はてなキーワード: アウトプットとは
信用ってのは、要するに社会があなたのアウトプットをどのくらい「当てにできるか」ってこと。
アウトプットの形は業種や役割によって千差万別だ。接客業なら毎日時間通り、シフト通りにその場にいるってことが重要だろう。チームワークならミーティングに確実にいること、コミュニケーションが継続的にとれること、なんてのが重要かもしれない。一方、個人作業で成果物のみが問題になる業務なら、普段何してたっていいから締切りまでに十分なクオリティのものを出せばいいってことになる。
社会の厳しさっていうのは、何であれ「社会があなたに期待しているアウトプット」を出しつづけることが求められてるってこと。あなたならこういうことが出来るはずだ、という目論見をもとにあなたに仕事が振られるわけだから。
あなたが、成果物のみが問題になる職業に進もうというなら、毎日きちんと定時に学校や職場に行く必要はない。そのかわり、求められた成果は必ず出しつづけないとだめだ。締切りに遅れてもだめだし、クオリティがプロとしての基準に達していないのもだめ。どんなに調子が悪くても、どんなに気分が乗らなくても、スランプに陥ってても、言い訳はできない。満足いくものが出せなければ、切られる=もう仕事が来なくなる、というだけ。
小説家、漫画家、俳優、スポーツ選手など、成果のみが問題になるような職業についていても、結果的に毎日きちんとしたスケジュールをこなしている人もたくさんいる(そうでない人もいるけど)。ある小説家は、書けても書けなくても、毎日何時から何時まではタイプライターの前に座る、と決めている。彼らは「毎日きちんとしているから」信用を得ているのじゃない。「確実に求められたアウトプットを出す」方法を模索した結果、「毎日きちんとスケジュールをこなす」ことが必要だという結論に達したわけだ。
「確実にアウトプットを出す」ためになら、どんなことでもする。その覚悟があるなら、好きなように生きていたって構わない。でもいざ、何でもしなくちゃならないって時になってしり込みしたら、「甘い」って言われることになる。それだけだ。
研究報告で例を出すならば、自分のやってきたことを他人に分かるように報告する事がうまくできない。
じゃあ、補助ツールとして文章書くとか図を書くとか表を出すとかすればいいじゃない、という話なんだが
図を書くことも文章を書くことも得意ではない。
いや、自分なりに頑張って書くんだ。けれど作った図はいつも相手から見て「?」を出すばかり。成果が伴っていないから頑張ったと言えるものではない。
どれくらい酷いかというと、以前学会のポスター発表で掲載した図が、本番直前に身内(=指導教員)から「分かりにくいよね、これ…」と言われたくらい。
それ以来、描こうとすると怖くて描けない。情けない話だけどね。
B4,M1の時は、努力続けていれば、下手なりになんとかなるさ、みたいな気持ちが(少しだけ)あったんだけれど
M2になってもこれでは情けない。涙が出てくる。
…ドライアイだから実際に涙が出てくることはあまりないけど。
周りに似たようなジャンルの研究をしている人が誰もいないから、手本になる表現が乏しいというのもある…かもしれないけど
俺はどうしてこんなに表現が下手くそなんだろう。
激務は確実に性欲を削り取ってゆく
ブラック的な仕事でこき使われてたときはそうならず、むしろ叩きつけるような性欲がたぎった
でも、自分の全身全霊、全知全能、脳内貯金、体力貯金を絞りつくすような、
充実感を突き抜けたような仕事の山と格闘しているときは「女、なにそれ?」状態だったよ
(今もリハビリ中)
彼は自分の持てる能力を出し尽くして、精子なんて出ないようなカラカラの状態になってるんじゃないか
睡眠を取る、美味いものを食うという生理的なものだけじゃなくて、本を読む、ゲームする、漫画読む
時には花に水をやるように、一人の時間を彼にあげて、インプットの機会を増やしたらどうだろう
結婚して何年も経ち、お互いブッブ屁こいても平気な関係なら、一緒に居ること自体がインプットになると
思うけどね
愛情が逓減しているわけではないんだ
それは頭では本当にわかっているんだよ。ただカラカラなんだと思う
出勤は一応している。
僕がわからないだけかと思って、いろんな人に聞いてみたけど、
やっぱり働いていない。
