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はてなキーワード: 受益者とは

2024-05-31

やっぱりはてな、「文化資本」の理解あやしい人多くない?

そういう自分あやしい側なんだけどさ

 

そもそもお前ら、「文化資本」って意味わかって使ってるの?

anond:20240531060924

 

この増田本人では無いので尻馬に乗る感じで申し訳ないけど、ブコメとか見てると未だに理解あやしい人が多い気がする

まず元増田の内容を自分なりにまとめると、「文化資本」に該当するかどうかを計る条件として

①親から子へ受け継がれるものである

資産社会的地位権力再生産に結びつくものである

 

の2つの条件が少なくともあり、はてなで言われている「文化資本」の多くはこれに該当しない(そのため、はてな人達は「文化資本」の意味理解せずに使っている疑いがある)

ということなんだと理解した(つもり)

特に②についてはそもそも資本とは自己増殖するもので、文化資本」というからには再生産の要素を含まないと変というのはその通りなんじゃないかなと思う

でその上で、なんだけど

 

再生産の要素が無いのでは?

いや美術館が無ければ美術館に行く文化も作れないので「文化享受できる環境・子に文化享受させる親の文化」は文化資本なんだが。みんな美術館物理的な資本)の話じゃなくて美術館に行ける東京の話してるだろ。

例えばこの反応って、①の説明にはなってるけど、②の説明にはなって無くない?何が再生産されているの?

個人的には、文化資本」を名乗るうえで②の方が重要な気がするので、そっちが片手落ちになっては意味が無いんじゃない?と思ってしま

上は一例だけど、元増田への反論で②の再生産の部分まで言及できている人が少ないように見える

 

そもそもどういう再生産を想定している?

で、更に、そもそも東京文化資本豊富」と言っている人は、どういう再生産を想定しているんだろう?

ただの資本場合、単純に金持ち投資等で更に資本再生産できる、というよくある話で、これは分かりやす

対して文化資本は、例えば親が教育重要性をきちんと理解し、そのおかげで子は十分な教育を経て資産社会的地位権力を得られるようになり、それらが再生産される、といったシナリオになる

ただ、「東京文化資本豊富」と言ったり、その例が美術館(へのアクセス)だったりする場合、具体的にどういう継承から資産社会的地位権力再生産に結び付く話をしているんだ?

例えば、近くに美術館があってよく通った場合しかしそれが自身給料社会的地位権力特に結び付かない事はよくあるし、その場合②を満たさないので「文化資本」とは呼べないよね?

例えば美術精通する事で上流階級の人とコネが生まれ立身出世の役に立つ、とかだと「文化資本」と呼べると思うけど、現代日本でそういう機会がそもそもある人は(東京内に限っても)何%だろう?

当然、その%が低ければ東京全体でならした時の美術館の「文化資本寄与率は低くなって、他の寄与から比べると誤差以下になってしま

という感じで多くの場合②を満たせない割合の多いと思うんだけど、どうだろうか?

具体的にどういう継承再生産のシナリオで考えているんだろうか?

 

「東京」というフレーミングは適切?

また、再生産という観点で見た時、そもそも「東京」で括る意味って何?とも思う

例えば「金持ち文化資本豊富」ではダメなんだろうか?こちらなら上流階級の振る舞いや教育重要性の理解等々、再生産に関わる文化資本豊富なのは頷ける

これに比べて「東京」だと、金持ちでない人も居るし、そういう人が美術館に通っても再生産に繋がらない事が多い

というのも、そもそも機会やノウハウなど、「美術」という文化素養資産社会的地位権力再生産につなげるための回路こそ、資産家の親から子へ継承される貴重なものであり、ある意味それこそが「文化資本」だから

よって、「東京」という雑多なフレーミング文化資本を持たないノイズ人達(言い方は悪いけど・・・)を多く含み本質的ではないのに対し、

金持ち」というフレーミング再生産に結び付く「文化資本」と本質的につながっているので、より適切なんじゃない?と思えるし、その上で「東京」で括る意味is何?と思えてしま

東京金持ちが多いから、結局文化資本とも相関がある」という人も居るかも知れないけど、それってわざわざ要らない項を噛まして、分かりにくい疑似相関を作ってるだけじゃね?

地方でも金持ちなら教育もするだろうし振る舞いも継承したりコネも引き継いだりするだろうという事で、文化資本と言えるものが多そうだし

結局、文化的ななにかを資産社会的地位権力再生産へとつなげられるかどうかって、住んでる場所より資産社会的地位権力依存するんじゃないかなー、と思うし、それによる寄与と比べると「東京」要因の寄与って誤差に呑まれそうじゃね?と思う

 

格差再生産に参加して嬉しい、のか?

もう一つ大きな、そして根本的な疑問として、元増田の言うように「文化資本」というもの資産社会的地位権力再生産、つまり格差再生産を前提とするものだとして、

それが「東京豊富だ」と言われる事は、その人達にとって嬉しいのか?というのがある

美術なり音楽なりの素養格差再生産となるという事は、それなりに差別的論理社会なかに残存しているという事だけど、

そのおかげで得をしている格差再生産の加担者or受益者と指さされているようなものなので、それ嬉しいか?胸張るような事なのか?と思う

なので、軽々しく「東京文化資本豊富」という人は、「文化資本」が前提とする資産社会的地位権力再生産についてよく分かっておらず、つまり文化資本」の意味をよく分からずに使っているのでは?と思えてくる

ある意味東京には文化資本による格差再生産を肯定or容認するような差別的な風潮が残存している」という事でもあるので、本当に意味理解して使ってる?と疑問

2024-05-30

近くに人権センターってのがあって

かなり遠い場所にある図書館の本をそこで取り寄せできるおかげでものすごく便利なんだが

その差別問題と直接的になんも関係ない自分がこの便利さを享受してるのはどういうことなのかと思う時がある

もちろんセンター建設費は自分の払うわずかな税金が一部利用されており行政サービス受益者であることからそこを利用するのは当然の権利なのだ

その立地にそれがあることの原因と自分にはなんも関係が無い。

人権センターが出来たのは被差別民たちが差別に打ち勝った証でもあると同時に、そもそも差別がなければ人権センターは建てられなかった。

差別による不平等にも闘争にも全く直接的なかかわりのない自分にとっては自分のこの便利さと直接リンクしているのはむしろ差別問題存在していたことになるのでは?

