はてなキーワード: 貨幣とは
米国債が投げ売り状態となっていた為である。国債を持っていた人が現金を選好したわけで、それ自体は、喜ばしいことである。TPPが成立すれば、アメリカの産業が立ち直る、ならば、その株を今のうちから買い漁っておいた方が良くなるというのが、メインシナリオであろう。サブシナリオとしては、QEが続くならば、貨幣価値の下落率(購買力平価の低下率)は、国債金利を上回るので、インフレに対して中立的な実物資産に財産を移しておいた方が良いという考え方となる。
二つの理由から、国債を売って現金を買い、その現金で株を買うという投資行動が出てくる。
メインシナリオについては、TPPの実現は遠のいた事から、株式への資金流入の勢いは止まるであろう。問題は、サブシナリオの方である。QEが続く限り、現金よりも、キャッシュフローがある企業の株式を持っていた方が、インフレによる資産の目減りを避けられる。
不景気でデフレーションという状態であれば、国債が一番安定した投資対象となる事から、多額の財政赤字を抱えていても低金利でファイナンスが出来るのであって、不景気だけどインフレーションという、いわゆるスタグフレーションの状態では、国債への投資はインフレ率の方が金利よりも高くなることから、不利な投資となってしまう。国債の金利が高騰すると、新発国債の金利を上げなければならず、しかも、金利を上げたからといって、完売するとは限らないとなる。財政赤字の借り換えが出来なくなるわけで、スタグフレーション下で増税・緊縮財政となり、雇用の消失が止まらなくなるという、最悪のシナリオへと展開してしまうのであった。
TPPは進展しないが、株を買ってしまったとなると、企業活動を活発にして利益を上げてもらわなければならなくなる。その、一番手っ取り早い方法は、デフレ輸出の元凶を焼き払って消滅させる事となる。
デフレで不景気という状態を続けることは出来ないし、新技術・新製品で市場を塗り替えて需要を発生させて経済を回すという平和的な方法は、新技術・新製品が出てくるという偶然の幸運に依存しなければならない。
もちろん、日本ではこういう女性の貨幣価値化は非難ゴウゴウになるが、
自国の「女性資源」を貨幣換算するかもしれないなあ、と思って計算してみた。
仮に北朝鮮がアングラ市場で、外国人向けに児童買春を実施した場合。
「12歳(初潮)~15歳」で「1回5万円×1日10回=毎日50万円を稼げ」、
「15歳~20歳」で「1回3万円×1日10回=毎日30万円を稼げ」
「20歳~30歳」で「1回1万円×1日10回=毎日10万円を稼げ」
「30歳~40歳」で「1回5千円×1日10回=毎日5万円を稼げ」
と仮に価格設定する。
(児童買春は各国で厳しく規制されている分、逆にプレミアムが生じる)
この価格設定なら、
「1人の女性は、一生の間に、
(50万円×3年+30万円×5年+10万円×10年+5万円×10年)×365日
=16億4,250万円の性的価値を生み出す」ということになる。
ただ、実際には生理や妊娠で「稼げない」期間が生じてしまうが、
「10億円程度は稼ぐことができる」という計算。
ただ、この「一生の稼ぎ」のうち、3分の2は「20歳までの稼ぎ」である。
日本国内では「女性は3億円程度の価値がある」ということになる。
日本国内に女性は6,000万人、うち40歳以下だと3,000万人か?
