はてなキーワード: アウトプットとは
アウトプットって具体的にどういうことをさすの?
…釣り記事だなぁ…
アウトプットはけっきょく、どこかでフィードバックされるわけで、
概念化をきちんとしようとおもうと、インプットにも、アウトプットにも分類することのできない
中間生産物みたいなものって増えるよね。っていうか、「アウトプット」とされているものの、ほとんどで、それ自体で意味をなさず、やっぱり他のものと連携して意味をもつものがほとんどなわけで。
ごめん、むだなこと言った。
アウトプット無い奴は確かにダメだが、アウトプットだけ人間は大抵頭悪いから害悪だと思う。
大多数がインプット無しにアウトプットだけ繰り返してるからこういううんこな世の中になっちゃうんだと思う。
あれだ、わかりやすく言うと老害の構造だな。老害化してる奴は新しい情報をインプットせずに自分の過去の経験だけからアウトプットする(そしてそれを押し付ける)から問題なんだろう。
アウトプットの質が大事で、産業廃棄物をアウトプットしても、普通、評価されない。むしろ、マイナス。
そして、質の高いものアウトプットするには、質の高いインプットが大事。
資格を取ったのなら、資格のためにした勉強がインプット、資格がアウトプット。
学歴は、受験勉強や日々の学習がインプット、入学や卒業がアウトプット。
実は、両方が対になっているから、片方だけというのはありえない。
インプットとアウトプットに時間差があると気付かないケースはある。
もっと分かりやすく言おうか
[blog][music]学校で教えてくれない、芸術を評価するための6つの視点
http://d.hatena.ne.jp/showgotch/20091025/1256479650
はてブクマしてほっといたがコメントを後から読んでみた感想を増田に書きますよ。
あ、先に断っとくとブログ主じゃないですよ。
主さんの考え方とはおそらく明らかに違うことをざっと書きますので。
さて、センス至上主義の人たちってのはことごとく残念な方が多いですね。
僕も頭は悪いけど、どんなことでも自前で考えることを辞めてはいませんから、
この人たちと比べりゃ少しはマシかなと思っています。
なぜマシかな?と思っているかを書きましょう。
芸術に限らず物事を見るっていう行為には、必ず束縛されるものがあります。
物事を見るヤツの脳みそです。
脳みそ(全身の神経、肉体を含んでもいいです)にはそいつが生きてきたあらゆる経験が蓄積されています。
全部喋るワケにはいかないので、芸術鑑賞に限りますが、
鑑賞するにも当然経験というものが大きなファクターを占めることになります。
というか、芸術における生来のセンスなんてものは人間には備わっていません。
しいて言えば、生まれた環境、育った社会で目にし耳にしてきた事、この蓄積が異なるくらいでしょうか。
ですが、肉体の素質の差というのは、確実にあります。
有名な話ですがピカソは10歳ごろには既にものすごく達者な写実絵を描かれていたそうです。
そんなに幼いころにすばらしい絵を書けたという事はものすごいセンスの持ち主ということじゃないか!と言われるかもしれませんが
残念ながら全くの早とちりから来る誤りです。
写実絵というものは、インプットとアウトプットの精度の問題であり、センス云々は全く関係しない分野なのです。
つまるところ、肉体性能…筋力とかじゃないですよ。この場合は目の力、空間把握能力、そして手の器用さです。
これが達者だったからピカソは幼くしてすばらしい絵がかけたんですね。
あ、こういうとまた文句を言うヤツが出ますね。
写実絵というのもセンスは必要ですよ。
構図のとり方、ライティング、描くものの配置など、考えなければならないことはたくさんあります。
生まれ持ってのセンスなどではなく(そもそもそんなものは存在しないといいましたね)、蓄積されたセンスですがね。
ピカソの絵はルールを破っているということを理解できてはじめて意味がある。守破離と言うヤツですね。
ルールが無いヤツは最初から型破りなんて出来ないんです。ルールが先にあってこそ、型破りを実行することが出来る。
美においてルールとは、観察と経験の蓄積と人間の肉体感覚によってのみ規定されるものなのです。
かつては文化圏、文明圏ごとに感覚が分かれていましたが、ネットによってある程度統一化されてきているなぁと感じます(脱線)。
精巧な写実絵を幼くして書くことが出来たピカソは、それまでの画法と異なる彼独自の画法で表現を行っていく道を行った。
何故かと言えば、それが彼が伝えたいことを彼が伝えたい人に一番伝わる方法だとピカソが結論したからでしょう。
優秀な表現者というものは、ここでは芸術家のみの例を挙げていますが、文筆家にしろ、技術者にしろ、あるいは一個人でも同じですが、
自分が伝えたいことが自分が伝えたい相手に、どうすれば伝わるのかを常に考えているはずなのです。
純粋な芸術なら、当然、芸術家本人が持つ問題意識(単純に環境破壊とかそういうものでなく、
「赤ちゃんをどうやって可愛く描くか」のようなライフワーク的なものも考えられますね)からなるテーマがあり、
それに対する回答が作品となるでしょう。受け手は問題意識を理解してほしい鑑賞者であり、作者自身でもあります。
商用芸術では昨今では仔細なマーケティングが行われていることは周知の通りです。
それがたとえアウトサイダーアートだとしても、自覚的に商売としてやるのであれば
自分が何をしているのか、自分はそれをどうしたいのか、どう売り込みたいのか、考えているはずです。
それが理解されるかどうかは別として、自分が伝えたいことを自分で明確に出来ない芸術家は大成するはずがありません。
伝わるアテの無いものを創ることは幼い子供や、本当の趣味人に与えられた特権と言えるでしょう。
「そんなこと一切考えて物を作ったことなんて無いけど芸術で暮らしていけているよ!」という方は
きっとダウンタウンの松本氏における浜田氏の様な素晴らしい相方と出会えたのですね。おめでとうございます。
さて、問題は伝わる方です。
自分の見たことの無いものを鑑賞するとき、人はどうするでしょうか?
