまでして推しが、推しが、という心境にはなれないな……。
標準体型、非喫煙者
お付き合い経験なし
申し受け:約150(お相手年齢:26歳~38歳)
お見合い数:11回(申し込み6、申し受け5、お相手年齢:30歳~34歳?)
仮交際受け数:9回(成立3)
仮交際申し込み数:4回(成立3)
仮交際成立数:3回(途中終了3)
仮交際中お断り申し込み数:1回(相談所から仮交際を勧められたが合わなかった)
仮交際中お断り申し受け数:2回(生理的に無理と思った、婚活疲れて退会するから)
トラバひとつもつかないと思ってたものに反応いっぱいもらえて驚き!嬉しい!
自分用のまとめじゃなくて、人が読む用に覚えている限りちょっと編集しました。
蛇足も書く。なるべく役に立つ情報が書きたいが、自分語りにはなりがちだし長い。
寂しいのと、異性のパートナーと暮らしながら徒歩圏内で生活を楽しみたかった。
あと、Tさんのブログ読んで結婚するなら相談所なのでは?婚活するなら早いほうがいいのでは?と踊らされていた。
ただ、取れる選択肢の中で相談所での結婚がベターかな、と思ってはじめたんだけど間違ってた。
あと相談所は、設計として心身の負荷がすごい高くて、とりあえず会ってみるってのはマチアプに比べて難しいと思った。
一人とお付き合いできるのは最長6ヶ月だし、高負荷で短期決戦という、とてもしんどい仕様。
自分はプロフィールもしっかり見て、自分とタイプが合うか確認してた。
会ったら話合うだろうなーとか弾むだろうなー、って人は大体アクティブすぎる感じ。
落ち着いてる、聞き上手、真面目みたいな喋るのが苦手そうな内容だけの人も避ければ良かったかなあとは今思う。
相談所の人に「今は若い人も子なし希望が増えてきて、実は結構いる」と言われて、子無し希望の方もっといるもんだと思ってた。
どっちでもいいみたいな女性はそこそこいたかな。なかにははっきりと子無し希望の方も紛れているらしい。
入会しなくても1ヶ月1万とかでお相手検索システムだけお試しできる相談所もあるから、迷ってる人はそれを進める。
で、「この人とこの人、申し込んだらお見合いできると思いますか?」とかを相談所に聞いてみるといいかも。
相談所婚活という場が特殊なのと、相談所にいる人たちが特殊なのかも。
男性はほぼ全員「受け身じゃない女性がいい」と言い、「受け身の女性ばっかだ」とも言うと聞いた。
女性には「受け身をやめろ」「積極性のある女性が勝つ」的なことが言われるそうな。
そもそも相談所は男性の売り手市場で、男性の負荷が明らかに高い設計になってて、お互い初対面から歩み寄っていくことが必要で、でも一人とお付き合いできるのは最長6ヶ月で、いくらでもプロフィールを元に話題や話の展開を考えて準備ができて、プロフィールにインドア系の趣味があったら簡単に触れてみたりとかもできるのに、受け身になる女性とは・・なんだろうなあ。
社内恋愛は否定派だけど、そもそも年下も年上も基本既婚者。あとはラブラブ彼氏持ち。
応援はしてくれてる。
自分みたいに高望みだったり条件を求める人にしては、回数はすごく少ないと思う。
ただ、成婚した人のお見合い回数の中央値は8とかだった気がする。
結婚していく人の多くは、それほど相手に求めない人なのかもなあ、とかは思う。
他にも蛙化グセとか色々あったけど、努力でなんとかしてきた感じではある。
だからお見合いでも喋れるし、相手に楽しんでもらおうと頑張ってお相手からの受けもいいけど、頑張ってはいるからすごい疲れはする。
気が付いたら匂いがしなくなっていた。
確実に老化がすすんでいる。いつの間にか50歳になっていた。
10代の頃、部屋のゴミ箱から放たれる使用済みのティッシュのあの強烈な匂いは今はもうしない。
先日、興味本位で自分の男の匂いを試しに嗅いでみたときのことだ。
今月初めのGWに、妻と二人、新緑の山のふもとの温泉に出かけた。
青空のもと、山々は一斉に咲いたシイノキの花の淡黄色で見事に彩られていた。
シイノキは5~6月頃に穂状の花を咲かせる。
極相林となったシイノキの開花は圧巻だ。山の色を塗りたての油絵の絵具のように大胆に変えてしまう。
そんな新緑の美しさに気が付いたのは、つい最近のことだ。
どうして今までこの美しさを知らなかったのだろう。風が気持ちいい。
若い頃放っていた青々しい匂いが、つーんと頭の先のほうでよみがえる。