仕事を頼むと、
なんか色々言い訳して全くやらない。
何日かチラ見してみると、
本読んだり、
たまに昼寝したりして帰る。
ずっとそんなサイクル。
読書会やらリーラボとかには、積極的に参加しているらしい。。。
カツマーとか言っている。)
状況からして確実に給料は僕より高い。
そんな状況がみんなわかっているようなのに、
お咎めもなければ、クビにもならない。
ちなみに役員でも管理職でもない。
30代中盤にもなって、あそこまで仕事しない人を見たのは初めてです。
普段はそんなに気にならないのですが、
近くにそういう人がいると本当に心が折れそうになる。
そんな人って世間では意外と多いのかなぁ。
直接言えないので、ここで愚痴らせてください。
あーぁ。。。。。。。。。。。。。。。w(x_x)w
自分も就活中なんだけど、元増田とは考え方が違うかもしれない。
たしかにその通りだと思うけど、自分はやりたい職種がはっきりしているので、外資から中小までひたすら受けてる。準大手2つに内定もらったが、仕事の内容ははっきりしない(まあ当たり前ですね)。だから、やりたいことができないなら蹴るつもりだ。やりたいことができるなら中小から駆け出すのもありだし、ゆくゆくは独立するのもありだと思ってる。いや、むしろ、したい。
会社の看板で仕事ができる時代じゃなくなると思ってるんだ。会社なんていつどうなるか分からないから、自分が本当に質の高いアウトプット出せる仕事人になる為には何が最善策かを考えて就活してる。
鬱病の父と統合失調症の母の間に生まれたサラブレッドが家族について語るよ。
家族構成は,祖父・父母・兄・私の5人家族だった。祖父は農業を営んでいて,死ぬ前の日まで農家仕事をしていた。父はそこそこ名の通っている企業に勤めていた。母は専業主婦で,特にパートとかにでることもなかった。
母が入院してもお見舞いに行っちゃだめだったり,両親とも月に2回くらい遠くの病院に通院してたり,車がセドリックじゃなくなったり,父の会社が変わったらしいことを聞いたり(今思うとうつで休みすぎてクビになったんだとおもう)私だけ小学校の月謝(?)を払わなくてよくなったり,母がキレるとものすごい暴力をふるってきて汚いことばでののしってきてしかも後になるとその時の記憶がなくなっているらしくても,毎朝母が父の欠勤連絡をしていて,そのたびに父に切れていても,まあ普通の家とかわんないと思っていた。
小6のときに先生に「私って月謝払わなくてすんでお得なんだね」なんて平気で言ったりしてた。今思うと死ぬほど恥ずかしい。大して家族に関心もなかったんだと思う。父の仕事のこととか一度も聞かなかったし,母は,しんどそうなときに話しかけるとすぐボコボコにしてきた。
私が決定的になんかおかしいと思ったのはものすごく遅くて,中3の時だった。高校に行くための奨学金の書類を書かなくてはいけなくなって,そこで両親ともに手帳をもっていて年金をもらっていて父親はとっくに名の通った企業はやめていてアルバイト同然で親戚筋にやとってもらっていることを知った。なんてのんきなんだろう。そのくらい家族に関心がなかった。ついでに集落でうちだけなんか浮いてるのは感じていて,それはそのせいだともなんとなくわかった。衝撃的だった。
ついでになんか借金もあるらしくて,最近破産するからと離婚したらしい。どーでもいい。親戚に「おまえんち大変なんだからお前がなんとかしろ」とか言われても,しらんしよくわからんって感じ。兄だって放棄して逃げちゃったんだから,私だって逃げてもいいと思ってたし。
私は父親似で金遣いがかなり荒いし,調子いいときはばーってなんでもやっちゃってよけいなことまで口出すけど調子悪いときはなんもしなくなって責任感とかない。正直クズだし,父みたくなりたくないけどなるんだろーなーって思う。
どうしてこんなことを書いたかというと,知り合いで「メンヘラは日本じゃ理解されなくて大変」とかいってた人がいて,その人がやたらWeb上に飲んでる薬の名前とか書きまくってて,「南条あや全盛のころから思ってたんですけどなんでそういうことWebに書きたがるんですか」ってきいたら,「理解のある人か同じメンヘラにしか言わない」とか言ってて,親の記憶から鬱とかに嫌悪感のありまくる自分はどうしたらいいかわからなくなった。