生来のセンスがあれば、ちゃんとした評価が下せるのでしょうか?
それとも、間違っていてもセンスで感じたことが正しいのだと言い切れるのでしょうか?
順を追って考えれば、殆どがまずそのものをちゃんと見ようとするはずで、
目にした瞬間エレクトリックサンダーが全身に走るような至福の体験を得るなどということはありえないはずです。
人間なんてもんの見た瞬間に出る感情は、自分がそれまでに見てきたものから割り出すように出来ているんです。
人は完全にわからないものと触れる時、評価を下すには多少の時間を要するのです。
生来のセンスなるものがあるなら、そんな時間は必要ないでしょう。何も考えずその場でパッと決めてしまえばいいのです。ゲド戦記はクソ、とか。
ま、ゴッホみたいに死ぬまで放置されてから評価される画家もいますから、そんなヤツはセンス0の大馬鹿者であると断じてしまえるわけですが。
ちょっと古いですが、アイフォーンをはじめてみたとき、
「ああ、ついに完全タッチパネルの携帯が発売されるのだな。人類の革新だ」って思った人は先に記事を読んでる人だけで、
そうでない人は「キーパッドないの?」「液晶DEKEEEEEEEEE」「なにこの□」のように、
見た目からはこれまでの携帯とは形が違うから、どういうものなのかを判断しようとしたと思います。
芸術だって同じです。見たことが無いような作品、バックグラウンドがわからない作品を理解することは出来ないのです。
ゲルニカを最初に見た時、僕はこの絵が壁画として作成されていることがわかりませんでした。
あと感じたことは、「ちょ先生教科書に微グロ入ってるんですけどこれ」くらいのもんです。
だってなんか変な生き物が人を食んでいるんですから。
戦争の絵って言われても戦争まんがははだしのゲンしか知らない僕からしても大いに差があり(だって人間しか出て無いですからゲンは)、
「戦争関係なくね?マジキチ」としか考えられなかったことを思い出します。
今ではこの絵がどういう背景で、どういう意図を持ってかかれたものかわかります。
だから、あの大きな絵に描かれた一つ一つの人物、動物にどんな意図があるのか、
それがピカソという偉大な画家の考えと一致するかはわかりませんが、僕なりに思いをはせることは出来ます。
即断即決で評価を下す必要なんて無いのです。時間がたてばわかることだってあります。それが蓄積されたセンスの成長なのです。
一つの作品を前に、作者とその時代、昔の自分、今の自分、そして作品そのものと触れ合う体験が出来るのが芸術鑑賞なのです。
同じような体験として、聴かなくなった音楽を久々に聴いたときの感覚があるでしょうね。
卑近な例で示したとおり、自分自身というものは変らないように思えて、
仕事や学校や人間関係を経ることで常に変化しているものなのです。
センスなんて言葉を確信的に使ってはいけない理由はこの一点なのです。
使っても問題ないのは人を褒めるときくらいでしょう。それ以外の場面では、使わない方がいい。
人間のセンスはある程度のブレ幅までは抑えられるが、完全に固定できない。
それなのに、センスなどという曖昧模糊なもののみを後ろ盾にし、
他に根拠の無い好き嫌いを強弁するなどという子供じみたマネは
それとも、共感できれば、自分が根拠なく、しかし好きだ、正しいとは感じることが出来ればそれでいいのでしょうか?
