はてなキーワード: 足跡とは
知らない人から足跡つけられていると見てしまうのが性なのか、ついつい見てしまう。
最近は大半が業者であったりビジネスに繋げるのかなんかしらんけど、魅力的???なプロフィール武装した
人をよく見かける。
ここで自分個人的な仕分け。
1,とりあえず見に行き誰なのか見に行く。
2,知り合いではなかった場合、一応どんな人なのかプロフィールを見る
3,ざっとプロフィールを見て、本物か偽者かどうか見極める。
4,本物っぽい→ちょっと興味が湧く。
偽者っぽい→足跡つけんじゃねーよ!
という一連の流れになってる。
本物、偽者の判断は個人的なもので、明確な判断基準はない。
例えば、
な方が居たとしたら偽者判定。僕は音楽詳しくはないけどね。
うまく言い表せないけど、なんとなくむかつく人は基本偽者判定。
けれど、最近あることに気づいた。
これが面識のある人だとちょっと違う感覚になる。
1,とりあえず見に行き誰なのか見に行く。
(足跡からじゃなく知り合いとあらかじめわかって見に行く場合も同じく)
2,知り合いなのでプロフィールを見てニヤニヤ。
3,趣味、プロフィールは判定の基準にはならずに相手の情報になる。見て、へぇ~程度のモノだとしても。
意図的に質素なプロフィールにしているよりも、背伸びしたプロフィールのほうが
小さなコミュニティの中では有効なのかもしれない。
にわか乙wwwとか思ってバカにするより、動機は不純でも背伸びしたほうが面白いかもしれない。
トランペットやろうかな^^
だいぶ前ですが、mixiが株式を上場するのと前後して急激に路線を変更した。テレビ番組が「低学歴」「社会不満層」「下流」と括られる人々に向けて作られ、その質や番組作りのモラルが問われるご時勢ですけども(その最たるものが安上がりなだけが取柄のバラエティ番組とか、パチンコのCMとか、茶番なだけの報道合戦やみのもんたの舌禍ですね)、mixiも携帯認証を認め、年齢制限を緩和し大量にそういう括りで見られる人々を、ただ集めた。集めたはいいがフォローしたり啓蒙することを怠ってきた。肝心のインフラや雇用が未整備で都市型スラムが生成されてしまうのと同じような過程を踏んでしまったんですよね。つまり、大量のライトユーザと若年層が増えることで、全体の質が下がる。それにつけこんだ業者や犯罪も増える。結果的に生活環境はひどくなり、人は減り、世間からも糾弾され最後は存在自体が忘れられるか葬られる。いまじゃマイミク以外に積極的に足跡踏んでくるヤツはMLMとFX勧誘してくる業者かその信者、頭も尻も軽そうなネーチャンの援助募集と相場が決まってますからね。「足跡帳」ってわざわざ作ってあげてるのにただ踏みに来るだけ。この人たちは日本語が不自由なんでしょうか?でも携帯をいじれるくらいの知能はあるようですね(笑)で、そういう連中がガキを相手に営業活動してる。事務局も規約で謳ってるくせに取り締まろうとしないですし。いったいなんのための規約だよ、と灰皿を無闇に叩きつけたくなります(苦笑)
大阪市における弱者救済のための社会政策が、結果的に西成の生活保護率の異常な高さとそれによる市の財政危機を生み出し、さらにはそういう人々をエサにピンハネで懐を肥やす手配師。暴動を煽るプロ市民に麻薬を路上で売るヤクザ。mixiって例えたらそういう場所なんですよいま(苦笑)
「建物の窓が壊れているのを放置すると、誰も注意を払っていないという象徴になり、やがて他の窓もまもなく全て壊される」で有名な割れ窓理論*3というものがありますけども、そっくり当てはまる気がしますね、いまのmixiって。
「誰が見てもすぐ理解できる」
「みんなが参加できる」
それがこの体たらくです。必然的にもっともレベルの低いヤツを基準にしなきゃならないでしょ?それってテレビが衰退した事例と似てませんか?積極的に情報発信する人間がますます減り、ただ受け身なだけの人間が増え続ける。で、登録制ですもんねいま(まだ?)。招待制なくなって。
せめてmixiだけはそうなってほしくなかったですけども。そういうテレビを好んで観る層が大半を占めてしまったいま、それを望むのは贅沢なのかもしれませんね。
