はてなキーワード: 死ぬこととは
唐突にClass::Data::Inheritableのソースコードについて説明してやんよ。
使い方とかの説明はこの辺でも読んでから出直して来い、ごるぁ!
まぁとりあえずソース見てみろ、下記にはっつけてやっからよぉ!
1: package Class::Data::Inheritable; 2: 3: use strict qw(vars subs); 4: use vars qw($VERSION); 6: $VERSION = '0.06'; 7: 8: sub mk_classdata { 9: my ($declaredclass, $attribute, $data) = @_; 10: 11: if( ref $declaredclass ) { 12: require Carp; 13: Carp::croak("mk_classdata() is a class method, not an object method"); 14: } 15: 16: my $accessor = sub { 17: my $wantclass = ref($_[0]) || $_[0]; 18: 19: return $wantclass->mk_classdata($attribute)->(@_) 20: if @_>1 && $wantclass ne $declaredclass; 21: 22: $data = $_[1] if @_>1; 23: return $data; 24: }; 25: 26: my $alias = "_${attribute}_accessor"; 27: *{$declaredclass.'::'.$attribute} = $accessor; 28: *{$declaredclass.'::'.$alias} = $accessor; 29: } 30: 31: 1;
短いソースだなーこれ。でもな、なめんじゃねーぞ。短いけど色々な技術が盛り込まれてんだよコレはよぉ。
ハイ、まず3行目。
かるくstrictについて説明してやんよ。心して聞けよオマエラ。
strictっつーのはだな、つまりPerlにおける曖昧な部分をすこーしだけチェックしてくれるスグレモノなんだなコレが。
とりあえずざっくり言うと三つの機能があってだな、下記のよーに書くわけだ。
use strict 'vars'; use strict 'subs'; use strict 'refs';
varsってーのは簡単に言うとmyとかourとか宣言しろボケってやつですわ。
subsは裸体は許さんってやつですの、$とか%とかついていない裸の文字列をエラーにしてくれんだよ。
refsってのが一番やっかいな代物でな、これはムツカシイ言葉で言うとシンボリックリファレンスってんだが、要は変数名に変数を使うとエラーにしてくれるってこったよ。
で、これら全部ひっくるめてuse strict;なんだな。わかったか?オラ!
ちゅーことはだ、3行目を見ると意図的にrefsだけ外してるのがわかるよな。
つまりコレはこのコードのどこかで変数名に変数を使うってことを明示していることにもなるわけだ。けけけ。
あーもういいもういい、次だ、次。
4,5行目を見てみろよ。今時our使わずにuse vars使うなんてどんだけー。
ははは、まぁまてよ。
ourってのは明示的にグローバル変数を定義するもんなんだが、このourってやつが導入されたのがPerl5.6からなんだよ。
Perl5.5のころはourなんてなかったからグローバル変数定義すんのにこのuse varsを使っていたわけだ。
つまりこのモジュールはPerl5.5環境でも動くように配慮しているわけなんだな、ちゃんちゃん。ほほほ。
あーもう全然すすまねーよ。チクショウ、が、ま・・・・。
で、11-14行目。これはref関数使って$declaredclassがオブジェクトだったら死ぬって処理だ。
require CarpっつーのはCarpモジュールを動的にロードしてるっていうことだよぅ。
で、Carp::croak関数使ってエラー文はいて死ぬ、と。ちなみにこのCarp::croakってはまぁdie関数みたいなもんなんだ。
違いとしてはエラーの発生した原因を呼び出し元の奴のせいにして自分は悪くないんだよってアピールすることかな。まぁ実際使ってみりゃわかるよ。
さぁ、16行目。本編突入だ。長かった。長い道のりだったなお前ら。
sub {}ってのは無名サブルーチン(関数のリファレンス)ってやつだ。で、ここで注目すべき点はただひとつ!!!!!
19-23行目あたりをぼーっとみてると$declaredclass, $attribute, $dataっていう変数を使用していることがわかる。
これらの変数は9行目で受け取ったmk_classdataへの引数だ。
ここで問題が発生する。
myで宣言された変数の賞味期限はスコープの終端だ。それはわかるな?