これが自分被差別であるとか、被差別者に連帯する活動をしてきただとかなら素直に戦いの成果として便利さを享受してもいいのかもしれないが……

その差別問題というのの本質としては、この国全体としてその差別問題加害者的側面があって、自分もどちらかといえば積極的被害者側にコミットして寄り添う活動などしていないので

その前提からすれば言えば自分加害者なのだ

話を聞けば同情心くらいは沸くがそれ以上のなにかをするまでに至るような関心は全く無いのだから間違いない。

ただ便利に図書館サービスを利用するだけだ。

自分税金が使われておりサービスを利用する権利がある以上これからも利用する。

なんとなく矛盾と後ろめたさを感じながら。

2024-05-29

anond:20240527103100

そりゃポジショントークなんだから当たり前

どんなに公益性公共性を主張しても、受益者利益を求めていることに変わりない

リベラル左派でも実績をあげている連中は政治的取引も使い分けることができる

相手があることを無視して一方的要求するだけの連中は過激暴力行為に傾倒していく

社会を混乱させて権力簒奪しようとする連中は、そういう連中の背後につく

2024-05-28

anond:20240528070509

「俺を虐げるな」=「無条件で俺を世話して性処理をする女をあてがえ」

そもそも、誰かがそう主張すること自体自由です。その主張を議論俎上に載せて対話するのが民主主義です。もちろん、こんな主張を議論に乗せれば、それが通らないことは自明です(1人の人権保障するために1人の人権犠牲にするのでは社会にとって問題は何も解決しないからです。一般的に言って、無辜な何者かの生活犠牲にすることによる解決は、少数意見尊重する真っ当な民主主義においては認められる主張ではありません)が、それはそれとしてその「主張をすること」は自由であり権利です。逆に、その意見封殺することは非民主的な行いです。

従って、

そんな主張なんか知ったこっちゃねえよとしかならんのだよな

という態度は望ましくありません。意見荒唐無稽だとしても、両者の意見のすりあわせと妥協点を探る(女性奴隷にせずに、「俺」さんが「虐げられていない」と考える道は本当に無いのか?など)態度が民主主義です。このように、民主主義標榜するなら「俺を虐げるな」などと言う人と対話しようとする姿勢必要です。もちろん、相手がマサカリ武装しているなら、対抗言論上多少きつい言葉を使うことも許容されるべきでしょう。しかし、少なくとも人権民主主義尊重する近代人のふりがしたいなら、対話すべき相手人間以前の生き物のようにレッテル貼りして言論封殺しようとするべきではありません。そういう( 「弱者男性に対する )マッチョな振る舞いが一部界隈では人気を博すのかもしれませんが、それは人権に名を借りたただの差別主義です。

差別主義とは何か。それは、社会に、本来存在しない見えない線を区切ることです。そのような見えない分断は多くの人にとってはただ不都合しかありませんし、特に、その区切りによって不利益を被る側には耐えがたいマイナスですが、その分断を強く主張し主導する人々にとってはそれが権力の源泉となります。たとえばエセマナー講師は、わかりやすいその一例です。奇妙なマナー提唱して、社会を「"マナー"を知ってその通りに振る舞う人/"マナー"知らずで無礼な人」に区分けする、多くの人にとってはただ面倒が増えるだけですが、マナー講師にとってはその「社会全体の不利益」がそのまま「飯の種」になります。「流行ファッション」などというのも、多くの場合これです。しかし、流行ファッションを飯の種にする人は多くいて、そうなるともうこの「流行」なるもの実態のように振る舞い始め、被搾取者だけでなく受益者まで巻き込んで様々な悲喜劇引き起こします。「文化伝統」「宗教信仰」もその類いであることは言うまでもありません(本来信仰の守り手として受益者であるはずの行為宗教家が、狂信者となることでどんな悲喜劇を引き起こすことか)。

ここで、しっかりと区別しておきたいことは、私はこのように振る舞うのが「好きだ」、私はこのような服装が「好きだ」、私はこのような文化が「好きだ」、私は神様を「信じている」……それは差別主義ではありません。しかし、人はこのように振る舞う「べきだ」、このような服装をする「べきだ」、このような文化を守る「べきだ」、誰もが私の神を信じる「べきだ」……となると、それはもう差別主義に足を踏み入れています。なぜならそれらは、そうする人としない人を区分けする考え方であり、しばしばまさに「区分けするため」になされる主張だからです。敵と味方にわけて闘うための思考差別主義です。差別主義は戦いからこそ利益を得るのです。

同じく、私は人権を「大事だと思う」、人権は「大切だと思う」、はただの選好ですが、誰もが人権を「尊重するべきだ」、人権を守る「べきだ」、人権を信じる「べきだ」、人権に則って振る舞う「べきだ」……は、ここで言う差別主義に当たることになります一見人権を大切にする結構な主張に似て見えますが、それらは社会に分断をもたらすことで結局は全体に不利益を与え、見えない壁を作り、そしてそう主張する者だけがそこから部分的利益権力を得る、そんな行いだからです。人権民主主義も、この社会構成員全てを等しく扱う考え方であり、「敵/味方」という思考から最も遠いはずのものですから、「彼らは民主主義の敵だ」とか「我々は人権派だ(あいつらはそうではない)」といった主張は、本来存在するはずがないのです。

私たち一人一人は、弱く愚かです。間違いも犯す。だからこそ、いろいろと問題のある中で民主主義が選ばれ、尊重されているのです。たとえ自分民主的人権尊重する人間であると自負していたとしても、私たち不断に自らが本当にその名にふさわしい振る舞いをしているか再確認する必要があるでしょう。人権民主主義はありがたく飾っておけばすむ錦の御旗などではなく、常に実用最前線にあり、限りない問いかけと異議申し立ての中で磨きぬかれてきた存在なのです。

2024-05-17

国立大学授業料受益者である国が負担すべき。では私大は?

