はてなキーワード: テクストとは
原作のシナリオから自分が気になった所だけを抜粋したので、他の人が作ればまた別の物になると思います。2話以降で後付けで説明されたり、回想の形で挿入されたり、時間軸をずらして取り入れたり、というのも当然あると思います。京アニが、この長大な作品の、何を描いて何を描かないのかという取捨選択の趣向を見守っていきたいと思います。
また、あとから追記するかもしれません。→少し追記しました。
やたらと自然が多い町。
山を迂回しての登校。
すべての山を切り開けば、どれだけ楽に登校できるだろうか。
直線距離を取れば、20分ぐらいは短縮できそうだった。
代わりに「売地」が写される。
【女の子】「それでも、この場所が好きでいられますか」
………。
【女の子】「わたしは…」
【朋也】「次の楽しいこととか、うれしいことを見つければいいだけだろ」
【朋也】「あんたの楽しいことや、うれしいことはひとつだけなのか? 違うだろ」
【女の子】「………」
そう。
何も知らなかった無垢な頃。
誰にでもある。
【朋也】「ほら、いこうぜ」
最後の地の文が抜けている。
何も知らなかったから言えた台詞、無垢だったから言えた台詞。
自分はこの町が嫌いだというのに、この場所を好きでいたいと考える女の子。
自分は変化を求めているというのに、変化を恐れている女の子。
ちょっとした反感から口を滑らせた、聞き覚えのいい正論。
ネタバレ(文字白色):いずれ「変わって欲しくないもの」を手に入れて、そして失ってしまったときに、この言葉は自分自身に跳ね返ってくることになる。
ちなみに、アニメでは地の文の「………。」の箇所で、朋也が視線を落とし、次のシーンで朋也の顔が隠れることで反発を表現している。
母を亡くしたショックでだろうか…残された父は堕落していった。
アルコールを絶やすことなく飲み続け、賭け事で暇を潰す生活。
少年時代の俺の暮らしは、そんな父との言い争いにより埋め尽くされた。
けど、ある事件をきっかけにその関係も変わってしまった。
俺に暴力を振るい、怪我を負わせたのだ。
その日以来、父親は感情を表に出さないようになった。
そして、俺の名を昔のように呼び捨てではなく、『朋也くん』とくん付けで呼び、言動に他人行儀を感じさせるようになった。
それはまさしく、他人同士になっていく過程だった。
まるで殻に閉じこもっていくように。
今と過去との接点を断ち切るように。
突き放すならまだ、よかったのに。
傷つけてくれるなら、まだ救われたのに。
怪我についての描写はアニメではまだ無かった。
うちの学校は特に部活動に力を入れているため、地方から入学してくる生徒も多い。
そんな生徒たちは親元を離れて、ここで三年間を過ごすことになるのだ。
関わり合いになることもなかったが、こんな場所にあいつ…春原は住んでいるのだ。
春原は元サッカー部で、この学校にも、スポーツ推薦で入学してきた人間だ。
しかし一年生の時に他校の生徒と大喧嘩をやらかし停学処分を受け、レギュラーから外された。
そして新人戦が終わる頃には、あいつの居場所は部にはなかった。
退部するしかなかったのだ。
【春原】「はい、ここ、僕たちの席ねーっ」
【春原】「とりあえず学食いったら、誰かいるだろうからさ、ジュースでもおごらせようぜ」
【朋也】「そんなのばっかだな、おまえは…」
【春原】「よし、じゃ、いこう」
やることもなかったから、ついていくことにする。
【春原】「ねぇねぇ、ジュースおごってよ」
春原が後輩を捕まえて、そうせびっていた。
【春原】「百円じゃなくて、二百円」
【春原】「ふたりぶんだから。あっちの人も」
【春原】「うん、君、いい奴だねぇ。なんかあったら、僕たちに言っておいでよね」
【春原】「僕たち、学校の外ではぶいぶい言わせてるからさっ」
他の男子も、何事かと窓際に集まり始めていた。
…鬱陶しいこと、この上ない。
あの中にいたら、むかついて誰か(主に春原)を殴っていただろう…。
暇つぶしには最適。
一日の授業を終え、放課後に。
春原の奴は最後までこなかった。
結局、今日俺が話をしたのは、朝に出会った女生徒だけだった。
【朋也】「好きにしてくれ」
見捨てて、ひとり坂を登り始める。
ただ…
そんな不良に見えなかったから、話しかけてしまっただけだ。
それだけだ。
【女の子】「あっ、待ってください」
どうしたものだろうか…。
遠慮なく、話を聞きすぎたような気がする。
気にならないといったら、嘘になるが…
気にしないよう、務めよう。
これからは、あいつ一人で頑張るしかないことだった。
三年で、ここに来ているのは俺たちふたりだけだった。(智代登場のシーンふたりは春原・朋也)
【朋也】「友達、作ればいいじゃないか、また新しく」
【女の子】「時期が時期ですから、みんなそういう雰囲気じゃないです」
【朋也】「三年生だったか…」
三年といったら、もうクラブも引退寸前なのに…
それをこれから頑張ろうなんて…他人の目にはどう映ってしまうんだろうか…。
新入部員だと言っても、三年生だと知れば、部員たちの反応は当惑に変わるだろう。
ひとりでも知り合いがいれば良かったのだろうけど…。
アニメでは代わりに、同級生が朋也と春原の事を噂している描写と、委員長が不良生徒に話しかける珍しい事態に周りの生徒が注目している描写が入る。
【女生徒】「見て、あの子」
【女生徒】「ほら、あそこ」
窓際にいた女生徒が窓の外を指さして、隣の連れに話しかけていた。