僕はそうは思わない。
勿論経験によるセンスは人それぞれなんで、好き嫌いはあります。
見たものをそのまま感じ取ってそれがよい体験となる芸術作品もたくさんあります。
ですが、感情にそのまま訴えかける芸術というものは、やもすれば危険物にすらなりうる可能性を捨ててかかってはいけないのです。
人類の歴史は、いかに肉体欲求をコントロールしてきたかの歴史でもあるわけです。
人間のしくみが生命機械であるとわかっている以上、感情もまた肉体欲求の一つです。つまり、制御出来うるのです。
オカルトなんかじゃありません。
あなたがメディアを通してあなた自身とかかわりの無い人間に対してどれほど多くの感情をもっているかを想像してみれば、わかるはずです。
MMRに書いてあったサブリミナルみたいなヨタなんてメじゃない恐ろしさです。
出自や成り立ちは芸術大学なんて出てませんから知りませんし、教養も無いからわかりませんが、
視聴覚(場合によっては他の感覚)を通して物事を伝え、感情を伝えるという共通点があります。
もしあなたがメディアになにかしらの違和感を感じ、それが問題であると考えるのであれば、
芸術に触れた違和感を感じたら時にも問題意識を持たないといけません。
あなたの友達がそう訴えてきたら、ちゃんと話を聞いてあげないといけません。
(ま、友達の感じたことも受け入れられないのであれば芸術鑑賞そのものの否定をしていることと同じと言えなくも無いですが)
そんな窮屈な思いはしたくないと言うなら、好き嫌いすら語らないことです。
それならセンスが似たもの同士で集まればいいじゃないかと思われるかもしれません。
それが良くないとは思いませんが、しかしその集団に居続け他の意見を聞かないことは、
徐々に感覚を麻痺させ自分たち以外の感覚への無理解をはぐくみ、閉塞へ向かって突っ走ってるだけであり、
「スイーツ(笑)」やらなにやら言って喜ぶ人間に成り下がるだけのよろしくない行為と言えましょう。
現に今の社会は閉塞したコミュニティの複号体になってしまっており、
表現という形でコミュニケーションを図る物自体の存在意義が変化していることの表れなんでしょうか。
(テレビみねー、ゲームとか興味ねぇ、美術館とかブルジョアか!などいろんな派閥がいるでしょうな)
その変化が感覚や感情のような曖昧でふわふわしていると思われているものに密着しているなら、危惧すべきことだと思います。
なんかとっちらかっちゃいましたが、つまるところ、
センス至上主義者は考え直せ、頭を使え、鑑賞してる時の楽しみ方に文句をつける気は無いから。
と、言いたいわけです。
僕としては、こんなクソ長くクソ面白くもなく他人人を完全に否定するようなシャドーボクシング的文章を最後まで読んでくれたあなたが
自分の考えもオンリーワンで世界に一つだから思想修正主義絶対反対とか言いながら
芸術作品に対して自分の考えのみを誇示し続け、異論をことごとく無視し自分と同じセンスの持ち主だけで結託して外に出ない、
あるいは自分と異なるセンスは認めず叩き潰すことに快感を覚えるようなサイコパスでないことを祈るばかりです。
だって、芸術の感じ方なんて、人それぞれでしょう?
これやったんだ。
記憶が逆流すると、何十もの万力で脳を締め上げられるあの独特の感覚に陥る。
数年かかった勉強が仕上がり間近で、あとはそれをたった一つのアウトプットにまとめるだけだった。
それを作るのに、これだけの時間がかかった。
30枚のノートが1冊3日で消費されていく日々。
それを淡々とひたすらに続ける。
一切のショートカットを拒否するとこれだけかかると、難関の試験を受けながら痛感する。はじめは痛みしか感じなかった難解な文章も、気づくとライトノベルを読むような感覚で、読めるようになっている。
鍛えたのだなあと、そう思う。
難解な試験の受験勉強は脳の筋肉トレーニングのようで、重量挙げのバーベルをペン回しのように指で回している自分がいることに気付く。
とても可愛い年下の子で、頭を鍛えることだけに熱心だったぼくの思考になぜかその子は付いてこれる。聡明というのが正しいのかもしれない。メールでやりとりして、その理解力のすごさにびっくりした。
負けず嫌いで、いろいろといたずらをしてくる。
ヒット&アウェイが得意で、側にいたかと思うとまたどこかへ行ってしまう。
彼女の周りのごたごたを片付けながら、すこし力を見せると、怯えたような様子を見せる。
そうか。
すべてを読み切れるだけの力がある人間に出会うのは初めてなのか。
デスノートのように殺伐とした知能戦ばかりが世の中に出回ると、怯えるのは無理もない。世界中で行われている本物の知性のぶつかり合いは、今は世界をよくしていく切磋琢磨のために、膨大に注ぎ込まれている。
ちょっと前まではデスノートのような世界だったけど、もう世界は決定的に変わってしまっていて、協調的競争の時代になってしまった。
だから、そんなに怖がることはないのに。
彼女とのやりとりは小気味のよいパス交換のようで、ひとりでボールを蹴ることが多かったサッカー小僧に仲間ができたよう。
この前、テクニックを披露して見せたら、すぐにそれを真似しようとする。
いくらなんでも、これはかなり長い時間を掛けて培ったものだから難しいと思う、ということでも果敢に挑戦してみてしまう。使っているところが違うんだけどなあと思うのだけど、すぐにでもコツを掴んでものにしてしまいそうに思えてくる。
できないできないと嘆いていたことも、あっという間にものにしてしまう。
もう抜かれてしまったことも、たぶんたくさんある。
おちおちしていられないなと思った途端にサッカーが楽しくなってくる。
ずっとひとりでボールを蹴っていたのだなと、いまさらのように気付く。
ずっと、ずっとひとりで。
そこに彼女が舞い降りて、あっという間に呪いを解き放ってしまう。
どうやったの?