慶応義塾長の伊藤平氏が「国立大学費を年150万円に」と提言し、大学関係者に波紋を呼んでいる。この提言に対し、国立大学協会の『国立大学の授業料のあり方について』(平成5年)から、「国立大学の授業料は、本来受益者である国が費用負担すべきものである」という主張を引用し、同氏に批判的なツイートが流れてきた。

ttps://x.com/MaihaiStyle/status/1791449766070808602

ttps://x.com/gomaaaaaoil/status/1791269984351797652

ttps://x.com/kmoooooog/status/1780813111601373203

そもそも、「大学教育研究には外部経済性がある」というならともかく、「その受益者が国である」とまで言い切ってしまっていいのかは疑問であるが(学問の自由とも矛盾しうるのでは?)、百歩譲ってその主張を認めた場合国立大のみならず私大授業料受益者である国が負担すべきという話になるのではないかという疑問を感じた。しかし、そこは天下の国立大学協会、なぜ「私大授業料も国が負担すべき」とはいわないのか、その理由をしっかり説明している。

P.3(※太字は引用者による。以下同。Claude AIPDFスクリーンショットテキストデータに変換したので誤字あり)

国の責任による高等教育存在意義

 国が直接責任を負っている高等教育存在理由については、私立大学との対比で教育面と研究面の両面から見る必要がある。

 教育面については、専門分野別の入学者数をみると、国立大学は自然科学系および教育系を中心に、一方私立大学は人文社会系が中心になっている。大学入学者を地域別にみると、私立大学関東近畿大都市圏入学者全体の64%を抱えているのに対し、国立大学はほぼ全国均等に入学者を受け入れている。地域分布のみならず出身家庭の収入からみても、国立大学は依然として教育の機会均等に寄与している。

 研究面については、まず研究養成にしめる役割について、ついで研究実績についても述べる。研究養成大学院への平成4年入学状況でみると、国立大学の修士課程への入学者が私立に比して約2倍であり、博士課程では2.6倍に達している。大学院生の分野別分布をみると、人文社会系では国立の約2倍の学生私立入学しているが、施設設備に経費のかかる理系では一部の私立大学を除けば、国立大学が主要な役割果たしている。

 この事実研究実績に反映している。これまでに行われたいくつかの調査によると、理系分野では一部の私立大学を除くと、論文数のみならず、論文の総引用数でも国立大学は私立大学凌駕している。ただしこの場合国立大学には理系研究者の絶対数が多い点も勘案すべきであろう。

 さら国際的義務として推進が求められている先端的重要基礎研究の多くが、主として国立大学と大学共同利用機関で進められているという現状がある。

なるほど。要するに国立大学は一般私大より優れているのだから国立大学に「選択と集中」をせよ、ということですね。国立大学に見劣りするのだから私大授業料も国が負担すべき、とは主張しないのも納得。

30年前の国立大学の先生方は「選択と集中」がお好きだったんですね。

実に面白い( )。

2024-05-14

anond:20240514142150

PTAのややこしいところっていくつもあって、親の負担具合の調節が入るか入らないかの2択しか選べないことと、受益者といっても益の部分がグラデーションではっきり分けきれないところだと思うんだよね

保護者負担って実際、

1. 労働力提供可能かどうか

2. 会費の支払いが可能かどうか

3. 会費は支払わなくとも都度実費を払うことができるのか?

の3段階あるはずで、正会員(会費、労働力提供あり)、サポート会員(労働力提供なし、会費は支払う)、実費参加(記念品授与などは実費を払えば貰えるのみ)、の3つが本来選べるべきだと思うんだよね

まあ当然そんなシステムにしたら誰も正会員にならないから、仕組みは考えないといけないけどね

例えば正会員の会費は安く、サポート会員の会費は高いとかね

もうひとつ問題は、PTAから児童へ与えるメリットが、実費負担できるほどはっきり分けれるものばかりじゃないこと

例えばPTA寄贈の図書図書館にあるとか、PTA寄贈のベンチがあるとかだと、実費会員は図書はいるたびにお金を払う?ベンチ座るたびにお金払う?とかなるよね

でも実際は無理だよね

集団登校のとき道路での監視とかも、PTAがやっていることがあるけどさ、その場合、会員の子信号とかのサポートをするけど、非会員の子は赤信号渡ろうとしてても無視するとか?できるわけないよね

卒業紅白まんじゅうとか記念品とかくらいは実費でどうとでもなるけどさ

どうしていいかわからんものも多い

そうするとどうやったってフリーライドは発生する

やっぱり、入会はしなくとも金銭負担は実質ほぼ強制するしかなくね?と思うけどね

結局PTA入りたがらないのって、仕事やってるのに無駄に呼び出してタダ働きさせるからやん?