なんにしても「お前の思い通りにはさせない」ほど効果的な呪詛の言葉はない。なにしろ、生きている人間にとって思い通りにいかないと感じることはデフォルトなのだから、外れっこない。個人的には、誰かを呪ったり祟ったりできる存在などなく、相手に影響を与えられるなどというのは幻想だと考えている。ただ、掛かってしまう人、祟られてしまう人が一方的に存在しているだけだろうと解釈している。そして、全ての人間がその能力を持っているものだと考えている。存在しない物を存在するように感じ取る能力。そういう能力を介して世間を見れば、この世は、思い通りにいかないのが当たり前だと信じさせる要素に溢れている。「景気が悪い」という世の中の空気、相手の反応から読み取られる感情、理想と現実のギャップをいやでも認識させられる自分の人生、「○○しなければ、うまくいかない」という思い、相対的評価、誰も同じ場所に留まってはいられないという、自分の運命……
自分の場合、他の誰でもない自分自身が「お前の思い通りにはさせない」という言葉で自分を縛ってしまっていた。「○○でなければ、うまくいかない」「ほらみてごらん」「それじゃあ失敗するでしょ」「だからダメなんだよ」手を替え品を替え、いろんな人の口を介して、さまざまなバリエーションで、その呪いはいつでも自分の隙を狙っていた。今でもそれは変わらないし、自分はそれに惑わされずにいられない。けれど、一つだけ気付いたことがある。それは何の報いでもない、誰の思惑でもない、ただ自分が自分にかけていた呪いの言葉なんだと。絶え間なく自分の隙を窺うことができて、いろんな言い方をしているのに的確にこっちの意志を削ぐような意図を伝えられる奴。全く接点の見られない多くの人を介しているのに、どうして全ての言葉が自分に届けられるのか。考えてみれば簡単なことで、そんなことができるやつは自分自身の他にいなかった。
その呪詛から逃れる術を見いだすことができたのは、単に幸運だったからだと思う。「○○すれば、うまくいく」「こうしてみたら、思い通りに動くかもしれない」そう言い続けてくれる人を周りにたくさん持つことができた。そして、もう一つ。自分もまた、そのように言葉をかけ続ける必要のある相手に出会ってしまった。自分と同じように「思い通りにはいかない」という言葉に縛られて身動きがとれなくなってしまっている人に。躊躇っている間もなく、「思い通りにする」と伝え続けなければならないし、自分が態度で示してみるしかないと感じた。そうして初めて、自分の口から「大丈夫、なんとかする」と気持ちを籠めて吐き出すことができた。
「お前の思い通りにはさせない」などと言ってしまうのは、発言者こそが自分にその呪いをかけていて、それが他人に通用しないことに脅えている証であって、だからこそ物理的な接触で言葉の力を具現化させようと手を出さずにはいられない。その恐怖は本能的な防衛本能を通じて、相手が呪詛をはじく力(多分それは論理的に考える力)を封じ込めてしまう。でも、その呪詛から自分を解き放つ能力を持ち合わせていなければ、そもそも言葉に縛られる能力が発揮されることはないのだから、他人の言葉に捕われてしまうこともない。ということは、言葉に縛られてしまった人は、自らの言葉で解き放つことができるということ。誰かに「お前の思い通りにはさせない」という言葉を投げかけられて縛られてしまったときは、同じ数だけ、いやそれ以上の数だけ「大丈夫、それでも何とかなる」と吐き出すことで、きっとその呪詛は解けてしまう。最初は口に出さなくても自分の脳に届くように、確かに自分の意思でそう発言したと実感させられれば効果は発揮されるに違いない。もともと言葉は誰かに情報を伝える為の道具でしかないはず。誰にも他人を縛る力などなくて、縛られていると思い込ませるところに言霊の力はある。
報いなんてあってもなくても、ベストを尽くす以上にやるべきことなどみつからない。ただ、どれだけ尽くしてもその先にまだまだできることが残ってしまう。だから、本当にベストを尽くすためには、タイムリミットの設定が必要不可欠。限られた時間の中でそれをやりきる為に知恵を絞って、切り捨てる部分をとことん切り捨てて、なにかしら形に仕上げてしまうことを「ベストを尽くす」と言うのだと思う。