と聞くとたぶんこう返す。
ひたすら淡々と修行僧のようにしていたことが、これが時間とお金を生み出すのだと思えるようになってくると妙に楽しい。
遊ぶ金欲しさになんて言葉が世の中にはあるけれど、ぼくは遊ぶ時間とお金ほしさに節約する、勉強する、やるべきことを片付けていく。
それを使ってなにしよう?
なんならいいと言ってくれるだろう?
そう考えると、心が華やいでくる。
楽しくなってくる。
この前、いきたいところをリストアップしていたら、あまりにも楽しくなってはしゃいでしまった。そういえば、遊んでいなかったのか。ずっと仕事で、ずっと勉強で。ぜんぜん遊んでいなかったんだ、とそう思い出す。
彼女もぜんぜん遊んでなかったという。
じゃあ、二人で遊びに行けばいい。
あんまり不健全でなければ、どんな遊びだっていい。
あちこちを遊んで回りたい。
そのために、頑張らなければ。
効率化をして、せっせと時間を作る準備をする。
着実な勉強をして、充分な実力を養っておく。
やるべきことはたくさんあって、それを身につけるたびに、今でも強固な仕事環境が、充分に強固になっていくのだと信じる。昔、別の分野にいたときは、勉強しても勉強してもまったく環境がよくならないのにため息をついていたのを思い出す。
それを使ってなにしよう?
すこし悩んで、選んだのは後者。
そろそろ恋人に昇格させてもらえないだろうか?
まあ、恋人みたいな友達でも、当面は問題はないのだけど。
「俺の事よく知りもしねーくせに上から目線で評価してんじゃねえよ」と口では言いながら、人、物、事象に対して深い理解も持たず評価する人がたくさんいますよね。
いわゆる「色めがね」かけっぱなしで、よく観察もせずに評価したがる人たちのことです。その評価を自分の胸の内に止めておく分にはまだいいんですが、平気でアウトプットしちゃう人、
あれ、何なんでしょう?人からの評価には敏感なのに、他人(モノ・コト)に対する評価がザルなのはすごく幼稚な気がするのですが、そういう意識がないのかな?
で、そのテの人たちの傾向の一つとして、カテゴライズが好きなんです。理解するのメンドい、理解したくもない、興味ない、真実とは違っていても俺の中での評価はそのままでもいい、
そうして評価対象をカテゴリーでくくって、ポンッと簡単に入れてしまう。アキバ系云々、中国人云々、某宗教団体云々、誰々さんウンヌンってな感じで。
人間だれしも多かれ少なかれ何かに洗脳されてますので(私は極めて理知的で何者にも束縛されていない=私は神だ)、ある程度の色めがねはいたしかたないのですが、それを口にするまえに、
いやまてよ、俺ァそれについてどれほど理解しているのだと省みるくらいの余裕をもってほしいなと、思うんです。で、たいてい検索して情報を集めようとするんですが、集めた情報も手垢のついたもので、たかが知れてて、ああ、天下のgoogleも子供のオモチャみてぇなモンだと落胆するのですが、そこらへんは折り合いをつけて、自分で噛み砕いて消化するのが大人というものでしょうか。
何だよ人生って。つまんねーな。
好きなことを好きなだけやって生きていける人間とそうでない人間がいることがどうしても納得できない。
しかも後者に対しては、海の向こうに碌に水も飲めない人間をこしらえて
生まれながらの引きの悪さを言い訳にすることを道徳的に封じこめる。
ほんとに何なんだ?俺がなんかする意味があるのか?
仮に俺が今この瞬間から最大努力してなんかを世界にアウトプットしたとして、
そんなもんどっかの東大生のそれなりに自分を納得されられる努力の結果物にまるっと包括されてるんだろうよ。
あーあ、今度の人生は天才に生まれたいなー。
他人から評価されるには「アウトプット」が大事なんよ。
返信がずいぶん遅くなってしまいました。
その「俺なら気にしないのに」っていう「俺基準」、うぜーーーーーーーー!
