2007-03-19

二次創作と所有願望

二次創作をする」という行為には、自分のコードにある作品を置き換えて表現しなおすことである創作物を所有したい、という願望が付いて回っているように思う。しかし、「二次創作」の存在加速度級数的に増加すると、ある創作物の二次創作全体を自分の視野におさめることが不可能になる。つまり、各個人が所有欲を満たすために行った創作が、結果的には所有願望の達成を不可能にしてしまう、という帰結をもたらすということだ。

それでは、このような状況下でもある創作物への所有願望を諦めない場合、どのような行動の選択肢があるのだろう。

ひとつ思いつくのは、「どのようにすれば」ではなく、結果的に「そうなってしまう」ことを目指す、という方向性だろうか。ソクラテスに対するプラトンのように。ヘーゲルに対するマルクスのように。ある創造物を解釈する際に無視できない参照項となりうる自分というものを、重厚な解釈の呈示に加えて、政治パフォーマンスも駆使して積極的に打ち立てる、という方向性。これは、『涼宮ハルヒの憂鬱』における、谷川流京都アニメーションないし角川エンタテインメント関係に置き換えても良い。アニメ版ハルヒ』ないしその副産物であるメディアミックス商品は、もはや「涼宮ハルヒシリーズを解釈するにあたって、谷川の手によるテクストとほぼ同等に扱われてしまっている。これらはどれも「結果としてそうなった」のであって、最初からそうなることを確信し、目指されたわけではないだろう。

……う。なんか結論らしきものが酷くつまらない話になった。とっかかりは悪くないと思ったんだけど。まあいいや、うp

  • >ある作品を自分のコードに置き換えて表現しなおすことでその創作物を所有したい 「自分のコード」を他者に公開してるんだと思うけど。 当然のことながら、原作を自分のコードに置...

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