そういえば最近GREE真似て?mixiもついにあのアプリとかいうのを実装してしまいましたからね。質より量を、さらに促進しようという方針です。これはもうやばいなと。受け身でつまらない場所にしかもうなりませんよ。こないだも違法な動画アップでお騒がせな事件があった。西成の第○次暴動みたいに報道すらされなくなったらもう潰れますね。mixiはそういう場所なんだって認識されて。いや、もうされてるか(苦笑)もう続けていくのはやばいなとは思ってますけども、惰性でまだやめてません。どうせならその崩壊まで見届けてみたいという悪趣味な視点もありますしね。どんな事件でmixiが壊滅に追い込まれるのか(苦笑)
まぁmixiはとっくに終わってるけども。でもその日記の話を知ってる友達が足跡を残しながらコメント残してくれないのはちょっと悲しくなるよね。電車待ちに携帯から見ててコメントできないのかもしれないし、後でコメントしようと思ってるのかもしれない。なのに「コメントくれなかった…」って思ってしまうのがいやで足跡見ないことにした。日記書いても翌日くらいまで見ないようにしたし。それで自分がmixiから疎遠になっちゃたけど、牧場でまた復活って感じ。まぁ距離もってやったほうが良いよね。mixiにしろblogにしろ。
普段、日記は自分のチラシの裏(Mixi)で書いてるんだけど、
流石にこういうことは書けないからこっちで書こうと思うんだ。
相手のプロフィールも結構自分好みで趣味とか年齢とか価値観とか合ってる。
だからひたすら足跡だけ残し続ける風に続いてるんだと思う。
自意識過剰と思われるかもしれないけれども、時々お互いを意識したような日記を書きあったりもする。
(例えば、自分はよく美術館に行くんだけど、相手も美術館に行った日記を書いて「一緒に行ってくれる人が欲しい」とか)
(まぁ、他にも色々あるんだけど)
でも、あくまでも足跡だけでコメントを残したりはしてくれないし、メッセージのやり取りは勿論せず、マイミクですらない。
気分が良い日だといっそメッセージ送ってみよっかなー!とか思うんだけど、何かがひっかかって、未だに踏み切れない。
仮に向こうが送ってきてくれたら返すのになー、マイミク申請も大歓迎なのになー。
何でしてきてくれないのかなー。まぁ、結局自分から送ることは無いだろうけど。でも仲良くなりたいなーなれたらいいなー
写真見る限り可愛い人だし、そのうち数カ月でもしたら彼氏でもできて、自分に興味も失って、足跡を残してくれなくなるんだろうか?
とか思うとちょっぴり寂しい
誤解してるだろ。
通常では、自殺も事故も考えられない状況があるなら、あらゆる他殺の可能性が検討される。
それでも、他殺の確証がなければ事件性なしってことになる。
どうやら、事件性なしの方向に行きそうだけどな。
【臼井儀人さん死去】デジカメにがけのぞき込む写真 転落死の「しんちゃん」作者、臼井さん
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/game/090921/gam0909211225001-n1.htm
もちろん、“犯人”が事故に見せかけたってこともいえるけど、本人以外がいたという足跡なり、目撃情報でもなければ、それまで。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1303084.html
亡くなった著名人に対してそうウェブ上で弔意を表する人たちに、前々からなんとなしにひっかかりをおぼえていた。
「お悔やみ」は本来的には、故人の遺族などの関係者に対して「申し上げられる」ものだ。社交辞令的な側面を除けば、そこには人の死という最上級の悲しみを他者と共有し、辛さを分かち合うことで、明日への活力を得るための一助とする目的が存在する。なんとか彼の屍を乗り越えていこう。おじいちゃん最期になんていってたの? 生きろ、ってことさ。
ではウェブ上でお悔やみを述べる人々は「ワールドワイドなネットワークでディープなサドネスをシェアすれば、よりサフィシエンシーに富んだアロケイションを実践できるライフハック」でもキめようとしてるのだろうか? おそらく違う。ある種の人々にとってはウェブという葬式には不自由な場で唯一打てるの弔電であるし、別のある種の人々にとってはライフロギングの一環にすぎないだろう。そして、また別のある種の人々にとっては「本気で悲しんでる人」になるための入り口を作り出す儀式でもある。
