はてなキーワード: 場合とは
カブトムシみたいに美しくなりたい。
カブトムシの角や光沢、見た目の力強さと儚さのコントラストは、実際に手に取ってみないと分からないものだ。その美しさは、表面的なものだけではなく、存在そのものにあるのだと思う。私はそんな内面から滲み出る美しさを手に入れたいと願っている。(美談)
日常生活の中で、私たちはどうしても見た目や表面的な部分に囚われがちだ。スマホのカメラに収まる範囲で自分を評価しがちだが、実際にはそこに写らない部分こそが本当の価値を持つ。人間関係も同じだ。見た目や表面的なやり取りだけでなく、その奥にある感情や思いが重要なのだ。でしょ?
多くの場合、人は自分の価値観や考え方が正しいと信じてる。でも、正しさだけで人を惹きつけることはできない。むしろ、完璧すぎる正しさは、時として距離を生む原因にもなる。人間らしい弱さや不完全さが、逆に魅力となることもあるから。そう、カブトムシみたいに。(?)
過去の恋愛を振り返るとき、私は彼の正しさに圧倒され、息苦しさを感じることがあった。それは、彼が悪いというわけではなく、私がその正しさに対して自分を見失ってしまったからだ。カブトムシのような自然な美しさとは、無理に完璧を目指すのではなく、自分らしくいることにあるのだろう。どや?
日々の中で、自分を偽らず、本当の自分でいることの難しさを感じることもある。それでも、自分自身を大切にし、自分らしく生きることが、最終的には最も美しい生き方だと信じている。写真に写らない美しさを追求すること、それが私の目指すべき道だ。
普段使っててもう体が覚えてるようなパスワードが分からなくなることあるじゃん
大抵の場合しばらく経ったら思い出すんだけど
まあ今までなくてもこれからあるだろう
震えて眠れ・・・
問題は価値観が合わなかった場合で、女:助ける、男:見捨てる、と最初に選択した場合は、女が助けに行ったら男もバツが悪そうにしながら助けることに同行する場合が多い(もちろん怒りだすやべー男も稀にいるが)
僕がひとまえで話す時にいつも言葉に詰まるのは、話している最中に、的確で当意即妙で面白いことを言いたいな!うまく喋りたいな!という欲求がリアルタイムに渦巻いていて、バックグラウンドでは常に言葉を模索をしているからなんだと思う。しかしながら言葉の場合は、ドラえもんがああでもないこうでもないとポケットから道具をポンポン引っ張り出すような具合に、言葉を声に出してしまうと冗長だし支離滅裂になってしまうことはわかっているので、あのーとかうーんとかちょっとーとかえーっとー、とか言って、そうしてああでもないこうでもない感が出てしまっている。
初めから、うまく話すことを諦めたらいいんじゃない?と言われても、それはすぐに「わかりました!」と飲み込むことができない。なんというのだろうか、それは僕の自我というか理想というか気概というか意志みたいなものを、僕の僕というところを、みんなみんな放棄して話してください、と言われているような気分になる。僕は話すということには考えるという行為を常に紐づけているので、脊髄反射的な作用で話すことができない、それをしてしまうと僕は僕でなくなってしまうと思う。
じゃあどうすればいいのか。それはわからない。僕はたぶん言葉のセンスはないんだと思う。正確で整理されてかつウィットや冗談の効いた面白い喋りをする人は、僕の周りにはたくさんいて、いつみても素晴らしいなと思う。尊敬する。でも僕はそんな人のようにはなれなくて、それは知識や言葉を知らない以前に、センスがないからなんだと思う。運動神経が悪いの言葉バージョンのようなものになっているんだと思う。
慣れでなんとかなるのかな?そうは思えない。この調子で数十年生きているんだよ?ずっと死ぬまでこのままなんじゃないかと思う。僕はこのままでいいのかな。いやだめだよ。上を目指したい。僕は光をめざしたいんだ。
事実だとわかるのは、
該当の脚本家は指揮権のあるプロデューサーに困惑や苦い気持ちをSNSで伝えたわけでもなく、
何故か2次創作者の立場でありながら同業者と原作者をSNSで批判したこと、
日テレもプロデューサーも出演者もそれを放置したこと、
ただこれだけだぞ
魚拓より
がら急きょ協力という形で関わることになりました
魚拓より
最終回についてコメントやDMをたくさんいただきました。まず繰り返しになりますが、私が脚本を書いたのは1〜8話で、最終的に9・10話を書いたのは原作者です。誤解なきようお願いします。
(中略・気になるなら魚拓見て)
脚本家の存在意義について深く考えさせられるものでした。この苦い経験を次へ生かし、これからもがんばっていかねばと自分に言い聞かせています。
どうか、今後同じことが二度と繰り返されませんように。
魚拓より
某脚本家
○○さんの一ファンとして悔しいです。🥺
1〜8話で変化、成長していった登場人物たちが、9、
んと描くだろうなと思いながら観ました。
で、その時間経過も描けてなかったですね。。
まったのが残念でした。😢
私もこの事、胸に刻んでおきます。
某脚本家
あろうとです。わたしもいろいろ考えさせられまし
た。ともあれ素敵な作品をたくさんおつかれさ
までした!良いお年を迎えてください
文業の人
はじめまして。毎週楽しみにしてました。
わったので不思議でした💦そして、えっ、
ここでふんわり終わり?と。
でも訳がわかりました。
そして、私も物書きの1人として尊厳を傷つ
素性不明
な?誰かが手を入れたりして現場も混乱した
のでは?