ひょっとすると、だからこそ、新緑の生命力がより強く感じられるのかもしれない。
冷静な言い方をすれば、新緑の美しさのなかに、自分自身の老いを鏡のように見つめさせられているのだ。
そういえばシイノキを詠んだ万葉集の歌があったような気がした。
検索したら、こんな歌だった。
家にあれば笥(け)にもる飯(いい)を草まくら旅にしあれば椎の葉にもる
小さな椎の葉しかなくとも旅の途中だ、しょうがない、という状況。
状況に応じて満足しなければならないという人生の不変の真実が垣間見られる。
検索ついでに目に入った芥川龍之介は、この歌を次のように評していた。
やれやれ、わかるのだが、ますます年相応の生き方を考えなければいけないと説教された気分だ。
いまよりもっと年を取って、生活のダウンサイジングを真剣に考えないといけないときがくるだろう。
これね、共同通信だけの問題じゃないけど、そういうことだよね。ミスインフォメーション・キャンペーン。
[B! 上川陽子] 【内部文書入手】上川陽子「うまずして」切り取り報道の共同通信「全くひるむ必要は無い」差し替え経緯も判明
共同だけの問題じゃないというのは、共同通信に乗せられたとしても、各社一斉に
「出産を願ってもできない人への配慮に欠けるとの指摘」で揃ったこと。いかにも日本的な乗せられ方だ。
これは欧米でミスインフォメーション・キャンペーンと呼ばれるもので、誤報による世論誘導だ。
ミスインフォメーション・キャンペーンとは、世論や有権者の行動に影響を与える目的で、意図的に虚偽の情報や誤解を招くような情報を流すことを指す。こうしたキャンペーンは、民主的プロセスに対する信頼を損ない、地域社会を分極化させる可能性がある。誤情報は、ソーシャルメディア、マスメディア、口コミなど、さまざまなチャネルを通じて拡散される。フェイクニュースを作成したり共有したり、事実を操作したり、問題を誇張したりして、有権者の間に疑念や混乱を生じさせるような戦術がとられる。
その目的は、選挙結果を左右したり、政敵の信用を失墜させたりすることだが、ひいては選挙制度に対する国民の信頼を低下を招くため、このようなキャンペーンは、選挙結果に対する有権者の信頼や民主主義全体の健全性に影響を及ぼす可能性がある。
これがいかにヤバいことかのメディア自身の自覚のなさが、世界報道自由度ランキング70位という結果にも反映しているんだよ。
今回の場合、完全に誤報を流したというより、もともと解釈に幅がある、どちらにとられてもおかしくない表現だったことが特徴だ。
それは、女性たるもの出産すべし、と解釈できる、そういう解釈しか思いつかない人が一定数いる、というのは、この記事がでてもなお、上川発言に非があるとするブコメが少なくないことでわかる。
上川氏が女性の役割に対して固定観念を持っている、という指摘はありうると思う。ただ、最初からそういう指摘をする報道だったら、ここまで炎上しなかったのではないか。
しかし、これが炎上したのは、実際の各社の報道が「出産を願ってもできない人への配慮に欠けるとの指摘」だったからだと私はみる。
ジェンダーロールの偏見の指摘と弱者への配慮欠如の指摘は必ずしも同一のこととはいえない。
今回のメディアの場合、不妊で悩む女性を主に念頭に置いたのかしらないが、そういう方々が可哀そうだと、感情的な正義に訴えたわけだ。
上川氏の潜在的な差別意識を指摘するのとちがって、この訴え方は、「出産を願ってもできない人」というデカ主語を据えるものだ。
出産困難者というのは、もやっとしたイメージだ。人それぞれ「出産を願ってもできない人」のイメージが違う。
子育て環境の制度的な脆弱さを思い浮かべるひともいるだろうし、家族親族からのプレッシャーとして理解するひともいるだろう。
女性の出産の役割に自己実現の価値を見出している人もそうでない人も含めて、かなり多くの人が感情的共感の網にかかってしまう。
つまり、上川叩きの味方を増やす効果があって、上川氏からすれば、保守からも批判されうるし、フェミからも批判されうるという状況に置かれてしまったことになる。
今回の誤報キャンペーンでは、感情的共感をより広く、網を張り、特定のターゲット層に的を絞らない戦略が功を奏し、同町圧力の強い傾向のある日本で、あとに続くメディアを一斉に吊り上げ、ばっちりと効いてしまったというわけだ。