「私が変わる方法を探しています」って口だけじゃーん。全然変わる気ないじゃーん。まずはそこを認めようぜ。
徹頭徹尾「自分が変わる気を本当は持っていない」とは思っていません。でも笑われるくらいの感じなのですね。
増田は文字だけのコミュニケーションですから伝わらない、伝えられていないことも多いのですが、基本的にここでいただいたアドバイスを発揮すべき対象は増田ではなくて日常生活です。そちらのほうはおかげさまで目に見えて改善されてきていますので(本当に感謝です。)、少なくとも私が変わらなかったということはないのだと思っています。増田にそれをアウトプットはできていないかもしれません。すみません。
でも、こうやって「うぜーーーーーーー!」といわれるようなことを自分が書いているんだと、そういうように相手に伝わるのだと、そういうことを強く認識できてよかったです。ありがとうございます。
http://anond.hatelabo.jp/20090309215702
元増田です。
知らん間に、いろいろとコメントを頂き、かなりびっくりしました。
コメントのアドバイスを追加した「アウトプットの訓練」を掲載しますね。
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本を読んだり、人から教えてもらったこと頭にインプットしても、アウトプットしないと身につかない。
つまり何かしらの形でアウトプットしないと意味がないということ。
他にどんな方法があるか、偉い人教えて!
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>ちなみに、「他に見た方がいい文章や本」もそりゃいっぱいあると思うけど、たとえばどんなの?
直接自分の行動に関係あるような本や文章かな。
今の自分に即効性のある物を覚えて、どんどんアウトプットした方が良いと思っただけ。
>ちょっと大袈裟な言い方だけど、「数学なんて勉強して何の役に立つの?」っていう子供の質問と同じだと思う。
この文章って何に役に立つの?って思った理由は、例えば
>>中東のSWF(Sovereign Wealth Fund)が資金ショートしたかもしれないという噂。
…とか見ても、直接関われるような立場に居ないので、知ってても「知ってる」だけで何のアウトプットにもならないと思うから。
そうそう、友達を選びましょう。
「自称・才能がある」と思っていて、実はアウトプットが出来ていない様な人とは付き合わないようにしようね。
そういう人って広い様で狭いから、付き合ってると悪い影響を受けちゃう。
本当に才能がある人は「才能」という言葉自体を嫌う。
何故か?
人が想像している以上にその人は「身になる努力」しているから、それを「才能」という安っぽい言葉で表現されるのが気に食わないからだ。
※「才能」という言葉を嫌っている有名人を1人上げると、イチローかそう
※「努力」と書くとまた努力教かよ・・・と思う人がいるため、成果が出ている努力という意味で「身になる努力」という表現にさせてもらった
>はてなにも才能のある人の本当の才能を認めたくない人たちがたくさんいます。
本当に才能があったら認められるでしょ。
本人が「認められない理由が分かってない」だけの事。
※ヒント:いくら才能があっても、常に憎まれ口を叩くような奴を誰が認めるんだ?
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1303084.html
亡くなった著名人に対してそうウェブ上で弔意を表する人たちに、前々からなんとなしにひっかかりをおぼえていた。
「お悔やみ」は本来的には、故人の遺族などの関係者に対して「申し上げられる」ものだ。社交辞令的な側面を除けば、そこには人の死という最上級の悲しみを他者と共有し、辛さを分かち合うことで、明日への活力を得るための一助とする目的が存在する。なんとか彼の屍を乗り越えていこう。おじいちゃん最期になんていってたの? 生きろ、ってことさ。
ではウェブ上でお悔やみを述べる人々は「ワールドワイドなネットワークでディープなサドネスをシェアすれば、よりサフィシエンシーに富んだアロケイションを実践できるライフハック」でもキめようとしてるのだろうか? おそらく違う。ある種の人々にとってはウェブという葬式には不自由な場で唯一打てるの弔電であるし、別のある種の人々にとってはライフロギングの一環にすぎないだろう。そして、また別のある種の人々にとっては「本気で悲しんでる人」になるための入り口を作り出す儀式でもある。