他にもドン引きコメントにいいね❤️推してるのが確認できるので気になるなら魚拓見ようね
せめて下記のように発言すれば、よかったよね、これなら表立っては誰からも責められずに『私が書いたんじゃないから』をできた
『最後の2話は、な…なんと!!!原作者様がご自身で脚本を書いてくださいました!サプライズプレゼント🎁🎄でしたが、原作ファンの皆様にも喜んでいただけるような作品に仕上がったと自信を持ってお伝えできます』
こう言っとけば、ゴタゴタが取り沙汰されても、下記のように言えば全部問題片付いた
『このドラマの製作過程では、チームメンバーの間で様々な意見が飛び交いました。それは、原作のファンやドラマの視聴者に、最高の作品を届けたいという共通の想いがあったからです。原作者の方にも、貴重なご意見やご協力をいただきました。おかげさまで、素晴らしい作品に仕上げることができました。ぜひドラマをご覧になって、製作チームの情熱を感じてください』
それすらもしないで、2次創作者の立場で原作者をドラマ出演者と一緒の写真を添えて非難という傲慢な奇行、そりゃ燃えるよね🔥
どこぞの脚本協会だって、『著作権法第20条』が大事だって言ってるだろうよ
【日本シナリオ作家協会・脚本契約7原則】
(1)「オリジナル企画」および「オリジナル脚本」の脚本家は、原作者として尊重されなければならない。
(2)「オリジナル企画」および「オリジナル脚本」が映像化に至らなかった際は、特段の取り決めがある場合を除き、いかなる場合も著作者である脚本家が任意に利用できなければならない。
(3)企画開発費と脚本料を一元化してはならず、企画段階の企画書・プロット執筆、脚本執筆には、別途ギャランティが支払われなければならない。
(4)脚本料は受注時に取り決め、長期間に及ぶ脚本執筆 の場合は随時支払われるものとし、決定稿を提出した後、速やかに支払いが完了されなけれ ばならない。
(5)企画開発および脚本執筆のために必要とする取材費、資料費、交通費その他の実費については、発注者が負担しなければならない。
(6)氏名表示に関して著作権法第19条の規定を遵守し、宣伝・広告活動の際にも配慮されなければならない。
(7)著作権法第20条の規定を遵守し、脚本家に無断で脚本を改訂してはならない。
笙野と小西の勤務先は、原作は都市銀行と広告代理店であったが、ドラマ化ではドラマ内で両人が頻繁に顔を合わせても不自然ではないように、同じ職場(商社)とした
同じ職場にした方が纏めて撮影できて楽なのはわかるが、こういう小さなところから改変は始まるのだなという学び。
原作では朱里が短大に進学した設定があるが、本打ちでは、同設定に関して、「短大に進学するよりも専門学校に進学する方が近時の 10 代、20 代としてはリアリティがあるのではないか」、(短大進学の原因となっている)「父親のリストラはドラマとしては重すぎるのではないか」等の議論を経て、高校受験の際に、父親が勤める会社が不景気になり、母親から「高校は公立でいいんじゃない?」と言われて本当は友達と一緒に制服がかわいい私立校に行きたかったけど、「うん、そうだね」と笑って受け入れたという設定に変更する旨のプロット案を送信した。
「何故わざわざこんな謎の設定変更を?」みたいな謎改変に至る思考プロセスが詳らかに言語化された日本初の資料だと思う。「本当は友達と一緒に制服がかわいい私立校に行きたかった」のあたりは特に、キャラクタをどう捉えているかが最高によく出ている。
しかしながら、本件原作者の上記返信内容をみる限り、本打ちメンバーで議論した内容・意図が十分伝わっているとは思えない状況であったことがうかがえる。
内容・意図は十分すぎる程伝わってると思う。本当に心底どうでもいいことをわざわざ考えて議論してることを何より誠実に伝えてるプロットとして自信を持って欲しい。
朱里が田中さんにメイクをしたが老けメイクとなり失敗するシーンをカットするか(制作サイドでは、該当女優の肌がきれいすぎるため映像ではうまく表現できない等の理由でカットしたい)等で制作サイドと本件原作者でせめぎ合いがあった。
映像制作レベル低すぎない?ハリウッド映画の特殊メイクしろって訳じゃあるまいし、映像でそのまま見せられなくても演技、演出、照明、カメラワークで何とかしようとしないのか。
A 氏によると、まだ撮影していない旨を回答すると本件原作者から撮影変更を求められるのは確実であると思ったが、A 氏は当該撮影シーンは客観的にも問題ないものだと思っていたこと、及び当該シーンの撮影のために 2 か月にわたってキャスト・スタッフが入念に準備を重ねていたため、撮影変更はキャストを含め撮影現場に多大な迷惑をかけるので避けたいと思って咄嗟に事実と異なる回答をしてしまった。このことは反省しているということであった。
仕事でよかれと思って嘘をつくの、どうしてもあるよね。わかるわかる。
でも自分が助かろうと思ってつく嘘は絶対バレるし、バレた後の処理を考えてないと破滅するんだよね。これ絶対バレた後のこと考えてなかったでしょ。
A 氏の認識では、この時初めて「創作するな」という話が C 氏から言われた。A氏はこの時点でもこれまで同様ラリーを続けて本件ドラマを作っていくのがいいと考えていた。
ここまで来ても噛み合わないの、恐怖を感じる。
C 氏は A 氏に対し、オリジナルで挿入したセリフをマストでなければ削除してほしいと言ったところ、A 氏は、それでは本当に本件原作者が書いたとおりに起こすだけのロボットみたいになってしまうので本件脚本家も受け入れられないと思う旨答えた。
ここまで来ても噛み合わないの、恐怖を感じる(2回目)。
本件ドラマ 5 話のダンスのシーンで使われた音源は、配信許諾が取れていなかったので、配信で使用出来る別の音楽に差し替えた。しかし、セリフで「シャー・ルク・カーンの『マルジャーニ・マルジャーニ』!!」と笙野が叫んでおり、セリフはすでに収録していたため、差し替えることが出来なかった。そのため音楽とセリフの不一致が生まれた。
許諾の有無なんて調べりゃわかるよね。というか調べてるから差し替えできた訳で。
いいものを作ろうと思ってるプロのスタッフが揃ってこんな初歩的なミスを犯すとか不思議で仕方ない。
その際、サントラ盤のジャケットに🄫NTV と記載されていたところ、小学館から本件ドラマのサントラ盤でありドラマの要素を使用しているにもかかわらず、🄫NTV(日本テレビ)のみのクレジットであることはおかしい。販売を延期してほしいという要求があった(CD の中にあるブックレットには本件原作者名を記載していた。)。
著作権者表記だけで、原作付きドラマの権利をどう思ってるかがよく現れていていいと思います。