「出産を願ってもできない人」への配慮、という形で大衆の感情を煽ったのが今回のミスインフォメーションキャンペーンだったといえるだろう。
問題は、これが選挙に影響を与えかねない、ということを報道機関が自覚しているかどうか。
それに対して「全くひるむ必要は無い」というのが、共同通信のスタンスなのね。確信犯であることがよくわかった。
とはいえ、共同通信だけでなく各社報道機関は、「出産を願ってもできない人」への配慮を犬笛として使いたかったのかもしれないが、その副作用についてはやっぱり少しは考えてもらいたい。
「出産を願ってもできない人」への配慮を訴えたつもりでいても、出産を願ってもできない人々を一つのカテゴリーとして固定化することで、そのグループが常に特別な配慮を必要とする、社会的に弱い立場にあることが強調され、固定観念が強化されることもありうる。
これって女性の弱さ傷つきやすさについての別の意味の偏見が強化されるってことでもある。
社会的に弱い立場であるとの認識が広まれば広まるほど、社会的に敏感なトピックになり(タブー化)、それついて話す際に、他者の感情や意見を過剰に気にすることになる。これにより、人々は自分の発言を自己検閲し、無意識のうちに自らの意見を抑制するようになる。
「兵隊さんご苦労さん」みたいな、何気ない表現が大衆を戦争に巻き込むプロパガンダとして一番効果があるのと似た話で、こんな配慮や遠慮、忖度の積み重ねで、誰かが傷つくのを恐れて何もいえない社会にどんどんなってしまう。
これに対して、いやいやむしろ、偏見解消は積極的にキャンペーンをやるべきだ、女性に対する偏見が解消されて、社会全体としてハラスメントが減るならそれは結構な話じゃないか、といわれるかもしれない。
しかし、実際のところ、偏見というのは、配慮すればなくなるというものでもない。
強さや傷つきやすさの男女差というのは、いってみれば偏見なんだけど、悟りを開けば自分の偏見を解消できるわけでもないし、
言論警察よろしく配慮に欠ける発言をバッシングすれば解消できるわけでもない(公言しないようにすることは可能だとしても)。
近代の黎明期に、イギリスから隣国で起きているフランス革命で、反革命派が断罪されている様をみたエンモンドバークは、
なんでも理性的に判断できる、偏見を解消できると考えちゃう傾向はヤバいと考えた。
偏見なんてなくならないんだから偏見をなくそうという発想をやめて、偏見を生かそうという考えを進めた。
それが保守の出発点なんだけど、世の中が保守一辺倒というのもそれはそれでどうしようもない社会だ。伝統的な価値観のなかでは自己実現できないひとだっている。
さすがに、公平性については、制度が、最低ラインとして補助線というか設計図を引かないと、いつまでも伝統的な価値とか懐古的になっててもしょうがないだろう。
ということでまあ、ジェンダー問題は、極力、制度としての公平性、機会としての公平性という観点に限定して話をするように注意しておくのがいいってことかな。
もちろん、制度機会平等を理性的に討議したとしても偏見がなくなるわけじゃない。
偏見はなくならないけど、制度の普及・概念の進歩に伴い、ひとの意識は変わっていくだろうと期待する。それだけでよく、それ以上のことはあえてしないほうがいい。
ひとはすべて進歩した価値観にもとづいて幸福を追求しなければならない、みたいなのは押しつけがましい左翼の傲慢だからだ。
「伝統的な価値観のなかでは自己実現できないひとがいる」一方で、伝統的な価値観で自己実現をしたいひとだっているんだよ。
進歩的な価値観に基づいて偏見を解消しようすると、社会のどこかで肩身の狭い思いをする人が出てくる。
「世の中はいつも変わっていくから頑固者だけが悲しい思いをする」(中島みゆき、世情)というわけだ。
私から言わせると、そういう進歩史観を押し付けようとするところがもっともサヨクのムカつくところなんだよ。
かつて反戦フォークの全盛期、学生運動が最高潮を迎えていた時期、中川五郎の「主婦のブルース」のなかにこんな歌詞がある。
息子は今夜も帰らない 私は心配で眠れない
だけど私は家庭が一番 真面目に生きるのには疲れたわ
おお 人生は悩みよ ちっとも楽しくない 恋なんてしない間にふけちゃった
わびしい夢に はかない楽しみ 思い通りには何もならない