訃報が大きなニュースとして扱われるのは各種著名人の中でも俳優、歌手、芸人などなどアーティストの場合が一番多い。ニュー速やはてなの場合はオタ寄りの人間が多いためか、漫画家や声優も比較的反響がデカい。こういった人々はアウトプットしたものが他に比べて我々の生活に入り込みやすい。あるいは、能動的に手に入れる場合の(精神的・物理的)コストが非常に安く上がる。だから、ファンならずとも「思い出してみれば、(作品を)見たこと、聞いたことがあるよね……」という気分に陥る。 仮想的な個人関係が構築される。そうなるともう「知人」だ。知ってる人が死ねば悲しい。当然の感情だ。だから、お悔やみを申し上げる。当然の論理だ。
これは「悲しんでるフリ」なのか? 否だろう。少なくとも、結果的には「本気で悲しむ」ことになるのだ。そういう結果に行き着いてしまうシステムができあがっている。そう、悲しみを指数関数的に増幅させるプロセスが。
著名人の死には思い出補正のほかにもうひとつ、故人の個人情報(しゃれじゃないよ!)、即ち通常の葬式における「彼/彼女とのおもひで パブリック版」がメディアによって無償提供される。追悼記事の体裁をとった故人の交友関係、裏事情、履歴学歴出身出自家柄家族構成年収バイオグラフィーその他諸々が暴露される。作品が繰り返し繰り返し某のりピーバキバキDJプレイ動画並にテレビでリピート再生される。掲示板でまことしやかに故人の美談が語られる。雑誌で特集が組まれ、いかに素晴らしい足跡、業績を残したかが取りざたされる。そして、ブログで「○○に関する個人的な思いデ」なる記事がアップされてエントリ執筆者に<わたし>の代入がはかられる。かくして公人としての彼/彼女の情報と私人としての彼/彼女の情報を手に入れることで、それぞれの中で実際と感情的にはさほど変わらない擬似友人関係が手に入る。リアルと違うのは<わたし>と故人をそれぞれとりまく人間たちがまるごと欠落してることだ。まぁなんて十年前に流行ったライトノベルみたいなんでしょう。君はそれで十分なんだろう。電波はどこからでも届く時代なのだし。
だから、画面上の「お悔やみ申し上げます」はいびつに響くのだ。単に遺族を知らないのあれば、自分の周囲から作者を知る人物を探し出して共有すればいい。それこそネットでは腐るほど見つかる。が、それではダメなのだ。上記のプロセスを経て構築された太くて強固な一本のみから成る関係は非常に閉鎖的で、誰の干渉もゆるさない。その上、線でつながれた二人のうち一人はもの言わぬ屍なのだから、もうほとんど俺 is world.だ。
臼井義人のような行方不明の場合は、この故人情報の提供が前倒しで行われている。(世間一般的には)一部の人にしか知られてなかった「まつざか先生の恋人爆死エピソード」やら、新宗教に関連した家庭内不和の噂やらがばらまかられ、『クレヨンしんちゃん』がベースとなった映画がピックアップされる。作品について語ったインタビューやら本やらが紹介される。そもそもがアニメのお陰で幼児~30代に絶大な知名度を誇る漫画の作者だけに、人々は自分の中の『クレしん』体験を持っている。我々はその記憶をつぶさに思い出の中から発掘し、あたためるだけの時間を時間を与えられる。今までまったく知りもしなかった作者をよき隣人よき友人として捉える様になり、ついにはこうのたまいだす。
「私の人生において『クレしん』はドラえもんとならんで人格形成に強烈に作用したいわばバイブルです。ええ、今でも大ファンですとも。ワシは臼井義人が育てた! しかし今の子供はかわいそうですね。ドラえもんとしんちゃんを同じ曜日に楽しめないとは!」(楽しめる)
既に世間は膨れあがっちまった悲しみではちきれんばかりになっている。今日に至り、「遺体発見!……か?」というニュースがダメを押した。今更後戻りはできない。「なんかの間違いであってほしい」「俺は信じないぞ」。これらは通常、死者に用いられる言葉だ。
人は自分本位ないきものだ。いわんや、(推定)死体と<わたし>としかいない閉じた、花火すらない部屋の中にあっては。死体の前についた(推定)が外れた時、ようやく理想的な関係が得られる。なぜ理想的なのか。安心できるからだ。なぜ安心できるのか。安定しているのだ。構成要素が自分しかいないから。ということは必然的に訃報からはじまる一連のシークエンス主人公はその人自身、ということなる。主人公は人の死を嘆き悲しむのだから人生という本のワンシーンとして、美しくならないはずがない。
画面越しに行われる弔いはその人の体内で循環し続けて決して放散されないのであって、つまるところ内面の問題なのだ。そこに臼井義人の親族や関係者が介在する余地などまったくない。だからこそ、人はどこまでも残酷になれる。決して、自覚することなく。
あなたは悲しむ準備はできましたか? 悼む用意は充分ですか?