行くのも仕事するのも無理ですよ、という枠の会員を作らないといけないんじゃないかなあ

それなら入会でもめる人減るでしょ

2024-05-13

日本維新の会吉村が0歳児への選挙権付与公約にと言い出した。

成人まで親権者代理権をもって投票するということのようだ。

ヘンなことを主張し出したようにもみえるけれども、

基本的に賛成かな。

0歳~小学生くらいはともかくとして、中学生高校生ともなれば親に対してどういう投票行動をしてほしいかを伝えることができる。

最終決定は親権者だとしても、そういうコミュニケーションができるようになるということそれ自体が大切だと思う。

事実上世帯としての投票となる傾向が強いと想定されるため、世代間格差など投票バランス問題解決寄与する。

子育て世帯の声がより政策に反映されやすくなる。

そもそも持続可能な開発理念にかなっている。

公共インフラ投資都市計画や保健福祉政策などさまざまな政策決定の受益者の多くは将来世代だ。

まあ吉村維新も全く評価していないのだけどね。

これは悪いアイデアではないと思う。

2024-04-27

anond:20240427152854

あべしデモが、安倍なら殺してもいいってなんとなくの空気の醸成に成功して、

山上の登場を早めたことを考えれば、デモ抗議活動無駄ではないとは思うけどね

その結果、安倍政権の清算と言う野党の最大の存在意義中道保守もどきとしての振る舞いまで岸田に奪われて、

文字通りの空気になってしまっているから、野党の役に立ったかどうかはちょっと疑問だけど。

野党は嫌いで投票先にはならないけど、安倍みたいな戦争狂がカルト的な人気を博している自民も好きじゃないので、

殺されてくれてよかったとは思う。むしろ一番の受益者だと思ってるわ。

2024-04-25

anond:20240425083204

派遣非正規雇用の調整弁となることによる最大の受益者中小なので、どっちもどっちでは?

お前も調整弁になるんだよ!あくしろよ

2024-04-13

anond:20240412155516

これはあれかと思った。

付与された有給権利からといって現場の都合を顧みず自分の都合だけで決めて、その結果会社ごと消滅みたいな。

特に非明文な場合ルール受益者がその恩恵と前提に無自覚であるということはよくあるのかと。

2024-04-07

anond:20240407162831

受益者増税すればよい

年収手取り300万円の人から200万円くらい地方税をとれば何十年か先に出来るかもね

2024-03-20

今日障害の「社会モデル」だけ覚えて帰ってくれ

世間一般と比べて割と現代的・進歩的な考え方が尊ばれる事が多い(と俺は信じてる)はてなでこの増田みたいな言説にそれなりの賛同が集まるのは単に概念が知られてないだけなんじゃないか?と思ったので書く

車椅子やら障害者に対して割けるリソース

この冒頭20字足らずの時点で、合理的配慮車椅子ユーザーに対するサービスだと思っていて、言い換えると障害者受益者だと思ってるだろ。これは「障害」を障害者個人が持つマイナス特性だと捉える「個人モデル」というヤツで、20世紀に廃れた考え方なのよ

一方、日本を含む今の国際社会障害を「社会モデル」で考えるのが常識なのね。一言でいうと、「社会が“五体満足で定型発達な健常者”向けにできてる」ために、それ以外の人が不利益を被ってる状態が「障害」の正体だ。例えば仮に、街に段差や隘路が全く無かったとしたら、車椅子ユーザーであることに何の障害も無いだろ

彼ら障害者特別サービスを受けて優遇されるわけじゃない。俺ら健常者が「既に特別サービスを受けて優遇されてる」のよ。俺らが既に受けてるサービスから排除されてきた人らに対して、遅ればせながら可能な限り穴埋めしますよ、と。これが合理的配慮なわけ

そうは言っても現実金も人も有限じゃないか? 社会の整備にコストが掛からんわけないだろ。少なくとも、「障害者に対して割くコスト」って考えを止めろ。それは「社会に対して割くコスト」であって、個人に関連づけて言うなら「健常者がこれまでに得た利益還元」だ。自分の考えを変えるのにコストは掛からん。今すぐ変えろ

この増田だけじゃない。本件に関して「サービスを受けたら“ありがとう”を言うのが常識だろ」とか言ってる君ら全員これだぞ。彼らに「ありがとう」を言わせる前に、俺らが社会に対して「健常者を優遇してくれて“ありがとう”」と言わなきゃならんし、障害者に対して「健常者ばかり優遇されて“ごめんなさい”」と言わなきゃならん。「ありがとう」「ごめんなさい」はコミュニケーションの基本だとか言ってる君らは当然言うよな?

そりゃ理念理念だよ。理想論的な部分もあるだろうさ。でも、現場ですぐに実現できないからといって考え方まで現状維持を是とするのは現実主義でも何でもない、単なる知的怠惰だろ?