3億円×3,000万人=9,000兆円の女性資産が存在する、と書きたいところだが、
35歳とかだと、せいぜい6,000万円程度の「残存簿価」でしかない。
3億円以上の「簿価」があるのは「20歳以下の女性」だから、その分割り引いて
考えないといけない。
人口では日本の6分の1程度の北朝鮮ですが、「初潮時からフルに稼がせる」国家ですから、
現在の貨幣経済金融システムを続ける限り国の借金なんか帳消しにする必要もないどころかするべきでもないんだが、「国の借金を返せ」という人は貨幣も預金も借金であることを理解してないように思う。世の中全体で見れば貸す額借りる額は一致する。全ての借金をなくすということはみんなが無貯蓄になることを意味する。国が借りるのがだめで民間だけならいいという人は日銀が株社債を買いまくることを求めるべきだし、BIS規制もやめろといわないといけない。でも国の借金を返せという人はたいてい非伝統的な金融政策にも反対してたりするんだよな。じゃあ現行の金融関連の制度はどう変えるのよと小一時間問い詰めたい。
あと金融緩和で利息収入が減って消費が冷え込んで不況になるとか言ってたやつが金利が上がると財政破綻で景気が悪くなるとか言い出したり。全体を見ずにとにかく悪くなる面しか見ようとしないんだこういう人らは。
渤海湾開発機構が何をやったか、覚えていないというか、知らないんじゃなかろうか。
渤海湾開発機構は、中国の政府機構であり、米ドル建ての債券はちゃんと払ったのに、日本円建ての債券だけは踏み倒したのである。日本政府も政党も、何もせずに放置した為に、投資家は泣き寝入りした。覚えている人は、中国株とか、中国に工場を進出という話を拒絶するが、知らない人は、中国株だの工場進出だのと、舞い上がっている。
さらに、中国には国防動員法があり、外資系であっても、国防動員法が発動した時点で、中国にある全資産は中国政府に接収されるとある。中国国債の券面を海外に保有していても、それを換金するには中国系の金融機関に持ち込まなければならず、国防動員法が発動している状態では、中国系の金融機関はすべて中国政府の所有物となっている為に、海外支店の営業内容から国債の償還業務を外し、償還業務は国内のみとして、中国国内に入った時点で接収という手段が取れるようになる。
中国の事を、日本と同じくらい、常識が通じる国家だと勘違いしているのが、多いようである。
外貨準備の一部を人民元にするという考えなのだろうが、中国の政府統計は信用できず、貨幣の発行量すらも不明な国家の国債など、junk債以下のゴミでしかない。人民元債を買いたいなら、外貨準備という他人の金ではなく、自分の金で買うべきであろう。渤海湾開発機構債のように、財務大臣殿が老後の資金を踏み倒される姿を見て笑ってやるから。
昨日が事務処理の締め日だったので休むわけに行かず、今日は会社を休みました。
多重下請け&業務量削減、で、いま自分を実質的に律する人が誰もいない。だから遅刻魔が容認されてしまっている。トラブルはまれによくあるし、そのたび各方面に迷惑をかけるし、このままだと自分が腐る。わけあって働けない家内を抱え、所帯持ちの責任で不本意ながらいまはこんなところにいる。本当はいたくないから、遅れる、休む。ああ、フリーランスは楽しかったなあ。
自分用のタイムレコーダーが欲しい。会社で仕事をするためにではなく、美しいタイムカードを作るそのためなら、定時よりずっと前に勤勉に出社できそうな気がする、自分の机に設置したら、周囲が自分たちのモラルの弛緩に対するあてこすりと受け取るだろうというところまで想像がつく。それなら、今のようにチームのお荷物をやっていたほうが平和だ。
要するに自分の無意識の方がずっと狡賢い。それだけは認めないといけない。
中世貨幣学説史の本が届く。なんでこんな本を自分は買わずにいられない?友人が来て話をした。トリレプタルが近々承認されるらしい。元気がちょっとだけ出た。
週末電験三種の試験がある。二ヶ月準備期間があったのに全くなにもしてない。たぶん今回は見送る。ホイートストンブリッジの式だけは理解できた。別に法定停電の手配ができるからといって今よりましな職がみつかるとか思わないけど、電気のことも知らないままこうやって腐って滅びていくのはいやだ。
なにもかも間違っている自分たちを正しいと大声で言いたい。ベルグソンに傾く若手を一喝し、ヴィシー政府は正しいと居直ったドミニコ会士の気持ちがすこしわかる気がする。
なにやら小難しいことを言ってるようだが、何のことはない、
惜しい!
