はてなキーワード: テクストとは
http://anond.hatelabo.jp/20070228073114
「テキスト」とは、例えば学習教材だったり、教科書、または単純に現場資料や活字群を指す場合が多い。
「テクスト」とは、ハイパーテクストとか間テクスト性とかいう用語を聞いたことがあると思うけれど、ある構造体そのものを指す。なので、活字媒体だけでなく、視聴覚メディアに対しても適用できる。メディアテクストという言葉も最近ではだいぶ広まっているように思う。
たぶん、いつになっても混同されたまま使われるんじゃないかな。
ググってもこんなんだもん。
カタカナ語を使えない人は、言葉の力に鈍感だ。もっというなら、日本語の機能美に鈍感だ。
専門用語で申し訳ないけれど、例えば
テキスト(text)
テクスト(text)
この二つは専門書を読んでいても、しょっちゅう混同されている。でも厳密に両者は意味が異なる。
「テキスト」とは、例えば学習教材だったり、教科書、または単純に現場資料や活字群を指す場合が多い。
「テクスト」とは、ハイパーテクストとか間テクスト性とかいう用語を聞いたことがあると思うけれど、ある構造体そのものを指す。なので、活字媒体だけでなく、視聴覚メディアに対しても適用できる。メディアテクストという言葉も最近ではだいぶ広まっているように思う。
だから普通は「テキスト」と「テクスト」を使いわける。厳密に意味が違うのに、「テクスト」というべき点を「テキスト」というのはコミュニケーションノイズになりかねない。そこのところに敏感になれない人が言語や社会を語ろうなんてナンセンスだ。(余談だが、この「ナンセンス」も「ノンセンス」とは厳密に意味が異なる)
カタカナ語は、漢字という特有の訓意を内包した記号から反れ、独立的な概念を構築するという可能性を持った日本人のための記号なのだと思う。(少なくとも、そんな風にカタカナ語は生まれている)
だからこそ、それらは「原語(英語など)」に意味を求めるのではなく、しっかり日本語として認識されるべきなんだ。発音なども関係ない。なにせ、これは外来語として日本人のために使われるべき言葉なのだから。
そうしたカタカナ語を、さらには「不必要」だとか「漢字に変換せよ」だとかいうこと自体も非常識。それは旧来の日本文化の観念に、新たな認識の概念を閉じこめてしまう言葉狩りでしかない。
もちろん、不必要と思えるほどにカタカナを濫用する場合もある。だけどそれは、たぶん「方言で言葉が通じなかった」程度に認識すべき事象なのではないだろうか。
仮説
議論の参加者は、自分の投稿が周囲に評価され、以降の投稿で引用され、やがて議論が収束することを望む(「自分は特別である」「自分は選ばれし人間である」「自分を褒めて欲しい」)。しかし、『増田』においては、誰にとっても「自分の意見を表明すること」が第1の目的であるため、議論の発展的解消は達成されず、別の投稿者による類似した投稿が延々と続くか、全く別の話題がアップされるのみである(「自分以外の人間は特別ではない」「自分以外は選ばれし人間ではない」「自分以外の人間を褒める必要はない」)。
そんな「ひとりごち」への、ささやかな報酬は、はてなブックマークでブックマークされることであろう。混乱した思考に対し、外部から気にかけてもらえるのだから。
ところで、意見の表明のあり方には少なくとも次のようなパターンがあるように思う。
問題は、議論の場への参加資格が対等なため、4は多数の意見がある中での一意見という扱いしかされない点である。これにより、議論はループし無間地獄と化す。
議論の終了宣言を行うことが許されるのは「他の投稿者より身分が高いと暗黙のうちに了解される人物」であるが、増田民は匿名なので、これは期待できない。ちなみに、ここでいう「身分」とは、理屈をこねる能力の優劣ではない。サービスにおける制度上の上下関係である。例えば、書き込みにあたっての物理的な強制力(書き込みを非表示にする、凍結する、削除する、など)を持っているか否かの違いである。
『増田』上の議論に対し、読み手の精神的な安定をはかるための骨法は、「参加者が飽きるまでほったらかしにする=読み手が我慢する」という点につきる。これが、いわゆる「スルー力」である。
参考