何かまとまらないので、障害の「社会モデル」の考え方についての真面目な説明首相官邸のページとか見て下さい

https://www.kantei.go.jp/jp/singi/tokyo2020_suishin_honbu/udsuisin/pdf/kyo02.pdf

具体的でわかりやすい例示はこのへんとか

https://biz.kaien-lab.com/know-how/social_model/



anond:20240317162442

2024-03-18

誰かの善意で成り立ってる職場崩壊

善意に甘え続けて、受益者側が根本解決を図らなかった結果なら

それは受益者にとって因果応報自業自得ってものでは

2024-02-17

anond:20240217130542

でも男から降りる論の人たちって、稼いで妻子を養うことから降りて、年上バリキャリに養ってもらうヒモになるため

イケメンになります専属ホスト専属ジャニーズ専属セラピストになりますという「旧来の女役割」の「男版」を上る方向にはいかないじゃん

からも降りてるし女に登ろうとはしないし、つまり健常者であることをやめているじゃん

脱コルは「まんこ割」の受益者階層からは降りるけど人間は降りてない

弱者男性人間から降りてるよね

2024-02-14

anond:20240214213934

当然だ

人手不足いつまでも人手不足なままでいいわけいからな

しか人口減少が控えてるんだから少ない人数で効率良く組織を回す体制シフトする

昨日クロネコヤマトホッテントリしてたけどこれもそういうことなんだよな

人手が減るしサービス受益者も減る

手厚いサービスなんてやる意味がない

先に人手を減らして効率的な組織改革をした企業先逃げできる

だいたい、クロネコヤマトサービスレベルが低下したところで低い水準に競合の足並みが揃うんだからなんの問題もないだろうよ

2024-02-10

漫画編集者の端くれだったことがある


青年向け漫画編集者をしていた。といっても若い頃の話だ。都内にある編集プロダクションを辞めて田舎に帰ったのが36の時だから、おじさんの入り口に立った頃か。今では完全なるおじさんである

本日記は『セクシー田中さん』の件とは関係ありません。

働いていた会社というのは、講談社とか小学館とか秋田書店とか、そういう大手出版社ではない。あくま編集プロダクションである出版社編プロがどう違うのかって……ざっくり言うと元請け下請けだ。出版社出版事業(今回だと青少年向けの漫画作りや商業展開)の企画をして、漫画家が作品のものを作って、編プロ雑誌本体を作って、その制作過程印刷所やデザイン事務所といった専門集団関係することになる。

イマイチ説明になってしまった。一般社会の例で説明する。民法でいうところの委託(準委任契約)に当たる。公共建築の分野でいうと、公共機関の建築技師が新しい建築物のマンガ絵を作り、建築事務所が基本設計~詳細(実施)設計をして、出てきた成果物を元に大手建設会社施工監理し、地元にある中小事業者が実際の土木建築作業をする。

自分が勤めていたのは、この例でいうところの建築事務所だ。受益者(国民=漫画読者)の希望に応えたい組織があって、そこから依頼を受けて動いている関係会社ひとつ。そういうアナロジーだ。

出版社との役割分担は、そこまで分離しているわけでもない。漫画編集者といえば、昔の手塚治虫ほかの自伝みたいに、漫画家とアツいやり取りをしているイメージがある。ああいう、企画経営制作現場の間にあるような仕事は、出版社社員が直接することもあれば、編プロ出版社(編集部)のオフィスを間借りして行うこともある。

前者の例だと、マガジンサンデーチャンピオンなどだ。コンビニ書店にほぼ必ず置いてあるレベル漫画誌。大手出版社総合職コース入社した人が、(編集取材制作、資材、宣伝マーケティング、総務経理人事その他事務)といった多くの部門ひとつである漫画編集部に割り振られて其処に居る。

後者の例だと、大手出版社が出している漫画誌でも、あなたが聞いたことのないやつもけっこうあると思う。そういうのは、編プロ出版社(編集部)の仕事を丸ごと請けて実施していることが多い。自分は、そういう会社で働いていた。職場自体大手出版社の中にあるが、いわゆる委託先の社員だった。別の言い方をすると、親雑誌に対する子雑誌関係

ほかの長文増田記事を見るに、あまりたくさん書けない仕様のようである。何文字までかは知らないが、文字制限があると思う。本当は何万字でも書きたいのだが、あくま自分が書きたいだけであって、あなたが読みたいとは限らない。一万字以内になるよう心掛ける。以下に、自分が関わった漫画家を2人だけ紹介しよう。最後に所感を述べて終わりにする。

その2人(A先生とB先生。どちらも若手)と私は、分水嶺のような関係追記;わかりにくい表現ですいません。ブクマカのBuchicatさんコメントのとおりです)だった。ある日、私が担当していた漫画家のA先生が新作の企画提案に来ていて、同じタイミングで別の編集者のところに持ち込みをしたのがB先生だった。その別の編集者が不得手なジャンルだったこともあり、A先生との話が終わった後で、私も一緒にB先生作品を読んだ。

その後、編集部責任者を交えた会議で、私が引き続きA先生の新作の担当者に決まった。新人であるB先生担当になる可能性もあったが、そうならなかったのは、今の漫画界の一界隈にとって幸運なことだった。



A先生について

A先生は、雰囲気が暗めだった。人間性まで暗いというわけではなく、心を開くと明け透けになるタイプだった。モードに入ると饒舌になる。

弊誌では、読み切りを何度か掲載したことがあった。アシスタント経験あり。小さい賞を取ったことがある。ヒット作はないが、若き漫画家としてはキャリアがあった。

画力が抜群だった。小学校中学校で、学習ノートフシギダネの絵とかをソラでゲームパッケージそのまんまに描く子がいただろう。とにかく天賦の才を持っていた。最小限の画量で、それでいて迫力と感情に溢れた1枚1枚を描く。そういう人だった。

難点は、マジメすぎるところか。少し前にやっていたアニメだと、チェンソーマンに登場するアキくんか(少し前……?)。とにかくマジメだった。いや、やはり『直向き』に訂正する。

A先生は、少年誌に見合わない重たいテーマに挑むことがあった。今でもそうだ。彼のマンガには『緩さ』がない。それもいいところなのだが。私は好きだった。はっきりいって。が、読者の傾向に合っているか微妙だった。

子どもの頃から漫画が好きだったらしい。中学生の頃のイラストを見せてもらうと、俄然キャラクターへの愛に溢れる作画を見ることができた。中学生らしい、プロには程遠いクオリティなのだが、しかし見ていて違和感がないというか、自然にくっきり入ってくる。

私という人間は、具体例で物事説明する癖がある。上の「中学生らしいイラスト」を別の事例で表現すると……「うるせ~!!知らね~!!FINALFANT ASY」(短縮URLhttps://x.gd/L5cc4)だろうか。以前、いつぞやかのid=pptppc2さんのブックマークコメントきっかけで元ネタを知ることになった。