ここでいう工業製品とは何かしらの資源を使って造られたもののことであり、資源とは人類にとって限り有る地球資源のことだ。
という論理、「資源が有限なものに対してのみ、貨幣が支払われるのが正しい」という論理に到達しておきながら
他方、スポーツ選手のギャラや弁護士への相談費用、インストラクターへの代金など
この結論に至ってしまうのは実に惜しい。
「なぜだろうか」の答えは、「スポーツ選手の才能や弁護士やインストラクターの時間もまた、有限資源だから」だ。
イチローやダルビッシュは地球上に唯一無二の存在だ。その意味で彼らの才能は「有限の資源」なのだ。
弁護士やインストラクターにしても、その人数自体は沢山いるかもしれないが、「彼らが持つ時間(可処分時間)」は有限なわけだ。
となると、弁護士の相談費用やインストラクターへの代金もまた、有限の資源を占有する代償といえるわけだ。
ここで言及されている各分野とその用語には著しい知識の欠如、誤認等があるでご注意ください。
一般的に書籍は有料であり、貨幣を対価として支払わなければ入手することはできない。
しかし巷には図書館というものが存在し、ほとんどの書籍を無料で一定の期間手に入れることが可能である。
つまり情報をタダで入手することができるというわけだ。
弱者のための社会インフラとしてこのようになっているのだが、根底にあるのは情報は無料であるべきということだ。
それを裏付けるようにインターネットでは多くのものが無料、ロハである。
電子出版など情報を売って対価を得ようとする向きもこのほどはあるようだが、由々しきことである。
ここでいう工業製品とは何かしらの資源を使って造られたもののことであり、資源とは人類にとって限り有る地球資源のことだ。
故に精神活動を原料としいくらでも生産可能な書籍などとは違い無闇やたらと資源を大量使用されては困るのだ。
そこでそういうった粗製濫造を防ぐために導入させた制度が貨幣経済である。
貨幣をバロメーターとすることにで人々の人気が高く必要とされている製品とそうではない不人気、不必要な製品を区別できるようになったのだ。
こうして誰もが欲しがるような素晴らしい製品には資源がより多く消費され、
誰も欲しがることのない欠陥製品には無駄な資源が極力投入されないというように限り有る資源が有効活用されるようになった。
現在のところ資源の完璧なリサイクル方法は見つかっておらず際限なく使用していればいずれ枯渇する危険があるからだ。
この貨幣経済の成り立ちについては世界各地でそれぞれ別個に起こったものなのだが、
これはどのような人類社会にあっても無限には存在しない資源をどのように民意を反映しつつ利用していくかを模索し突き詰めた結果であると考えられる。
このように、貨幣を使用するというのは資源の活用方法についての投票行為なのである。
人と人とが接触することによって無限に生まれる情報やそれを記録する活動に対しては、それらがいくら大量に
生産されたとしても材料となる素材がほぼ無限に存在しているため一向に構わず、貨幣による投票を必要としない、つまり無料であるべきなのだ。
現代の市場では書籍に対して価格が設定されているが、これは紙資源の分配、活用使途への投票であり、中身の情報はタダである。
これはインターネットに記載された情報のほとんどや市井の会話を盗み聞きしてもそこに支払い義務が発生しないことからも容易に理解できるであろう。
他方、スポーツ選手のギャラや弁護士への相談費用、インストラクターへの代金など
明らかに地球資源の活用とはなんの関係性も見出せないような事柄にも貨幣は使用されている、これはなぜだろうか。
現代の政治では多くの民主主義を謳う国家で議会制が導入されている、これは国の意思決定について直接国民が判断を下すのではなく、
国民の投票によって信任を得た一部の人間がいわば代理で国家を運営する制度である。
同様に、経済活動についても現代ではそのほとんどが直接の投票ではなく、自らの票を能力の高い人物、組織に付託し権利を移譲する間接的な投票行為が多くを占めている。
先程のギャラや相談費用などは全てこれに該当するというわけだ。