安保世代では親ですら論破すべき守旧派だった。しかし、学生運動は結局、どの社会階層とも連帯できずにスピンアウトしてゆく。1968年に作られたこの歌はそれを暗示しているかのようだ。一方、中島みゆきの「世情(1978)」は、この10年後の70年代の世界がうたわれたもの。ひとつ前の安保世代の情熱が新左翼へと変遷、空回りしてゆくさまを見せつけられたシラケ世代からみると、左翼残党はあたかも守旧派とさして変わらない頑固さでイデオロギー打破を訴えている、という皮肉な構図になる。
今回の場合でも、産みたくても産めない人が可哀そうだなどと感情的正義で持論を補強すると、そうした表現のタブー視が蔓延し、出産に自己実現を見出している人まで遠慮しなければならない、という空気をつくるかもしれないし、他方で、女性の傷つきやすさを過度に強調することで、女性が弱い存在であるという潜在的な差別意識が助長されるおそれだってある、みたいな妙な副作用が現れる。
かつて、なだいなだが、ケシカラニズムといって、理性的な正義と感情的な正義を区別し、自分のことでもないくせに感情的な共感によって主語がでかくなるのが感情的な正義の特徴だとした。そのことで人々がプロパガンダに流されやすくなる、という趣旨のことをどこかで書いていたのをひさしぶりに思い出した。
たまにはケシカラニズムに陥っていないか自己点検でもするか。フェミニストさんも自分の偏見を認めたほうがいい思うんだよね。
制度的に不幸になっている者は救済する、しかし、偏見ある社会のなかで生きている者の幸せや自己実現は否定しない、という具合のバランスがちょうどいい。
男性社会にあって嫁として母として子供を育ててきた誇りある人生を否定するのがフェミではないと思うし。
そういう意味じゃ、左翼は保守主義のマインドも頭の片隅に入れておく必要があるし、保守派も制度的な公正について左翼の主張に耳を傾ける必要がある、といったところか。
おちんちんがおおきくなった後もおちんちんに刺激を与えつづけると白濁の液体が出ます。これを射精といいます。
射精によって出たその白濁の液体には精子くんが1億ぐらい含まれています。
精子くんはぴろぴろと動くちいさなちいさなオタマジャクシのようなものです。
精子くんがうんせほいせと前進し、膣の奥の卵管にいる卵子さんと出会い、ふたりが合体すると受精卵になります。
その受精卵が12日程かけてやがて子宮内膜にもぐりこみます。これを着床といいます。
しかしその大前提として精子くんと卵子さんが出会うためにはお互いがなるべく近い距離にいなければなりません。
そのためにはつまり膣のなかにおちんちんを入れて子宮口めがけて射精をおこなう必要があります。
なんだけど。
精子と卵子、受精卵、着床、妊娠、ここまでは教科書的に習った気がするけど。
膣の中におちんちんを入れなきゃいけないってのは習わなかった気がするんだよね。
そもそもおちんちんが膣の中に入るという概念が頭の中になかった。
本能的に知っていたわけでもないし…
最近(といっても少し昔から)、発達障害を理由に出来ないことは出来ないと言うべきとか、発達障害を言い訳にしてはならないとか、発達障害に対しての向き合い方は色んな論争を産んでいる(気がする)。私自身も悩んでいましたが、発達障害はご老人と同じように受け取るのが正解なんじゃないか?と思ったので、ここに残しておこうと思う。(もちろん私も発達障害で、かつ、文章を書くのが苦手なので、読みにくい文なのは申し訳ない。)
歳をとってくると記憶力が悪くなったり——いわゆる「ボケる」——、体力が落ちたり、怒りっぽくなったりするとよく言われますが、ご老人のなかにも、もう家族のことすら覚えられない人もいるのに対して、孫もひ孫も覚えているようなご老人もいるし、もう寝たきりで介護されながら生きているご老人もいるし、筋骨隆々で懸垂めっちゃできるお爺さんとかもいる。怒りっぽいお婆さんもいるし、穏やかなお婆さんもいる。
要するに人によるやんけ!ということだが、そう。そうなんよね。でも傾向として、記憶力が悪くなるとか、体力が落ちるというのは必ずある。
それで今思いついたのが、発達障害もこれと同様では?という事。発達障害の人のなかには凄い高難度な大学にいったりめちゃくちゃ成功してる人もいるけど、勉強がとんでもなく苦手な人とか言葉のキャッチボールが難しい人もいる。例示とか話を広げるのは本当に苦手なのでこんぐらいでまとめに入るのは勘弁してほしい