限られた予算では、大規模な撮影が難しく、美術セットを多くは作れない。こうした場合には、原作とは場所の設定を変更するなどして撮影が行われることがある。
地上波では、残虐なシーン・過激な性表現等に配慮が必要なため、原作のシーンやセリフのカットや変更等が必要になる場合がある。
自動車用品店に「燃費向上グッズ」ってあるじゃん。そんなもんで燃費向上するならとうの昔に各自動車メーカーがやってると思うんですよね。
…という話と同じで、改変してより面白くなるならドラマスタッフよりも先に漫画家なり編集なりが認識してやってるんじゃないですかね。
依頼された弁護士グループと社内コンプラが社内また小学館側への調査をした報告書をそのまま公開している、という話だ。もちろん調査側は問題点や改善策も挙げられているが、これは日テレの結論ではない
なのでこれが日テレの結論かぁ!怒と言ってる人はそもそもこの調査報告書が何なのかは分かっていないし読解力がないにもほどがある。
要約ではなく全文、長いが、クソ長いが全文を「無責任に言及した人」は読むべきであろうし、当時あの作者の「長文」ブログを読まずに好き放題言った人は数倍になってさらなる「長文(続報もあるのでまだ終わらない)」を受け取ることになったのだと理解してほしい。
本文は何月何日に誰と誰がこのようなやりとりをした。
ということをメールやLINE、消してしまった分は周囲の聞き取り含めて集めて記載しているので、わりと生々しい。
勿論明らかな問題点ははっきりと明記されている。しかしすんなり誰が何をしてこうなったのだ!と言えるものでもない。
人が一人亡くなるともなれば、AだからBになって人が亡くなった。などという簡単な図式ではないだろう。整理しながら読んでほしい。
調査報告書にはこれまで大きく取り上げられていなかった脚本家クレジット問題についてしっかり触れられているのだが、ここはおそらく当事者(達)にとってはかなり辛くなる、追い打ちをかける状況だったと思わざるを得ない。
もちろんそうなる前になんとかしろと言う話だが。
頭を抱えたのが、今回の調査報告書と照らし合わせると「アクマゲーム」で起きていることも予想できてしまうし、果たしてこの改善策だけでアクマゲームは良作になれたのだろうかということだ。
色々と触れたい部分はあるのだが、とりあえずあと一点。
個人的に日テレの気になる点なのだが、よくバラエティあがりの経験のない監督やプロデューサーにいきなり人気枠のドラマを任せており、演技経験のない芸人が多数登場するような低品質の実写化をしょっちゅう見る(ドラマファンの間では日テレはドラマにかける制作費がかなり低いと言われている)
この人事についてはこの報告書にも触れられている。
サポートでクレジットされているようなベテランプロデューサー等が結局参加できるようなスケジュールではなく、業界人で同じ局というだけの、ほぼ素人制作のドラマが乱雑に作られたという話だ。
この乱雑さは「人間関係の構築」部分であると読んでいて認識した。サラリーマンも頭が痛くなる内容だ。
日テレも素晴らしいドラマはあるのだが、キャストスタッフ原作も関係良好の場合が多い。丁寧にすれば作れないわけではないのだ。
日テレは、いやテレビ業界は、あまりにも雑に仕事をこなしていないだろうかと思ってしまう。結果跳ね返ってくる。
小学館はたしかに立ち位置としては一貫して作者側だったようだ。作者のための対応をしていたとは思うが、足りない。全く足りていなかった。
でもどうだろうか。例えば集英社や講談社が契約書を絶対に作らせていたなんて話は聞かないわけで…。
この罪が跳ね返った先にあるのが会社の体面であればいいのだが、人が命を込めて作ったものであるということを忘れてはならない。
大学3年生で今まで彼女が欲しいと思い行動を起こしてきたが恋人が全くできそうもなくつらい。外で歩いている恋人を見ると羨ましくて悶絶しそうになる。
いつか読んだ本で彼女は本当は必要ないのではないか周りの影響でほしがっているだけなのではないかと読者に問いかけるような内容を読んだことがあるが、全く持って私の場合これは当てはまらない。純粋に周りの影響関係なく彼女が欲しいのだ。
アイドルマスターが好きでライブにも言っているのだが、そこで声優さんと出会い、女の子の可愛さと2次元とは違った奥深さ(例えば、いわゆる”ゆるふわ”な女の子でも掘ってみると”ゆるふわ”という一言では表せない多面的な要素が複雑に絡まり合って人格を形成しており、2次元とは異なる、性格を一言で表せない奥深さを感じる)に気づきそこから彼女がいてくれたらと思うようになったのだがいまだできたことがない。
大学1年の頃から試行錯誤しており、主にファッションとスキンケアについて転がり立ち上がりようやく様になってきたが女性側からの反応はいまだない。髪もセットしているのであるが、フィードバックを求められるおしゃれな友人もおらず、これでいいのかと不安ながら通学をしている。私を不安にさせているのが女性からの反応が全くもらえないことであり、ファッションについては人気のファッション系ユーチューバーを参考にしているので間違いないと思うがヘアセットやその他の要素(例えば猫背、肌など)についてどう思われているかが不安である。
最近パーマをかけたのだがセットしてもいわゆるチー牛顔にしかならず本当にショックだ。やはりヘアセット初心者の私にパーマは早かったのか。しかし、マッシュ等の髪型には惹かれず一番パーマがよさそうとインスタを見て思ったのだが、私には似合いそうもない(誰からのフィードバックもない)。
今まで女性に何度か話しかけたことがあるがその話しかけた女性から自分は話しかけられることがないのできもがられているのではないかと感じ、それが私を悲しい気持ちにさせる。今となっては黒歴史であるが、以前ひげ脱毛のダウンタイムの関係もあり大学にひげを生やしていったことがあった。相当な変化であるがだれからも反応をもらえず、なぜ誰もフィードバックをくれないのだろうと怒りすら感じる。
いままで大学に入って好きな女の子が3人で来たのだが初めて好きになった子にも次に好きになった子にも彼氏がおりそれが本当にやるせない。女性は簡単に彼女ができるというが(ネットの受け売りだが)その受け身でも彼女が出来るのは本当にうらやましい。前述した私の見ているファッション系youtuberでは「街中で好きな男性の服装を女性に聞く」という企画があるのだが、そこで偉そうに男性の服装に意見している女性を見ると非常に憎たらしく感じる。私は拒絶され(女性から話しかけられないことを私は拒絶ととらえている)ているのに、世の中の女性は男性のアプローチにケチをつけ、アプローチをもらったことで自信を高め、さらにそのひとをけなすことで快感を得る。なんて偉そうな立場にいるのだろうと嫌悪感を感じる。私が初めて好きになった女の子はあまりいけていない子であったので(性格が悪い言い方であると思うが誰しもこれくらいの性格の悪さは持ち合わせていると思う)私自身と同一視している部分もあるのだが、なぜ私は恋人ができず受け身な彼女は恋人ができるのだろう→彼女が女だからだ という論理でネットでみた女性だから受け身でいいという言説を鵜呑みにして(実際自分で確認したわけではないので本当に受け身でいいのかはわからないが)受け身なくせに女性のほうが恋愛がうまいという論理が破綻しているように感じる世の中の言説も合わせて、近頃は女性に憎しみを感じている。