他人の苦しみが理解できるほど自分は利口ではないし、アドバイスできるほどの知恵や教養もないし、人に語れるほどの苦しみをくぐり抜けてきた訳でもないので、コメントするのもためらわれたけれど、自分は自分の体験から考えたことを、ただここに記しておきたかった。自分で読み返しても支離滅裂な自分の言葉に、満足はしていないけれど、ベストは尽くした。これで誰かが救われるなどという傲慢な期待を抱いてはいないけれど、自分の力になる言葉がこの世にもっと溢れていて欲しいと願っている自分にとって必要だから、どんなに拙くても言葉にして人目に晒しておくことにした。そうしておくと、思いがけない場面で自分の言葉に励まされることがある。誰かの反応が力になることもある。自分の思いを誰かに届けるというアウトプットの効果は、今の自分を守るだけでなくて、未来の自分を守ることにも作用する。舌足らずで誰かを不愉快にするかもしれない。そのときには精一杯反省する。けど後悔はしない。
おめーらそのくだらねえプライドをなんとかしろよ
・このテーマに興味がある、というだけで、なぜいけないんですか?自分は、そうやって素人に媚びるようなことはできない。
→あなたの時間が何ものからも拘束されず、一生働かずに暮らせる資産があって、
あなたの研究が世の中の誰一人からもその価値はおろか存在すら認めてもらえなくてもかまわないと思っているなら、
自分の興味だけでテーマを選んでいいんですけど、そうではないでしょう。
もし仮にあなたが自立した研究者になれたら、現実問題として研究費を捻出しなければなりません。
スポンサーを見つけるにせよ、研究機関に所属するにせよ、自分の研究テーマの価値を説明できずに、
→「素人に媚びる」のと「自分(の考えや興味の対象)を他人に分かるように説明する」のは違うことです。
社会に出たら自分とはバックグラウンドの違う多くの人たちと話しをする機会が増えます。あなたをそれらの人たちを、
「私は素人とは話しません」と切って捨てるようなことはできないと思いますし、するべきではありません。
→「自分が分かっていることは、その内容にかかわらず他人も分かって当然」と言う考え方は、
あなたが自動車を運転したことがあるなら分かると思いますけど、自分側から相手車が見えているときに、
相手車の運転手から自分側の車が見えていることを前提として運転している人なんていません。
・でも、自分は、他の人よりはるかにがんばっているし、論文も読み漁っている。
→最後にはアウトプットを出す必要があります。頑張る、論文を読むはそのための過程と準備でしょう。
たとえば、「どういう歌手になりたいですか」というファンからの質問に、
「たくさん練習する歌手になりたいです」って答える新人歌手がもしいたら、
私はちょっとずれてると思います。
・あなたの分野と違って、そう簡単に論文は通らないんですよ!(失笑)
ちょっと話がずれるけど、
http://d.hatena.ne.jp/lonlon2007/20090317/1237298299
私の失敗談を話してみたいと思います。
私は引用エントリの方のように開成ではなかったですが、それにも負けないくらいの進学校に通っていました。
高校3年までは、基本的には授業は寝ないでちゃんと聞くだけで、予習・復習とかは特にせず、定期試験前1週間にその範囲を頭に詰め込んで試験を乗り切るという勉強を5年間(中高一貫なため)していました。
学校の中では成績は中の上、あるいは上の下、といったところでした。
高校3年の5月の東大模試で駿台・河合塾ともA判定になり、成績優秀者名簿に載りました。
それ以降の東大模試も基本的にA判定を維持し、しかも模試をやるごとに順位を上げていきました。
センター試験は800点満点で720点台でした。100点満点の教科が3つ、英語は200点満点中192点でした。
それなのに落ちました。
失意の中私大に入学し(仮面浪人も考えましたがもう1年勉強することを考えると続けられませんでした)、最初の大学1年は家に引きこもってゲームばかりしていました。
大学入試から約10年が経過し、今になってなぜ落ちたのかわかってきました。
最大の原因は、予備校に頼りすぎていて、自分なりの勉強法を確立しなかったこと。
つまり、予備校はだいたい1月で終わるのはご存知だと思いますが、1月から試験日までの1ヶ月間、過去問を全く解かず、知識の習得ばかりに気を付けていたのです。