訃報が大きなニュースとして扱われるのは各種著名人の中でも俳優、歌手、芸人などなどアーティストの場合が一番多い。ニュー速やはてなの場合はオタ寄りの人間が多いためか、漫画家や声優も比較的反響がデカい。こういった人々はアウトプットしたものが他に比べて我々の生活に入り込みやすい。あるいは、能動的に手に入れる場合の(精神的・物理的)コストが非常に安く上がる。だから、ファンならずとも「思い出してみれば、(作品を)見たこと、聞いたことがあるよね……」という気分に陥る。 仮想的な個人関係が構築される。そうなるともう「知人」だ。知ってる人が死ねば悲しい。当然の感情だ。だから、お悔やみを申し上げる。当然の論理だ。
これは「悲しんでるフリ」なのか? 否だろう。少なくとも、結果的には「本気で悲しむ」ことになるのだ。そういう結果に行き着いてしまうシステムができあがっている。そう、悲しみを指数関数的に増幅させるプロセスが。
著名人の死には思い出補正のほかにもうひとつ、故人の個人情報(しゃれじゃないよ!)、即ち通常の葬式における「彼/彼女とのおもひで パブリック版」がメディアによって無償提供される。追悼記事の体裁をとった故人の交友関係、裏事情、履歴学歴出身出自家柄家族構成年収バイオグラフィーその他諸々が暴露される。作品が繰り返し繰り返し某のりピーバキバキDJプレイ動画並にテレビでリピート再生される。掲示板でまことしやかに故人の美談が語られる。雑誌で特集が組まれ、いかに素晴らしい足跡、業績を残したかが取りざたされる。そして、ブログで「○○に関する個人的な思いデ」なる記事がアップされてエントリ執筆者に<わたし>の代入がはかられる。かくして公人としての彼/彼女の情報と私人としての彼/彼女の情報を手に入れることで、それぞれの中で実際と感情的にはさほど変わらない擬似友人関係が手に入る。リアルと違うのは<わたし>と故人をそれぞれとりまく人間たちがまるごと欠落してることだ。まぁなんて十年前に流行ったライトノベルみたいなんでしょう。君はそれで十分なんだろう。電波はどこからでも届く時代なのだし。
だから、画面上の「お悔やみ申し上げます」はいびつに響くのだ。単に遺族を知らないのあれば、自分の周囲から作者を知る人物を探し出して共有すればいい。それこそネットでは腐るほど見つかる。が、それではダメなのだ。上記のプロセスを経て構築された太くて強固な一本のみから成る関係は非常に閉鎖的で、誰の干渉もゆるさない。その上、線でつながれた二人のうち一人はもの言わぬ屍なのだから、もうほとんど俺 is world.だ。
臼井義人のような行方不明の場合は、この故人情報の提供が前倒しで行われている。(世間一般的には)一部の人にしか知られてなかった「まつざか先生の恋人爆死エピソード」やら、新宗教に関連した家庭内不和の噂やらがばらまかられ、『クレヨンしんちゃん』がベースとなった映画がピックアップされる。作品について語ったインタビューやら本やらが紹介される。そもそもがアニメのお陰で幼児~30代に絶大な知名度を誇る漫画の作者だけに、人々は自分の中の『クレしん』体験を持っている。我々はその記憶をつぶさに思い出の中から発掘し、あたためるだけの時間を時間を与えられる。今までまったく知りもしなかった作者をよき隣人よき友人として捉える様になり、ついにはこうのたまいだす。
「私の人生において『クレしん』はドラえもんとならんで人格形成に強烈に作用したいわばバイブルです。ええ、今でも大ファンですとも。ワシは臼井義人が育てた! しかし今の子供はかわいそうですね。ドラえもんとしんちゃんを同じ曜日に楽しめないとは!」(楽しめる)
既に世間は膨れあがっちまった悲しみではちきれんばかりになっている。今日に至り、「遺体発見!……か?」というニュースがダメを押した。今更後戻りはできない。「なんかの間違いであってほしい」「俺は信じないぞ」。これらは通常、死者に用いられる言葉だ。
人は自分本位ないきものだ。いわんや、(推定)死体と<わたし>としかいない閉じた、花火すらない部屋の中にあっては。死体の前についた(推定)が外れた時、ようやく理想的な関係が得られる。なぜ理想的なのか。安心できるからだ。なぜ安心できるのか。安定しているのだ。構成要素が自分しかいないから。ということは必然的に訃報からはじまる一連のシークエンス主人公はその人自身、ということなる。主人公は人の死を嘆き悲しむのだから人生という本のワンシーンとして、美しくならないはずがない。
画面越しに行われる弔いはその人の体内で循環し続けて決して放散されないのであって、つまるところ内面の問題なのだ。そこに臼井義人の親族や関係者が介在する余地などまったくない。だからこそ、人はどこまでも残酷になれる。決して、自覚することなく。
あなたは悲しむ準備はできましたか? 悼む用意は充分ですか?