【女生徒】「ひとりで、パン食べてる。なんか、一生懸命で可愛い」
【女生徒】「どこのクラスの子だろ。あんまり見ない子だね」
【女の子】「頭の手は…なんですか?」
【朋也】「いや、別に」
【女の子】「そうですか…」
【朋也】「ああ」
しばらく彼女は呆然と、俺はその後ろで彼女の頭に手を置いて、ふたり立ち尽くしていた。
端から見れば、おかしなふたりだっただろう。
【朋也】「俺はD組の岡崎朋也」
【朋也】「あんたは?」
【朋也】「よろしく」
【古河】「はい、よろしくお願いします」
遅すぎる自己紹介。
ふたりだけは、出会いの日の中にあった。
【古河】「………」
【古河】「それで…」
【朋也】「よろしく」
【古河】「………」
【古河】「はい、よろしくお願いします」
【古河】「………」
【朋也】「よろしく」
【古河】「はい、よろしくお願いします」
【朋也】「よろしく」
【朋也】「ひとりで帰れるか?」
【古河】「はい、もちろんです」
【朋也】「ハンバーグでも食って、元気つけろよ」
【古河】「え?」
この箇所は原作でも印象的なシーンであり、電撃G'sマガジンで連載中のCLANNADの第一話も、ここをクライマックスにしていたため、この描写が抜かれたことに違和感を感じる人は多いようだ。
ただ尺の問題上「お連れしましょうか」のシーンを第一話のクライマックスにする事に決めたとしたら、
といった理由で、かなり難しいのではないか、と思う。
こんなところに来て、俺はどうしようというのだろう…
どうしたくて、ここまで歩いてきたのだろう…
懐かしい感じがした。
ずっと昔、知った優しさ。
そんなもの…俺は知らないはずなのに。
それでも、懐かしいと感じていた。
今さっきまで、すぐそばでそれを見ていた。
それをもどかしいばかりに、感じていたんだ。
………。
「もし、よろしければ…」
代わりに、電灯のついた部屋を見上げる。
一面、白い世界…
………
雪…
そう、雪だ。
今なお、それは降り続け、僕の体を白く覆っていく。
ああ…
僕はこんなところで何をしているのだろう…。
いつからこんなところに、ひとりぼっちで居るのだろう…。
………。
雪に埋もれた…僕の手。
それが、何かを掴んでいた。
引き上げる。
真っ白な手。
女の子の手だった。
ああ、そうだった…。
僕はひとりきりじゃなかった。
彼女の顔を覆う雪を払う。
穏やかに眠る横顔が、現れた。
そう…
この子とふたりで…ずっと居たのだ。
この世界で。
この、誰もいない、もの悲しい世界で。
完全なネタバレ(麻枝准の他作品のネタバレも含む)なのでここから文字を白色に(匿名ダイアリーは続きを読む記法が使えないようだ。キーワードリンクも消せない。)
ゲームでは、開始時点は幻 想 世 界編であり、そこから始まる本編は長い回想のようなものだと解釈できる。
(もっとも幻 想 世 界では時間が意 味がなさないので『回想』という表現は相応しくないかもしれない。)
麻枝准が自ら企画した作品は最初のシーンに後から繋がる、戻ってくる、という話が多い。
- ONEという物 語の構 造は主人 公が、幼い頃の悲しい出来 事が原 因で思い描いた「えいえんのせかい」から始まり、そこで各ヒ ロ インとの学園でのエピソードを回想することによって、元の世 界に戻る動機 付けを見い出して回 帰する話である。学園エピソードの前半ではそれが回想だと気付かない作りになっている。(より正確に書くと,メ タな位置にいるはずのプレイ ヤにとってはリアルタイムの出来事が、作品中の主人 公にとっては回想になっている、という捻れた構造になっている。)
- AIRのゲーム版では、OPムー ビーの最後から繋がるシーンで、ラス トシーンの少 年が呟く「さようなら」という言 葉を国崎行人が夢うつ つに聴いている。(この時点では何のことが分からない。)これはアニメ版では抜け落ちてしまったが、代わりにアニ メではEDの少 年に「昔の事を思い出していた」という台詞を言わせている。A I Rのプロローグ「我が子よ、良くお聞きなさい。これから話すことは大切な事、これから・・・」のシーンも、クライマ ックスで再び使われている(これはアニメ版でも一緒)。このシーンはプロローグで使われたときは国崎行人と,その母 親を想起させる( 注:「力」を持つ者に課せられた、はるか遠い約束,というフレー ズに基づく)が、クライマッ クスで使われたときは「最初の翼 人」が自らの子 供に語りかけた台詞になっている。
- 智代アフターが回想なのは自明なので省略。
アニメ版ではプロローグを省いているため同じような仕掛けはやらないつもりなのかもしれない。
(仮に、アニメでも本編が回想である、という前提に立てば、アバンの『二人が出会った瞬間「光が揺らめ」いて彩度の上がる演出』は
朋也の思い入れ(「今思えばあの頃から俺は・・」的な)の反映とも解釈できる。)
しかし回想は積極的に使われていて、視聴者は、作中人物である朋也の主観的な時間軸を行ったり戻ったりする。
(書きかけ)