私がそのうち彼女が出来ればいいのような楽観的な思想になれないのは結婚相談所やマッチングアプリでの恋愛をしたくないという点がある。マッチングアプリや結婚相談所は男性が多く払うという制度があるのだと思うがこの男性が多くというのが結婚相手とは平等の関係を築きたい私にとっては拒否感があり、今恋人がほしいのだ。
恋愛で死ぬというのはバカであると感じる人も多いと思うが、最近は本当に自殺を考える原因になっている。女性の可愛さを認めている私にとって女性が周りにいる環境で女性に相手にされないというのは非常に自己肯定感を失う体験の連続であるし、目の前異性がいるのに、ネット等で誰でも頑張れば恋人ができるという言説があるのにも関わらず恋人ができないのは、自分はニンジンを目の前にぶら下げられた馬であり、手に入らないのにそれ求め続ける、しかし手に入らないことを薄々は感じていているのに求め続けるむなしさを感じる。私は人一倍無能であり、バイトでも何回も無能扱いされてきた、将来仕事でも成功は納められないだろう。そういった自身の無能さを勝手に女性の目を借り自分を下げ、自身の首を絞めているのかもしれない。今、バイト先ですごく素敵な女性と出会い、この人と一緒にいられたらと思っているがどうせこの人にも彼氏はいるのだろうと思い、どうしていいのかわからず心がかき乱される。そして簡単に恋人ができる女性へのヘイトを考えてしまう自分がいる。
私が恋人になってもいいと思っている女性がいるなら何か合図が欲しい。こういう部分に拒否感があるのような女性側の意見もわからずアプローチをするのはつらい。女性からの愛に餓えているのかもしれない。私のことを愛してくれる女性なら誰でも好きになる自信がある。女性も異性からの愛を求めていて、お互いが空回りしている状態だったらどんなに良いだろう。女性は私が話しかけてうれしいのだろうかそれとも嫌悪感を感じるのだろうか。女性は基本自分から異性に対して話しかけないのだという情報をネットでみた。私も女性に何度か話しかけたことがあるがその女性から以後話しかけかえしてもらえることはなかった。話しかけてもらったら次にお礼で自分から話しかけるという考えを持っている自分にとっては無礼な行為であり、怒りを感じるがこれが私が彼女から嫌われているからではないかという悲観的な考えもある。どうせ彼氏がいるから私に話しかけてこないのだろうという 女性=誰しも彼氏がいる というネットで見たことと私の経験から作った法則に当てはめ、恋人が簡単にできる女性への憎しみも感じる。
↓ここからは私の日ごろためている女性ヘイトについて書こうと思う。
正直女性はかなり優遇されていると感じる。恋愛面に関しては男性が寄ってきてそれを見定める立場である。バイト先でも男性は女性よりきつい仕事を任されることが多い(女性より時給300円くらい多くもらっても良いのではないかと感じるくらいハードな仕事を同じ職場でも求められることがあるし、それで今日の仕事きつかったねと話しているところを見るときつい仕事は男性がして当たり前なのかと殺意がわく。バイトや自動車学校等でもネットの女性のほうが優しくされるという言説を意識して見てみると大事にされているというのを感じる)大学で女性がやたらとジェンダーと関連付けたレポートを書きたがるのは憎たらしい。今の待遇に不満があると言いたげなその姿勢は本当に憎たらしい。
ここまで長々と書いてきたが私は結局女性のせいにしたいだけなのだろう。女性にも興味がない男性を拒否する権利はあるし私が女性でもそうしていただろう。私は軽度の障害もあるし、仕事もできないので未来がない。文系なので女性が多い職場で女性の目を借り自身を傷つけながらこれからも生きていくのだろう。もともと私は理系だったのだが、理系でも女性が少ないと不満を言っていたと思うので、結局私は身の回りに常に不満を感じるような人物なのだろうと感じる。今、バイト先で好きな女の子がいるがこのような歪んだジェンダー感と他責思考を持つ私が彼女に話しかけていいのかと感じる。本当に久しぶりに出会った素敵な人なので彼女から拒絶されたり、彼女にすでに彼氏がいたりしたらリミッターが外れこれまで以上の女性ヘイト思考になり私の感情はぐちゃぐちゃになりどう変貌してしまうか(おそらくモンスターになってしまう)は想像ができず非常に怖い。しかし、私の課題を先に終わらせたい思考から彼女との関係をどうにか帰着させたい一心だ。
大学3年生で今まで彼女が欲しいと思い行動を起こしてきたが恋人が全くできそうもなくつらい。外で歩いている恋人を見ると羨ましくて悶絶しそうになる。
いつか読んだ本で彼女は本当は必要ないのではないか周りの影響でほしがっているだけなのではないかと読者に問いかけるような内容を読んだことがあるが、全く持って私の場合これは当てはまらない。純粋に周りの影響関係なく彼女が欲しいのだ。
アイドルマスターが好きでライブにも言っているのだが、そこで声優さんと出会い、女の子の可愛さと2次元とは違った奥深さ(例えば、いわゆる”ゆるふわ”な女の子でも掘ってみると”ゆるふわ”という一言では表せない多面的な要素が複雑に絡まり合って人格を形成しており、2次元とは異なる、性格を一言で表せない奥深さを感じる)に気づきそこから彼女がいてくれたらと思うようになったのだがいまだできたことがない。
大学1年の頃から試行錯誤しており、主にファッションとスキンケアについて転がり立ち上がりようやく様になってきたが女性側からの反応はいまだない。髪もセットしているのであるが、フィードバックを求められるおしゃれな友人もおらず、これでいいのかと不安ながら通学をしている。私を不安にさせているのが女性からの反応が全くもらえないことであり、ファッションについては人気のファッション系ユーチューバーを参考にしているので間違いないと思うがヘアセットやその他の要素(例えば猫背、肌など)についてどう思われているかが不安である。
最近パーマをかけたのだがセットしてもいわゆるチー牛顔にしかならず本当にショックだ。やはりヘアセット初心者の私にパーマは早かったのか。しかし、マッシュ等の髪型には惹かれず一番パーマがよさそうとインスタを見て思ったのだが、私には似合いそうもない(誰からのフィードバックもない)。