私は……臼井さんが五体満足これ無事にお戻りになることを祈ってます。
中学時代の話。うちのクラスに、ドラえもんに登場する「出来杉君」をある程度マイルドにしたような人がいた。成績は中の上で短距離走が異常に早く、帰宅部なのに県大会とかに出てたりして、性格や「穏健」を体現したような感じ。なので男女問わず彼を悪く言う人はいなかった。
それとは別に、担任もさじを投げるようなどうしようもない奴もいた。いわゆるDQNってやつか。出席率は3割以下。たまに来る日も、昼前に、明らかに暴走族とおぼしき輩がバイクで送迎してくる。舌打ちしながら授業を途中で「自主的に切り上げる」など日常茶飯事。
そんな二人が一度だけ激突した事があった。
年に一度行われる文化祭的なイベントにむけて、うちの学級は学校のジオラマを造っていた。二畳ほどの広さのもので、校舎の窓ガラスも一枚ずつプラスチックの板をはめ込む気合いの入れよう。途中経過を見た校長はその出来映えに感心し、文化祭的イベント終了後は学校の来客用のエントランスホールに展示するとまで言い出したのだから級友達のテンションが上がらないはずがない。クラスのみんなが自主的に連日放課後居残って制作に勤しんでいた。
そこにDQNの登場である。
ジオラマの作業場所は余った机や椅子置き場になっている、今は使われていない教室なのだが、何故かDQNが放課後そこにふらっと現れた。
教室に入るなり「おっしゃ!俺も手伝ってやるぜ!」とがなりたてるが、当然みんなは白け顔。そんな空気を読み取ったか、DQNはつかつかとジオラマに近づき、「お、殆ど出来てんじゃん!」と言うやいなや、「はいどーん!」と、あろうことかジオラマのグラウンドの部分を思い切り踏みつけやがった。
ジオラマの土台は発泡スチロールなため、ジオラマの真ん中に巨大な足跡があっけなくできあがり、白い破片が周囲に飛び散った。あっけにとられる周囲を尻目にDQNは「よっしゃこれで完成www」とついでに東校舎を蹴っ飛ばした。
すすり泣く女子達。「何やってんだお前!」とDQNににじり寄る男子達。へらへらと笑うだけのDQN。そのうちの何人かが職員室へ事態を報告しに行こうとした時、教室の隅で作業中だった彼(穏健な方)が突然投げつけたパイプ椅子が、DQNの顔面に直撃した。折りたたまれた状態で縦回転しながら飛んできたので、かなりの衝撃だったように思う。
予想外の事態で後頭部をしたたかに床に打ち付けたDQNは、鼻と口からダラダラと血を流し(上あごに当たったのだろう)、DQN達特有の威嚇の雄叫びをあげた。しかし彼は意にも介さずDQNの頭をサッカーボールのように蹴り上げた。
「お前何してんだこら。」
彼はそう言いながら、今度はDQNの腹を蹴りつけた。
「なあおい!お前何してんだよ!なあ!」
次はDQNの顔面を思い切り踏みつけた。
まるで外国の映画で、悪徳刑事が取調室で無実の被疑者をいたぶっているような光景だった。もしくは、命令をしくじった下っ端のチンピラを制裁するマフィアの姿にも見えた。生まれて初めて目撃する純然たる「暴行」に俺は背筋が冷たくなった。いつも威勢のいいDQNの顔には、血と涎と涙と恐怖しか残っていなかった。
職員室から担任が急行した数分後には既に終わっていた。半壊したジオラマの横で土下座をするようにうずくまり、背中にいくつもの足形をつけ(彼が蹴りつけた時についたものだ)、「うーっうーっうーっ」と、泣いてるのかうなっているのか判別しかねる声を上げ続けるDQN。散らばったジオラマの部品を黙々と拾い集める彼。
「何があった?」と尋ねる担任に、彼は無表情のまま答えた。「そいつに聞いてください」。
その日以後、DQNは学校に現れなくなった。DQNに暴行を加えた彼はとりあえず反省文を提出させられたようだが、教師側も(普段の彼とDQNの行状から)事情を察したようで、後からその件に触れる事はなかったようだった。そして我々も何事もなく卒業を迎える事になった。