私は……臼井さんが五体満足これ無事にお戻りになることを祈ってます。
http://anond.hatelabo.jp/20090906005610
「2歳のときから、お話作ってた」と言う天才作家もいるし。「最近、他人が書いた小説に興味もてなくて」とほかの人の小説は読んでないと広言している大御所作家もいるし。評論家を目指すのなら読書は必須だけど、自分の世界を展開したいだけなら義務教育の「国語」を徹底して覚えておけば、充分に用は足りるよ。「国語」の教科書には文豪の文章もいっぱいあったはずだし、国語の先生が優秀なら「伝わる文章の書き方」も教えてくれたはずだよ。
元増田がインプット元を忘れてしまっただけで、今までの勉強だけで充分に実力が付いてるんだよ。
もし、これから先、小説を読んで書き方を勉強しようというのなら、中条省平(ちゅうじょうしょうへい)先生の「小説家になる!」をお薦めする。一冊で、いろいろな書き方の見本が見られるし、専門家の解説つきだ。
上を見よう。そして、目指そう。
色々と思う人もいるけど、せめて
http://www37.atwiki.jp/honi-honi/
の纏めも一応は目を通して欲しい
・http://loda.jp/benjo/?id=98
自分はこの二つを見て駄目だろって感じた
自分の感じたことを書いてみる、基本的にこの人を擁護できないってスタンスね
世間じゃ模写だのトレスだの言ってるけど、自分がなんか違和感、と言うか不快感に近いのを感じたのはそのレイヤじゃなくて、多分別のレイヤなんだと思う。法的と言うよりも多分道義的な面での感覚かも
図鑑とか標本箱のチョウとか見てると、見た写真をそのまんま使ったんだなって解る
「それってどうよ?」
が多分自分がこの絵に感じた違和感じゃないのかなって
この人がやったのはトレス、あるいは模写…だよね。もしかしたらフォトショ使ってそのまんま元画像をぐりぐりしたのかも知れないけど、それならもっと悪質だと思う。決して「参考にしました」とは言えない、だって小物の殆どが元の写真と変化がないし
単純にこれってパクリ…だよね
参考にするってのは一度見たものを咀嚼して、自分の頭の中で再構築して、アウトプットしてやっと言えるんじゃないかと。絵を創作物とするなら、他人の写真あるいは意匠を『そのまま』流用するのは一番やっちゃいけないことだと感じる、ましてやプロで活動している人間が、だよ?
トイレの方なんか、正直フォトショとかの加工以外でここまで落書きが一致するの?って思う
模写とかトレスでも多分ここまで同じの用意するのは相当な技量がいりそうなんだけどな…
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雑に自分の言いたいことを纏めると
人様の写真を断りもなく素材として加工して使って、それに一切触れずにあたかも「私が考えて描きました」みたいな表現ってどうなのよ?プロとして活動しているのに、人のものそのまんまパクって使ってプライドとかないの?
「ネットは道具」だ。
それ以上でもそれ以下でもない、使う人次第で毒にも薬にもなる「道具」
必ず使わなければいけない訳でもないし、使わないからといって問題がある訳ではない。
ネットが気持ち悪いように見えるなら、それはネットではなく「気持ち悪い人間」が居るだけであって、それは日常と何ら変わらない。
…という基本を踏まえて、以下の文章を書いていく。
>なんでもかんでも情報を集めて把握できるようにする、確かに便利だよ
>でもさ、面白くネーの。「日常」が。経験する前に、分かった気になっちゃうから。
いるいる、こういった「情報だけ貯めこんで、うまくアウトプット出来ない」人たちが。
結局、ネット時代でも「日常を重視出来ない人」は他人から見ると「役立たず」なんだよな(笑)
★ネットが無い時代はこの人たちはどういう人?
→TV・新聞・本だけの内容で判断し、日常起こりえる例外的な事に対応出来ずに「役立たず」と思われる。
以上の事から、これはネットに限った話ではない。
>あ、話それるけど、リアルで「検索すればわかることは聞くな」とかほざく情報強者(笑)がいたら直ちに首を吊ってほしいなぁ。
>んなこと分かってら。情報だけ知りたいんじゃねぇよ、おまえとコミニュケーションがしたいからお前に聞いてんだよ。
>空気嫁よ。血の通ってない情報強者(笑)乙。とうとう魂までインデックスされたんだな
首を吊るとか穏やかじゃないなぁ…けど気持ちは分からんでもない。
こういう奴は「視野が狭くて、自分しか制御できない」人で、なぜそうなのかは以下の通り。
他人に目を配る能力が無い(他人に徹底的に無関心)ため、相手をコントロール出来ずうまく立ち回れない。
それを開き直り、さも当然のように振る舞う…しかない(笑)他人からは見透かされてるけどね
…以上の思惑を隠すために「検索すればわかることは聞くな」という暴言を、当然な事の様に言う。
このせいで、専門知識を持っていて皆の知らない所で頑張っていても、他人からは「役立たず」という評価をされる。
★ネットが無い時代はこの人たちはどういう人?