つまり9行目で宣言された$declaredclass, $attribute, $dataといった変数どもは29行目のスコープの終端で消滅してしまうわけだ。
しかし!その消えてしまうはずの変数どもをsub {}という無名サブルーチンの中で使用してしまっている!!!
これが世間一般に語られているクロージャという仕組みなのだ!!!!!!うはははははははh!!!
本来生涯をまっとうするはずだった変数たちが別のサブルーチンの中にまぎれてしまうとその別のサブルーチンが消えてなくなるまでは死ぬことを許されなくなるのである!!!ざ・不☆老☆不☆死!
なんたる奇妙奇天烈なことであるが、この現実を受け入れることによってお前らの道が開けるんだ!!!すげーだろぉがよぉ!!
ボクはッ、キミがッ、クロージャを受け入れるまでッ、殴るのをやめないッ!
さて、肝心の16-24行目のアクセサ部分の処理の解説だけども、
引数が渡されてなければ特になんの処理もせずに$dataを返している。$dataってのは死ぬことを許されなくなったカワイソウな変数君だ。
つまり、Class::Data::Inheritableってやつはアクセサに渡された値をどこで保存してるのかというと、紛れも無いこの$data君に他ならない。
$data君がニート君になっちゃうとたちまちデータの読み書きができなくなるのであまり働かせ過ぎないように注意しよーね!
ハイ、次はアクセサに引数が渡された時の処理だけどな、20行目を見てみろ。$declaredclassに格納されてる値はmk_classdataメソッドを使用したときに格納された値になる。
package Hoge; use base qw/Class::Data::Inheritable/; Hoge->mk_classdata('hoge_accessor');
つまり上記の処理で例えると、$declaredclassには'Hoge'という文字列が入ってることになんだな。
で、この'Hoge'と$wantclassに入ってる値を比較しているわけだが、
package Hoge; use base qw/Class::Data::Inheritable/; Hoge->mk_classdata('hoge_accessor'); Hoge->hoge_accessor('aaa');
上記の処理で例えると$wantclassには$declaredclassと同じく'Hoge'が入ってくることになんだな。うっひょー。
んで、20行目のif文は$wantclassと$declaredclasが違う場合にだけ19行目の処理を実行しているわけだからこの場合はスルーするわけだぁ。ひょひょひょ。
じゃあだな、$wantclassと$declaredclasが違う場合ってどんな場合?ってことだが、下記に例を示すから目ん玉引ん剥いて網膜から直接見てみろよこのボケ野郎どもが。
package Hoge; use base qw/Class::Data::Inheritable/; Hoge->mk_classdata('hoge_accessor'); package Foo; use base qw/Hoge/; Foo->hoge_accessor('bbb');
HA!HA!HA!こういう場合だよ米ベー。$wantclass=Fooで$declaredclas=Hogeになるんで19行を実行し、Fooをベースにしてmk_classdataを呼ぶことでFooに同じ名前の新たなアクセサを提供し、元クラスHogeの値を壊さないようにするわけですなぁ。
考えた人すごいですなぁ。これがClass::Data::Inheritableが継承可能なクラス変数といわれる由縁でするまする。
で、最後の26-28行目はコレらの便利な処理をしてくれる$accessorさんをクラスに登録するというわけですよぉ。
27,28行目の*ってのは型グロブ変数ってという奴で、型グロブに対して無名サブルーチンを突っ込むと動的に関数を定義できるんだなぁコレが。
でここで、初めに俺が語った話を覚えてるか?へっ、オマエラなら覚えてないだろうなけっけ。use strictの話だよ。refsだよrefs。
ここでrefsを省いていたのが利いて来るんだ。refsって何だった?ホラ言ってミソ?
で良く見てみると型グロブ変数に対して「$declaredclass.'::'.$attribute」っていう変数を使おうとしているよね?これをしたかったからrefsだけ仲間外れにしてたわけですね。
はは。
あー、あー、あー。
これで終わりだよぅ。みんなわかったかな!?