発達障害はマイノリティだから理解しにくいし、エコーチェンバーに陥って何でも障害のせいに思えてきたりするし、厳しい目で見られることも多いけど、発達障害って括りが老人って括りと概念的には同じようなものって考えたら、発達障害への向き合い方の指針にはなるのかな、と。そういう話でした
自分は社会経験も豊富ではない上、今まで小さい会社に勤めていただけだったから、こういった仕事は初めてだった。
で、新人たち。まぁ見事に挨拶もしない、返事もしない。こちらが問いかけても全く無反応。
一人だけ反応しようと素振りが見られるが、周りが静かすぎて合わせて沈黙する結果、全員が無反応。
自分たちが社外の人間だからだろうか、とも思っていたが、直属の上司にも全く同じ反応。
「連絡事項があります」と声をかけても、喋ることをやめない。
まぁ、社会経験のなさか……よく言われるZ世代の特徴か……?とは思いながら、そこは現状様子を見ている。
ちなみに、ここの社風はなかなかに古風なThe 体育会系だ。(研修プログラムの中に、走り込みや登山などがある)
そんな感じだからか、勝手な偏見で「こんなだりぃ事やってられっかよ!」みたいな、反発心があるかといえばそこは全然なかった。
とにかく自主性がない。いわれたことはきちんとやる。その代わり、いわれたこと以外は全くしない。
今回の学習方針が「自主性を育てる」だったのも相まって、割と研修者に決定権を委ねる、という事を多々行っているが、皆とにかく困惑する。
誰も動かない上に「いやそっちで決めろよ」という空気すら流れる。
そんな研修者たちの自主性のなさや熱量の低さと社風の古式ゆかしいシステムが、第三者から見ていてあまりにもアンマッチだった。
都会とは到底言えぬ場所に会社を構え、その周辺に引っ越しをさせる。ある人はアパートやマンションを借り、ある人は社宅へ居を構える。
居住地でさえ会社に縛られる。その他の様々なアクティブな雰囲気をまとった行事もあいまって、研修者の性質とのギャップを感じ、頭をひねった。
自分なら間違いなく息苦しさを覚えて、こうも変な風習に縛られるのなら、さっさと離脱してしまうだろうな、と考えた。
でもすぐに、こういうのって割と社会人として普通なんだろうな、と思った。
自分の社会経験の薄さもあいまって、判断に困るのだが、それでもある種自分に社会性がないのだな、と気付いた。
個人的にAIイラストは、ブログのアイキャッチやパワポの挿絵みたいな「フリー素材」として使う分にはありだと思うんだけど、SNSを見てると「AIアーティスト」を自称したり、#AIイラストみたいなハッシュタグを使ってイラストそのものを公開・拡散することを狙う人が結構いて、なかなかに辟易としている。
というか、ただでさえ賛否両論というか、絵描きクラスタからは反発の多いAIイラストなのに、それを作品としてまるで自分が描いたように謳う連中はどういう神経をしてるのだろう。
というかというか、自称AIアーティストとか#AIイラストとかのユーザーを見てみると、かなりの割合で関わり合いになりたくないような奴なんだが、なんかそういう人に魅力的な何かがあるのかね。
閉め切った会場に人を集め、日用品などをただ同然で配って雰囲気を盛り上げた後、冷静な判断ができなくなった来場者に高額な商品を契約させる手口です。この手口に遭い、商品を購入し続けた結果、老後のための貯蓄を取り崩したり、保険を解約する状況になるまで追い込まれたりしている例がみられます。
高齢者がこうした会場に出向く背景には、健康への不安、経済的不安、日常的な寂しさ等があるといわれています。SF商法の販売員は、来場者に思いやりのある発言や親切な態度で接し、面白い話をして楽しませるなど、高齢者の心理を巧みに利用して信頼関係を作るため、周囲や本人が被害に気付いても解決は簡単ではありません。なかには被害に遭ったことにすら気づいていない高齢者もいます。
国民生活センター : https://www.kokusen.go.jp/t_box/data/t_box-faq_qa2019_13.html
高齢者じゃなくても様々な不安や寂しさ等がある人は多いから同じ手口が機能するはず。
しかもキャバクラやホストはアルコールや恋愛感情のハックや推しの順位競争があるから冷静な判断を出来なくさせる効果は普通の催眠商法よりあるんじゃね?