今まで女性に何度か話しかけたことがあるがその話しかけた女性から自分は話しかけられることがないのできもがられているのではないかと感じ、それが私を悲しい気持ちにさせる。今となっては黒歴史であるが、以前ひげ脱毛のダウンタイムの関係もあり大学にひげを生やしていったことがあった。相当な変化であるがだれからも反応をもらえず、なぜ誰もフィードバックをくれないのだろうと怒りすら感じる。
いままで大学に入って好きな女の子が3人で来たのだが初めて好きになった子にも次に好きになった子にも彼氏がおりそれが本当にやるせない。女性は簡単に彼女ができるというが(ネットの受け売りだが)その受け身でも彼女が出来るのは本当にうらやましい。前述した私の見ているファッション系youtuberでは「街中で好きな男性の服装を女性に聞く」という企画があるのだが、そこで偉そうに男性の服装に意見している女性を見ると非常に憎たらしく感じる。私は拒絶され(女性から話しかけられないことを私は拒絶ととらえている)ているのに、世の中の女性は男性のアプローチにケチをつけ、アプローチをもらったことで自信を高め、さらにそのひとをけなすことで快感を得る。なんて偉そうな立場にいるのだろうと嫌悪感を感じる。私が初めて好きになった女の子はあまりいけていない子であったので(性格が悪い言い方であると思うが誰しもこれくらいの性格の悪さは持ち合わせていると思う)私自身と同一視している部分もあるのだが、なぜ私は恋人ができず受け身な彼女は恋人ができるのだろう→彼女が女だからだ という論理でネットでみた女性だから受け身でいいという言説を鵜呑みにして(実際自分で確認したわけではないので本当に受け身でいいのかはわからないが)受け身なくせに女性のほうが恋愛がうまいという論理が破綻しているように感じる世の中の言説も合わせて、近頃は女性に憎しみを感じている。
私がそのうち彼女が出来ればいいのような楽観的な思想になれないのは結婚相談所やマッチングアプリでの恋愛をしたくないという点がある。マッチングアプリや結婚相談所は男性が多く払うという制度があるのだと思うがこの男性が多くというのが結婚相手とは平等の関係を築きたい私にとっては拒否感があり、今恋人がほしいのだ。
恋愛で死ぬというのはバカであると感じる人も多いと思うが、最近は本当に自殺を考える原因になっている。女性の可愛さを認めている私にとって女性が周りにいる環境で女性に相手にされないというのは非常に自己肯定感を失う体験の連続であるし、目の前異性がいるのに、ネット等で誰でも頑張れば恋人ができるという言説があるのにも関わらず恋人ができないのは、自分はニンジンを目の前にぶら下げられた馬であり、手に入らないのにそれ求め続ける、しかし手に入らないことを薄々は感じていているのに求め続けるむなしさを感じる。私は人一倍無能であり、バイトでも何回も無能扱いされてきた、将来仕事でも成功は納められないだろう。そういった自身の無能さを勝手に女性の目を借り自分を下げ、自身の首を絞めているのかもしれない。今、バイト先ですごく素敵な女性と出会い、この人と一緒にいられたらと思っているがどうせこの人にも彼氏はいるのだろうと思い、どうしていいのかわからず心がかき乱される。そして簡単に恋人ができる女性へのヘイトを考えてしまう自分がいる。
私が恋人になってもいいと思っている女性がいるなら何か合図が欲しい。こういう部分に拒否感があるのような女性側の意見もわからずアプローチをするのはつらい。女性からの愛に餓えているのかもしれない。私のことを愛してくれる女性なら誰でも好きになる自信がある。女性も異性からの愛を求めていて、お互いが空回りしている状態だったらどんなに良いだろう。女性は私が話しかけてうれしいのだろうかそれとも嫌悪感を感じるのだろうか。女性は基本自分から異性に対して話しかけないのだという情報をネットでみた。私も女性に何度か話しかけたことがあるがその女性から以後話しかけかえしてもらえることはなかった。話しかけてもらったら次にお礼で自分から話しかけるという考えを持っている自分にとっては無礼な行為であり、怒りを感じるがこれが私が彼女から嫌われているからではないかという悲観的な考えもある。どうせ彼氏がいるから私に話しかけてこないのだろうという 女性=誰しも彼氏がいる というネットで見たことと私の経験から作った法則に当てはめ、恋人が簡単にできる女性への憎しみも感じる。
↓ここからは私の日ごろためている女性ヘイトについて書こうと思う。
正直女性はかなり優遇されていると感じる。恋愛面に関しては男性が寄ってきてそれを見定める立場である。バイト先でも男性は女性よりきつい仕事を任されることが多い(女性より時給300円くらい多くもらっても良いのではないかと感じるくらいハードな仕事を同じ職場でも求められることがあるし、それで今日の仕事きつかったねと話しているところを見るときつい仕事は男性がして当たり前なのかと殺意がわく。バイトや自動車学校等でもネットの女性のほうが優しくされるという言説を意識して見てみると大事にされているというのを感じる)大学で女性がやたらとジェンダーと関連付けたレポートを書きたがるのは憎たらしい。今の待遇に不満があると言いたげなその姿勢は本当に憎たらしい。
ここまで長々と書いてきたが私は結局女性のせいにしたいだけなのだろう。女性にも興味がない男性を拒否する権利はあるし私が女性でもそうしていただろう。私は軽度の障害もあるし、仕事もできないので未来がない。文系なので女性が多い職場で女性の目を借り自身を傷つけながらこれからも生きていくのだろう。もともと私は理系だったのだが、理系でも女性が少ないと不満を言っていたと思うので、結局私は身の回りに常に不満を感じるような人物なのだろうと感じる。今、バイト先で好きな女の子がいるがこのような歪んだジェンダー感と他責思考を持つ私が彼女に話しかけていいのかと感じる。本当に久しぶりに出会った素敵な人なので彼女から拒絶されたり、彼女にすでに彼氏がいたりしたらリミッターが外れこれまで以上の女性ヘイト思考になり私の感情はぐちゃぐちゃになりどう変貌してしまうか(おそらくモンスターになってしまう)は想像ができず非常に怖い。しかし、私の課題を先に終わらせたい思考から彼女との関係をどうにか帰着させたい一心だ。
検索条件と十分に一致する結果が見つかりません。
探しているページに表示されている可能性がある言葉で検索してみてください。たとえば、「ケーキの作り方」ではなく、「ケーキのレシピ」でお試しください。
【動画】【ワンピース 最新話考察】新たな四皇とルフィ達の懸賞金 ...