およそ二十年弱が経過した。そんな彼をmixiで発見した。結婚し、子供も居るらしい。俺は彼にメッセージを送って連絡を取り合い、あの「暴行事件」を懐かしんで見せると、彼は翌日少し長いメッセージを送り返してきた。あの日の自分の行いをとても後悔しているらしい。自分がクラスになじむチャンスを奪ったのではないかと、今でも思い出す事があるそうだ。なので私は、DQNが16か17歳の時に無免許でバイクを乗り回し、交通事故を起こして死んだ事は言わなかった。多分彼も知っていただろうが、これ以上は私が切り出すべき話ではないような気がしたからだ。少なくとも私にはあの事件は「武勇伝」ではあったが、彼自身にとっては、それは「忘れがたき若き日の過ち」だったのだろう。
ののしりあいというほどでもなく、意見の相違からちょっとした言い争いになった。
初めてなのでちょっと自分でびっくりするほどへこんでいる。
ネット歴はそれなり。
2000年から始めたから、ちょうど9年だ。最初はISDNだったのを覚えている。
HPも作ったしWeb日記も書いた。ブログも作ったしMixiのIDも持っている。
いままでうまく人間関係やってきたんじゃなくて、初めてネット上の誰かと交流したんだということに気付いた。
サイトには一応掲示板を付けたが、書き込みがあるのが苦痛だった。
「うわーい、コメントもらっちゃった★」ではなく、「げ、書かれちゃった。返事どうしよ」だった。
検索サイトには登録したが、ほかのサイトに書き込むこともなかった。
ブログだって書くだけで、ほかの人のブログにコメントもトラバもしなかった。
もちろん宣伝書き込みなんかしない。ごく少数の友人に生存報告としてアドレスを教えるだけ。
だからヒット数は伸びなかったし、コメントなんかつかなかった。
すごく気楽でよかったけど、知り合いに見つかってからは放置。
Mixiは一応どんなもんだか気になって、2ちゃんで招待してもらった。
足跡機能の気持ち悪さ、「××さんは×分前にログインしました」と表示される気持ち悪さ。
どーしてもなじめずに、友達の日記をたまにのぞくためだけにIDを残している。
あんまりいかないもんだから、MixiかMixyかスペルわかんなかったくらい。
Yahooアバターなんか使うわけない。ログイン中かどうかなんて告知したくない。
そもそもネットしてるかどうか知られたくて、メッセンジャーも入れてない。
会社で最低限必要なIPメッセンジャーも、表示名をわざとわかりにくくしている。
2ちゃんはたまに発言してたけど、コテハンなんか入れるわけもない。
なれ合いがすごく嫌いなんだ。若年層中心のネットに多い「読み逃げ禁止」文化がすごくいや。
挨拶しなきゃいけない、ほめなきゃいけない、感想言わなきゃいけないとかホント気持ち悪い。
ついったーの繋がりは非常に弱くて、フォローもリムーブも断りなしに勝手にやって、という空気がある。
それがよくて、結構ハマってる。
好き勝手につぶやいたり人のを読んだりしているうちにいつの間にかふぉろわーも50人を超えた。
何がよくて私をフォローしているのか分からない。
そのうちの数人と、コメントやり取りするような仲にいつの間にかなった。
そんで、独り言に突っ込まれて軽い言い争いになった。
ツイッターは誰かに発信しているのと、自分の独り言として呟いているのとの区別がすごく曖昧だ。
もちろんWebに公開している以上、すべてが情報発信であるべきだ。
でも、そんなわけにはいかないじゃないか。
ついったのTLにあるのはほとんど独り言だよ。
でもたいていの場合、独り言ってつっこみどこ多くて読んでて不愉快。
もう少しわきまえるべきだと思った。
なんか散漫な文章になったな。
ディスプレイの向こう側の人と交流している、というのをはじめて感じたんだという話。
あまり多すぎると、ちょっと足跡付けただけ付けられただけの人すらマイミクにしているのかと思えてしまうね。
そこから仲良しに発展する事もあるって事は否定しないけど、マイミク数3桁とかは個人の許容量を超えてると思う。
話題からズレる話になるんだけど足跡付けてくれた人やマイミクのマイミクの人の所を見て、
所属コミュが3桁とかだったりすると、俺は「あ、ここはもう良いや」って気分になる。
趣味とか考え方とかが所属コミュでどういう人なんだろうって興味を持つことはあっても、
所属コミュ3桁とかみたいに情報が多すぎると、逆に興味が無くなるんだよね。
俺だけかな?
