「死ぬこと」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 死ぬこととは

2008-01-18

ひいばあちゃんが死んだ

去年の年末の話だ。

ひいばあちゃんが死んだと、実家から連絡が入った。

すぐ実家へとび、すぐに通夜お葬式が開かれた。

つっても、あんまり親戚は集まってなかったし、集まった親戚も葬式特有の暗さは全く無かった。ていうか、久しぶりにあった親戚同士談笑していた。

それもまぁ有る意味当たり前で、ひいばあちゃんは結構前からもう、老人ホーム的なところで、「ただ生かされてる」状態だったから。言い方悪いが、ぶっちゃけほとんど死んでたも同然だったのだ。もうここ1年ほどは、誰に会っても何の反応もできない状態。ときどきスタッフの人が寝返りうたせて、点滴うたせて、痰とって……本当にただ生かされているという状態だった。それが、ある時熱を出して、ころりとそのまま逝っちまったらしかった。

「まあそろそろかと思ったよ」皆そんな感じの雰囲気だった。不思議な雰囲気だった。皆別に、ひいばあちゃんが嫌いだったわけじゃない。つーか寧ろ好きだった。でも、別に、今特別悲しくて仕方が無いというわけでもなく、といって「マジたりーな。ったくこんなときに」とか言うほど悪態をついてるわけでもなく。ただただ「まぁ……こんだけ生きれば大往生だろう」「そうだね」「最後まで肌きれいだったなばーちゃん」「本当だ!これで90か!すげー!」(<ばーちゃんの遺体を見て)

そんな感じだった。

正直最初俺は「おいおい不謹慎じゃないか?」と思っていたが、徐々に「そういうわけじゃないのかな?」とも思えてきた……なんという感覚か表現しづらいのだが。大体、俺自身、そんなに悲しくなかった。悲しいといえば悲しいけどべつに涙は出てこなかった。「そっかーばあちゃん死んだんか……」なんともいえない感じ。

俺はこれまで、死ぬ時は大々的に葬式が行われて皆が悲しむほうが、親戚がちょろっと集まるよりよっぽどいいと何となく漠然と思っていたがそれは寧ろ逆かもしれないと思った。死んでも、そんなに悲しまないレベルまで、「まぁそろそろ死ぬ年頃だしな」そんなレベルまで生きた方が寧ろ幸せなのかもしれないと思った。死んで、大々的に葬式が行われて皆が悲しむなんて、悲しさを増やすだけだ。自分が死んだとしても、今のひいばーちゃんくらいの感じの方が寧ろいいんじゃないかと思った。例えば俺が幽霊になったとして、自分の死後葬式を上空から見れたとして、たくさんの皆がヒーヒーいいながら悲しむのを見るより、ひっそりと「まぁ大往生ですよ」「まあそういう年だったからね」とか言われながら無難にこなされるほうが、多分、いい。悲しい事は少ないほうがいい。

思えば俺は、人の死というのを初めて見た。俺が生まれてから20年、俺の親しい人はまだ誰一人死んでなかった(死んでたとしても物心つく前)。物心ついてから「身内の死」を体験したのは、これが初めてだった。

そして、人の「死体」を初めて見た。チラっとだが。正直怖かった。生で見た事が一度も無かったしグロ画像は徹底的に避けてきた俺だ……皆がチラチラ顔の白い布をとって顔を見ていくのを俺は「すげーな…よく皆見れるな」と感心していた。見てみると、まるでロウ人形みたいだった。タッチじゃないけど「死んでるんだぜ……信じられないだろ」的な感じだった、確かに。陳腐だが生命の不思議さを思った。この今動いていないロウ人形みたいな物体が、昨日までは一応、心臓がバックバック動いて、血を全身に流していたんだ。昨日のそれは「生きてる」で、今のこれは「死んでる」なのだ。ここにある身体を構成している、原子や分子はほとんど変わっていないんだろうに、昨日は「生きてる」で、今のこれは「死んでる」なんだぜ……すげー不思議な気がした。

そしてひいばーちゃんを焼く事になった。

これで俺はまた無知ゆえに驚いたのだが、なんと本当に人間死体を箱にいれて、そのまま焼却炉みたいなところにいれて焼くというのだ(当たり前だろ!!っていうかもしれないが)。それを皆で見てるんだぜ。死体入れて、火つけるとこまで。てか、火つけるボタンは自分で押せってんだぜ。なんという火葬の厳しさ。土葬とは比べもんにならないほどリアルに死を感じざるを得ない(って土葬もよくしらんけど)。そこまでしているとは知らなくて俺はただただ驚いた。まるで「ひいばーちゃんは死んだ。死んだんだぞ。さっきロウ人形みたいで、生きてるように見えたかもしれないけどやっぱり死んでるんだぞ。もう戻らないんだ」とつきつけられている感じ。何故そこまでする必要があるのか、俺らの場合ひいばーちゃんだったから冷静に見ていられたものの、これを交通事故で小さい子供をなくした親にもやっているというなら物凄いことだと俺は火葬がちょっと怖くなった。土葬みたいになぁなぁにして片付ければいいのに、ここまでする必要があるというのか?日本らしくないじゃないか。こんなに白黒はっきりつけるなんて。