こうしたように人類社会のなかで相対的に影響力が大きく能力が担保されている人物が多くの投票権を得ることでシステムの信頼性が向上しているといえる。
人ひとりの平等を貫き有用な社会活動を通しての投票権利移譲を認めなかった社会主義では資源の運用指針が実際の需要とは大きく違ったものとなり失敗してしまった。
この社会主義の破綻を見てもわかると思うが発達した貨幣経済では貨幣の役割は限り有る資源の使い道を決めるだけに留まらず人類全体の意思決定にまで及んでいる。
これは統一された価値基準である貨幣が本来可視化の難しい相対的な人間の意志や欲望をうまく数値化し社会的評価などをも内包せしめた複雑な投票活動を可能にしたからである。
人間の意思を矢印に見立てるとそれまでおのおのバラバラの方向を指していたように見えた矢印が
貨幣という媒体を得たことによって大まかにではあるが、複数個の矢印により構成されたグループの指す向きや全体の指し示している方向が見えるようになったのだ。
その生物のくびきから逃れて文明社会築くのに、生命の根幹からもともとはずれていた雄が中心になった時代があった。
(文明は、生命の自然からはずれることで、初めて発達した。当然もともと生命の中心から阻害されていた男性だからこそ、それを推進できた)
その時には、文明的でない要素としては、暴力による支配ってのが、結構大事だった。
文明的なものとしては、物事を属性によって、ツリー形式の分類に当てはめていくのが、世界観の基準になっていた。
(ツリーの上にあるモノが、下にあるモノを支配しているという世界観。ツリーのてっぺんは神様。神様の下には人間。人間の下には、非人間要素に近い自然物とされたもの、すなわち生命の根幹に関わる女や未開人が、その下に自然界があてはめられた)
で、そのあともっぺん文明に革命が起きて、貨幣経済が発達した。
そうなると、本能レベルの敬意やら恐怖やらに囚われた、支配・被支配関係は、ずっとフレキシブルに機能する貨幣に取り替えられた。
これによって、個人主義社会が始まり、人間を属性で分け、支配のツリー構造を作る思想も、役に立たなくなった。
ツリーがほどけた後は、ばらばらの個人が、平等な平面の上にちりばめられ、個々の人々は金の流れで繋がっている、という世界観になった。
金は支配構造よりもフレキシブルなので、ツリー構造ではなく、メッシュ構造で、あらゆる個人との間に流れた。
支配のための分類に意味が無くなったために、人を人種やオスメスで区別する必要もなくなった。
同性愛・未婚・なんでもあっていいことになった。それがその個人に適した生き方なら、と。
ただ、いつの時代も、新しい感覚について行けない人がどうしてもいる。
権威や本能による統率が必要だと感じる人、個人の自由に心苦しめられている人。
あらゆる個性が認められる中で、「個性を認めたくない」という個性を持つ彼らは抑圧されている。
その抑圧が、ネットに吹き出しているんだろうのかもしれない。
権威のツリーに全てを組み込む世界観を持っているから、そういう人は、自分に当てはまるだけのことも、俺はこう感じるもの、私はこう感じるもの、ではなく、男はこう感じるもの、女はこう感じるもの、と主語が大きくなる。
絶対普遍の真理が世界を支配していると世界を認識しているから、真理はこうだ、現実はこうだ、という言葉を使うことも多い。
(ツリー形式の世界観では、ケースバイケースを本質的に理解しづらい。ケースによって異なる事例は「それはたまたまの例外だ」と思うか、ねつ造だと考える)
のではないかな、という、余り根拠のない予想。
話の流れを読んでない横から、ちょこっと一ヶ所だけ
>>子育て中の人も、持病持ちも、子なしの健常者も助け合っていくのが理想的な会社だと思うが
夢想的な、という意味? 労働力を重要視しない職場や会社なんて実に夢想的だ。
まあ似たようなことは思うよ。才能がないけど活躍できればいいのに、とか、貧しいけどなにもかも自由に買えればいいのに、とかね。
ちょっと待て。協力し合って仕事するのは、生産性を上げるために重要な事じゃないか?