メモ: CLANNADがMAD的である理由 静止画MADムービー(静止画とテクストの断片と、音楽のシンクロ)、葉鍵系MAD全盛期(訴訟警告前)、動ポモのMADムービーに関する記述(トレンド:パロディ→原作の感動の再現) 音楽とキャラクターが、世界の連続性を担保しているー断片の羅列が世界を表現する 麻枝准の執筆方(音楽のイメージが無いとシナリオが書けずCDを延々と探している)、「ゲームの音楽は1/3」という麻枝の発言 「キャラ」が連続性を担保している(テヅカイズデッド) ADV形式ゲームの記号性(動ポモ) CLANNADのシナリオに対する二つのアプローチ:エクセルによる時間管理(監督:石原達也) 全エピソードのカード化と、パズルのような組み合わせ(脚本家:志茂文彦) ハルヒの成功がもたらしたもの: キャラクターのメタ物語性の確認:SFもミステリーもギャグもロマンスも同じキャラクターで可能である。(昔から。フルメタだってギャグとリアルだし、FFのようなRPGだって、(何故日本の作品にはシリアスな作品にもギャグがあるのか(ask john)),麻枝准は何故シリアスエピソードで笑いを入れるのか(ONEのバニ山バニ夫、Kanon舞エピソードのウサ耳、CLANNADアフターの風子参上、リトバス最終エピソードの丁寧に伏線まではってある筋肉大増殖) 時間軸を各自の脳内で再構築できる視聴者層が、商業的に成立する規模(DVDの売り上げがトップクラスになる程度には)はいた事の発見 「仕掛け」れば見つけてくれる視聴者と、その情報が直ぐに広まるネットワーク。 キャラ紹介の波線の演出は智代アフターだよね、白地の背景で「朋也の後を渚が・・」ってとこも智代アフターのOPかも? EDのウサギはONEのバニ山バニ夫。EDのだんご大家族の映像がNHKっぽいのは、当然だんご三兄弟のパロディだから シーンのトランジションがワイプなのはゲームのADVのパロディ? 猫。幽霊。 智代登場シーン。不良サングラスにギャラリーが映り、顔から汗がたらたら流れる→闘いたいわけじゃないけど、ギャラリーがいるから後に引けなくなってるのかな。不良が持ってる武器がフライパンってことは、ゆきねえの取り巻きかな、みたいな解釈話も含めて
テキストサイトが好きだ。だけど、いざサイトを挙げてみろと言われても大して浮かんでこない。というかひとつも浮かんで来ない。別に好きなテキストサイト何て無いけど頭の中ではテキストサイトが好きな設定になっている。これなんだろう。各サイト上の背景にサブリミナルが仕組まれている、という事がまず第一に推測される。で、第二はというとそれは浮かばないから話を戻すと、ただわたしは、テキストサイトっぽい、と言われるからテキストサイトが好き(な設定)になっていたのだろう。テキストサイトと聞くと、執拗なフォント弄りだとか異常な改行だとかが一瞬で脳裏に映し出される。だいたい、あれなんだったんだよ。あんな物が本当におもしろいとでも思っているのかあのクズは。だいたい、はっきり言ってあんなクズテキストよりも私の書いたこれとかこれの方がよっぽどおもしろい。もちろん、「(半分本気)」のようなゴミとしか思えないエクスキューズなんて付けない。本気で言っている。しかし、今ここでそんな架空の有り触れた物を引き合いに出して「私の方がおもしろい」と喚いても意味が無いので実例を出して比べてる。6年も前の記事だが、当時圧倒的な人気を誇った「侍魂」というテキストサイトが合った。そこの一番の人気テクスト(だったと記憶している)である、これを見て欲しい。どうだろうか、先にあげた私の記事と比べてどちらがおもしろいだろうか。もちろん、これは6年も前の物だから、古いからつまらないのは当たり前、のような意見もあるかもしれない。しかし、私は当時からどうもこのテキストが嫌いで嫌いで堪らなかった。一応先に書いておくが、「大衆とは違う自分の感性にうっとり」だとかの馬鹿な思いからではない。だから、今この私の文を読んで「中二病」としか罵れない人はとことんクズレベルであり、それこそ知性が少なく何も享受できないゴミだ。そんな罵倒を聞いてもお前らのブログをチェックできるから痛くも痒くもないんだよー、せめて「ベタ」「ネタ」「メタ」以外の言葉で取り繕える記事を書いてくださいねー。そんな簡単に逃げ口を用意して他人の記事は「つまらない」と一喝したつもりですか? 口だけ達者でも意味がないですよー? まぁ貴方達程度の知性の持ち主ならしょうがないですよねー。痛いところ突かれたら「ベタ」で逃げ切るつもりでしょうが、そんな「ネタ」もう通用しませんよ。「(笑)」が最大限の皮肉であるキミの頭の中身を見てみたいですー。さぞかし小さくて腐敗した醜い物なんでしょうねー。でも自意識とクズみたいなプライドは肥大しちゃっていて、どうしようもないですね。自己評価が高い人は好きですけど、中身が追い付いていない凡俗は数秒で見切られちゃいますよー? 記号的反応もいい加減にしてさっさと中二病を卒業しましょうよ。それで好きなテキストサイトを少し挙げるとすると、「ちゆ12歳」くらいかなあ。あそこの何が好きか、っていうとやっぱり「バーチャルネットアイドル」っていう新しい形を作ったことだよね。文体のおもしろさや、ネタの選び方もマイナーすぎないところを付いていて自意識が可愛そうな人に受けそうな調度いい所を確信犯的に狙ううまさ。取り巻きのうざさもピカイチだったけど、やっぱりあれ自体はすごかった。今でも通じる。今思えば「侍魂」は流行りの現象でしか無かったんだな。「ちゆ」も現象だったけど、あれは中身が伴っていた。「侍魂」の読者なんて、それこそエンタの神様で笑う奴を笑う奴と同じレベルだ。自分が一番嫌悪しているはずの「見ていないけど、とりあえず周りが馬鹿にしているから馬鹿にする」っていうさあ。おかしいよね、これまた自分が一番嫌悪しているはずのネトウヨと行動が同じなんだもの。嫌韓流を読んで、友人に、いかに韓国が悪い国か、ということを撒き散らしているクズと同等ですよー。本当に撒き散らしているのは自らの醜悪と知性の無さだということにさっさと気づきましょうねー。そういえばテキストサイトといえば、今、ロフトで変なイベントやっているよね。ちょっと読んでみたけど、全員の顔面を殴打した後写真に収めて各所にばらまいてやりたくなるよ。いつまでネット有名人気取ってるんですかー? 貴方達が今そこに居るのは、「おもしろい」からではなく「たまたまブームに乗れた」からですよ。さっさと自覚しましょうね。さもなくば即刻死ね。