→TV・新聞・本から情報を貯めこみ、その範囲の事なら能力を発揮するが、例外が出た瞬間に凡人以下となる
→専門知識を持っているのに、聞くと「辞書を引け」の一点張り…他人からは「役立たず」という評価をされる。
以上の事から、これはネットに限った話ではない。
>こんな会話がもうリアルにありえるわけ。「本でも一緒だろ?」と思う人もいるだろうが、全然違う。
>本なら、本州全土、夏とか結構アバウトだったから、漏れのエピソード語ると、夏のある日、朝早く起きてとーちゃんとカブト探ししてなかなか見つからないことがよくあった。
>クワガタが特に稀少だった。だから、やっと見つけたクワガタは本当に大事にしたよ。なかなか見つけられないことで、いろんな工夫を考える。
>それだから見つけたときの喜びはひとしおだし、苦労してつかまえた生き物は余計に愛しかった。
>一方ネットは町、番地、詳細な時間まで明らかにする。ここに何時に行けば「確実に」会えるという情報が手に入る。
>ネットは「自分で考える」ことを妨害している。多様性(笑)の理解のために、見つける喜び、生き物を大切にする心を奪い取っている。これでいいの?
これについては全く同意しかねる。
ネットで詳細が書かれる事で「失われる物」だったらのなら、それは「元々リアルでなくても良かった事」なのだ。
実際にやってみると、ネットの詳細情報なんてまだまだ未熟…実際やってみると分かるはずだ。
既に解決済みの物を調べるのはナンセンスで「その情報を元に、その先を見せてあげる」のが今の子供たちにしてあげなければいけない事。
>「調べれば分かることだから」と考えない子供が大人になって、いざ未知の問題に直面したときが怖い。
私には「未知の問題だ」と思って調べてしまい、それで満足してしまって次へ進まなくなる事の方が怖い。
なぜか?既に分かり切っている内容をスキップして、子供たちにはさらに先を見てほしいからだ。
先を見た事で、スキップした内容に矛盾を感じるようなら、初めてそこで考えればいい。
時間は有限、こういった「適切な優先順位」を考える感覚こそ、子供の頃から養っておいた方が良いと思うがどうだろう?
>少なくともこのネットの現状を子供には見せられない、というか見せたらイカン。
>漏れに今何ができるか、LAN引きちぎって今日クワガタ探しに出かけることぐらいか。
臭いものにはフタ…が解決にならないのは今までの歴史を見ても明らか。
そもそも、その臭い物って本当に有害?自分の好みだけじゃない?そこから疑う必要がある。
昔野球が入ってきて間もない頃「野球をする事によって起こる体の振動が、脳にダメージを与える」とか言って、子供に野球をやめさせようとかする時期があったんだから(笑)
「良い事もあれば、悪い事もある」という分別が出来る教育をするのが本来の姿じゃないかと。
>それでいい。それでいいんだと思い込むしか今はできない。いまのネットがわからない
分からないではなく、理解しようとしてないだけ。
道具には必ず良い面と悪い面がある、悪い面だけを取って「これはまずい」という安易な判断をしないように、親はしっかりと見定めて子供に教育する必要がある。
悪い事を回避するには「悪い事があるというのを覚え」ないと出来ないよね?
■気持ち悪い
うわわわわ。予知夢を見た気分。
自分も外国行ったらこの人みたいになる自信ある。もうずっと、その手の話が出るたびに逃げまくってる。短期の出張(お客さんの立場)はこなすけど、長期は絶対無理。神経を病む自信ある。
読み書きと、書きの延長としての喋りは出来るけど、笑っちゃうくらい聞き取れないんだよね。アウトプットのレベルから、そう思ってもらえないんだけど。自分の専門の話やオフィシャルな会話は文脈推測能力で乗り切ってるけど(話が長くなるほどGuess出来るので理解出来る=>まさか聞き取りに問題があるとは思われない)、カジュアルな会話は絶対無理。ランチとかパーティとか、もう針の筵。英語+現地語のコンボで、英語すら自信なかったらこうなる。
他の外国人との距離感とか、レッスンだけは得意なとことか、書き言葉はやたらきっちりしてる(逆に言えば、カジュアルな場面を避けて経験してないので、きっちりした英語しか書けない)とことか、もう心あたりがあり過ぎる。
この推測が当たってるかどうか分からないけど、もし当たってたとしたら、たぶん彼は放っておいてくれることを望んでるんじゃないかな。コンプレックスと挫折感にまみれてるし、残り短期だったら、あとはそれを刺激されずに過ごすことだけを望んでると思う。最初にはっきり断らなかったとか、コンプレックスを刺激されたときに無難に収めることが出来ず言い返してしまったとか、本人にも問題あるし、それは自覚してるだろうし、増田は気にしなくていいと思うよ。これまでだって、誰かと話すときはずっと緊張し通しで、親切な人は苦手だったと思う。