自分なりの勉強法を確立していないので、勉強の仕方を知らず、単純に知識のインプットというのが家で行う勉強だと思い、それに気をとられ、知識をアウトプットするトレーニングは予備校任せだったのです。
なので、入試前になっても、過去問を解くという受験勉強の基本中の基本を行わなかったのです。
なので入試前はもういまさら過去問なんてやらなくていいじゃないか、あとは知識にモレがないかチェックするだけでいいじゃないか、と思っていたのです。
こう書くとバカみたいですが、本当に当時は自分の足で立たず(というか頭を使わず)に、予備校任せで勉強法などというものを全く考えていなかったのです。
なので予備校が終わってからの一人で行う勉強のやり方が全くわかっていなかったのです。
どの参考書がいいとか、よく調べてもいなかったと思います。
本番では急に入試の形式が変わり、過去問をやらず実践感覚の鈍っていた私は、新形式に対応できず、残念な結果となりました。
こんな私ですが、現在どうしているかというと、大学ではついに入試に失敗したショックから立ち直れず、いろいろあったこともあって(主に色恋沙汰でも失敗し)、精神的な病を得ております。
自分でも大学入試に失敗したぐらいでなんとひ弱な、と情けなく思いますが、未だに立ち直れておりません。
出身高校を知られると皆驚いて、なんでそんな人がこんなとこに勤めているのか、と言われます。
仕事は当然できません。
職場では「あの高校出身なのにこんな仕事もできないなんて、、ププ(笑)」という感じです。
家族からは腫れ物扱いです。
この日記は
2.自分の他者に対する考え
3.現ジャンルのファン層を見て思うこと
4.結論と質問
で、構成しております。すみません長いです。
自分は寂しがり屋です。
だから誰かが見ているという意識がないとブログを書くことができません。
1.自分の感情を吐き出せる
2.将来的に自己分析の源になる
自分は頭が良くないので、思い悩むと一つのことをひたすら考えてしまう。そういうときにアウトプットをすると、今の現状ラインが見えてきて、思考をひと段落させることができる。するとその次の段階を考えることができる。だからブログは貴重な場だと思っている。
運がよければ優しめなコメントがもらえる。でも別に毎回欲しいわけじゃないから、ブログは常にはてなとかミクシとかである必要はない。
自分が何を考え、何を喜び、何を嫌い、他者と何をし、その成果はどうだったか。
それらを考えることによって、自分意思や信念を客観的に理解できる。次同じようなことがおこったときは昔の自分はこう判断したが~から入れるから、時間的にも心情的にも楽。
また、他者とのかかわりを書くことによって、他者が自分を評価していたり、逆に評価しなかったりするポイントが見えてくる
そして1の利点から感情を吐き出していたのです。
ですから普通の人は本音と建前を日常で分けるのでしょうが、自分はわけていません。
そんなことをしては今の現状の把握ができなくなるし、今までは友人もそういう子だからと許容してくれていたからです。
そして今、サイトを作っています。
サイト管理人の日記は自分的にかなり好きなコンテンツなので、普通に作って、そのままそのブログにリンクをはろうとおもっていましたが、ふとそれでいいのかと考えたのでこの日記を書きました。
普通まず考えるのは、自分がその考えを第三者に知られて困るのかということですね。
自分としてはそんなにこまらない。間違えることは嫌だけれど恥ずかしくはないからです。
じゃぁ何が問題なの?っていうと
自分の言葉を信じてしまう第三者がでるかもしれないことが問題なのです。
自分は二次のサイトを運営しようと思っているわけですが、そのサイトにはジャンル的にみても当然中学高校生の訪問が多くなるのが見込まれています。
そんな感情豊かな時期の彼らに、自分のむき出しの感情が触れてしまうのです。
ぶっちゃけ自分は模範的で常識的で一般的な人の考えはもっていません。
成績がいいとか、大企業に就職しているとか、金持ちであるとか、いい彼氏彼女と付き合うとか、高学歴があるとか、ニートじゃないだとか、30超えて負け犬にならなかったとか、人生を生きていくうえで個人に付与できるアビリティはいろいろあるけど、そんなんどーでもいいとおもっています。
自分の人生における目標を楽しんで達成できたらそれでいいじゃん?