判断が難しければ少数派に与すれば良いのではないですか?また、「文章力のない電波が多数に諭されている状態」であっても、少数派に与すれば、たとえ判断を誤っていてもネットイナゴにならずに済むのではないですか?どちらの状態でも、多数派に付く強い理由が見当たりません。
(中略)
はい。文章は誰かの為に書かれた文章である可能性が高いです。
言いたいことはわかりました。しかしあなたは自分が結局のところどういう主張をしているのか、自分で把握できていないように思われます。
たとえば天動説を頑なに信じ、いろいろなところで天動説の正しさを吹聴しまくっている人がいたとします。これに対してみんなが地動説の説明をしているとします。
ぼくはこの状況を「電波が多数に諭されている状態」であると迷うことなく判断します。そして、もし自分にうまい説明が思いついたら多数派に回って一緒にこの電波を諭します。
しかし、もしあなたがこの場に居合わせたとしたら、あなたはこれが「少数の為のテクストがネットイナゴに食いつかれて炎上している状態」かもしれないと考え(というかその判断を放棄し)、傍観者を決め込むか、場合によっては天動説を擁護する言説を繰り広げるでしょう。
なるほど、あらゆる文章は誰かの為に書かれたものです。そして、この電波の文章も、天動説の賛同者を増やすために書かれたものでしょう(そうでない場合もありますが)。そして、天動説が正しく地動説が誤りであるという、万に一つ、億に一つの可能性も否定しきれないのも事実です。したがって、あなたがこの電波を擁護したとしても、多数派を納得させうる根拠を提示したうえでのことであれば何も問題はありません。
しかし、あなたの言っていることからすると、この場合にあなたが電波を擁護したとしても(そして特に何もせず傍観者に徹しているとしても)、あなたはその場の状態が「電波が諭されている状態」か「ネットイナゴに食いつかれている状態」かをまともに区別せずに盲目的にそうしているにすぎません。そうである以上、自分の主義主張を持っていないという点で、あなたはこの電波にも劣る輩であると言わざるを得ません(もちろんあなたがそんな輩でないことぐらいわかります。しかしあなたの言っていることはこういうことです)。
ぼくが
あなたは「当該事象が「(略)」か「(略)」か」という区別をする意味をまったく考えようともせず、区別をする姿勢を放棄して、「そう言えなくもないかもね」レベルの形式的な側面のみを取り上げているにすぎません。
と書いたのはこういう意味です。あなたは現実との対応関係をよく考えず、言葉と言葉の形式的なつながりだけで議論を展開しています。だからそんな変な主張をするはめになるのです。
http://anond.hatelabo.jp/20070619213623、http://anond.hatelabo.jp/20070617200219、そしてhttp://anond.hatelabo.jp/20070617200219のいずれも私が書きました。
「区別することは大事ですよ」というメインの主張
これが理解できません。
多数派か少数派のどちらかに与しようとする場合に、「文章力のない電波が多数に諭されている状態」と「少数の為のテクストがネットイナゴに食いつかれて炎上している状態」の区別はその判断材料となるわけです。
この時、少数派は、それぞれ「文章力のない電波」、「少数の為のテクストを理解する人」で、多数派は「諭そうとしている人」、「ネットイナゴ」ですよね。このうち、あなたは「ネットイナゴ」のみが悪だとしていますよね。であるならば、判断が難しければ少数派に与すれば良いのではないですか?また、「文章力のない電波が多数に諭されている状態」であっても、少数派に与すれば、たとえ判断を誤っていてもネットイナゴにならずに済むのではないですか?どちらの状態でも、多数派に付く強い理由が見当たりません。
傍観者であるぼくは盲目的に多数派に回ってしまうことによって「第三者の暴力」というものに加担することの怖さを考えたりしました
であれば少数派に与するか、傍観するか、つまり多数派にならなければ良いのではないですか?なぜ、多数派に回る必要があるのですか?
はい。文章は誰かの為に書かれた文章である可能性が高いです。
だれ一人として理解する者がいない場合にもですか。
誰か、に自分自身を含めては駄目ですか?自分自身の為に書かれた文章と、見知らぬ誰かの為に書かれた文章、両者に大きな違いがあるとは思えません。
あなたは
http://anond.hatelabo.jp/20070617151042の質問【1】
http://anond.hatelabo.jp/20070617200219の質問【2】
のどちらの質問者ですか?文体が違いますがどちらもあなたの質問ですか?