そんな事を考えていたらさらにものすごいことがおきた。その火葬から数時間後、今度はお骨を拾うというのだ。俺はまた無知ゆえに、「お骨を拾うつっても、大体スタッフの人が手はず整えてくれてて、骨をあらかじめ砕いたりして壺にいれてくれてて、俺らはちょっと最後にそれを箸でやるだけだろ?」なんて思ってた。そしたら、皆知ってると思うけど、普通にさっき焼いた焼却炉を開けたのだ。出てきたのは、ボロボロの骨たち。俺、生で人骨見たのも初めて。ビビった。更に思った。「ここまでするの?ここまでして死をつきつけんの?すげーな、火葬。すげーな、日本……皆これをかいくぐってきたってのか」と。死体のままに置かれた骨だよ。生々しすぎる。そのまんますぎる。なんという死。完全に死だよ。紛れも無く死だよ。ひいばーちゃんのあの肉体はもう焼かれて灰になったんだ。頭じゃ分かってるけどそれをダイレクトに、完全に、脳に伝えてくるこの骨。そしてそれを、親戚数人で、箸もって、ここから骨を拾って、リレーさせて、壺にいれろっつーの。マジかよ、おいおいおい。お骨を拾うって、なに。そういうこと?!本当にそのまんまの意味なの?!ビビった。本当ビビった。何ちょっとこれおま……「死」じゃん。「死」だよ。死に、触れまくってる。俺。

骨をリレーさせた。うわ。段々麻痺してくる。この異常な状態に。皆「やっぱ年だからスカスカやね」とか言ってる。俺も「本当だ」とか頷いてる。なんだこの異常な……いや、これこそが正常なのか?これ、俺が今掴んでるこの、そこにいるスタッフが「それは大腿骨だよ」といったこれは……ばあちゃんの足にあった骨なんだ……昨日、ロウ人形みたいになってたひいばーちゃんの皮の下の筋肉の下にうもれてたもの……俺が小さかった頃、ひいばーちゃんのももに座ったとき、あのときも下にあったもの……それが今俺が掴んでるこれなんだよ。どうなんだよそれは。生きるって……生きるってのは、全然たいしたことじゃねえんだと俺はそのとき思った。人間生きるなんて全然たいしたことじゃない。骨を見たとき思った、これはあれに似てるんだよ、フライドチキンの骨に似てるんだ。フライドチキンの骨って、いつも全然意識してないけど、あれって鳥の骨なんだよ。生きてた鳥の骨だったんだよ。人間が死ぬのも、それと全然変わりねーんじゃん。人生とか言っちゃって、人間は何故生きるのか?とか言っちゃってるけど、別にやっぱり結局、人間フライドチキンになった鳥と同じじゃん。支離滅裂だけどそんなような事を骨リレーの間ずっと思ってた。何がどうあろうと死ぬし、死んだら、こうやって焼かれて、骨になって、俺も誰かに骨リレーされて、あのスタッフが持ってる壺んなかいれられて、残りの骨は土に返るんだ。土に返るってのは本当その通り土に返るんだ。土に混ざって土になるんだ。それはもともとは、今こうして俺がキーを打ってた、この指の骨だったのかもしれないけど、それはいずれそうやって土の上に捨てられたりしてあるいは壺に入ったりして……そんでその土の中で微生物とか動いてて。みみずとか動いててそういうのも全部死んでまた何か生まれてきて死んで生まれて土ってのもそのうちなくなるかもわからない、それでもしかしたら地球もなくなるかもわからない、でもそのいつだったか俺を構成してた原子は……なくなるのか?どこへ行くのだろ?俺を構成してた原子とかは散らばってまた違う何かを構成していくのか。なら死ってのは、あくまで俺を構成してた、それらのチームが解散するだけの話?ていうか、死っていうか、生と死って、白と黒、みたいな感じじゃなくて、生―死―生―っていうか、いや、っていうより生とか死とかいう概念がそもそもこの全体の流れを無理矢理名付けたものであって、生って……そういう意味じゃ別にたいしたこっちゃないんじゃないか……