まぁ、上記アビリティがあったほうが楽しいし、世間様は色眼鏡で見てくれるので、あったほうがいいとは思うのですが、心の中では無理するくらいならやんなくていいんじゃね?バレない程度に手抜けばいいんじゃね?っておもってる
それが悪だ!といわれても、別に自分にはそういう自分でも許してくれる心の優しいできた友達がたくさんいるので、第三者からどうみられようがかまわないです。
でもまぁ、こういう考え方を一般的なご家庭が望んでいるかというと、そうでもないよね
特に小中高までの学生には素直に育って、真面目に勉強をして欲しいと思う親が大半だと思う。
だってあの時代に積み重ねることのできるものって、能力的にも人間関係的にもかけがえのないものだからさ。
自分が親でもこの時代だけは、人の裏の顔とか、できないことをできないで許容する根性だとか、自分が生きているだけで他者を傷つける人間であるとか知って欲しくない。
別に知ってもいいけど、それはあくまで人から促されるものでなく、自分の感情や考えであって欲しい。
理想に燃えて欲しい。自分はできる人間であると、望まれて生きている人間だと、無意識に心のそこから思っていて欲しい、のですよ。
でもね、子供って大人が思っている以上に大人だってことも理解している。
だって保育園児だってちゃんと話せば理解する。それより年代が上の彼らが頭が悪いわけがない。
論理ができてないって思うのは大人だけで、彼らは彼らの論理で生きている。
だから本当に考えて出した答えなら間違いであるはずがないのです。
でも面倒だからか、考える喜びを知らないかは知らないが、他人に追従する考えを持つ子が多いのも確かだなぁとは思っています。
今のジャンルは特にそんな感じがするんだけど、某動画サイトでそのジャンルの人気動画のコメとか見てると
うp主マンセー、うp主の発言がすべてです、うp主と友達になりたいとか・・・
一介のファンの人ももちろんいると思うんだけど、中にはシンパ的な発言をしている人もいて、
第三者って時は笑ってたけど、実際にその情報発信者になろうとしてる今はマジ怖ぇぇぇー!(泣)
あ、↑の発言が全てシンパとは言わないよ。普通にいってる方もいるんだろう。
でも、あげたらジャンルばれるからいわないけど、動画特有コメとかみてると怖いよ。マジで。
ファンとシンパって特に結構ライン曖昧だしさ・・・。最初はそうでなくても何度も見てるとすりこみってのもあるしさ。
って書くと自分のサイトに自信があるかのように見えるけど、実はそうでもないのです。
客観的に見て自分の力がほか大勢の方に劣っているのは目に見えています。
もちろん多くの人に見てもらいたいって気持ちはあるけど、ファン層としてはあなたの作品がとても好き!って人が一人か二人いればそれで十分だと思ってるし、それを獲得するために日々努力したいと思ってる。趣味とはいえ評価されればやっぱりうれしいしね。
なんでこんな個人ブログ見てんの?え。管理人さんの考えや感覚が好きだからだよ!とかさ・・・。
なんだか迷走してしまってごめんなさい。でも今の感情を全部書かないと、自分も第三者もわからないこともあるかなと思って書きました。
あと、上ではファンとかシンパとかこえええとか言ってましたが、実際にそんな人ができたら、何億人といる世界の中で、こんなテキトーなサイトにきてくれて、こんなちっぽけな自分を好きになってくれたら、それはとてもありがたいことだとおもっています。ほんと。
個人的な今のところの結論は
・投稿する前にもう一度見直し、人を傷つけたり、負の感情を促したりする言葉がないか確認する
・発言に責任を持つ(一度投稿した記事は訂正はしても削除はしない)
・どうしても負の感情を書きたくなったらこういうところでさらす。(はてなは議論するブログだから、見てもいいか悪いかはわかってくれるだろ)
です。
でもほかの人の視点も知りたいので質問です。
もしもあなたがサイトの管理人で小中高生が見る可能性のあるブログを運営するとすればあなたならどうしますか?
または現在どのように運営していますか?
つたない文章をここまでよんでいただき本当にありがとうございました!