「「少数の為のテクスト」って多数にとっては電波でしかないんじゃないの?」←これについて「私が書いた」と言っているのでどちらもあなたの質問であると判断したうえでお答えします。
まず、【1】へのぼくの答えであるhttp://anond.hatelabo.jp/20070617170733【3】は読みましたか?元増田を読むかぎり、読んでいないと思われます。
そもそも、【1】でのあなたの質問は、
「文章力のない電波が多数に諭されている状態」と「少数の為のテクストがネットイナゴに食いつかれて炎上している状態」との区別ってのは、なんのために必要な事なの?区別してどうするの?」
だったはずです。
この質問に答えるためにぼくは、【3】である騒動を取り上げて、同一の騒動においても視点のとりようによって「文章力のない電波が多数に諭されている状態」と「少数の為のテクストがネットイナゴに食いつかれて炎上している状態」の両局面が見出せることがあることを示しました。なんのためかといえば、わざわざ区別の難しい事例を取り上げて「区別することは大事ですよ」というメインの主張(読んで確かめてください)を述べるためです。
あなたは、
また、電波も、それを理解する小数の為のテクストである可能性が高いですし、もし、だれ一人として理解する者がいないとしても、そこに大きな違いはないと思います。極論すれば、自分自身の為のテクストである、という解釈もできます。つまり、私は「文章力のない電波が多数に諭されている状態」は、同時に「少数の為のテクストがネットイナゴに食いつかれて炎上している状態」とほぼ同様であると考えます。
と言います。
しかし、「文章力のない電波が多数に諭されている状態」と「少数の為のテクストがネットイナゴに食いつかれて炎上している状態」は全然同様ではありません。【3】の事例がそうじゃないかと言われるかもしれませんが、【3】は「区別が難しい事例」であって、「同様である」というのとはまったく違います。どんなにがんばって視点を設定したところでどちらか片方の状態しか見いだせない場合もあります。あなたは純然たる「電波」に直面して「これは少数の為のテクストである可能性が高い」などと考えるのですか。だれ一人として理解する者がいない場合にもですか。あなたは自分の書いている「電波」「ネットイナゴ」「少数のためのテクスト」などが現実のどんな事象に対応しているのかを考えていますか。
よそ様のところで悪さをする電波は更生させるか排除するしかありません。【2】の1に対してぼくはあえて「好ましい状況」と言いましたが、それは電波を諭す奇特な人などめったにいないからです。ぼくは某掲示板において、キチガイとしか言いようのない輩の書いたカオス・テクストに対して丁寧に添削を施している人々を目にしたことがありますが、ぼくが【2】の1でイメージしたのはそういう状況です(そもそも【2】の質問からして、何の条件というか文脈というかも明示されていないのだから勝手にイメージして答えるしかないじゃないですか)。そしてこの場合の「多数」は断じて「ネットイナゴ」なるものではありません。
要するに、いま見てきたようにあなたは「当該事象が「(略)」か「(略)」か」という区別をする意味をまったく考えようともせず、区別をする姿勢を放棄して、「そう言えなくもないかもね」レベルの形式的な側面のみを取り上げているにすぎません。しかし、そんなことをしていったい何になるというのですか。
正直に申し上げて、
そして、小数派、多数派どちらに入るかは、それを電波と見るか「小数の為のテクスト」と見るかの違いでしかないのでは?と考えるわけです。
この最後の一文にしても、あなたが結局のところ何を言いたいのか、ぼくにはさっぱりわかりません。
において、3,4に問題がなく、2を悪と考えるなら、多数派に付く必要性がわかりません。また、1が好ましい状況であるというのも疑問です。
電波を発信する事自体に問題がなければ、それを多数がとやかく言うのは数の暴力ではないでしょうか?諭す事が良い事だとしても、それを多数が同時に行なえば、相手にとってはネットイナゴによる荒しでしかないだろうし、まして、それに加わる理由がないと思います。
また、電波も、それを理解する小数の為のテクストである可能性が高いですし、もし、だれ一人として理解する者がいないとしても、そこに大きな違いはないと思います。極論すれば、自分自身の為のテクストである、という解釈もできます。つまり、私は「文章力のない電波が多数に諭されている状態」は、同時に「少数の為のテクストがネットイナゴに食いつかれて炎上している状態」とほぼ同様であると考えます。
私が書いた、
というのは、今思えば間違いで、正しくは
ですね。
そして、小数派、多数派どちらに入るかは、それを電波と見るか「小数の為のテクスト」と見るかの違いでしかないのでは?と考えるわけです。
「女子校出身者って生きにくそうだよね??」と先日知人の男性に言われ、ハッとしました。「どういう意味ですか?」と、同じく女子校(中高一貫)出身編集者と顔を見合わせると、その男性いわく、男は女に幻想を抱いており、そのファンタジーの中の女子は、ぬいぐるみを見て「わぁかわいい~」とリアクションをするような可愛らしさにあふれていて性格も素直。女とはそういうものだと思っていたのに、大学に入ってはじめて、物事をナナメに見る批判精神旺盛な女子校出身者がいることに気づいた、ということらしいです。
「じゃあ、私たちはどうすればいいんですか!」と編集者女史は女子校出身者ならではのキツい口調で詰問。だいたい、そんな「王様のブランチ」ギャルのようなリアクション、計算に決まっている…とか言うとますます男を怯えさせてしまいますが、たしかに共学の女子が早いうちから男子の視線を意識して、毒気を抑えて可愛気を出す処世術を身に付けているのに比べ、女子校の女子は男子を気にせず言いたいことは言うし、女だけで何でもできると思い込み、近寄り難い雰囲気になってしまいがちです。
女子校症をさらにこじらせると、男を立てないどころか男性蔑視オーラが滲み出て、男を萎縮させ、ダメ男にしてしまったり、立場の弱い男性を支配して満足感を得るようになってしまいます。セレブ婚など不可能です。
そこまでいかないにしても、美人なのに恋人がいない、結婚していない女性は女子校出身者が多いように思います。そもそも多くの親が娘の貞操を守るために女子校に入れることを思うと、その呪縛(じゅばく)は30代になっても続いているということかもしれません。(漫画家・エッセイスト 辛酸なめ子)
それぞれに善悪はあるでしょうか?
とのことですが、
ぼくが考える悪な状況は2だけです。
1は、文章力のない電波をみんなで更生させようとしている好ましい状況だと思います。たぶん無駄な努力でしょうが(そしてそれが電波の電波たるゆえんでしょうが)。
3は、自分のサイトで電波なことを書き連ねているだけなら(これも立派に「多数に発信」する行為です)別にかまわないと思います。
4は、全く問題ないでしょう。
2ですが、たとえばぼくが仲間内での使用のためにつくった掲示板にどこからともなくネットイナゴなるものが大量に飛来してきたらたまりません。かなり悪だと思います。
それから、二者間の罵倒しあいに物を申す無関係な第三者問題ですが、これは、完全に無関係な(つまり、当事者でないことはもちろん、罵倒がリアルタイムに起こっている米欄なり何なりに居合わせていない)第三者は、当然ながら、何も語るべきではないと考えます。
したがって、ぼくはさきの記事でMarcoさんをめぐる騒動を引用し、「傍観者であるぼくは盲目的に多数派に回ってしまうことによって「第三者の暴力」というものに加担することの怖さを考えたりしました」と書きましたが、これは文字通りの意味でしかないのであって、この騒動でどちらの立場に立つとか、善だ悪だといった積極的な主張は何もしていないわけです。
この話題が出るなんて。なんだか自己言及的で面白い。
お聞きしたいのですが、
それぞれに善悪はあるでしょうか?