コレ読んでもわからんやつはもう死ぬか、もしくはわからん用語について死ぬほど調べてもっかい読みなおしてみろこのド低のぅッ・・・ごふんごふん、このクサレ脳みそがぁ!!!!!!!!!!!!11
俺もさらにずれちゃうけど、何かをやろうって時に「覚悟はあるのか?」と問われることがある。
じゃあ、どうしろと?
…しかし、かく言う俺も「死ぬことも覚悟してる」なんてこと言う奴は信用できないな。そいつが難病から奇跡の生還したなんてことでもない限り。
「夢のためなら貧乏生活もいとわない」とか「この仕事に就けたら遊ぶ時間なんて全然いらない」なんていう人は実際にそういう生活を試してみて、耐えられるかどうか試してみた方がいいと思う。もしくは夢が叶わない方が夢のために覚悟した生活よりもっと悲惨だって他人にわかりやすく説明しないと説得は難しいんじゃないかな。
「愛国心を持つなら地球に持て。魂を国家に管理させるな!」 ジミ・ヘンドリックス
「世界ぜんたいが幸福にならないかぎりは、個人の幸福はありえない」 宮沢賢治
「相手がどう反撃していいか、わからないような戦法で、ぼくは権力と戦いたい」 ジョン・レノン
「不思議なことだ、いつの時代においても悪人は自分の下劣な行為に、
宗教や道徳や愛国心のために奉仕したのだという仮面を着せようとつとめている」
byハイネ
byジミ・ヘンドリックス(“伝説”のギタリスト)
「愛国心とは喜んで人を殺し、つまらぬことのために死ぬことだ」
byバートランド・ラッセル(哲学者、ノーベル文学賞受賞)
「恐怖心や愛国心によって人を殺すのは、怒りや貪欲によって人を殺すのとまったく同じく悪い」
byヘンリー・ミラー
byモーパッサン
byサミュエル・ジョンソン(イギリスの文豪)
「ナショナリズムは小児病である。それは国家の麻疹(はしか)である」
by アルベルト・アインシュタイン(物理学者、ノーベル物理学賞受賞)
「人類から愛国心を叩き出してしまわないかぎり、あなたがたは決して平穏な世界を持たないだろう」
byバーナード・ショウ(戯曲家、劇作家、ノーベル文学賞受賞)
byチャールズ・スペンサー・チャップリン(喜劇王、俳優・映画監督)
・極右利権政治家やネットウヨクが唱える愛国心=時の政権与党への絶対服従
国費と国富をいいように喰い散らかし、私腹を肥やしていることを受け入れ、我慢する心。それが「愛国心」)
(ちなみに、ウヨ厨の理想は、北朝鮮またはナチスドイツ型の言論統制全体主義国家)
『現代の奴隷は、自ら進んで奴隷の衣服を着、首に屈辱のヒモを巻き付ける。
そして、何より驚くべきことに、現代の奴隷は、自らが奴隷であることに気付いてすらいない。
それどころか彼らは、奴隷であることの中に自らの唯一の誇りを見い出しさえしている。』」
「ソ連軍に包囲される前にベルリン市民を脱出させるべき」という進言を退けたヒトラーはうそぶく
『国民の自業自得(自己責任)。国民が地獄を味わうのは当然の義務。われわれを(選挙で合法的に)選んだのは国民なのだから、最後まで付き合ってもらうさ。』
by サミュエル・ジョンソン(イギリスの文豪)
◆「“愛国心”とは喜んで人を殺し、つまらぬことのために死ぬことだ。」
by バートランド・ラッセル(哲学者、ノーベル賞受賞)
内容はこんな感じ。
「戦争は富裕層の利益のために行われる。実際に戦場に赴くのは貧困層の若者。
Q.なぜ生きてるのか → A.死ぬのが怖いから
これは誰にでもあてはまるわけじゃないよ。
俺は死ぬのが怖いとかは特に思わない。
死にたいわけでも、生きたいわけでもない。
今俺は生きてるが、能動的に生きてるわけではない。
父が結石やったとき、母は救急車呼んでいいのかどうかで迷い倒して、結局タクシーで病院まで行ったんだけど、先生には「救急車呼んでください。そのためにあるんですから」と言われたらしい。結石で死ぬことはないだろうけど、父いわく地獄の苦しみだったそうで、そういう時は呼んでいいんじゃない?生理痛も酷い人は転げまわるしかなくなったりするらしい(多分別の病気も関係してるんだろうし)
世の中の人は普段どれだけ死を意識してる?