そんな事を思った。

そういうのを輪廻っていうのかな?と思ったけど仏教に疎くて分からない俺。

リレーした骨は壺にいれられた。ひいばーちゃんがあそこにおさまっちゃったよ。すげぇ。この葬式システムってすげぇ。死を認めざるを得ないこのシステムってすげぇ。これ昔の人が考えたの?昔の人凄すぎ。俺なら死が怖くて避ける。死んだ人埋めてなぁなぁにして済ませたい。何かで土葬はそう言う意味では未練がましい、火葬は完全に「死」が分かるが、土葬は未練がましさがある、土から復活してくるゾンビや何かもそういった欧米諸国の死のなんちゃらをどうこうと言うのを読んだ気がするがなんとなく分かった気がした。確かに人を人のまま埋葬する土葬は、有る意味未練がましい。それがいいとかわるいとかじゃなくて。火葬は激しすぎ。どっかのアフリカの部族が、死んだ人の頭蓋骨を枕にするとかいうのも聞いたけどそれは火葬以上に激しいかもしれない。昔の人、死、意識しすぎ。すげぇ。俺はそんな度胸なかった。

通夜葬式って正直言って本当面倒くさかったけど、あれはやっぱり本当、生きてる人のためにあんだな。生きてる人が「はい、これで、彼彼女は死にました、以上!解散!」的にケリをつけるためにあんなに長々とやるんだ。

なるほど。ひいばあちゃんはそれでも俺の心の中に生き続けてるだとか、そういうことは思わない。ひいばあちゃんは列記として死んだのだ。死んだし、生きてたのだ。悲しさもあるが、それは、生死に限らずなんでもそうで、時間は、そんなこと気にせず動いてくのだ。死んだのも、事実で、悲しいのも、事実で、でもそれでも進むし、俺も死ぬし、それでも多分人間はまだ生きてて、そいつらも死んで。その流れそのものを止める手立てが出来れば、人間はそこで本当に特別な存在になれるのかも。今の状態では、また他の動物よりなんかよーわからんけどごちょごちょやってるよってだけに過ぎなくて、全然この流れに対抗できてない。病気とか治せても、寿命ちょっとばかし延ばせても死ぬことにかわりがない。俺の意識というこのものを再び俺が死んだ後にも復活できたら人間は特別なものになれるかも。わかんない。でも本当、宇宙とか、なんとかより時間っていうのか、この流れっつーのか、あまりに大きすぎる。陳腐だけど俺は本当ちっぽけ、ちっぽけもちっぽけ、ていうか、もうどうでもいいというか……本当どうでもいい存在なんだと思った。いい意味で。

2008-01-15

http://anond.hatelabo.jp/20080115154423

ああ、あなたは健康。いい意味での死の覚悟じゃないかと思う。

ほんとに死ぬときは部屋が汚かろうがジャージ姿だろうが気にならんよ。

死ぬことしか考えられないようになってるから。

だから、健康な状態で常に市を意識するって言うのは、ある意味いい事なのかもね。

http://anond.hatelabo.jp/20080115153209

俺はちょっと違う形だけど、死ぬこと意識してる。

自分が死ぬとなったら「こんな散らかった部屋で死ぬのはイヤだな」と思うから、掃除するし、

「○○の資格もとれないで死ぬのはイヤだな」と思うから勉強もする。

借金残して死ぬのもイヤだな」と思うから、生命保険もよく考えて組み立ててる。

死ぬ覚悟をすることが何より大事なんじゃないだろうか

自分探ししても自己啓発しても大体の場合人生苦しい。その場で楽しくなれてもいつ突然の困難が襲ってくるかわからない。

自分が前向きになったって世の中は理不尽なことばかりだし自分の人生もまず理不尽だ。

だから死のうぜ、って言いたいわけじゃない。だけどいつでも死ねること、死ぬ覚悟をすることって大事じゃないか?

いざと言うときどうしても耐えられなくなったときにこの世から自分の意思で去る、その覚悟を心の支えにすることって出来るんじゃないか?

中2病かもしれないけど本気でそう思う。常に死ぬこと意識して死ぬことを少しでも恐れないように自分を持って行きたい。

いざって時には全てから逃げ出せます。これを意識することって絶対に救いになると思うんだ。難しいんですけどね。

2008-01-11

http://anond.hatelabo.jp/20080111001624

死ぬの怖いのならまあ止めた方がいいよ。

他にやりたいこと、やる気がなくなって、死ぬこと怖くなくなったらすればいいだけ。

2008-01-09

http://anond.hatelabo.jp/20080109201336

自分は死を恐れてない。死にたいから。怖いのは痛いのとか苦しいのとかで、死ぬこと自体は怖くない。たぶん病気一過性の症状なのだろうけれど。

でも人生価値意味を見いだせないのはあなたと同じ。それは自分の気力とか環境とか過去とかに絶望しているから。

他人の人生にけちを付けることはない。それは美しくないと思う。理性では。

でもたがが外れたとき、つまりそれが許されると思われている甘い環境では出てくる。まとめて見るとぎょっとするくらいひどい人格だ。

そういう書き込みが自分の理想を否定するというのも知っている。でもその空間は閉鎖空間だと思っていた。許されると思っていた。

あなたのように虚無に直結すると思っていたからではない。感情の捌け口とか甘えられる空間が欲しかったのだと思う。抑制していた多くの感情がある。でもきっと根源は絶望なのだと思う。絶望は自分さえ否定するから。そこに他人はいない。