私は、3は悪、1,2は場合によるがおおよそ悪、4は善悪に直接影響を与えない、と考えます。
まず、「電波」は多数に発信されるべき情報ではないという前提があります。
次に、多数が通常の何倍ものコメントを行なうのは荒し的行為であり悪です。
しかし、そのコメントが「電波の発信を止めるため」であれば、幾らかは正当化されます。
結果、その「電波度合」と発信しているブログの影響力に対し、コメントの質と量が許容範囲か否かが、1,2の「場合による」とする理由で、「おおよそ悪」とするのは「イナゴ」という言葉が使われるのは、おおよそコメントの質や量が許容限度を越えている場合だからです。
そして、「少数の為のテクストが多数に発信されている状態」は、大概において「少数の為のテクスト」が多数にとっては電波でなく、単なる意味の無い、興味を引かない文でしかないため、それが善悪に及ぼす影響は少ないが、時に「少数の為のテクスト」が多数にとって電波となり、この場合は多数にとって4は3と同等となります。
Marco11さんは、相手の為のテクストとして罵倒を用いたかも知れませんが、それを多くの人の目につく所で繰返し行ないました。罵倒は本来、公共の場、多くの人の前で使用すべき言葉ではありません。ただ、多少の事はコミュニケーション手段の一つとして認められています。しかし、Marco11さんは使いすぎている、限度を越えているのではないか、という疑問を多数が感じており、それがkanoseさんの記事により表出したのだと思いました。
罵倒は2者間で使われる分にはその2者間の問題ですが、それが他人に聞こえた時点で罵倒を発した者と聞いた者の関係も発生します。両者が違い為に聞こえたなら、多少の事は目をつむるでしょうが、あまりに多数に聞こえている様ならば、「罵倒を聞いた者」として「発した者」に意見するでしょうし、それは無関係な人の暴力ではないと思います。
[追記]
なんと間の良い事で。念の為に言っておきますが、私が書いたエントリではないですよ。
「少数の為のテクスト」って多数にとっては電波でしかないんじゃないの?
ある文章がどちらに入るかは、自分が小数派・多数派どちらに入るかでしかないんじゃないの?
ネット上がテクストの筆者と少数派と多数派に明確に三分割できるのであれば、どっちもそのとおりです。
しかし、ネット上には少数派にも多数派にも属していない第四の傍観者が存在します。
たとえば彼らが多数派か少数派のどちらかに与しようとする場合に、「文章力のない電波が多数に諭されている状態」と「少数の為のテクストがネットイナゴに食いつかれて炎上している状態」の区別はその判断材料となるわけです。
別に、どっちにも与しないし、そもそもネットに興味ないし、ってんならそれでいいですが、ネット上でなくてもそういう区別に基づいた判断を迫られるケースはいくらでもあるとは思います。
以下はぼくがたまたま見たネット上の騒動ですが、そういうこと考えるいい例になるかと思います。暇があったら読んでくらはい。
ぼくが最初に見た記事はこれです。
ARTIFACT@ハテナ系 - 罵倒を芸風とかキャラクターだとして容認する場こそが問題
どうやらid:Marco11という人が色々なところで罵倒を繰り返しているのを見るに見かねたid:kanoseという人が、「問題は罵倒そのものではなく罵倒を許容する場である」と言っているようです。
これが発端となり、Marco11さんは袋叩きのような状態になります(面倒なのでここではフォローしません。ブクマコメやトラバやリンクなどを参照のこと)。
これはkanoseさんたちの多数派からすれば「電波を多数が諭している状態」と言えます。――【1】
しかし、そんななかでぼくが一理あると思ったのが、Marco11さん自身の応答と、id:yuki_19762さんによるブクマコメです。引用します。
知的好奇心解放 - マ儿コの日記 - 芸風とかキャラクターとして認めてくれなんて頼んだ覚えはない
あと、罵倒とかようするに誰かに対する礼儀の問題でしょ?
それは当事者間の問題でしょ。第三者が口を挟む問題ではない。俺は友達のことを尊敬の念を込めて「キティガイ」と言うことがあるけど、当人が嬉しそうなら何の問題もない。そこにカノセくんがでてきて、しかも全然関係ない俺の知人に「どう思う?」なんて尋ねるのはどうかと思う。それは罵倒された被害者の感情に配慮した行動じゃなくて、あなたのモラル、倫理観の表明だよね。表明というか突付けだよね。
(中略)
ひとつ効きたいのは、カノセくんは、どういう立場の人間として、関係のない俺と人との対話での言葉遣いについて意見しているの?村長として?w
はてなブックマーク - ARTIFACT@ハテナ系 - 罵倒を芸風とかキャラクターだとして容認する場こそが問題
[暴力]他人の問題に無遠慮に無神経に首突っ込むのも立派な暴力だと思いますけどね。無責任で無礼で悪質な暴力。罵倒なら対相手で話しが済むのに、罵倒とその容認?を問題視する人間が他の暴力は容認ですか。
こうなると、これはMarco11さんからすれば、「少数の為のテクストがネットイナゴに食いつかれて炎上している状態」と言えます。――【2】
傍観者であるぼくは盲目的に多数派に回ってしまうことによって「第三者の暴力」というものに加担することの怖さを考えたりしました。そうならないためにも、【1】と【2】の区別は大事だなーと思っているしだいです。
横からなんだけど、どうにもわからないので聞いてみたい。
「文章力のない電波が多数に諭されている状態」と「少数の為のテクストがネットイナゴに食いつかれて炎上している状態」との区別
ってのは、なんのために必要な事なの?区別してどうするの?
「少数の為のテクスト」って多数にとっては電波でしかないんじゃないの?
ある文章がどちらに入るかは、自分が小数派・多数派どちらに入るかでしかないんじゃないの?