あの時のA先生イラストは、ベルセルクセルピコだったと思うが、力強い表現だったのを覚えている。セルピコファルネーゼを抱きかかえて、

申し訳ありません 道案内を頼まれまして 少し席を外していましたもので」

と言うシーンの模写だった。

さて、そんなA先生だったが、ある時これまた重量級のテーマで描きたいものがあるという。先ほどの、編集部での新企画提案の話だ。

その際、A先生からプロットをもらい、私のデスクで拝見させてもらったところ……うちの雑誌では持て余しそうだった。作品の質が低ければ普通に打ち切りになりそうで、作品の質が高くても――弊誌の売上規模だと会社グループ全体の機会損失になりそうだった。私の前でパイプ椅子にかけているA先生は、不安げな面持ちだった。

内部の話で悪いが、例えば「甲」という雑誌亜流「乙」という雑誌があるとする。ビッグコミック(オリジナルスピリッツスペリオール)みたいな感じだ。この時、甲と乙に明確な上下関係があった場合、乙誌に掲載された漫画が甲誌に引き抜かれることがある。その際、甲誌の編集部から言われるのが、

「なぜうちの編集部に見せなかった?」

という意見だ。これは、ストレートに言われる場合もあれば、暗に言われる場合もある。だが、事前に上流の雑誌に見せていたとして、多くの場合玉虫色の返事があるだけだったりする。

話を戻そう。この時の自分は、編集部自分デスクのあたりでA先生次回作を見せてもらっている。確か缶コーヒーを飲んでいた。

自分としては、A先生マンガを弊誌に載せたいと思っていたが、先ほど述べたとおり、後ろ髪を引かれる思いもあった。社会派少年漫画というのは扱いが難しい。その作品が「あしたのジョー」の影響を受けているのは明白だった。「A先生であれば、きっと面白い作品にしてくれるのだろうな」という期待はあった。

うーん、大いに悩むところだ。どうしよう。思いあぐねていたところで、別の編集者から声がかかった。要約するとこんなところか。

「持ち込みに来た人がいる。私の専門じゃないので判断が難しい。門前払いにするレベルではないので、あなた判断を仰ぎたい。上の人間は今出かけている」

要するに、自分の専門外なので判断できないよ、と言っている。ここも会社なので、編集者の上には当然上司がいる。その人達がいなければ同輩に相談するのが基本だ(余談だが私は後輩だった)。こういう原則一般会社と変わらない。

その『別の編集者』というのは、儚い感じの純文系が得意なタイプだった。一番わかりやすい喩えは……『はちみつクローバー』みたいなやつだ。ああいうのが得意な人だった。

その時は、A先生との話が終わったら行くと告げた。それで、しばらくそのまま話を続けた。

「この作品はい意味で重たいねちょっと考える時間がほしい」

と言って、その日は解散した。A先生は、「お願いします!」と言ってパイプ椅子を立ち、そのまま帰っていった。いつもだったら喫茶店ご飯をおごっている。

A先生は、『いい子』だった。あまり感情は出さないけれど、人間に対する愛を持っている。そういう子だった。私が当時、A先生ご飯を奢って、彼がおいしそうな表情で食べている時、私は幸せだった。A先生幸福だと、自分幸福だと思えた。A先生漫画という手段で自らを表現している時、まるで自分もそれに劣らぬような喜びを得ていた。

ヘンな表現かもしれないが、例えば読者がA先生を褒めている時、自分A先生との区別がなくなっているというか。彼のことが、自分ことみたいに嬉しかった。これは愛なのだろうか。



○ B先生について

持ち込み部屋に行くと、別の編集者と、持ち込みに来た子が対面で座っていた(ちょこんと挨拶をしてくれた)。自分が座る席には作品が置いてあった。綴じられていない原稿用紙がある。ページ数にして30枚ほどだった。もっと多かったかもしれない。記憶あやしい

実際、B先生作品面白かった。コテコテの学園ものかと思いきや、登場人物それぞれに適度な制約があって、キャラクターも立っていた。これまでのキャリアを聞き取ったところ、作品雑誌掲載されたことがあるようだ。アシスタント経験もある。

絵の方は、自分がこういうのも大変失礼だが、上手な方ではなかった。どちらかというと、脚本や設定、キャラ作りが得手のように映った。当人情熱を注いでいる箇所はすぐにわかる。キャラ絵が有名漫画家の影響を受けているとか、キャラクター台詞回しがハリウッド映画風とか、背景や小物を手を抜くことなく全部描いているとか、そんな具合に。

光るものがある作家だった。これを見抜けないようなのはモグリ――そんなレベルで輝いていた。

私は作品を読み終えた後で、「ちょっと待ってね」と自席に戻り、少し残っていた缶コーヒーを飲み干して、思案を重ねつつ持ち込み部屋に戻った(どうするのが最良かわからないケースだった……)。

それで、テーブルではこういうやりとりをした。

私「イイ作品だと思います特にセリフ回しにセンスを感じます掲載ができるとかここでは言えないけど、話は通してみますね」

B「ありがとうございます

私「それで、担当はね……縁なので。あなたがするのがいいのでは?」

編「私よりもほかの人がいいと思いますもっと才能を引き出せる人が……」※小さい声で

私「いや、でも恋愛描いてるよ。エンタメだけどいいんじゃない」(こいつ、作家の前でアホなこと抜かしよって)

編「難しいです」

私「でもこれ、縁だよ」(意識が低すぎる……)

編「ほかの作家さんも抱えてるので。いっぱいいっぱいです」

私「わかりました」(トラブル回避のため後で編集長に説明しとこう)