死ぬ場所は見つけたから気楽だけれど、その前にしなくてはいけない仕事がある。もうあんまり意味ないしたいした仕事はできないけど仕事仕事だ。それで、終わり。

豊かさってなんだろう

長時間労働を受け入れる人は負けてしまうかもしれないよ

http://anond.hatelabo.jp/20080107003213

残業が多いということは、長い目で見て確実にあなたの寿命を縮めます。

もし実家農業をやっているのなら、たとえ1日10時間働いてもそれは自分が生きるためであり納得のいく労働でしょう。

しかし、他の誰かの為の労働を1日10時間以上毎日続けるなら、納得できないのも無理はないです。

自分の為でなく、他人の為に働いていたら、それは自分が飢えて死ぬこと意味します。

動物世界では当たり前の掟です。アリやハチが必死に働くのは、女王様と遺伝的に極めて近いからです。

アカの他人の為に身を粉にして働くのは、女王がこっそり入れ替わったコロニーにおけるアリやハチの立場と同じです。

でも人間は妙に賢いから、こういう生物世界の原理原則をついうっかり忘れてしまうことがあります。

「若い頃は長時間労働が当たり前だ」

なんて言われて、その気になってしまいます。

その労働時間は一体誰の為?

あなたが自分の時間、つまり若さを失ってしまったら、もう二度と取り戻すことはできません。

10代も、20代も、30代も、40代も、50代も、人生で一度しかありません。

定年になってから、働きすぎた若い頃を振り返っても遅いかもしれません。

若いうちにしか経験できない世界というのが、きっとあるはずです。

自由がある国、日本に生まれたのだから、その自由を大切に。。

2008-01-05

現代人日本人は死が遠くなりすぎて目的にさえなりうる

死んでなにがしたいのですかはさすがにかわいそうな詰問。

死をとても身近に体験するようなスポーツをすると(クライミングとかダイビングのような)、

いやがおうにも「死なないように」努力をせねばならなくなる。

死ぬことが遠くにありすぎるとそこに希望を抱くひとがでてくるのかもしれない。

絶望が人を死に追いやることがあるかもしれない。

だが退屈が人を死に追いやることもあるとおもう。

だらだらと気が付いたら生きてしまったひとは退屈に殺されないように刺激を求めよう。

平和な時代に一定数の人数が無謀を犯して遠方にいくのには生物としてとてもただしい気がする。

死にたい子はあくまで平和的に遠くまで活路を求めたらどうだい。

誰かの通った後の道を一生懸命おってもね、ダメじゃない。

海水のんで喉の渇きを癒そうとするようなものだ。

既に飲んでしまった後なのかもしれないけどね。

2007-12-23

http://anond.hatelabo.jp/20071223215111

そうかもしれない。そしてそうじゃないかもしれない。

少なくとも言えることは、君はもう生まれてしまったということ、生まれる前の状態には戻れないということ。例えば死んでしまったとしても、それは生まれる前の状態とは絶対に、違う。

君の事情は分からないけどこの二点は、納得して欲しい。

蛇足ではあるけれどもう1つ言えることを付言しておくと、今死ぬこと幸福かどうかは、これから先生きてみなければ判断できない、ということ。やけにならず、がんばってね。

2007-12-12

生き甲斐がないと

死ぬことしか考えなくなるね。

当たり前だけど。

2007-12-06

anond:20071206141649

死ねば後悔も無いよ。コレ、一般にはネガティヴ意味に捉えられるけれど、ポジティヴに考えてみよう。失敗の恐れが無いってことだよ。後悔するのは死ぬ人じゃなく残される人なのだから、この場合「たいてい後になると後悔することが多い」という理由は理に適っていない。

それから、生きることを前提として考えるから「正常な判断能力がない」と思ってしまうのかもしれない。でも、生きなければならない理由はないよ。相手が死のうとしているのならば、死ぬことを前提として考えるのもアリじゃないかな。それで問題があるなら、相手に対しても死ぬべきじゃないと言い得るじゃない。

http://anond.hatelabo.jp/20071206134645

「正常な判断能力がない」という意味。事情を考えて動くことができるのが「合理的」。正常な判断能力が無い状態でやったことは普通人格には帰属しないし、その意味では意志をみとめることができない。酔っ払っている人がやることに人格を見出すことができないと同じ。(深いところでは人格があるというのもわかる話ではあるけど。)