なるほど……やっと自分が誤解していたことに気がつきました。
元増田は、ぼくの書いたことが後者を前者と同一視してしまう主張に見えたわけですね。なんとも危ない奴に見えたことでしょう(笑)
元増田は誤解の原因をそちらの表現のマズさと言っているけれども、↑の引用のような、この手の議論をするうえで当然共有しているべき実際的な問題意識に、ぼく自身が乏しかったせいもあるように思います。
まあなんにせよ、
「文章力のない電波が多数に諭されている状態」と「少数の為のテクストがネットイナゴに食いつかれて炎上している状態」との区別ってホント難しいなあ、と。
これにほんとにそうだよなーとうなずきつつ、昼飯に行ってきます。
こちらこそ、ややこしい話に付き合ってくれてありがとう。
20070617064124の言ってること、おおむね了解。で、こちらも同じように、言い方がマズくて誤解させちゃったなあ(それは全くこちらの責任で)と感じたので付記。
増田は先の書き込みで『テクストの本来的な価値や可能性(B)』という言葉を使ったけど、これはそちらの
文章というのは結局のところ読者がどう理解するかであり、筆者の「つもり」など(つまり筆者にとって読者の理解が勘違いかどうかは)原則的にどうでもいい
それが筆者の狙い通りの読者層から狙い通りの理解を得られたとしても、誰ひとり理解できない代物であったとしても、どちらの場合もそのテクストの価値を決めているのは「読者」です。
という話に対する否定として使ったつもりではなかったことを言っておきます。増田が先に書いた話の要点はつまり
ちがうよ!ぜんぜんちがうよ!
という話に過ぎず、テクストの「価値」が「XからYに向かってテクストが投げかけられるその行為」の中にしか存在しない、という話に対して異を唱えるつもりなどまったくない、ということです。だから、もし「多数」という言葉さえなければ……つまり『A:多数の読者の読みが収束する地点』でなく単に『C:読者の読み』という意味で書かれる限り、増田には全く反論する意図が無い――つまり問題は「多数」という言葉のニュアンスだけだったなあ、と今さらながら思ったことを申し添えておきます。
ここであらためてツリーの一番最初増田に戻れば(一番最初増田は既に消え去って忘れているかもしれないだろうなあ、と思いつつ)「文章力のない電波が多数に諭されている状態」と「少数の為のテクストがネットイナゴに食いつかれて炎上している状態」との区別ってホント難しいなあ、と。一番最初増田が言いたかったのは多分後者で、そちらの言いたかったことは前者だとすれば、両者の区別の微妙さがそもそもこの話のややこしいとこではなかったか、と思うわけです。
…というわけで、横から飛び入り増田にていねいなレスをありがとうございました。
そして正直増田でこれほど噛み合った話ができたことに驚いた。
まず、元増田が言及している元々(?)増田は一般的な主張であって、web2.0なるものを念頭に置いて書かれたものではありません。そもそもよく知らないですし。しかし、それは本論とは無関係なのでどうでもいいです。
さて、ご指摘の通り、ぼくが「多数の読みがそこに収束する解釈」と「誰がどう読んでもそうなる解釈」を置き換え可能な表現として使っているのは非常にまずいです。ぼくは後者をある種のレトリックとして使用し、たいがい前者として受け取ってくれるだろうと想定していいたわけですが、それこそが一番初めの増田とのそもそものすれ違いだったわけで、その旨のご指摘はごもっともであります。
しかし、話の要は別のところへ行ってしまっているようです。まず、元増田を整理すると、だいたい次のようになるようです。
以下はこれに対する反論です。
ぼくは、元増田の元増田で「文章というのは結局のところ読者がどう理解するかであり、筆者の「つもり」など(つまり筆者にとって読者の理解が勘違いかどうかは)原則的にどうでもいい」と書きました。
これを(うまくいえなくて比喩的で申し訳ないですが)説明するとこうなります。
だから、(A)=(B)なんです。
ご指摘のように、読者に暗号のように高度な比喩の理解を要求するテクストもありましょう(ちなみにそれが「暗号」そのものであるケースに関しては初めから議論から除外されています。ここでは文⇔文の(一義的・客観的に共有可能な)変換アルゴリズムではなく、文⇔脳内の主観的アルゴリズムの話をしています。)。
しかし、それが筆者の狙い通りの読者層から狙い通りの理解を得られたとしても、誰ひとり理解できない代物であったとしても、どちらの場合もそのテクストの価値を決めているのは「読者」です。もっと言うと、読者の解釈の総和がそのテクストの価値です。もし「誰がどう読んでも」筆者の意図に反した解釈になったとしても、そのテクストは「誰がどう読んでも訳の分からないテクスト」であり、それがそのテクストの価値です。(ちなみに、読者の読解能力の低さに由来する誤読は問題外です。そういう話ではありません。)
筆者の意図=テクストの本来的価値ではありません。そもそもテクストに固有の価値などありません。あるのは読者の解釈だけであり、それに応じた筆者の成功/失敗があるだけです。
もちろん「筆者が意図せずにホンネを書いてしまっていて筆者一人がそれに気付いていない」というケースも無いではない。昨今の炎上のいくつかでは、そういうケースが散見されるのも事実。その意味で、元増田の発言は別に間違ってるわけではないと思う。
でも、一番最初の書き込みにあった「多数の読みが収束する地点――A」が「当該文章を誰がどう読んでも○○――B」に等しいというのは間違いだと思う。そもそも元増田が絡まれたのはそこの問題では? 元増田のこの主張は、残念ながらありがちなweb2.0の俗流解釈だと思う。
極論に聞こえるかもしれないが、たとえば当該のテクストが「暗号」ならその話が成立しないのは自明でしょう? 多数が『訳の分からない文章に過ぎん!』と言っても筆者が『俺は○○というつもりで書いた』がその文章は所詮『誰がどう読んでも訳が分からない文章だ』と言うのが正しいかというとそうではない。