この売上0の根拠は何?
以下の記事が正しいなら回復の見込みがないというのは違うのではないかと思う。
さらに中国は、内燃機関エンジンを使うハイブリッド車については「熱烈歓迎」なのである。
日本経済新聞などは「2035年をめどに新車販売のすべてを環境対応車にする方向で検討する」と報じており、これは正しい記述である。
重要なポイントは、中国汽車工程学会による今回の政策提言のなかには、ICE(Internal Combustion Engine=内燃機関エンジン)を「やめるべき」とは書かれていないことだ。
伝統能源車に占める混動車(正式には混合動力車、これはハイブリッド車=Hybrid Electric Vehicle、つまりHEVを指す)の比率を2025年に50%以上、2030年に75%以上、そして2035年には100%にしなければならないと提言した。
https://car.motor-fan.jp/article/10017032
EVはどう考えても補助金によってシェアを伸ばしてるだけので、補助金なくなったら結局ガソリン車かハイブリッド車に戻るんでは
欧州ではかつてBEVが市場を席巻していたスウェーデンやノルウェーで、昨年秋以降、相次いで補助金が撤廃された。ドイツでも予定を早めて昨年末までに補助金が打ち切りとなった。打ち切りは各国の苦しい財政状況が主要因で、補助金が打ち切りとなると即、販売が落ち込むというBEV販売の脆弱(ぜいじゃく)性が露呈された」(遠藤功治・SBI証券企業調査部長)と指摘
https://www.worldtimes.co.jp/opinion/mediawatch/20240415-180559/
出会いが全くない。
日がな女の子のことばかりを考えながらも接触を持つことができないというのは全く酷なことだ。
そんな折、ライブチャットなるものが存在していることを最近知った。
普段なら絶対に試すことはないだろう。しかし今日の俺は飢えていた。
公園に行けばカップルばかりが目に入り、やるせない思いばかりが募る。
どのような形であれ若い女と話せるなら。
その子は若く、髪は茶髪で目は大きい。どことなく上戸彩に似ていた。
彼女はカラコンを入れているのか目は狐目のように赤みを帯びていて、目の中で白い半月を描いていた。
と女の子は開口一番、手を振るような口調でそう言った。
「こんにちは」と俺は冷静に答えた。
「おにいさん、テンション低いですね」と女の子はケタケタ笑って言う。
そうか。その時俺は気づいた。
向こうには俺の姿は見えないのだ。
情報の非対称性が著しいな、と思いながら俺は「ははは」と愛想笑いのように低い声で笑った。
「おにいさんは誰に似てる?」
俺はほんの僅か考え、「木村拓哉に似てるよ」と答えた。
「木村拓哉?ああ…そうなんだ。かっこいいんだね」と女の子は言った。
俺はどちらかといえば東浩紀に似ているが、どうせ彼女には分からない。
それに「かっこいい」と言われ、満更悪くない気分だった。
「普段もこういうの、よくやるの?」と言われ、俺はまごついた。
初心者であると告げる方が良いのか悪いのか、判別がつかなかったのだ。
一度冷静になろうとする間を与えず彼女は「ん~?」と覗き込むようにカメラに近づき、俺の返答を待つ。
「…初めて、かな」と俺は素直に答えることにした。
「そうなんだ!じゃあ、はじめてで私を選んでくれたってことでしょ?うれしい~」
それからライブチャットがどのようなものか、彼女から話を聞いた。
なんでも横柄な客も多いらしく、なかには「脱げ」と直接的に言ってくる輩も居たそうだ。
「まあ、普通じゃないかな」と俺は低い声で答えた。心は浮かれていたが。
時間はあっという間に過ぎていき、気付けば30分近く経とうとしていた。料金を見ると6千円ほどになりそうである。
あっ!となり、内心焦り始めた。割高なのは知っていたがここまでとは。
あまり高額になってはマズいと思い、「じゃあ、そろそろ…」と声をかけると「えーっ、もっとお話ししたいのに」と彼女は駄々っ子のように言う。
「おにいさんみたいな人、好きなのに」と言うので「ごめん」と俺は謝り、「じゃあ…仕方ないかぁ。また今度ね」と笑みを見せて手を振ってくれた。
俺もモニターに向けて手を振り、初めてのライブチャットはこうして終了した。
それからしばらくの間PCの前から一歩も動かず、まどろむように興奮していた。
それは単なる下心と呼べるような下種話なものではなく、俺といった存在を認められたことによる満足感だった。
思いのほかよかった。心がポカポカする。自分という存在を異性に受け入れてもらえた。
そのことが嬉しかったのだと思う。
もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事の書類ばかりとなった昨今。
でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。
書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。
生まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖の詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。
頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初の感想だった。普通に文章だったからだ。
調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで
「韻」という言葉もその時初めて知った。
井上靖の詩集を手に取ったのは、国語の教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。
というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初の詩集だった。
小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。
季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなものが短歌や俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。
特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平の短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉のニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。
幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。
自分の世界の表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。
例えば、雪という詩がある。
雪
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
みつけた詩だ。雪が降って来ると、
私はいつもこの詩のことを思い出す。
中学生の私は、なるほどと思った。
詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉のなかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。
鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。
当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。
いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。
ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。
山頭火は面白い。普通の俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。
定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌のエントリーポイントとなって、
しかし俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。
いつしか手にしていたのは、興津要の解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。
剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代の言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。
その後は巴毎晩組み敷かれ
木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代の川柳で妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい。
一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。
俵万智のサラダ記念日がベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。
例えば、こんな一首。
あさま山荘事件を起こした連合赤軍の幹部、坂口弘が収監中の東京拘置所から毎週のように短歌を朝日歌壇に投稿していた頃だ。
朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌の表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。
風花って知っていますか
渡辺松男と太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇をリアルにみていた人にしかわからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱が発酵すると詠んだりする太田美和。
実生活で恋をしていた私は太田美和の言葉に自分を重ね合わせた。
でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。
大学を卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。
生活が一変した。
書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。
世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。
山頭火も武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接と資格だ!という日々。
就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。
たまに思い出しては、現代短歌の最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。
若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。
それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。
そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。
思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分が死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。
中年になっていいかげん自分の限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖の感覚がとてもよくわかるようになった。
これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。
詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。
どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。
鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯な子供の姿を思い浮かべる、という
文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワインと食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。
ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種やビンテージ、気候土壌などさまざまな情報がある。
しかしワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのときの話題、体調などに大きく左右される。
水だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。
マリアージュという言葉があるように、ワインは一種の調味料として機能するため、食べ合わせは重要だ。
ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見のワインでしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。
逆に偽の情報を表現豊かに補完してしまえば、コンビニで販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。
ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的な規律として表現することはできない。
詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。
井上靖が「小学校の教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき、井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。
その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。
どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときのメンタル、いわば偶然の力だと思う。