B「すいません。僕の作品はどうなるんですか?」

私「後日連絡しますね。必ずしまから、それまでは他誌への持ち込みは待っていただけますか」

B「あの、はい。できればですが、早めでお願いします。一週間くらいでなんとかなりますか」

私「なんとかしてみます

作品のものと、作家プロフィールと、付属資料コピーを取らせてもらって、彼には外で缶コーヒーを奢った。ビル入り口まで送ったところまではいい気分だったが、正直、身に余る事態だった。

持ち込み作家の才能がありすぎるのも考えものだ。嬉しい悲鳴というやつ。誰が担当に付くかで今後の雑誌の売り上げに影響がある。重大な意思決定ということになる。

最悪、『進撃の巨人』の時みたいに優れた作家を逃してしま可能性がある。あれも、実際は諌山先生門前払いではなく、週刊少年ジャンプ担当が付くか付かないか微妙ラインだったらしい。それで、誰が担当になるかを押し付けあっている間に諌山先生が他雑誌に持ち込んでしまった、という話が業界団体公的飲み会で囁かれていた。



○ その後~

B先生についてだが、一週間後に担当編集が決まった。「別の編集者」でもなく私でもない。当時、若手のひとりだった20代の子が任されることになった。編集部トップを交えてB先生原稿コピーを読んだのだが、「若い感性が光る。年齢が同じくらいの人と組ませる方がいいのでは?」という結論になった。

その20代の子は、上の組織からこっちに出向してきている子で、いわば武者修行の身だった。一流大学出で、本社プロパー社員。いわゆる総合職である

最初は、私に選択権があった。B先生担当になる道もあった。だが当時の私は多忙であり、月に何度も会社に寝泊まりするレベルだった。新人は抱えるべきではない。しかし、才能のある子だから迷いがある。

A先生のこともあった。彼のあの作品を世に出してやりたい。もっと有名にしてあげたい。そんな想いがあった。

私が悩んでいるうちに、例の20代の子が手を挙げたのだ。私としても、彼のやる気と知性と直向きさは買っている。諸手を上げて賛成した。

今思えば、正しい選択だった。もし私がB先生担当になっていたら、面白い恋愛エンタメを楽しめる読者の数は減っていただろう。これでよかったのだ。

以後のB先生は、例の持込漫画ブラッシュアップを続けた。翌年には、晴れて弊誌に第一話が掲載されることになった。さらに以後は、担当編集とともに二人三脚で躍進を続け、イケイドンドンの勢いを保ったまま、一度も息切れすることなスターダム上り詰めた。今では漫画家として世に知られている。

一方で、私が担当を続けたA先生は地道な努力を続けた。

上で挙げたA先生の意欲作は、読者層に合っていなかった。それでも、高い画力シナリオ構成の上手さがあったのだろう。その意欲作は、連載期間を積み重ねる度にファンの数が増えていった(業界的には、Amazon第一巻のレビュー数が人気の代替変数になることが知られている)。

今では、A先生は親雑誌で連載を勝ち取るまでになった。去年だったか。彼の作品コンビニ立ち読みする機会があったのだが、やはり突き抜けた画力だった。週刊連載であそこまでの画力というのはまずない。



2024年現在、私は東京を離れて田舎暮らしている。地元町役場Uターン就職して、実家農業を手伝いながらスローライフに近い生活を送っている。

実は、編集者だった当時、働きすぎて病気になった。ある日、下腹部の辺りに違和感を覚えて、血の塊のようなものが血管を這っている感覚があった。病院に行くと、「遅くても明日中に入院しなさい」という医者から指導があった。

それなりに重い病気にかかってしまった。一応は死亡リスクもある。数か月ほど入院した後、どうしようかと考えて、考えて、考えて……編集部に復帰後は、労働を最小限にしつつ転職活動スタートした。

A先生については、幸いだった。彼の意欲作とは最終回まで付き合うことができた。私が退院した後、無事完結を迎えることができた。あしたのジョーに比べればハッピーエンドだった。

入院中に、A先生とB先生がお見舞いに来てくれたのを覚えている。ほかの編集仲間も来てくれた。A先生は、テンションが低めで、何を考えているのかわからないこともあるのだが、人間への基本的な愛というか、思いやりがある人だった。

もう40才を過ぎている。はてなユーザーの中では平均的な年齢か。思えば齢を重ねたものだが、当時の日々は今でも夢の中に出てくる。

若いから編集者をやってきた。身体を壊さなければ続けていたのかというと、多分そうだろう。でも、今の生活も悪くないと感じている。自分語りはここまでにして、締めにしよう。

もしあなたが、Webでも紙媒体でもいい。気になる漫画作品を見つけたとする。面白いものを見つけたと感じたら、ひとまず買ってみるのがいい。Webだと1話単位で売っている。

ひとかどの漫画家というのは、自らが産み出すモノを本気で高めにいっている。あなたフィーリングが合ったのなら、ひとまず1巻だけでも読んでみる方がQOL高まると思う。ハズレを引くことはあるだろうが、アタリだってちゃんとある人生は運試しである

2024-01-26

anond:20240126164545

自分創作者なのでそういう話はよく考えるし、場合によっては作品にも盛り込みがちなのでちゃんと答えたいんだけど、

如何せん作品に入れてたりするので身バレ危険が上がってしまうんよな……。

なので芯を食った返答になっていないかもしれないが(完全にこっち側事情申し訳ない)

自分基本的に、人を傷つけるような感想が許容されるとすれば、それはその有害性を有益性でキャンセルしているからだと考えている。

そのため、有害感想を好ましくないと主張する根拠として、有益性への懐疑が機能すると考えるし、だからこそマイナス意見有益性を疑う訳だ。

 