古いゲームについて語るブログがある。過去の有名作品について紹介したり、解説したり。エントリが大手のニュースサイトに取り上げられることもあり、知名度は高いらしい。特徴を詳しく書くとすぐに特定されてしまいそうだ。
私はそのブログが嫌いだ。
その記事のいい加減さが。記述内容の浅さが嫌いだ。
有名作品を取り上げることが多いが、プレイ経験が無い作品についてもさぞ見てきたように書いているのがまるわかり。wikipedia等に記載された内容をそのまま鵜呑みにしてるように見えることもあり、そもそも記載内容に間違いも多い。見ていると腹が立つ。腹が立つなら見なけりゃ良いのにという説もあるが、自分もオタクのはしくれ。出鱈目な内容をしたり顔で書いているのを見つけると、どうにも我慢できない。ツッコミ入れずにいられない。
かといってケンカ売っても仕方が無いので、結果的にやんわりと訂正したり補足するような内容をコメントに残すことになる。
今やmixiやTwitterを含むネットの各地には、レトロゲームの猛者が大勢いる。
そもそも実際にプレイした経験が無くても、彼ら猛者がアウトプットしている資料を元に裏を取るだけで、例のブログの適当さはわかるのに。
なんであんなヌルいブログが人気なのか私には分からない。
適当なくせに人気うらやましいうざい腹立つ嫉妬嫉妬嫉妬嫉妬
そんなどす黒い情念を抱きながらも、私は今日もコメントを書き込んでしまう。
……そっか。これが「釣られてる」ってことなんだな。
無意識にしろ意識的にしろ、最初から考察内容に穴のある記事を上げておくことによって、それを見てもにょもにょした連中が訂正コメントを残す。その結果エントリにはまともな情報が集まり、傍目には賑やかなブログと映るようになる。
ホッテントリの常連みたいなブロガー様は皆知識も経験も豊かで、自身の豊富な引き出しを活かした鋭い考察によって人気を博すものかと思っていたが、必ずしもそうではないのだ。知識の持ち合わせがなくとも、あえてアホのふりをする。そんな方法論もあるわけだ。
あのブログは嫌いだ。
嫌いだけど、これからも通うだろう。
荒らすつもりはないし、そんなことは望まない。末永く続いて欲しいと思う。
固定読者さんも多いブログのようだし、あのブログがレトロゲームに触れたり楽しんだりするきっかけになるのなら、私だって嬉しい。
プログラマなんだけど、めずらしくExcelで報告をまとめる仕事をすることに。
でやってたんだけど、これってすごく見た目ちゃんとした表が出来上がるのな。セルの色を変えたり、太字にしたり。
で完成した結果を眺めて、これはまずいと思った。仕事をちゃんとした気になりすぎる。実際この表は開発者の一部に閲覧されるだけで、顧客向けアウトプットではない。まだ金になることは一切やっちゃいないのだ。なのに何この一仕事終えた充実感。だまされてる。俺騙されてるよ!手書きの汚い表でも事足りる内容の仕事に半日使っちゃって、いい仕事した気になってるよ!
おそらく同じように時間を浪費している人が世界各所のオフィスにいるんだろうなあ。無駄にフォントいじったりして。Excelやばいよ。
匿名で書く必要性は無いわけなのだが、自由気ままに言い放つ事で、頭の中にあることを整理する為に使うという方向性で考えてみる。
これまでいろんなツールでブログを残してきているが、どれもしっくり来てない感がある。
メインはレンサバでのMTだが、1日でも更新が滞ると「まぁ、今日もいいか」なんて気持ちでついついおざなりなり、気づくと別のmtを再インストールして作り直してしまう。
記事自体はバックアップしていても、結局復元していない現状。
これが積み重なり、結局のところスパム的にさまざまなフリーブログで記事を書き連ね、カッコ悪く書き損じたネタ群が無数に残っていくわけだ。
なんとも自分の性格を表しているようで恥ずかしい気持ちで一杯になる。
誰かに読んで貰う為に書いているという感覚はやはりあるわけだけど、自分にすら残らない言葉なわけで、結果くだらない記事になるくらいなら、そのくだらない記事群から後で抽出してメインのブログに書き直す方向を取っていこうと思う。
アウトプットは無理矢理やっていかないと、気づいたら忘れてる事が多々あるので、そのリハビリであることが、今回のテストなわけです。
敢えて読み返さずそのまま投げ放つというコンセプトもしっかり残しておきたい。
自分への戒めとして。
ふと、今寝てる息子と嫁のとなりでシコシコと書いてる様がリアルに感じた。
この文章を書いてる意味がぶっ飛ぶほどの虚無感と共に。
でも私はここで諦めないようにここに書き残す。
文章を書く、記憶に残す、誰かに伝える。
この3つのずっとやりたかったことを忘れないように。