「病的である」ことが罪悪だとも思わないし、残されたものを考えずに死にたいというのもわかる。けど、普通の判断できなければ、他人の感情を押し付けられてしまうのもしょうがないでしょ。死なせたくない人にわかってもらいたいのなら、自分の気持ちをわめきたてるのではなくて普通の判断に即して語ったほうが有効なんじゃないかと言ったの。

別に苦しみで死ぬこと自体には是非を言わない。事情知らない自分にはその理由も資格も無い。けど、「病的な状態にあること」で下した判断というのは、たいてい後になると後悔することが多いと思う。死にたい人をとめる人はだから説得するんじゃないかな。

http://anond.hatelabo.jp/20071206131710

そういうことを言ってしまったら、人が相手を大事に思うことさえできなくなってしまうじゃないか。

死にたいくらいの辛い境遇で打開できない状況っていうのがわからなくてすまないが、

私はあなたが大事だから死なないでほしいっていうのはそんな罪悪?

あ、別に自殺しようとしてる人すべてに言ってるわけじゃないぞ。

さすがにそこまで博愛は無理だ。

自殺を考えてる人には近しい人はいないの?

誰一人としていなくてつながりもなくて孤独だというなら、

…そういう状態になったら私も死ぬことを考えるかもしれないが。

http://anond.hatelabo.jp/20071206103742

樹海でひっそり死ぬことくらい条件無しに認めてもいいと思う。

それによってコストがかかるってのならそれは生き続けたい奴が安心して生き続けるためのコストだよ。

人間人間社会で生まれた以上は死んで他者に迷惑かけちゃうってのは仕方ないんだよ。

その上で大上段に死ぬ権利を認めないと辛すぎるだろ。個人で出来る限りひっそり死ぬケースの話だけどな。

2007-12-03

そろそろ死んでもいいかなーという時期にきたので

何か事故とか巻き込まれないかな

などと思い始めて10年経過、まだ死ぬことがない

死にそうになったことはあるんだけど

案外死なないもんだね

自殺したいとか世の中が嫌になったとかではなくて

ある程度満足しちゃって

これ以上強く望むようなことが薄らいできちゃって

強い欲求が沸いてこなくなっちゃってる状態が

10年も続いてしまった

自殺するのは、周りの全てに申し訳ないし

でも、もう人生終わっても構わないな という気持ちもあるし

こんな状態で 何をしたらいいのかな

いつ死んでもいいように 毎日をできるだけ満足しながら過ごすようにして

生きてきたつもりだけどね

2007-11-29

http://anond.hatelabo.jp/20071129121018

この流れで生産性を求めている人がいることに驚いた

あなたみたいな人が世の中を煉獄くらいにしてくれるのかもしれない

ただ死ぬことが正解だとか苦しみを受け入れて卑屈に生きていくことが正解だって奴も沢山いるんだぜ!現実見ろよ

2007-11-26

http://anond.hatelabo.jp/20071126004555

殆ど関係ないと思うが、昔アメリカラッパー2PACが自由であるからこそ苦痛だ、刑務所の中

生活している方が楽だ、でも俺はLAで生きLAで死ぬことを選ぶなんて事を歌っていたな。

所得の少ないゲトーで生活をすると、真面目に働く事が馬鹿らしくなり犯罪に手を染める。

今のニート世代より、その次ぎの世代になると親も金を持ってないなんて事になり

アメリカのニュージャージのような犯罪だらけの地域も出来あがるんだろうなあ。

小泉さん以降推し進められてる経済アメリカ化ってのは案外そういう穴もあるもんなのかもしれんな。

2007-11-15

どうもありがとう

http://anond.hatelabo.jp/20071115020434

http://anond.hatelabo.jp/20071115022358

休むという選択肢ベストなのかな。ふーむ。来春で一旦契約が切れるから考えてみる。

一応蓄えはあるんだが、恋人が年下なので、自分が稼いでおかないとという気持ちがある。結婚とかさ。

そういう未来のことを考えるんだから死ぬことはないだろうとも思う。

こんな夜中に話を聞いてくれてありがとう

2007-11-14

学校辞めたいと思ってた

俺もさー1年の時2ヶ月ほどまるまる高校行かなくてさー

なぜ引きこもったのか(つっても、普通に外に出て街に出てたけど)今でも覚えてないけど

2ヶ月経って「そろそろ出席日数ヤバイ」って担任の先生に言われて次の日あっさり登校したらしい

親が心配して鬱じゃないかって精神科つれてってくれたけどそれもなんか復帰したからなんとなくやめてさ

(てーか俺は絶対自分は鬱とかじゃないって思ってたから、かえって親に申し訳なかったから、よかったんだけど)