で、作者にとっての有益性以外にも、あなたの言う様な他の誰かの利益になる様な有益性は有り得ると思うし、そういう有益性をマイナス意見感想が持つ事も有り得ると思う。

しかしそこで問題になってくるのは、受益者と受害者(?)の不一致だ。

もし人を傷つける感想が害を与える相手と益を与える相手が一致するなら、それらが相互キャンセルされるという考えはある程度説得的だ。

けれどあなたの言う様に「マイナス意見は作者の為とは限らない」という場合マイナス意見の益を作者以外が得る一方、そのコストとしての害は益を得ない作者が負担させられることになる。

こうなってしまうと倫理的正当化はむずかしいんじゃないか? と思う。

一応「マイナス意見による利益共同体全体が受益する」として「共同体内には作者もいるので、作者も受益者だ」と主張する事は出来るかも知れないが、かなり苦しいんじゃないかな、と思う。

 

(誤解を生むかもしれないので追記:上ではこう言っているが、既に書いたように誹謗中傷でない限り感想マイナスであれ自由だと思っている。その上でその有害性をキャンセルし得るような有益性について、上のように考えている、という感じです)

2024-01-11

anond:20240111100856

その話に便乗して少し違う視点から意見を言わせてもらうと

どちらにしても行為者側の視点なんだよね。

善行を受ける側にとってどうなのか?

恩恵があることなのか、行為者は善意でやっているけど有難迷惑なのか?とか

受益者とされる人たちに寄り添って、よほどのことがない限り責めることはせずという態度でいるのが良いのじゃないかと思ったり

その視点が欠けているのが独善っていうのかなとは思ってる

2023-11-05

anond:20231105103853

いや、本当によく言ったと思う。

サービスレベルが高過ぎる上に、受益者年寄りに偏りすぎているので国民皆保険年金と同じねずみ講で子会員からチューチュー吸う制度とみなせる。保険とは名ばかりで若者にとってはリスクに見合った掛け金ではなく年寄りに吸われてるだけというのが実態から国民皆保険サービスレベルオプションで選べる形にして負担選択肢も少ないものと、負担は大きいが幅広く備えられるものに分けてもいいと思う。

姥捨て山の議論議論自体タブー視する形でマスコミが潰したけど、それもテレビ観てる年寄り層に忖度した結果だから、姥捨て山については仕切り直して議論したい。

2023-10-31

anond:20231031115133

付記について

「それがゾーニングされずに表示される事で、女性蔑視的な価値観付与される」という、条件を付与した女性差別女性蔑視論と悪影響論の合いの子については、議論が取っ散らかるので付記として付け加える。

まりこれは「ゾーニングされている」という事自体に「この表現提示する価値観公然と認められた訳では有りませんよ」というメッセージを発する、という効果を期待する、という構造になっている訳だけど、

まぁ、希望的観測過ぎるよね、何人中何人がそのメッセージをわざわざ考えて受け取ってくれるんだろう?その内何人があなたがそのメッセージを届けたい人なんだろう?メッセージが届かない人にはどうするつもりなんだろう?

その効果他者権利制限と言うコストデメリット釣り合っているんだろうか?誰が受益者で誰がコストを払っているんだろうか


希望的観測」で切り捨てるのは理解できない。

極端な表現については、映画ゲームレーティング一般的に受け入れられている。

ゾーニングすることで、内容を真に受けず社会的行動できる人が見るものですよと伝えられる。

もちろん伝わらない人もいるかもしれないけど、そのケースのために伝えること自体を止めたらそれは怠慢であり大人としては声を上げるよ。

2023-10-30

anond:20231029203433

こうやってサービス残業でなんとか回っていたもの破綻していくね

みなさんは労働者としてやたら歓迎してたけど、そのサービス受益者でもあること、わかってましたよね??

頭お花畑の人たちが「人を増やせば問題ないじゃん」とか「それで破綻するならさっさと破綻した方がいい」とか言ってましたけど

こういうのがあなたたちが望んだ世界なんだよね??

よかったね

2023-09-30

anond:20230929234439

思考がクソすぎてお話にならない

受益者限定的からいらないという理論だと、この世から機能トイレも、オストメイト設備も、点字ブロックも、音声案内も、外国語併記の案内板も、公共施設入り口スロープも、全てなくなります

一度母親の胎内から人生をやり直してみては?

母乳しか飲めない日々を過ごせば、多少はマトモな脳みそになれるかもしれませんね

anond:20230929234439

私はこの増田同意だけど、ブコメトラバしんどい意見が多いな。

優先順位問題だっていうのがわからんのかな。受益者が少なければ不要なのか!って吹き上がる人もいるけど、調乳ができれば一部の人だけじゃなくて丸ごとカバーできるんだよ。

しろ授乳室が特権階級のための設備で、それを必要としてるのは障害者じゃなくて母乳育児ができるエリートなわけ。母乳が出ない障害者のための設備を作れよ。

哺乳瓶拒否ベビーってなんだよ。乳がでない母親のもとに産まれたら死ぬのかよ。母乳が詰まって辛いなら絞って冷凍しとけよ。公共の場でまろび出す必要ないだろ。

anond:20230930022032

受益者が少ないか授乳室がいらないなら多目的トイレ必要な人も少数派だからいらないことになるよ

授乳室を潰したら赤ちゃん休憩室じゃなくて給湯室だな

anond:20230929234439

受益者が少ないかそもそもいらないって言う理由がまかり通るなら

人口の0.1%未満しか居ない難病対応なんかいらないから全部放り投げろって理屈がまかり通っちゃう

いざ自分がそうなった時に困らない?

そんでその考えが行き着く先は少数派皆殺しのディストピアなっちゃわない?

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