激しく今更なので、感想として。
これだけの文章が書けるほどの明晰な頭脳を持ち、様々なスキルを身につけ、ファッション雑誌にも載るくらいの人がなぜ「モテない」という悩みを抱えているのか。
世界が狭い。ただそれだけ。
自分の視野に入る範囲でしか物事を見ておらず、そのテリトリーに引っかかる人とだけ関わりあおうとしてるから。
「待ちの姿勢」って言うのは、自分から女の子に声をかけないことを言うんじゃなくて、自分以外の世界に踏み込んで行こうとしないこと。
色々なことに興味を持って挑戦して自分を磨いて、一見世界を広げる努力をしてるようだけど、その実、自分の手に届く範囲のこと、もしくは世間的に価値があると認められることにしか手を出していない。「良くわからないから一番権威ある情報を参考にしよう」っていう。
そうじゃなくて、周りの人が一体どんな価値観で動いてるのか、それに興味を持ち、理解しようとするべき。
心のどこかで、自分以外の人間に自我があることを認めてないような気がする。
世の中の人間は、自分自身と同じくらい、いやそれ以上に、自分独自の世界観やこだわり、好みをもって動いている。
どんなに頭空っぽに見える馬鹿スイーツ(笑)でも、「メディアはこういってるけど、でも私はこれがいい」って言うような、独自の考えを持っている。
そこに踏み込み、共有することが、「承認欲求」が満たされるための唯一の手段。
表面的にいくら「すごいね」って言ってもらっても納得なんかしないわけで。
単純に、知り合った女の子に、「俺モテるようになりたいんだけど、どうすればいいと思う?」って聞いてみればいいんじゃないかなー
で、ヒアリングしたそれを実行するんじゃなくて、「この女の子はそういう価値概念のもとで動いているんだ」っていうデータにする。
そこに対して掘り下げてもいいし、「でも自分は、こういうのがかっこいいと思う」って価値をぶつけてみてもいいし、もしくはそのデータを他の女の子に「僕の知り合いはこういってたよ」ってぶつけてみたりする。
すると、様々な価値観が浮き彫りにされ、またぶつけ合った双方の価値観が変化する。
そうすると、その「価値観の変化した部分」ってのがお互いに共有した世界観となる。
世界観を共有するということは、その人の中に自分が足跡を残すということで、それがすなわち「承認された」と感じられること。お互いにね。
ミュージシャンとかデザイナーとか、あーゆー人たちがモテるのは、学校などで教わる以外の価値観を追求し、様々な価値概念を貪欲に取り込んでいる人たちだから。
人間関係においても常に相手の価値観に興味を持ち、それを自分の中に取り込んでいる。
また、本人達の価値観も普通の価値観とは違いが大きいので、それをぶつけられた女の子の価値観に変化が大きい。即ち、共有する世界が最初から大きい。
また、こうした形で「モテない」という悩みを抱えている人たちは、非常に優しい人物であったり、とても優秀な人であることが多い。
優しい人というのは、相手の価値概念を引き出すのは失礼にあたるのではないか、とか、引き出した相手の価値観も尊重しようとしてしまい、価値観をぶつけ合うことが出来ない。
「いい人なんだけど」で終わる人ってのは大概このパターン。
優秀な人の場合は、大抵のことを器用にこなせてしまうため、自分の世界を広げるまでもなく色々なことが解ってしまう。
だから、相手の価値観に興味をもつ余地がない。
どこかのタイミングで自分の価値観を壊すような出来事に遭遇すると、結構がらっとモテるようになったりするんだ、こういう人って。
もし、この人が僕の身近にいる人であれば、僕は「とりあえずお金持ちになれば?」と言う。
貯金をためるのではなく、毎日何百万、何億単位でお金を動かすような、そういう人になる。
そうすると間違いなく価値観が変わってくる。
もしくは「オリンピック目指したら?」や「プロのミュージシャンになってみたら?」でもいいんだが、この辺はもともと違う価値観を持ってないと入り口にも立ちづらい世界なので、結構難しい。
だが、肝心なのは、「まるで違う価値観の元に動いている世界」に入るために、それを理解する努力をする、ということなのだ。