それが知りたいから、これを読んだ人はできるだけ答えてほしい。ここに書いたほうが、別のアンケートにするよりかは自由に、自由すぎるほど勝手に思うことも言えるだろうから。
俺は死というものがいまだに理解できていない。
祖父は俺が生まれる前になくなっていて、祖母は健在、両親も健在で、物心ついてからまだ俺の身のまわりで死というものが見えたことがない(近所の人とか友人の親にはそういった人もいる。でも実感の範囲外)からかもしれない。死そのものを知らないけど、存在は知ってる。無になるんでしょ?こんな怖いことはないよね。
精神状態がある程度より下にあるとき、死を思うことにとりつかれることがある。そんなときは過去の偉人の話を聞いても、どんな偉業をなしても結局死ぬんだと一人布団の中で震える。
それでも、俺は自分の意識の終焉と終焉以後の自分の意識について想像する。
死ぬことで自分の意識が無に帰すってどういう状況?さっぱりわからん。想像するたびにびびる。だって生まれてこのかた自分の意識が無に帰した状態になったことないじゃん。誰に聞いても知ってる人はいないし、宗教の話もピンとこない。
「幽霊がいればいいのにね、死後も意識があるって証明になるから」とある人はいったけど、俺もほんとうにそう思う。幽霊を見ることができれば、俺はこの恐怖から解放される。
いろんな事情があるのは分かる。自分が死ねば他の多くの人がいい方向にいくっていうのは、ある意味で死ぬ動機にはなりうる気がする。でも、中には思い悩んだ結果死ぬことにしたっていう人もいる。悩んだ自己完結の結果が死、というのに対して俺はまったく理解ができない。死より恐ろしいものを知らないせいだ。
いじめを苦に自殺するのも、言いにくいことだけどよくわからない。学生にとって学校はその人の世界のほとんどを占めるものだろう。そこでいじめがあった場合、世界に絶望してしまうかも知れない。でも、結局のところ環境は自分が作るものだ(少なくとも日本においてはそういえると思う)。
宗教的な観点とか実体験に基づく考え方とかいろんな見方があると思うけど、知りたいのは他の人がどれくらい死を意識してるのか、死を毎日思う俺は異常じゃないのかどうか。
まあそれに尽きる.
みんなが美しく死ぬことができるのならね。
まず死ぬまでに様々な残酷な段階がある。
飢餓による空腹。
水不足による喉の渇き。
資源が足りなくなることによって、今まで親しかった人同士が争うことに。
着る物が供給されなくなり、ぼろを身にまとう。
住居は破壊される。
電気、ガス、水道は供給されなくなる。
風呂に入ることはできない。
道を歩いているだけで殺されたり物を奪われる危険がある。
女性はことごとく強姦される。
どこにいても安心して眠ることができない。
病気になっても治すことはできない。
苦痛は苦痛のまま放置される。
手足のないことや目の見えないことが普通になる。
多くの人の精神は病的な状態になる。
生き残ることがすべてになり、その他のことはどうでもよくなる。
体力がないもの、弱いもの、精神が繊細なものから死ぬ。
大切にしているものはすべて奪われる。
戦争なら全員の死に様はひどいものだ。
銃で撃たれて死ぬ。
ナイフで首を切られて死ぬ。
爆発で死ぬ。
撲殺や毒や放射能やその他の様々な方法で死ぬ。
場合によっては死ぬまでに長時間苦しみ続ける。
腹を撃たれた人間が何時間も路上でもだえ苦しんでいるが誰も助けることはできない。
人々の死体があらゆる場所にばら撒かれる。
お前の家族や友人の死体も同じように省みるものもなく道端に放置される。
もちろんお前の死体もそうなる。
男女の過去の恋愛の違いがよく「上書き保存と別名保存」と言われるんだが、男性がこの言葉を使う時は、「男性は失恋を引きずるのに、女性はあっさり上書き保存して忘れる」という意味で使用しているように見える。
私は女性だが、この言葉は「男性が過去の彼女もすべてアルバムに写真を入れるがごとくしまっておき、時折思い出しては『こいつはきっと俺のことまだ好きなんだろうなあ』とニヤニヤするが、女性は忘れたいと思ってなるべく思い出さないようにする」という特徴を表しているんだと思っていた。