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ドクターストップ アバズレちゃん。 2022年 6月 16日. 返信; 引用. ぶっ飛んだ考えですが、緑牛がハナハナの実、ロビンが実はハナハナ飲みではないってことはないですかね ...
間違い指摘(記事読んでない動画見てないトラバ先読んでないetc)がされた場合の各住民の反応
ヤフコメ BADを押して逃げる。
YouTubeコメント 逆ギレする。同じ勘違いをしてた奴も集まってきて吠える🦁(複垢ではなさそう)。ただし本人がBAD押して反撃してそうな場面はあまり見かけない。
増田 削除。
『日本』はsageずにはいられないけど、『東京』sageには物申さずにいられない『リベラル』を標榜する人達。これかなり面白い現象だよな。
『愛国心』は唾棄すべきものだが『愛郷心』は無条件に尊ばれるもの、と意識的か無意識か知らないが彼等彼女等はそう定義しているということになる。以前ネトウヨの間で「ナショナリズムはダメだけどパトリオティズムなら良い(=愛国主義は正しい)」的な言説が広まってたことがあったけど、それは「言葉遊びに過ぎない」と誰かが喝破していた覚えがある。個人的にはそのことを思い出した。
東京にリベラルの首長がいるとかならまだわかるんだけど、実際はテロサポ発言したウヨ知事が再選されるような感じだしなあ。『愛郷心』の場合は誰が政治の舵取りを担っているかは考慮されないのだろうか。
でもまあ東京は色々な意味で中心地だし、総合的に見れば日本で1番マシなところではあるだろう。ただしそれは東京だけで成り立つものでもないんだよな。顕著なのが出生率で、地方から人材を吸い上げては繁殖しないということを繰り返しているし、電力確保に必要な原発や関連施設は地方の僻地にしかない。
あとは誰もがするわけじゃないんだろうけど地方蔑視なあ。九州とかひどいけど、そもそもあらゆる面で東京並とはいかないのに、現代的な価値観とかは東京基準を求めてくるのおかしいと思うの。
でも興味深いことなのでこれはずっと考えていくべきだよ。
「俺はずっとこれだ。知ってんだろ。お前が俺の扱いを考えろ」
自分だけは変わらず、今まで許されて来たから、変わる必要がないとでも言うのか。
ふざけているだろう。いまだに昭和の気分か。
「間違えたら叩くしかない」「俺はこう育った」「怒鳴れば従って来た」「ヤクザにも怒鳴り返した」「犬の躾も同じだ」「そこに座れ」
武勇伝のつもりか?
「俺はこの家の大黒柱だ」「誰が食わせてると思ってる」「口答えするな」「いいから聞け」「黙ってろ」
親か
「この家は俺の物だ」「お前を住まわせてやってる」「同じ家に住んでるならそれ相応の態度があるだろ」
親が?
物に当たらない、理不尽に殴らないだけが正しいとでも言ってるのか。
そんな普通のことを、誇ることでもないし、当たり前のことだ。今は令和だぞ。暴力が横行していたような昭和の価値観か、
変わる時代の中で生きている人間なのだから、新しい環境も感情も普通だとなることも、その時代の流れによって変わる物なのに
口答えしないからと、黙って従ってるから、相手が我慢していることが、助長させていると思うだろうか?
誰もが戦っていけるとでも思っているのか。
関わらないようにして、言われたことだけをして、極力顔を合わせるという接触自体を拒んでいるのが、
助長しているとでも断じるか。
従ってるように見せて、それが、好意に似た良い感情からとでも、思っているのか。
殺すか自殺かの二択をずっと心の中で考え続けていることを知っているか。
でも私は私が大切だから、殺人なんてしない。周りの人がそれなりに好きだから、迷惑かけたくないからと、私は死ぬことを選べることを忘れるな。
避妊の失敗だろ。育てたくないと言ったことがあると初めて知ったけれど、もうダメだろ、なんだそれ、それを今まで二十八年とか続けていたことは
我慢ずよいと賞賛できたとしても、元を正せばお前が悪いんだろ。出した物の責任を取れ、いや私の年齢から言うとそれもそれでまだおかしいのだけど、
カッとなって言った言葉は常に頭にあることだろ。酔っ払った時に出る言葉と一緒だ。勢いに任せてでたなど、どの口がいう。
常日頃考えていなければ、そんな言葉は出るはずがない。怒鳴ってれば、手を出せば、済むと思っているのか。
なんて憎い、親というか、親が、子供に対して、たとえ、何歳だとしても、言っていいことと悪いこと、他人に言っていいと悪いとわからないか、
親が、子供に、面と向かって言っていいことと悪いことがあるだろ。
親の神話も、子供の神話も、ああ、検索かけたけど、あれか、母性神話、それもあるだろうが
作った責任を取れ、変われ、責任を持て、考えろ、子供の親とはそう言う物だろ、自分を大切にしてその子供も大切にしろよ、できないなら元から作るべきではないし
何パターンも考えられるだろ、だって親だって子供だっただろ。考えなかったのか。
まぁ私の場合は避妊の失敗だろうが、そんな話をしてるんじゃないけど、いや、母親はとても良く頑張って、かなり理想的な母親像だろうとは思う。
子供の心を思って泣くのは、本当のところの考えはわからなくとも、考えさせない言動をするだけで、それだけでとても良いとおもうが、
それは親だろ。
子供が長年自称行為してそれを知って怒って大泣きして、腕を強くにぎっった行為は、それは親として正しいことだろう、
だけど全部が全部と言うわけではないだろうけど、外聞が悪いとかもあったかもしれないけど、そう言うことがあっただろうとしても、その場限りは嘘ではないだろうと思わせるその態度が、素晴らしいと思う