渡辺松男と太田美和が並んで歌壇に掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。
失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会。
そのときに自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。
ところで、先日、Yahooの芸能ニュースをみていたら、TBSのプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人が俳句の先生から5点と酷評されたと報じていた。
消しゴムが 白き水面に ボウフラを
というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味を説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。
ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人の俳句が酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組の演出・脚本としてはそれがオチなのだろう。
演出もさることながら、これは、他の出演者の俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。
虹の下 クレヨンの箱 踊り出す
天王山 黒ずむ袖に 薄暑光
薫風や 隣の君と 教科書を
こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。
バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージで作品のクオリティが補完されてしまうのだ。
しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校の児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。
消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月の番組で文房具だからまだ気持ちはフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。
ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。
それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。
いいかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。
一方で白い水面(ノートの隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。
ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。
と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ。
ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。
また、どんくさいもの、弱者がボウフラというノート上のより小さい存在に視線をフォーカスする、という手法は小林一茶の方法とも通じるところがある。
番組の評者は、この芸人の俳句を酷評したうえ、次のような添削をしたという。
夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。
しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組だからね。
ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界は一種のルッキズムだ。夏休みとかいって勝手におめかしさせようとするんじゃねーよ。
そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつの動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語や川柳で身につけたものだろうから、ゆりやんの一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。
○ご飯
朝:なし。昼:納豆たまごかけごはん。豚汁。夜:餃子、もやし、にんじん、しいたけの鍋。ネギたまごおじや。間食:カラムーチョ。アイス。
○調子
むきゅーはややー。おしごとは、おやすー。
○BUSTAFELLOWS
文化放送エクステンドから発売された乙女ゲームで、駆け出し記者にして時間を巻き戻す能力を持ったテウタを主人公に、悪を成すことを厭わない男性たちと恋愛していくクライムサスペンス。
キャチコピーの「あざやかな悪に染まれ」の通り、なかなかに悪い奴らが揃っている。
乙女ゲームではあるが恋愛の要素は薄めで、クライムサスペンスらしい犯罪のエピソードの掘り下げが色濃い。
アメリカを舞台にしているため、不法移民という社会的なテーマへの切り込みもある。
共通ルートとして四つの事件、その後男性キャラ五人それぞれの個別事件が五つ、最後に全てを包括した事件が二つとかなりのボリュームがある構成になっていた。
しかし、構成に対して文量に物足りなさを非常に感じる惜しい作品だった。
プレイ時間も20時間ほどしっかりあるにも関わらず、全体的にストーリーが駆け足で、もっとじっくり楽しみたかった。
特に主人公のテウタが持つ時間を巻き戻す能力は、巻き戻すだけでなく、巻き戻すと自分以外の他人にその時間の間憑依することができる複合的な能力。
連続使用は何回までなのか、戻る時間に規則性はあるのか、憑依する相手はどうやって選ばれるのか、その間テウタ本人はどうなっているのかなど、何がどこまで出来るのかの段取りを整理するくだりが少ない。
さらにこの憑依する相手がランダムな都合上、時間巻き戻しを使う場合も念入りに段取り立ててから使うべきなんだけど、そこも緊急的に使うばかりで作戦を練らない。
時間に関する特殊な能力を扱うフィクションならではの、仕掛けじみたパートも少なく、ヒロインと男性キャラの絆を示すために都合よく使われる部分ばかりなのは、段取り好きとしては残念。
悪を成すことを厭わない男性キャラたちの”悪“の部分も、同様に段取りの部分がおざなり。
悪徳弁護士のリンボであれば法の穴を突くような仕掛けを期待したくなるが、昔弁護した知り合い、検事が姉、実家が金持ちなど、身内の力を借りる場面が多いのは物足りない。
殺し屋を殺す殺し屋のシュウ、美容整形外科医で変装の達人のヘルベチカ、天才ハッカーのスケアクロウ、法医学者のモズと、他の4人の仲間たちも同様に、段取りを整理するくだりが非常に少なく、文量の不足を感じた。
(あと“実は配信サイトで動画を配信していました”は仕掛けとかトリックではないと思う)
ストーリーの駆け足感は先に進めば進むほど加速していき、最後の所謂トゥルールートじみた二篇は、あらすじ感が非常に強い。
起きた事象を点で捉えれば、感動する場面や、泣ける場面も多いのかもしれないが、それらを噛み締め咀嚼するパートの少なさと、そこに至るまでの段取りの不足は、ちょっと僕にはハッキリと合わなかった。