この考えは2chの失恋板で得たものなんで、ちょい偏っていると思うけど。
落ち着いて両者見比べるに、おそらくどちらも「自分が振られた立場」から見ている場合なんじゃないか。
で、振った側の男女の行動が、「別名保存」と「上書き保存」に分かれがち。男性は過去の彼女を俺様の戦歴フォルダに入れ、女性は嫌悪感のあまり過去の記憶を消去したいと思うと。
振られた方は、心に深い傷は残るし、全否定されたような気分になるし、上を向いて歩けなくなるし、死ぬことしか考えられなくなるし、突然涙が出てくるし、記憶を掘り起こしては傷口を開かせてるし、それは男女ともにかわらないんじゃないかなあ。
少なくとも女性の一人として、振られたにもかかわらず「上書き保存」ですぐ立ち直る、なんてことはないよ。と、言いたい。
「自分が産んだ」というだけで
出産は、それで死ぬことすらある体に負担のかかる行為だ。産んだだけとはなんだ、産んだだけとは。腹ン中に漬け物石でも入れて数ヶ月暮らして最後に鼻の穴から出した後でもう一遍言ってみろ。
でも、そこまで悲観的にはなっていない。「一度死んだ身だから」なんていう熱血青春漫画な展開ではなく、俺の本音が少しだけ周りに伝わったことによる解放感が、とっても心地よいのだ。
よくわかる。
死ぬことで、自分の不甲斐なさを周りに許してほしいという気持ちがあるんだ。
俺は何も言っていないのに、様子がおかしいと気づいて
彼女が駆けつけて泣きながら全力で助けてくれたことがある。
バカが、そんなことにエネルギー使うなよ。でも俺もすごい泣いた。
その彼女はもういないけどね。
http://anond.hatelabo.jp/20070918122513
フリとかじゃなく本当に死ぬつもりでクビ吊ったことがある。もう3年たつよ。
遺書を書くんだけど、周りの人たちへの恨み辛みと自分の弱さを延々と書きつづるの。人については名指しで。
死ぬことで周りが迷惑するとか多少考えるんだけど、とにかく俺の世界を締めくくりたかった。
それでもチンタラと遺書なんて書いていたのは、自分の死の飾り立てだったんだと今では思ってる。死んだら伝わったことを確認することすらできないのだから、遺書ほど自意識の高い行動はない。まあ、自分の死についてずっと考えてばかりなのだし、自意識が異常になるのは当然なんだけど。
遺書には恨み辛みと先述したけれど、恨み辛み書いているうちに申し訳ない気持が湧いてきたので最後の方は謝ってばかりの文章。自分を責めてばかりの文章が続く。
印刷した後、PCのHDDをフォーマットするの面倒だったから、分解して破壊し、ゴミ袋に入れて捨てた。
それから、携帯にある100件以上のアドレスに一つ一つ想いをはせた。
友人関係を続けていた最愛の元カノに「お前のこと、ずっと愛してる。こんな男でごめんな」って感じのメールを送り、電源を切った。
んで、マンション非常階段の手すりのポールにロープ引っかけて、多めに飲んだ睡眠薬が効き始めてきたころにクビ吊った。
つもりだったんだが、どうも俺が発見された(鍵あいてた)とき、階段下でグッタリと倒れ込んでいたそうな。発見した人は俺が階段から落ちたのだと思いこんで救急車を呼んだらしい。あとで自殺未遂だったと知って驚いた、と語ってくれた。
どうも朦朧とした意識のなか、ロープを抜け出したようだ。
退院後は警察いったり、開封済みの遺書を親から手渡されて気まずかったり、大変だった。
携帯の電源を入れると元カノからの返事はなかった。それから一切、連絡をとりあっていない。俺の自殺未遂を知らないのか、それとも風の噂で耳にしたかも定かではない。
大好きだったんだけどね、本当に。
結局、自殺未遂で命を失うことはなかったが、大切な友人を失い、遺書を読んだ家族や知人たちとの関係のバランスを失い、仕事も失い、独りぼっちになってしまった。
でも、そこまで悲観的にはなっていない。「一度死んだ身だから」なんていう熱血青春漫画な展開ではなく、俺の本音が少しだけ周りに伝わったことによる解放感が、とっても心地よいのだ。
おかげで2度目はない。いろんなストレスから抜けだせて、いまではクビ吊って良かったと思ってる。
先生:一生で、一度しか乗れない車は何でしょう?