医者は「2ヶ月ほど引きこもっていて突然復帰するのは珍しい」とか言ってたけど俺はそもそも復帰する時はなんで学校行くのやめたのか忘れてた。

でそれからずっと通って、2年の夏、オーストラリアホームステイした。意味は特にない。これまた親が心配してくれ、「安くなってるし、行ってみたらどうか」といってくれたので、せっかくだから行ってきたのだ。どっちかというと人見知りの俺だが海外では超陽気なキャラになりエンジョイしまくった。まあネットがない環境は辛かったけどな。でも「あー帰りたくねぇー」と思ってた。オーストラリアに永住してえー。とか。

んでも帰宅。また学校が始まった。

3年に近づくにつれまた俺は休みがちになり遅刻しがちになり、出席日数はその積み重ねで結構ヤバイことになってた。

その頃はまた鬱鬱した気持ちがピークになり毎日「死にたい」だの「生きてる意味がない」だの呟いてた。毎日意味もなく泣いていた。

そして3年に進級する時、友達が、学校を辞めた。突然だった。

大検大学行けるしさ」そういって割りと気楽に辞めていった。いや、本人は勿論色々悩んだらしいが。

「お前も辞めたら?」

「そうだな。辞めたい。

もう学校来たくない……」

そう口ではいいながらも俺はなぜか心の中で俺が辞めるという選択肢を全く選ぶつもりの無い事に気付いた。なぜか?分からない。でもとにかく辞めなかった。多分、惰性だ。辞めたらどうなるか、不安だった。ならあと一年くらい我慢しよう、切り抜けようと思ったのだ。俺は学校を辞める勇気すら持たなかった。基本的にクズなのだ。

そしてなんとか3年が過ぎ俺は卒業大学へ行った。解放された、と思った。

そんなに辛かったのなら本当に、別に俺は辞めればよかったのに。どうして辞めなかったのか自分でもよくわからない。

もう一人、他の高校に行った中学の同級生が高校を辞めていた。

あいつらは普通に楽しそうだった。

じゃあ俺は何を我慢したのだろう……、俺が最後の一年我慢して通った意味は、別に、なかったのだ。やっぱり辞めてりゃよかったんじゃないのか。俺は辞めることすら出来ないクズだ。そう思った。激しい劣等感。また死にたくなった。こんな自分が嫌で仕方なかった。

また親が心配してくれ精神科へ通う事になった。本当に申し訳なかった。しかしこれは単に俺が弱いだけのだ。人間的に。カスなだけで、別に、鬱でもなんでもないのだ。病気のせいなんかじゃなく性根が腐ってるだけなのだ。高校を辞めることすらできなかった。一年我慢して通った意味はなかった。そこに失望した。

死んでしまった方がいいんじゃないか?

自殺方法を考えた。……が、ダメだ。計画時点でもうダメだった。俺が死にたいなどといっているのは所詮まやかしなのだということを思い知らされた。死ぬ事を考えると怖くて仕方なかった。そしてまた俺は死ぬことさえ出来ないカスな自分自身に泣いた。

精神科をやめた。親は反対した。しかし、俺は鬱じゃない。単なる甘えだ。知っていたのに分かっていたのに、誰かに話を聞いてもらえるのが心地よくて、医者に甘えるのが気持ちよくてズルズル通っていただけだ……。

もうだめだ。氏ね氏ねよ、今すぐ。俺みたいなカスは死んだ方がいい。いない方がいい。もうどうしようもないんだ。このカスぶりは。俺は不良品なんだ。不良品は廃棄すべきだ。俺は氏んだほうがいい、氏ぬべきだ、氏ね。おそるおそる夜中包丁を手にもった。震える手で裸になった胸にあてた。息がハァハァいっていた。手が震える。包丁が持てない。落ちる。ダメだ。落ちる前に突き刺せ。なぜなら俺は不良品だから。突き…………

ダメだった。怖かった。氏ねない。どうしようもなく怖い。怖い。怖い。どうすればいいんだ。自分で死ねないなら、俺はどうすればいいんだ?!誰かいっそ突き刺してくれ。怖いんだ。俺じゃ。怖い。死にたくない。でも死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死ねない。俺はここまできてまだ自分が可愛いのか。畜生。クズめ。カスめ。氏んでしまえ。畜生……

泣きながらそのまま眠った。

物凄く眠った。

丸一日寝ていた。大学……またサボってしまった。

ああ、カスだ……。

その時ふっと何かが切れた。

ああ俺はカスだな。うん。カスだ。カスだな。

いや。

やっぱりカスじゃないかも。ていうか、誰がカスだ。そうだ。俺は死にたくない。絶対死にたくない。俺は死にたいんじゃない。幸せになりたいだけだ。馬鹿野郎。死にたくなんかねえよ。怖いよ。死ぬのはすげえ怖い。死ぬ訳ないだろばか。俺がそんな度胸あるわけないだろバカ。死にたくなんかない。死んでたまるか。死にたくねえよ。あーそうですよ。カスですよ。俺はカスですよ。で、何か?