子育て中の人も、持病持ちも、子なしの健常者も、労働力としていないよりは、いるほうが生産性が上がるわけで。
彼らを社会のお荷物として、労働させなくてもいいくらい豊かな社会は、それこそ夢想の社会なわけで。
まぁ、適当に作っても金になりまくる時代、すなわち自国の貨幣価値が低い発展途上国だった時代は、それで通ったかも知れないけど、今はもうそんな贅沢は言っていられないのが先進国なわけで。
小学校の頃に、税金の大切さを教えるアニメビデオを見せられた。
「お金持ちから多めに税金をいただくことで、貧富の差を少なくすることが出来ます。うんぬん。」
で、ビデオ上映開始。
ストーリーはこんな感じ。
貧しい人は大変。
そこに、危機到来。
たしか隕石が衝突しそうになるかなにかだったと思う。
それぞれの家の発電機を提供して、巨大な出力をだしてなんとかするの。
それぞれが自給自足するより、みんなが力を合わせる事が大事でって感じでまとめられた。
そのあとはストーリーから離れて、みんなから集めた税金でこんなことをしてるんですよーってインフラ整備が紹介されておしまい。
紹介されてたのが道路とかダムとかってのが今考えると自民党時代だなぁって感じだけど、そこには突っ込まないでくれ。
「あれ、先生の説明とちがくね?
個人じゃ無理な事業に必要な資金や労力はみんなで負担しましょうって話じゃん。」
時は流れ、高校時代、理系のくせに世界史をとったりしたんだけども、累進課税、というか所得税さえ世界の歴史に出てこないんだな。
労役であれ、人頭税であれ、金持ちだろうと貧乏人だろうと、基本的にみんないっしょ。
とにかくむしる。貧しい人ほど辛かったのは想像に難くない。
公共サービスを受けるための対価だったんだろうな。
日本に住んでると忘れがちだけど、昼間外を安全に出歩けて、夜は安心して寝れるということがすでに治安っていう公共サービスを享受してるってことなんだよね。
全員定額の税(全部貨幣じゃなくて、物納や労働もあり)と、通行税みたいな(インフラの、公共サービスの)利用者だけが払う税金の二本立て。
で、時代が進むと、税金は定額のもの他に定率のものが増える。
収穫の1割とか、土地面積に比例してとか。
で、現代。
素晴らしい発明だよな。
基本的に賛成してるよ。
余裕がある人は、余裕がない人を助けるべきと思ってる。
行き倒れがいたら介抱してあげるべきだし、困った人は助けるべきだ。
でもさ、忘れちゃならないのが、税金ってそもそも貧富の差をなくすためにあるわけじゃないってこと。
自然に考えれば、定額か定率が本来。
富の再分配も重要だけど、第一義的な役割じゃない。
資本主義の形がなんであるか、日本が福祉国家としてどうあるべきか、地方分権などをどうするべきか考えるよりも、地域に住まう集団がどういう理屈で固まっていて、それらがどういう具体的な意思で動いていて、どの程度個人が集団の中で考えを共存していて、他の地域との接点と境目がどうなっているかを詳しく分析する方が先だと思うんですよね。
更に地域の人々の生活の糧がどこから得られているかを分析しないと貨幣のあり方を構築したり合理的な労働の形態を定めたり政治をどうするかは決められないと感じます。
でも社会科学って今の時点ではかなりぐだぐだで分類なんてできるような段階じゃないんですよね。なんだかどうしようもありませんね。