「救急車?」
「運転手はいっぱい乗れるよ」
先生:あ、その車も運転手はいっぱい乗れる
「霊柩車!」
先生:正解。
「えー付き添いがあるよ」
先生:(なんていったか覚えてないけど誤魔化してた)
先生:一生で一度しか入れない場所はどこでしょう?
「お母さんのおなかの中」
先生:おぉ、正解。
先生:じゃあ、一生で一度しかできないことは何でしょう?
「生まれること!」
先生:ん、、惜しい。
「死ぬこと!」
先生:それも惜しいなあ。
「・・・(考え中)・・・」
先生:正解は、全部だ。
一生のうち、全く同じことができることは二度とない。今日という日に先生とこういう話をすることはもう二度とないし、国語である文章を何度も読んでも、初めてその文章を読むことは一回しかないんだ。理科の実験が毎回同じようになることも無いし、似た絵を描くことはなんどもできても、全く同じえは一生書くことができない。今日学校に来るときと一ミリもずれずに同じ場所を通ることなんてことはできない。
『同じようなこと』は何度もできても、『全く同じこと』は永遠にできない。
全てのことが、最初で最後のことなんだという意識を持って、一生懸命取り組める人になって欲しい。
みたいなことをいってた。小学六年生の時はなんとも思わなかったけど、今思うといろいろ考えることがあるなぁ。
僕は飛び降りが好きだ。
死ぬと決めて2秒で片が付くからだ(2秒とは約8階から地面に激突するまでの時間である。大体8階ぐらいから頭を下にして落ちれば死ぬことができる)。
しかし、グチャグチャになった死体を目撃してしまった人や後片付けの人のことを考えると、全く迷惑な話であると思い、思いとどまっている。
友人が、自殺は緻密に計画してやらないと傍迷惑なので永遠にDQN呼ばわりされるぞ、と言っていたが、本当だと思う。
緻密な自殺計画を教えてもらいたいものだが、知ってしまったら本当に行ってしまいそうである。
「恐怖で死ぬように出来ていたかった」とは、もう自殺してしまった女史の言葉であるが、本当にそう思う。
恐怖を感じながらも生き続けなければいけない意味とはなんだろう。
どうして兎が寂しさで死ぬように、ヒトは恐怖で死なないのだろう。
わからない。
もし日本が食料を輸入できなくなったら・・・
食料は配給制になり、それによって摂取できるカロリーは約1000kcal。
最低摂取カロリーを2000とすれば、
参考文献:週間ダイヤモンド2007/7/21号33ページ
月見そば750リットル
実は、食料を作るには大量の水が必用だ。
日本は食糧を国内で作っていないから、水がたくさんある。
だけど、輸入できなくなったら・・・
水不足がやってくる。
水がなければ食料を作るのも難しい。
輸入食料を日本人1人あたりの水輸入量で換算すると、
1日1460リットル。
これは実際に使用した総水量の約73%に相当する。
輸入をやめたら、1.36倍の水が必要になることを意味する。
ちなみに、牛肉1キロ作るのに、水は2万リットル(20トン)必要。
参考文献:週間ダイヤモンド2007/7/21号46ページ
参考ページ
http://www.bund.org/opinion/20050925-2.htm
http://hydro.iis.u-tokyo.ac.jp/indexJ.html
はてブより
ガキの頃は下らない事にこだわったり、逆にありえないほど自信過剰だったりするよね。
つまり子どもっぽいくだらないこだわりで、
死ななくてもいいのにパトラッシュを道連れに死んだ、ってことでいいのかな?