みたいに。なぜか逆ギレした。

それから時々また「もう嫌だしにたい」となるけど

大抵一日で回復するようになった。

今は幸せな気分と絶望な気分が何故か交互に訪れる。

ゴメン特にオチはない。ただ高校辞めたって人の書き込みみて「辞められずに無駄な我慢をしたクズな自分」を思い出したんだ。

2007-11-08

自殺をするとき

何年か前にえらくひどい状況におかれてて、自分では気付いていなかったのだが、鬱的な症状だったことがある。そのころは電車を使うことが多かったんだけど、毎日毎日、電車が来るのを待ちながら、線路がよんでる気がしてた。あぁあっち行けばいいんだなぁって漠然と思ってた。なんだか二度寝するときのような気持ちであっち行きたいなぁいきたいなぁでも今いったらあれとかこれとかできないしなぁと思っていた。

たまにホームぎりぎりまで言ってしまうことがあった。ホームは意外に高さがあるので、下を覗き込むとちょっとためらう。さすがに。ここから降りるの大変そうだなぁ、こけたら痛そうだな、とかそういうことを思って下に降りたことはない。

当時は死にたいと思ってるだなんて思ってもみなかった。ただ行きたかっただけだった。その方が楽なような気がしていただけだった。たぶん止めたのは理性じゃなくて、また別なものなのだろうと思う。言語化できない何かが、死にたくないと思ってて、たとえば体が死ぬことを畏れていて、無意識のうちにどこかでブレーキをかけていたのだろう。私の場合はいたそうだなとかあれとかこれとかしないとみたいなものがブレーキになった。なんだかあほみたいな話なんだけど、電車に飛び込んだら痛いどころじゃないのに、線路に降りるときにこけたら痛そうとか考えている時点でかなりいっちゃってるんだと、当時は全然そんなことには気付かなかった。乗換えが楽だからって、後方車両のほうで待ちながらそういうことを延々と考えてるんだ。後方車両のほうは電車スピードが速いから死ぬ確率が高いとかそういうことを考えてるわけじゃない。もうめちゃくちゃだ。意味がわからない。

なんかそれでも我に返る瞬間があったり、もしくは精神的にも波があったので全くそんなことを思わない日もあって、冷静に自分を振り返ることがあった。そういうときにとても怖くなるんだ。じっとりとした汗がでてくるんだ。そういう時はいつも怖くて、白線からだいぶはなれて待っていた。壁があるときは絶対に背中を壁から離さなかった。そうじゃなきゃまたふらふらといってしまいそうな気がして怖かったから。

今でもちょっと怖い。あのホームの高さも怖いし、混んでるホームも怖いし、電車の隙間も怖いし、白線を越えるときはそうとうどきどきする。けどもう線路に呼ばれることはなくなった。もしまた、呼ばれることがあったらどうなるかはわからない。踏み越える前にとどまることができるだろうか、と考える。でも、とその後に続ける。行きたいなと考えることと実際に行ってしまうまでにはずいぶんいくつもの関門があって、言語にならないものをひとつひとつなだめて納得させていかなきゃいけないんだ。その一つ一つを私は一気に飛び越えられなかった。飛び越えられない人なのか、単に飛び越えるほどでもなかったのか、それはわからないけれども、少なくとも私の中で私をあちら側へ行くのを引きとめようとする力は存在するのだと知った。それを忘れないようにしようと思う。

2007-11-07

もう過ぎた昔のこと

ものごころついたとき、認識した自分像は、身体希薄精神偏重型だった記憶がある。身体リアルではなく精神で起こることだけがリアルだった。身体精神は別物だったし、身体で何かが起こっていても精神がそれを認識していなければ何も起こっていないのと同義であった。身体精神の操るマリオネットであり、時に私はマリオネットを放り捨て、精神だけが作用する世界に潜り込むこともあった。

その当時とても不思議だったのは、私の身体と他の人の身体が入れ替え不可能であり、我々の精神が溶け合うことや触れあうことがあり得ないという事実だった。

目を開けるとサイズの合わないマリオネット。見覚えのない顔。手の長さも足の長さも私が認識しているものとは違うという事実。それは私にとってストレスだった。精神の感じる身体と、実際の身体の間の隙間には、粘つくゲルが詰め込まれていて、その感覚はとても不快だった。痛みさえも私の痛みではなく、私の操るマリオネットの痛みだった。私はマリオネットを操りながら、痛みに苦しむマリオネットを眺めていた。マリオネットは私の意志には関係なく、泣き、笑い、怒り、人を傷つけたりもする。私は制御不能になったマリオネットをただ眺めている。それを制御しているのは誰?と思いながら。

人に見られるのはマリオネット、人に愛されるのもマリオネット、それを後ろで見る私。叫べども叫べども、人が見るのはマリオネットでしかない。何度叫んだことか「私を見て、私を愛して」と。しかし、誰もマリオネットの後ろに立っている私には気づいてくれなかった。