少なくとも、年収470万円レベルで、ジャズダンスを習ったり筋トレしたり、手の届く範囲のものだけをやっているのは、精神的には引きこもりなのだ。
お互いにその世界に踏み込むことなく、共通の知識で盛り上がるだけでは、残念ながらネトゲ廃人のコミュニケーションと大して違いはない。
「絶対に手が届かないもの」を無理やり追いかけなければ、世界は変わらないのだ。
自分の世界を壊すことなく、そこに入って来い、承認して欲しいとだけ言うのは、あまりにも傲慢なコミュニケーションといわざるを得ない。
そんなんで告白だけしても、土台うまくいくわきゃないんである。
だから、お金持ちやオリンピックとは言わなくても、誰か一人の人を死に物狂いで振り向かせようとしてみるのもいいかもしれない。
どんな形でもいいから、自分以外の人間、もしくはコミュニティの価値観に興味を持ち、受け入れ、そしてまた否定することをしなければ、一生孤独なままだろう。
くらいで。
mixiに限らず、SNS全般に広げられそうな話題なので、「mixiでやれ」ってのはナシの方向で。
ここ1ヶ月足跡がない人は切りますとか、いろいろボーダー提示したり、この日記にコメントない人は切りますとか、若干かまってちゃんとの合わせ技だったりして微笑ましいです。
この告知してボーダー提示してマイミクを切るってのは、人間関係的にちょっとヤバイんじゃね?と感覚的に思ってたのですが、先日、割にネット慣れしてるマイミクがやってたのでちょっとびっくり。
それがきっかけで、割と今更感もありますが、その感覚的な部分をちょっと言葉にしてみて、ご意見伺えたらというところです。
先日、マイミクの「整理します」日記を見かけて、この人の日記あんま面白くないし、私の日記も読んでないようなので別に切られてもいいか。んでも、2週間前くらいに日記にゆるい同意コメントをつけた覚えがあるので、まあ切られないかな。
と思ってた切られた(笑)
私は自分の心が狭いことにかけては結構自信がありますが、思ったよりイラッとしました。人は自分が見下してる人間に切られるとプライドが傷つくのかもしれません。マイミク切るどころか、是非今後ともおつきあいしたいような人格者ならいざ知らず、マイミク切りたいようなどうでもいい人は、私のように無能なクセにプライドが高く心が狭い可能性が高いので、マイミクを切ることによって余計なトラブルが発生するかもしれませんので要注意です。
かつて個人ページ時代に、リンクフリー・アンリンクフリーなんてのがありました。そういう言葉があるということは、逆に言えば切られる時にみんな心動くとも言えます。
少なくとも私は、マイミクの「整理します」日記を見かけたら、それからしばらくはログイン時にマイミクシィ数の増減に注目します。
人は他人に興味はないですが、自分がどう思われてるかについては敏感だと思います。
mixiの「友人を探す」ページ( http://mixi.jp/search.pl )ですが、共通のマイミクが複数いる人は友人である可能性が高いということで表示してくれます。
まあ消せるんですけど、イラッとする自分がちょっと楽しい変質者なので残しています。
新アカであれば「いろいろあって新アカにしました。またよろしく」で済みます。こっそり消したのであれば「ごめん、間違って消しちゃった」で、ちょっと辛いですが通じないこともなさそうです。
でも、整理告知した上で切った人となると、関係修復は不可能ではないでしょうが、かなりのエネルギーがいりそうです。
かつては年賀状というのが友人帳として機能してたと思います。年1回更新される友達データベースみたいな。
年賀状感覚で、この人はまあ今年は出さなくていいかという感じでマイミク整理をするのかもしれませんが、SNSの友達リストは第三者に見えてしまうという、実に面倒くさい特性は落とし穴かもしれません。
ケータイを買い換える度に、アドレス帳を転送しないでイチから作り直す子が結構いるという話を聞いたことがありまして、最初、データ転送すればいいじゃん。この情弱なゆとりめ。と鼻で嗤ったものですが、ケータイの買い換えを1年とか2年として、タコ足化する人間関係をケータイの買い換えを理由に毎回刷新するというのは意外に理にかなってることなのかなと最近は思うようになりました。