死にそうなほどに腹が減ってるのに、薦められた食事を断る、
途中経過はともかく、ラスト前には町中のみんながネロのことを助けようとしてた。
誤解もとけ、アロアの両親もネロに温かい声をかけていた。
しかし終盤のネロはまるで鬱病のように塞ぎ込んでいた。生きることに絶望していた。
そのまま、助かる命を自ら捨てるように死んでいった。
極論だとは思うが、人々の手を振り払って自ら死ぬのは、
自分が死ぬことによって、それらの人々に罪悪感を植え付けるための。
ほら
http://d.hatena.ne.jp/leibniz0/20070724/p7
おいローソン、お前、コンビニ業界で二位だけど、優越的地位乱用して日用品取扱業者100社から経済的利益を搾取したりして公取委に排除措置命令受けてるじゃん。これがにわか大企業。結果だけ見ると二位と言うことですごいが、裏では何やってるか知れん。
ソニーコンピュータエンタープライズ=SCEは、プレステソフト製造業者約600社からソフトを一括購入し、独占販売している上、販売対象を特約店に制限し、さらに厳しい拘束(値引き禁止、横流し禁止等)を課して流通経路を閉鎖にし、速攻で任天堂を抜いて業界一位になったが、上の拘束が独禁法に引っかかって排除措置命令。
あと、証券会社にライバル企業の株式を買い集めさせ、「世評が悪くなるのをおそれて(!)」(こんなことじゃ組織の歯車は全員口封じされているな)他の企業に引き取らせて間接保有状態にするとか、ありとあらゆる方法を駆使している。
自分に保険金かけて身内に殺してもらう、なんてアイディアを出してる。
http://d.hatena.ne.jp/leibniz0/20070724/p5
おい、老人、お前は都合のいいことしか言わないクズだ。お前みたいな奴は屋上から飛び降りて死ねば良いんだよ。特に戦後生まれはそろいもそろってクズだ。50だろうが60だろうがただのサラリーマンしかいなくなった。バカが。さっさと自殺しろ役立たず。自分に保険金かけて身内に殺してもらえ。お前みたいな役立たずで人間のクズで金のことしか考えていなく人間精神のことは一切考慮してこなかったクズ的人間だ。戦後日本が生み出した最も醜いものだ。金一元主義のホンネをきれいごとで包み隠すことだけに長けているペテン師だ。実質がそれなんだよ屁理屈は要らんのだよ。この社会もお前も屁理屈がうまいだけの老獪な金銭亡者だ。言い訳するな、お前は馬鹿なのだから。
俺は東大についていけるのかな・・・
A Successful Failure - 『火垂るの墓』に対する最も参考になる米Amazonレビュー
あんまり高評価のばかりでもバランスが悪いので、そうでないのも訳してみた。
(エントリ下部に追記あり:8/12)
53 人中、15人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
「とても失望した・・・」2003/11/4
By "cgharoth" (Richmond, VA United States)
私はこの映画を「世界各国の批評家に賞賛された力強い反戦映画」というAmazonのレビューどおりのものと期待して購入した。確かにこの映画は人間の本性のあまり感心できない部分について描いた映画として見る事が出来るが、その内容と演出は反戦映画とはとても言い難いものだ。
この映画は空襲によって家を壊された少年とその幼い妹についての話だ。もっとも、オープニングの場面で既に、最後には彼らは二人とも死んでしまうことが明らかにされるのだけれども。
映画の初期の場面では、少年とその妹は親戚の家に滞在しており、その親戚はあからさまに彼らの滞在を疎ましく思っている。
少年は妹と遊んでいるだけで仕事をすることを拒否している(これがその親戚が彼らに家と食べ物を提供するのを嫌がっている唯一の理由だ。)のだが、彼が自分自身の扶養を助けるのではなく家を出ることを決めたことは、悲劇的なこととして描写されている。公式の解説では、彼の最も口うるさい叔母が彼ら2人の扶養を嫌がるのは「欲張り」だとしているが、これは戦争のこの段階においては食べ物と資源が不足しているという事実を無視している。彼女が少年に頼んだことは、村を助けるために、彼が与えられている食べ物と避難所の分の働きをしてほしいということだけなのだ。
映画の後半では、彼の妹が栄養不良から病気になってしまう――これは最も悲しい場面とされていて物語の転換点でもあるのだが――しかしその演出効果は、少年が単純に親戚に謝ることも出来たという事実によって台無しになってしまう。親戚は彼が戻ってくることに対して良い顔はしないだろうが、しかし確実に戻ることは許しただろう。ある農民は少年をそう諭しさえしたのに、彼は戻ることを拒否した。その後に起きたことは他の誰の過失でもなく、彼自身のものだ。
この映画を見ていて唯一私が心に抱いた感情は、少年が彼のプライドを捨てて妹の命を救おうとしないことに対して募っていくフラストレーションだった。映画において、登場人物が自身の命をいつでも救うことが出来るのに、それを拒否することほど痛ましいことはない。
この映画の戦争に関する非常に偏った描写は、物語が進むにしたがってその筋書きがより戦争とは関係のないものになっていくことで更に不鮮明になっていく。
公式の解説で用いられている「(戦争)犠牲者が耐え抜いた不必要な苦しみ」という言い回しも、この物語に関する不正確な説明の一つだ。少年とその妹の苦しみは確かに不必要なものだったが、しかしそれは少年がその苦しみをいつでも止められたという意味においてだ。戦争は、彼自身の判断――プライドを捨てて仕事を分担するのではなく、苦しんで死ぬことを選んだこと――とは何の関係もない。
追記(8/12):
こういう背景も↓
このレビューの指摘はもっともであるし、評者は正しくこの映画のテーマを読み取っている。しかし、それをもとに映画の評価を下げるのは間違っているのではないか。
「火垂るの墓」に関する低い評価(米Amazon) - ちょさかのひとりごと
(ぶくまページ経由)
人生は歯医者の椅子に座っているようなものだ。さあこれからが本番だ、と思っているうちに終わってしまう。 (ビスマルク)
ネタ元:V. E. フランクル 「夜と霧」, ISBN-10: 4622039702, ISBN-13: 978-4622039709, amazonの「夜と霧」, Wikipedia 夜と霧
要旨:生きる目的を、ことあるごとに意識し、現在の悲惨な状態に耐え、抵抗できるようにする。
以下、ほぼ原文からコピペ
わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを考える。
生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に経っていることを思い知るべき。
生きるとは、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって、生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。
生きることとけっして漠然なことではなく、具体的な何かである。つねに具体的なにかであるので、生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。
この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらす。だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。
具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性がある。
生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きることの意味であって、「生きること」の意味だけに限定されない、苦しむこと死ぬことの意味にも裏づけされた、総体的なもの。
苦しむことすら課題であり、その意味深さにもはや目を閉じない。苦しむことはなにかをなしとげるということ。
気持ちが萎え、ときには涙する。だが、涙を恥じることはない。涙は、苦しむ勇気をもっていることの証だからだ。しかし、このことをわかっている人はごく少なく、号泣したことがあると折りにふれて告白するとき、人は決まってばつが悪そうなのだ。
生きることは彼らからなにかを期待している、生きていれば、未来に彼らを待っているなにかがある。
だが待っているものは、人それぞれちがうので、その人の話をよくきき、未来に彼らを待っているなにかについて、彼らにそれを気づかせる、思いださせる、思いつかせる。
ひとりひとりの人間を特徴づけ、ひとつひとつの存在に意味をあたえる一回性と唯一性は、仕事や創造、他の人やその愛など。
このひとりひとりの人間にそなわっているかけがえのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということ、生きつづけるということにたいして担っている責任の重さを、そっくりと、まざまざと気づかせる。自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。
人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある。この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬことをもふくむのだ。状況の深刻さを直視して、なおかつ意気消沈することなく、わたしたちの戦いが楽観を許さないことは戦いの意味や尊さをいささかも貶めるものではないことをしっかりと意識して、勇気をもちつづけてほしい。
犠牲の本質は、政治的理念のための自己犠牲であれ、他者のための自己犠牲であれ、この空しい世界では、一見なにももたらさないという前提のもとになされるところにある。しかし、その犠牲についても意味があるのだ。