では、「暗号に等しいほど比喩を駆使した文章」ならばどう?その比喩を読み取れるような人だけに向けて筆者が書いている場合(そして比喩が理解できないような読者を、文章の理解者から排除することも目的として書いている場合)、その文章の意味が分からないと多数が言っても、それは「分からない」という解釈の正しさを全く保証しない。たとえば私がここで元増田に向かって
貴殿はid:umedamochioの尻尾だな。
と発言したとして、元増田にはその意味やニュアンスが分かるかもしれないけど、たとえば社内報にこの発言載せてもほとんどの人にはさっぱり意味が分からないでしょう。でも社内において「はてなーでガンダムの基礎知識があるヤシ」を炙り出したいときに、誰かが社内報でこう書くことはあり得ないわけじゃない。そしてそれに対して「こんなの誰がどう読んでも訳分かんねーだろうよ!」と言っちゃ、それはちょっとマズいんじゃないかな。まあ社内報的には正しいかもしれないけどあくまで「表現の可能性を担保しておくために」という文脈で聞いてくれ(笑)
ただし、これは「多数の読み(A)は案外正しい(c)村上春樹」という話を否定しているのではない。言いたいのは、「多数の読みが収束する地点(A)」とは、あくまでそのテクストが「多数の人に大体どう読まれ得るか」ということに対する一つの回答(たとえばその小説が実際に何部くらい売れるだろう、とか)を指しているに過ぎず、そしてそれはテクストの本来的な価値や可能性(B)とは原則として没交渉である、という話。その限界を考えず両者をうっかり混同すると、反論が来るということで。
「二次創作をする」という行為には、自分のコードにある作品を置き換えて表現しなおすことである創作物を所有したい、という願望が付いて回っているように思う。しかし、「二次創作」の存在が加速度級数的に増加すると、ある創作物の二次創作全体を自分の視野におさめることが不可能になる。つまり、各個人が所有欲を満たすために行った創作が、結果的には所有願望の達成を不可能にしてしまう、という帰結をもたらすということだ。
それでは、このような状況下でもある創作物への所有願望を諦めない場合、どのような行動の選択肢があるのだろう。
ひとつ思いつくのは、「どのようにすれば」ではなく、結果的に「そうなってしまう」ことを目指す、という方向性だろうか。ソクラテスに対するプラトンのように。ヘーゲルに対するマルクスのように。ある創造物を解釈する際に無視できない参照項となりうる自分というものを、重厚な解釈の呈示に加えて、政治的パフォーマンスも駆使して積極的に打ち立てる、という方向性。これは、『涼宮ハルヒの憂鬱』における、谷川流と京都アニメーションないし角川エンタテインメントの関係に置き換えても良い。アニメ版『ハルヒ』ないしその副産物であるメディアミックス商品は、もはや「涼宮ハルヒ」シリーズを解釈するにあたって、谷川の手によるテクストとほぼ同等に扱われてしまっている。これらはどれも「結果としてそうなった」のであって、最初からそうなることを確信し、目指されたわけではないだろう。
どんな文脈でその人が「カタカナ語を嫌」っているのか今一つ見えないのだが,
よく批判されるのは,新しいカタカナ語を濫用することと意味や印象がぼけるから,すなわちニュアンスもへったくれもなくなることがあるから,さらにその印象のぼかしを意図して利用しようとする人が多いからじゃないの?
要は程度問題であって,定着している(とコンセンサスのある)語までも漢語和語に直そうとするのは,
何でもかんでもカタカナ語で通そうとしたりするくらい馬鹿げている.
…とかいう話を元の人はしたいのではなく(タイトルから予想したのはそんな感じだったのだが),単にカタカナ語自体に日本語の機能は投影されていて,それを無視して「カタカナ語を嫌う」のは馬鹿げているという話なのかなあ.しかし,「テクスト」「テキスト」の違い云々はそもそもよく言われる「カタカナ語の濫用」とは全く別物の話題でしょう.「テクストテキストの違いのわからない輩が一緒になって『カタカナ語はいかん!』と騒いで困る」とかいう話ならわかるけど.
でも、一部のインテリっぽい人たちしか使い分けていないのも事実。
また、なんとなく原音に近くてかっこよくね?的な人たちがいるのもまた事実。
そもそもテクストなんて、日本全体から見たらごく一部の、インテリっぽい人(もしくは本物のインテリ)しか使わないんじゃないのか?
テキストとテクストを使い分けているんじゃなくって、「原語に近い発音のほうがかっこええやんか」と思って使っているだけじゃないのか?
http://wedder.net/kotoba/strike.html というサイトを見つけた。
テキスト/テクストに違和感を感じたのは、日本語化(一般化)段階のつまり程度問題? これから先は異なる言葉となることもあるのか? 原語へのアクセスが、strikeのころと比較して容易だから、逆にカタカナ語の日本語化の敷居が高くなってるのかも。
http://anond.hatelabo.jp/20070228084919
古典的な例では「ストライキ」と「ストライク」がある。いずれもstrike.
「ブレーキ」と「ブレイク」もあるな。まあブレイクが一般的なカタカナ語かっつーと微妙だけど。
いずれにせよ、これらは「英語へのカタカナ当ては発音表記に過ぎず、意味は原語にあり」ではない例だ。労働者のストを語る文脈で「原語では同じだからストライク」とか言わないわけだ。だからその方面から一般化して「意味ない」と言うことはできない。
ただ、じゃあ「テクスト」と「テキスト」かどうかと言われると、ある領域においては確かに異なる単語として扱われているけど、領域外にまで一般化されてはいないだろう。それをしたり顔で「敏感になれない人が言語や社会を語ろうなんてナンセンス」で言われても、「言語の局所性を理解しない奴に語られてもナンセンス」と返すしかない。
要は、一般化されるぐらい長く、かつ広く使われだすかどうかの問題でしょ。「日本語として認識されるべき」かどうかはともかく、日本語として認識される程のコンセンサスを得るには時間がかかるということさ。