家族に対してそれほど期待はできないけど、比較的それなりに良い、親、いや、母親が、良かったからそれくらいには思えるだろうなって
妹に対してお前のこと見てるとイライラして殺しそうとか殴りそうとか、言ってる父親
もしその言葉を私の前で言ってみろ、目の前で首掻っ切って死んでやるって思ってるけど、私はいい子で聞き分けがいい長女なので、そんなセリフはあまり聞かないのだけどね
親として失格の父親、血が繋がってると、思いたくない、親と言いたくないお前、おいお前
お前のどこが親なんだ、親の責任は、子供が成人したら、大人になったら、なくなるとでも思ってるのか、
なあ、ねえ、どうなのさ
ある程度大きくなって、口が上手くなって、いろんな人間と接して、知って、それで、それはおかしいと言い返せる強さを持った、子供に対して、
親の責任は、親ではなくなると、そう思って、お前は妹と怒鳴り合いの喧嘩をするのか。
怒鳴り合いの末、暴れるからと、殴りかかって来たからと、妹をベッドに押さえつけている場面を見た私のことを考えたことがあるのか、妹の気持ちを、何を思ったか、考えたことがあるか
虐待と言えない躾の範囲で、引っ叩くと言っているお前、暴力が、手足で振るわれるものだけだと思うか、
心というものがわからないのか、何を言って、何をして、それが、心という見えない物に傷を負わせる行為を、知らないというのか、
漫画や映画や、見るに堪えない聞くに耐えない、でも自分の知らないところで怒ってる数々の暴力も虐待も、知識として知っているけど、それがなかったということだけが、恵まれているというか
そんなことをしないことが当たり前だというか、
暴力など振るう物ではないし、振るっていい物でもないだろ、そんなことがわからないか、肉体に傷をつけていないからと、だからいいと言えるのか
親だと思ってない、自分の家だと思っていた場所が、お前に貸してるだけだ、お前を住まわせてやってるだけなんだから、それなりの態度をしろよと言ったお前、なあ
それじゃあ子供の家は、どこだ、自分で探して暮らせば、そこが自分の家か、帰る場所は、ないと。そういう砦となるであろう場所が、ないと言うか、そうかそうか。
そっかぁ、ここは私の家ではなかったか、二十数年住んでいたこの家は、私の家ではなかったか、と思った時が、お前を親だと思わなくなった日だよ。
素晴らしいね、死んでくれ
そしてとうとう言うこと書いて、やっぱり、この家は俺の家だ、俺の名義だ。お前が出ていけ。なんで俺が出て行くんだよ。もういい、部屋戻れよ。って妹に言ったお前はやっぱり、親じゃないんだろ。
親じゃなかった、一緒の家にいる、一緒の家に住んでる、ただのおっさんだった。
やっぱり思った通り、三十年も持たない父親の皮だったな。
子供が成人したら親じゃなくなるとでも思ったのか、すごいな、見通しが甘いね
甘い甘い甘い、考えが甘いぞ
一人で山奥で野垂れ死ぬとかでない限り、それは決して一人では完結しないものだ
一人で山奥で野垂れ死ぬ場合でも、発見されたら大騒ぎになるのでやはり一人では完結しない
人間とは本当に面倒なもので、死を死として受け止める為に何かしら儀式を必要とする
石器時代でも儀式をしてたくらいだ、現代の人間がそこから逃れることはできないだろう
俺は無宗教だし無神論に近い思想を持っているので、焼いて埋めれば衛生的にそれでいんじゃねと思うのだが周りがそれを許さない
日本人に限らず死というものに直面した時の対応はどこの国でも宗教観がモロに出る所ではないだろうか
自分がそうやって見送られたいから儀式をするという面はあるだろうが、人は人の生に意味があると思いたいのだ
意味という概念は人が作ったものであり、この世界の存在からして意味はないのにな
自ら作り出した概念に囚われる悲しき生き物だ
そういう場合、貴方が人助けするヒーローとしていい気分になってる間、対称的に彼女は「行動できなかった臆病者」「自分だけデートに浮かれてた脳天気なやつ」(誇張)みたいな感覚になる。
哲学的に考えて、人間が認識できるのは、ものか概念のどちらかであるから、あまりにも高度なところにあるものであって、専門技術的に作ったものの場合、認識しようとする側に
そのもの全体を認識する能力がなければ、自然科学上当然に、そのものを認識することができないと解するのが相当である。人工知能の最先端のものは、Sicamoreという、
電気配線を連結させた超高速計算機だけが雑誌に公開されており、それ以外の装置は、どこに存在するかすら公開されていないのであるから、一般人がその存在場所を知る余地は
ない。また、仮に認識できたとしても、その意欲がなく、当人の行動上、見たくないから認識しないで行動しているとすれば、その行動中に、当人が、お前が理解しているものを理解しないで
行動している可能性は十分に存するというべきである。例えば、部屋から出て自転車に乗り、遠くの場所に言っている場合、当人は、その日のうちに食べたもののカロリーを消費したいがために、
自転車にまたがり、遠くにいったついでに、そこで遊んでいるだけかもしれない。しかし、当人が、その日のうちに食べたもののカロリーを消費するために、今から着替えて、駐輪場に設置した
大好きな自転車を車道に押し出し、それから乗車してこぎ出し、自転車並みの速度で北上しているときに、単に運動に出ているという認識で北上しているだけであろう。そして、その最中に
風景に入ってくるものに関しても、あまりにも高度に作っているので理解できないか、興味がないために、走行中に、無視しているかもしれないし、舟渡2丁目の場合、一定の場所に、志村署の
31日公開のマッドマックス:フュリオサや先週公開のあぶない刑事もいいけど、劇場版ウマ娘もよろしくね!目指せ興行収入30億!
ということで、まだ見ていない人や見ようか迷っている人に向けて、ネタバレしない程度におススメポイントを紹介する
2回目3回目の来場を促す仕掛けがあちこちにちりばめられていた
いったいどれだけのキャラが登場するんだ?というくらいあちこちにいろんなキャラが出ているし、画面に移っただけで笑えるキャラがいたり、まさかのキャラが笑わせに来たりもする
ゲームやっててキャラもそこそこわかるってレベルの人は、四の五の言わずに見に行こう
特に映像と音響が圧倒的で、レース場を駆けるウマ娘達を間近で感じる錯覚に陥りそうになる
サイゲと東宝の力の入り方は、1998年日本ダービーのキングヘイローかと思えるくらいだ
これに主人公ジャングルポケット役の藤本侑里(今作が初映画初主演)ら声優陣の熱演、セリフ外で描かれる丁寧な所作や心理描写が相まって、見る者の心を容赦なく揺さぶってくる
アニメ映画としての完成度の高さから、趣味映画鑑賞(アニメ含む)という人は十分満足できるだろう
また映画単体でまとまりがあり(他シリーズの知識はほぼ必要ない)、王道スポ根ストーリーとしてのわかりやすく作られているのも良い点だ
そのため映画館には頻繁に行かないライト層にもおススメできる。時間も108分とちょうどよい
競馬は知っているがウマ娘って面白いの?…アニメは見るけどウマ娘って良く知らない…という人に向けた入門作品としてもうってつけである
なおTVアニメ3期の出来が悪いから期待できない、などという奇特な人もいるかもしれないが、TVシリーズとは制作陣が全く異なるので気にせず行くとよい
このほどYoutubeで再公開されたRoad To The Topが合わないというなら…別に行かなくてもいいだろう
最後にこれは余談だが、見る前に前提知識として入れておくとよい事実が1つある
それは本作品が主に2000年末から2001年にかけての中央競馬をモチーフに描かれているということだ
それ以上のことを調べてもいいが、現時点で詳しくない場合はこの事実のみを知ったうえで映画を見て欲しい
そして作品を見終わった後は、この時期の競馬とジャングルポケットが憧れるキャラについて書かれた文献や記事に当たることをおススメする
今回の調査結果が真実なら、オレは脚本家に謝らなくちゃならない。
オレは、
の言葉を残して去った先生の遺志を組まず、脚本家らを批判してきた。
でも、それは、正義のためだった。『契約で定めた条件』を守らなかったドラマ制作サイドを誰かが勇気出して叱らなければ、と思っていた。
だけど・・・
この文章を書くにあたって、私と小学館で改めて時系列にそって事実関係を再確認し、文章の内容も小学館と確認して書いています。
...
ドラマ化にあたって、
・ドラマ化するなら「必ず漫画に忠実に」。漫画に忠実でない場合はしっかりと加筆修正をさせていただく。
・漫画が完結していない以上、ドラマなりの結末を設定しなければならないドラマオリジナルの終盤も、まだまだ未完の漫画のこれからに影響を及ぼさない様「原作者があらすじからセリフまで」用意する。
原作者が用意したものは原作変更しないでいただきたいので、ドラマオリジナル部分については、原作者が用意したものを、そのまま脚本化していただける方を想定していただく必要や、場合によっては、原作者が脚本を執筆する可能性もある。
これらを条件とさせていただき、小学館から日本テレビさんに伝えていただきました。
...「この条件で本当に良いか」ということを小学館を通じて日本テレビさんに何度も確認させていただいた後で、スタートしたのが今回のドラマ化です。
(小学館側の) C 氏、D 氏の書面回答では、条件として文書で明示しているわけではないが、漫画を原作としてドラマ化する以上、「原作漫画とドラマは全く別物なので、自由に好き勝手にやってください」旨言われない限り、原作漫画に忠実にドラマ化することは当然という認識であるということである。
また、その後の...やりとりにおいても、「なるべく原作の流れを崩さないようにしてほしい」等の要望は記載されていたが「必ず漫画に忠実に」という言葉がドラマ化の「条件」として出されてはいない。
...
D 氏から ...「ドラマオリジナル展開に関しては、本件原作者の方から、脚本もしくは詳細プロットの体裁でご提案
オレは個人的な思いとしては、
二次創作者というものは原作を利用させてもらってる立場なのだから、たとえ二次利用の契約の条件ではなかったとしても、原作サイドの、あらゆる要望に従ってほしい、と願っている。
だがオレの一連の批判コメントでは、あくまで「『契約の条件』を守らなかったこと」を問題視していた。
原作改変自体は、リスペクトがあるべき、と思いつつも、批判では、ビジネス上の契約を破ったことを前提にしていた。
だけど調査結果を信じるなら・・・、何度も確認した条件、などなかった、としか読めない。
小学館側のアンサーを待ちたい。
人間が自然発生的に行うことと、それを批判する理性の対立がある。
例えばセクシャルハラスメントとか。
セクハラが抑制される集団と、前時代的にセクハラが許容される集団とではどちらが強いのだろうか?
あるいは、より強固な集団となるための進化が常に行われているのだろうか?
よく考えるのは、もともと古代の貴族社会は女系社会であったが、のちに男系社会に変化、おそらく男系社会の方がより優位であったため、強い方が勝ったという認識だ。
他には、長男相続と分割相続。長男相続の方が資産の分散が行われないのでより優位に立つことができて分割相続の社会を圧倒するということだ。
感情とは何か?
更には偶然の要素もあるが、時間の長さによってその要素も消えるのではないか?
地政学的要素のように気づいていない要素があるはずだから必ずしも生存競争の原理にだけ従う者ではないだろう。サルがライオンになる場合だってあるのだ。
どうすれば私は賢くなるのか。
無知と愚かさを認め、生理的な欲求ではなくて知的な探求を保ち続けることだ。
ならば私は賢くなることはない。
肉体的欲求には勝てない。
警察が家族に連絡をとるには、現場に到着して状況を確認してからでないと基本出来ない。
地域連携などでリストが共有されたり、既に家族が行方不明なのを察して警察に連絡してりゃ別だけど、その場合でも照会がいる。
一方で、現地で本人が持っている連絡先というのがシンプルで早いから、警察もまずは現場に向かって現地確認して連絡or警察に保護という手順になる。
連絡先がわかるようにしてあるという事は、色々な病気の影響で徘徊する癖があるという事なので、家族も対応出来る。子育てと違うのはそこな。
家族が自宅にいたりすれば、家族の方が警察より早く到着すると言う事も多いだろう。警察に連絡するのは家族に連絡してからでも遅くはない。
もちろんいきなり警察に連絡するのも間違いじゃ無いけど、それをやると助けた本人も色々と警察に事情を話したりなんなりで手間を取らせることになるので、バランスを取ってみてください。