精神認識する身体と、実際の身体が一致するのは、強い刺激が与えられたときだけだった。痛み、苦しみ、快楽……精神認識する身体を取り囲むゲル状のものがない状態は快適だった。ゆえに私は強い刺激を求めて、様々な問題行動に嗜癖していくことになる。

男は、マリオネットに彼の中の何かを投影し、鏡になったマリオネットを抱いた。マリオネットは彼の望む通りに演技をした。私はその行為が終わるのをただ見ていた。彼が愛しているのは抱かれているマリオネットではなく、彼の中の何か。マリオネットはただの代用品。それを理解しながらマリオネットを彼に差し出す私。「あなたはいったい何を見ているの」私は何度も彼に問う。私の言葉は彼には届かず、私の疑問はいつになっても解消されない。何人もの彼が私の上を通り過ぎた、私は彼にマリオネットを与えたことを忘れた。綺麗さっぱり忘れた。代用品としての私は、私の中から姿を消した。

切り離し、切り離し、断片を切り離し、切り離し、切り離し、切り離し、切り刻み、身を切り刻み。

幾重にもなった断片の下から世界を見る。断片に囲まれた地の底から世界を見る。断片はバリゲード、私はその下で息を潜める。息を潜めていたい気持ちと相反する、誰かに見つけて欲しいという願い。ジレンマ。焦燥。斜に構えて深いところから覚めた目で世の中を見、その実は誰よりも愛されることを強く願い、願いが受け入れられない苦しみは、死への衝動へと変化した。

始めて腕を切った日に見た、肌の下にある醜い肉の様子は、今もまだよく覚えている。この醜さこそが、私が覆い隠して見ようとしなかったものだということに気づく。取り繕う外面、どろどろしたものが渦巻いた内面。その狭間で苛々するたびに私は何度も腕を切った。肉は気味悪い光沢を持ち、繊維が刃に引っかかって苛々した。時折感じる激痛がこめかみを貫いても、構わずに切った。血は穢れだ。全て流れだし、洗い流せばいい。血管の壁に触れたとき、鈍い痛みが寒気を呼び起こした。それは多分死ぬことに対する恐怖だったのだろう。私はそんなあたりまえのことさえも忘れていた。

最初にそれを意識した日から、すでに二十年近くは経過している。しかし今だに、精神の感じる身体と、実際の身体は異なる。指先までしっかりと神経が張り巡らされていないような感覚がある。実際はそんなことなどありえないはずなのに、私の中では厳然とそうなのである。あの当時感じたひりつくような気持ちも、腕を切った痛みも、皮膚の下にある醜い肉も、大量の吐瀉物と一緒に吐き出した呪いの数々も、私の上にしっかり根を張り、事あるごとに再生され私を苛む。

しかしそれらは、もう過ぎた昔のことであり、私が今ここにいる厳然たる事実に代えられるなにものでもない。

http://anond.hatelabo.jp/20071107174716

働かないでも生きていける人間のことなんて知らないよ。

俺は、働かないと生きていけない。

そして、働いてまで生きる理由がない。

もちろん死にたくはない。

けれど「死にたくない」だけでは、真面目に大学通って必死に就職して頑張って働く、という一連の作業をこなせない。

こなせるほどモチベーションが上がらない。

さてどうしよう。

いっそ死んだほうがいいんじゃないか、どうせ何十年か後には自然死ぬことになるんだし。

こう考えるのはきわめて自然だと思うけど。

2007-11-03

遺書を書こう

大丈夫、死なないことは知ってる。死のうとしたことはあるけれど、結局しなかった。入り口にも行かない。ただ、そうすることが、大事というか、その時しなくては行けないことで、彼岸の事を思い続けることで生きて行く。少なくとも、母が死ぬ前には死にたくないと最近は思っているし。でもその後はどうかな。

裏切る。裏切れ。

人を裏切り続けてきたし、これからも裏切り続ける。だから人に裏切られるのは定めなんだろうよ。裏切られる。A bout de souffle (勝手にしやがれ)の最後の科白は何だったか。dégueulasse 最低、だな。Michel は、自分に云ったのか、Patricia に云ったのか、世界か、死ぬことか。

それとも、まだ High Fidelity ごっこをして昔のパートナー電話をかけてみるとかね。なんで、君は僕ふったんだい?って。いや、これしたからさ、前に一回。幸せは打ったばかりの銃。一人は『あなたと寝るのは、とても優しくてよかった』って言われたときは、絶望で死にそうになったよ。憐れみが欲しくて電話してただけか、って。同情ってテラ絶望的 wwww ってさ。

2007-11-01

http://anond.hatelabo.jp/20071101194300

至言。

マスコミ情報は現代のさるぐつわ。

奴隷は舌を噛み切って死ぬことが多いからな。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん