はてなキーワード: 心の問題とは
問題点はアウトの線引きがあいまいなところにあるんじゃなくて、「心の問題を病気だとみなして、それを専門に扱う医者がいない」ところにあるんだと思うけれども。
これって精神科医はやっぱり違うってことですか?
個人的には診断も診察も医療だと思う。だからやっちゃ駄目だと思う。
業としては当然なんだけれども、その目的が「会社を休ませるか判断する」のか「病名を確定させるため」によって違うのかなあとも思う。
カウンセラーだから「質問の結果、こんな病気の恐れがあるから、会社を休んで病院へ行け」は良いけど「質問の結果、きみはこの病気だ。だから会社を休め」というのはアウトだと思うんだよなあ。
問題点はアウトの線引きがあいまいなところにあるんじゃなくて、「心の問題を病気だとみなして、それを専門に扱う医者がいない」ところにあるんだと思うけれども。現実的な解としては、医業類似行為として「はり師」とかと同じ立ち位置にするってのが良いと思う。臨床心理士って民間資格もあることだし。
あと、家族間の医療行為は事実上黙認されてるから、それを広げていって会社内に関してはOKにするとか。(産業医にくっつくかたちとかにはなると思うけど)
http://anond.hatelabo.jp/20081101232133
問題は、飲み会の席で相手に告白したということ。そのデリカシーの無さに。
だってさ、当人の気持ちになって考えてみろよ。
例え相手が生理的に受け付けないやつだったとしても、明らかに断りにくいじゃん。
いや、告白に応じた/断ったところで、その後周囲から囃したてられるのは必至。
あなたは違うんだろうけど、恋愛をデリケートな心の問題として捉えている人にとっては、正直耐えられないだろうね。
「結果的にOKしてくれたんだからいいじゃん」と思うかもしれない。
違う。そういう問題じゃないんです。
「衆人環境で告白」というシチュエーション自体、つまりは暴力的な意味を持つのです。
周囲に促されたからとはいえ、そこで酒の勢いに任せてしまった以上、その暴力に加担したのと同等なのです。
そもそもさ、告白が冗談であったとしても、その相手は「前から少し気になってた子」なんでしょ。
悪いけど、気になってる子に対する態度とは到底思えないね。
あまりに一人よがりで、身勝手すぎる。
昔、某テレビ番組で中学生が学校の屋上から告白するやつあったじゃん。
告白する本人は本気なんだろうけど、傍から見てると凄い滑稽でさ。
んでOKされたり振られたりして、某ジャニタレが飛び出してきて、最後にカーペンターズの歌がかかるやつ。
あれ見て最悪だと思ってた。こんなの考えた放送作家は死ねって。
別に男も女も問わず、恋愛っていうのは物凄い心的エネルギーを発生させるものなのです。
だからこそ、このようにネタに転化させることが容易にできるわけですけども。
なんつーか、やっぱり許せねーなと。
私はネットを始めてから絵を描いたりブログを書いたりと様々な表現に取り組んできましたが実はとてもハードな世界なのではと思います。
(前置きですが表現全体を取り扱うのは難しいのでここでは表現の中で”絵による表現”に比重を置いて語ろうと思います)
『ウェブ進化論』やその一連の本にはしばしば”高速道路”という言葉が登場し、これはウェブの進化により生まれた競争による能力洗練を意味します。
私もウェブの中で絵の高速道路を走ってきた一人であり、相対的に見てまだまだ下手くそな部類ですが始めた頃に比べて上手くなれたのでは、なんて思ったりも。
しかし私はかなり疲れています。なぜなら絵というのも結局は情報なのであり、ウェブの海に自らの絵を放り込むとすぐさま情報価値の評価がなされるからです。
採点基準の数字というのは例えばヒット数であったり、トラックバック、もろに搭載されている採点機能など、人によって様々ですが、このような数字はいたるところに存在します。
過去のアーティストの絵画は、名前が売れるまで不特定多数の目に晒されるということは望んでもできなかったことでしょう。
しかし現在ではそのようなことが簡単に実現されます。そしてその表現に連鎖反応を受けて作り手にまわる人の出現だって珍しくない。
絵を描いていると、ふと「ああこんな絵誰に見ても喜んでもらえないや」という考えが頭に浮かんで、とたんにつまらなくなるということがよくあります。
他人の評価を無視してただ楽しいから描くことこそ本当の絵だ、というような高尚な意見を主張するつもりはさらさらありません。
ただ、あまりに他社是認の絵や、そうした姿勢で絵を描く人が増えてきたのではないでしょうか。
これは、作り手一人の心の問題だけですまされることではないと思います。
寧ろ私はウェブの持つ特性が作り手の心を蝕んでいるのではないかと感じています。
それに乗じて生まれる嫉妬や際限なく見る側が傲慢になっていく姿に耐えられなくなる時がよくあります。
そのような気持ちを乗り越えられることこそ才能であったりするのでしょうか。
私は今某社でWebアプリ開発の補助をするアルバイトをしている。一応少しはコードを書く。でも、自分はプログラマじゃないな、と思う。素敵なアルゴリズムを考えたりもしない。アプリの設計は当然社員さんがやる。私がやることと言えば、機能追加のための簡単なコードを書いたり、簡単なWebアプリをフレームワークを勉強しつつ書いて、見た目をCSSで整えて、そんなことだ。
やりがいを感じないわけではない。やっぱり自分の書いたコードが上手く動けば嬉しい。でも、プログラマの壁を読むと、何となく自分はコーダーになれてもプログラマにはなれないような気がしてくる。一応FizzBuzzは解ける。以下、そのコード。※追記参照
#include <stdio.h> int main(void){ int i; for(i=1; i<=100; i++){ if((i % 3 == 0) || (i % 5 == 0)){ if(i % 3 == 0) printf("Fizz"); if(i % 5 == 0) printf("Buzz"); printf("\n"); } /* 以下二行と返り値追記 */ else printf("%d\n", i); } return 0; }
アルゴリズム自体は多分2分足らずでもやっと思いつき、書いてる途中で脳内もやっとを形にできた。でもCの文法を忘れていて、コンパイルを通すのに独習Cを調べつつ、5分くらいかかった。
その時に、(i mod 3 = 0)とか書いてて、なんか自分はやっぱりダメなんじゃという気にさせられた。代入と比較の区別がついてない。そういえば先日も、編集してるファイルが違ってたとかカンマをつけ忘れてたとかでエラーがでてるのに、それになかなか気がつかなかったり、if文の条件が成立する場合としない場合を逆に考えてしまったりと、そんなぼんくらミスばかりしている。
そんなときに、「ああ、自分ってプログラマ向いてないのかも」と感じさせられる。
そしてなにより自分がプログラマに向いていないと思うのは、知的探求心の問題だ。プログラマを志していたがその道を諦めた友人に、なぜプログラミングの勉強をやめたのか?と聞いたとき、彼から帰ってきた答えはこうだった。「この道に進んだら一生勉強しなきゃいけないから。自分にはそんなことはとても無理だと思った」この答えを聞いたとき、でもプログラミングの勉強だったら楽しくないのかな?と思った。しかし自分を省みたとき、私自身もそう熱心にプログラミングの勉強をしているわけではないことに気がついた。Macに入っている一通りの言語でとりあえずHello!World!を書いたりしたが、だからといってそれらの言語の得手不得手がはっきりわかるまで勉強したわけではない。文法だって忘れてしまった。アルゴリズムを熱心に勉強したことはないし、なにより自分は最も唾棄すべき「とりあえず動けばいい」と思っている人間だ。エラーがでてそれを直しプログラムが動いたとき、なぜそのエラーが出なくなったのか?なぜ動くようになったのか?そうしたことを納得がいくまで調べることは滅多にない。なんとなく、ああいう理由なのかな?と考えて、それだけですませてしまう。もう一度書くが、自分が書いたプログラムが思った通りに動いたときは楽しい。でも、そこで止まってしまうのだ。なぜ動いたのか?それを徹底して考え、理解してはいない。
今のバイト先の開発チーフには、いつもこの点を注意される。なぜそれでいいのか徹底的に考えろ、ドキュメントをちゃんと読め、関数の挙動がわからなかったらソースを読め、と。でも正直、動いてくれたらそれでいい。さすがにライブラリのドキュメントを読む癖は多少ついてきたが、けれどもそのソースを読むところまでは正直頭が、気持ちが回らない。
だから、自分はプログラマになれないと思う。いつまでたってもコーダーのままだろう。
プログラミングはとても特別な才能がいる仕事だと思う。それは、アルゴリズムやデータ構造、オブジェクト指向などといった抽象的なものごとを理解し、それを具体的なソースコードに落とす頭だけではなく、ものごとについてとことん考える知的探求心も必要だ。その二つを満たす人こそがプログラマなのだと、一コーダーなりに私は思う。
だから私は、プログラマになれません。
【追記】
さすがに仕様を満たしていないのは恥ずかしいので直しました。こういう間抜けなミスをするところがなぁ…orz。
mainについて熱くなっている方々の話にはいまいちついていけないのですが、私はこれをCで書いたつもりですし、戻り値がないことにも警告はありませんでした。コンパイラはgcc version 4.0.1 (Apple Inc. build 5465)です。
生産力のある男性が痴漢で社会から抹消されるのは経済的損出だと思うよ。仕事がたて続いて性的な欲求を十分に解消できなくなるときだってある。そんなときに仕方なく満員電車で通勤する中、社会的抹消というリスクがありながらおしりに手が伸びるというのは、これはもう本能の問題で回避できない状態になり得るわけだよ。それを自制心の問題とか、人間性の問題とか言ってしまうのが間違いだと思う。男性であれば全員そういう状況になりえると思うべきだ。
多くの男性がそうは言わない理由は、自分は痴漢なんてしないというポーズをとることが、自分への評価へつながる、とくに女性からの評価になると本能的に知っているからだ。男性の敵は男性である。痴漢に厳罰をと叫んでおいた方が女性からの評価が高まり、そうすることが自分にとって得だという判断だ。ただし、それは欲情していない状態時にのみ言える事だ。欲情していないときは男性は賢者たりうる。
しかし、それがいざ満員電車という否応なしにメスと接近させられる状態になったとき、会社をクビになるリスクよりも見知らぬ女性の尻を衣服の上からそっと触る程度の事の方を求めてしまう状態になる。本能からくる衝動には勝てないのだ。断食の後に食料をみせられたら食べてしまうように、砂漠のオアシスで水を飲んでしまうように、尿意が我慢できないように、大事な会議で眠ってしまうように、突発的な性的刺激により発情した状態になったときの行動は自制できないのが動物としての人間の習性だ。
つまり、満員電車というような過密状態に雄と雌とおいてはいけないのだ。その状態で雄に自制を求めるのはストレスに他ならない。女性は男性を発情させないためにもっと気を遣わなければならない。痴漢を生み出してしまう状況は国家にとって損失なのだ。女性が嫌悪を訴えるのは当然、それを受け男性が男性を強く裁くのも当然、男性が満員電車で痴漢を働いてしまうのも必然だ。この状況は社会的損失を生んでいるのに、犯罪者の個人的問題として放置してはならない。
もちろん、満員電車のような異常状態ではない、日常空間で変態行為を働く者は裁かれるべきであろう。男性の性的衝動による行動のうち、満員電車内の状況というのは酌量の余地があることを女性も男性も認識した方がいいと思うのが私の意見だ。
ちょうど渡辺靖の『アメリカンセンター』を読了したので、アメリカ関連ということで観た。
イラク戦争に派遣された兵士たちが帰還後PTSDに苦しみながら暮らす生活を追う二夜連続ドキュメンタリー。
泥沼化したベトナム戦争は、最終的にソ連崩壊というアメリカ側の勝利と見なす(にはあまりに重い代償は多いが)決着は、現在のアメリカをアメリカたらしめるエクスキューズを与えてしまったという点において、未だ良策に導けない他の先進国の責任はあまりある。
過ちを犯しても、「あのときは、そうするしかなかった。」「どうしようもなかった。」と自らの否を認めつつも根底では自分も被害者なのだという居直りタイプの人間でもないかぎり兵士には向かない。
約2億五千万もかけ、イラクを模したハリウッドのテーマパークさながらの最新型の訓練場で、どれだけ訓練を積んだとしても、現実はそれを軽く飛び越えてしまっていることを、その場で兵士は知ることは出来ない。命令への絶対服従と規律をたたき込まれても、戦場においてのみ有効であるならば、それは集団ヒステリーと何ら変わりはない。
彼らの多くが帰還した後の生活は、アメリカ社会を揺るがしかねない危険因子としてそこにある。
勿論、彼らがそれを望んでいるのではない。彼らが人間らしくあればあるほど、心の傷は深く普通の暮らしが困難になってしまうのだ。
ベトナム戦争以後、徴兵制が立ちゆかなくなったアメリカでは、大学進学の奨学金や中産階層に届くか届かないかの収入を餌に、低所得者を釣り上げるため1973年に志願制に変える。
誰しも生きていかなければならない。暮らしていかなくてはならない。明日のパンを得るために、また国家のために尽くす、自分は正しいことをするという後押しもあり、若者たちは入隊する。ベトナム帰還兵の二人に一人は、その後の人生に何らかの精神的トラブルを抱えたとされている。イラク戦争はまだ終結していないが、既に5年が経ち一向に良い結果には到らず問題が積み重なるばかりだ。
科学の進歩により機械化された最初の戦争であった第一次世界大戦以後、「兵士の心の問題」研究されている。アメリカは現在進行形でさらに強い兵士の育成のため研究を重ね実行に移し続けている。攻撃は最大の防御と信じて疑わない姿勢は、国家の安全保障上、戦略上選択せざるを得ないとしているが、果たして本当にそうなのだろうか。
二夜目は、「ママはイラクへ行った」というタイトルとともにイラク戦争へ派遣された母親たちの生活を追う。
現在までにイラクへ派遣された兵士のうち女性は一万人でそのうち三分の一が母親であるという。戦場で人を殺した自分が良い母親になれるのかという悩みを持ちながら子育てをしている。
軍隊がジェンダーレスの世界となるのは、フェミのひとたちには喜ばしいかもしれないが、湾岸戦争ではベトナム戦争時二%以下だった女性兵士の割合が、十一%となり戦場にも送り込んだ。さらにイラク戦争では後方支援に限定されていた任務が事実上、戦闘地域へも拡大した。帰還後、PTSDに苦しむ人は多い。今以て好転しない戦局は、人員不足を補うため州兵も派遣する。ある州兵の女性は入隊して半年でイラクへ派遣された。たった半年の訓練で戦場へ送るとは旧日本軍なみの愚かさだ。
数日前に、共和党のペイリン氏が「ブッシュドクトリン」について言及された際、口ごもったシーンは、ホッケーママには半径3メートルの現実しか関心がないということを露呈させてしまった。いい加減イラク戦争も終わるだろうか。
アメリカ兵の死者は4千人を超えた。イラク人の死者は少なくとも15万に上るとみられてる。日本では戦後ただの一人も戦争で命をおとしていない。しばしば国際世論では、金しか出さないと誹られ続けても、わたしたちはその金を汗水流して拠出しているのだ。湧き出る金などない。
ああ。数値を出さないでただ形容詞だけで語るとこういうことになるよね…
まあでも調べるの面倒くさいんで具体的な数値は出さない方向で議論を進めるけど、
安心って安全とも違うのよ。
安全は数値で測れる。安心は心の問題だから数値化には馴染まない。
たとえばみんなで鍋をつつくとき、
直接はしで鍋から具をとるのは鍋につばが入るから嫌だ(安心できない)という人がいる一方、
はしについたつばくらい気にしない(安心できる)という人もいる。
同じように、
米についた農薬やらカビ毒やらがどの程度の量までなら「安心」できるのかというのは人によって異なる。
その数値であればほとんどガンに罹患する確率はなく「安全」とされるとしても、「安心」は出来ない消費者がいる。
だから、食品の安全基準は厳しいのだと思うけど、どうかな。
2人の友人の話。
二人とも運悪く、春の就職活動は失敗に終わり、
夏・秋採用に向けて動いていた。
よってこれから一緒に飲みに行ってくる。
が、時間が少々あるので、いわゆる勝ち組と負け組というものについてメモを残す。
・私の思う勝ち負けとは決して年収や仕事内容などではない。心の問題である。
・2人の友人の間の差異はその心の持ちようであったと思う。
・A,B間の性格に大きな差はない。共にそれなりにプライドが高いが、Bは少々めんどくさがりである。
・Aは「仕事は手段」と考えていた。Bは「仕事はステータス、やりがい」と考えている。
・Aは手当たり次第に様々な会社を受けた。
・最近のBは「やりたいことが見つからない」が口癖で、営業でなく企画がやりたいと言っている。
・両者とも仕事に対する考え方、内容の理解が浅い。
・B曰く、「周囲に劣等感ばかり感じる」
勝ち組:精神的満足を得た者。人は人、自分は自分という考えが出来る。
負け組:精神的に不満足な者。人に対して僻みや劣等感を常に持つ。
要は「足るを知る」ことが大事なんじゃないだろうか。
KDDI、ネット不可携帯を発売へ…有害サイトから子ども保護 : 経済ニュース : マネー・経済 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
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中学2年の16%が「ケータイで1日51通以上メールのやり取り」:Garbagenews.com
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昔・・・ 毎日のように夜遅く電話してくる
友達が
いて非常に迷惑だった。
☆ゴミの通院日記☆:波浪注意報 - livedoor Blog(ブログ)
私はあんたのことなんて知らない、お前が男とどうなろうがしったこっちゃない。
言いたいのに、いえない。
うざいからやめてくれない?
泣きながら電話するのやめてくれない?
横増田だが、なんつーか視野が狭いな。
経済はそれ自体、複雑な生態系を成している。
要らないものは死ぬのは人間社会の定めなんて事があるものか。
世の中は全部繋がっているわけで、いつまでも下層民が防波堤になるわけじゃない。
そう簡単に「誰が要らないか」などという決定をなすことはできない。
そういった視野狭窄は、(いささか短絡的に言えば)治安の悪化を生むだろう。
既に議論は内心の問題にいっているみたいだが、
それも、何故わざわざ面倒くさい方向へ議論を進行させる?
確かに世の中では赤の他人より家族を優先するのは一般的なことだろう。
そのことと赤の他人を助けるためのセーフティネットが建前(=本音では身内さえよければいい)だというのは何の矛盾もないと思うが。
確かに矛盾は無いが、それよりかは
「なんかあったときが怖いから助け合う制度がありますよ」
と考えればいいだけだけではないのか?別に赤の他人も身内も関係ない。
ちゃんとしよう、といつか思って、それで一日二日、ちゃんとしたら、なんかどうでもよくなってしまう自分がいる。三日坊主とは、信心の心の問題のように思う。
昼くらいに起きた。洗濯はした。昨日はじめたネトゲを続けて、しばらく熱中する。クリーニングにもいった。あそこの店員とはソリが合わないけど、クリーニング屋の店員とソリがあってもどうしようもない。
インスタントラーメンを買ったので、豚肉をきったものを入れて塩ラーメンを作る。野菜が入ってないと美味しくない。それでまたネトゲ。レベル上げは退屈だ。好みのネットラジオを聞きながら進める。耳で聴く作業と、クリックする作業は、同時進行が可能なようであるが、どうしようもなく下らない。下らなすぎて、七時過ぎくらいから、独りぼっちが悲しくなる。おせぇよ。独りはつらい。独りは寂しい。なぜ独りがいやかというと、独りは幸せじゃないからだ。エアマスターの小西がいうように、もう長生きなんていらない、だから、幸せじゃなくていいんだ。そう決めてしまえば、きっと生き易くなる。けれど、完全にそういうわけにもいかない。ぼくは社会人で、会社に行っていて、そこでは人と関わらずに、生きることはできない。「みんな」の中にいれない。独りにもなれない。なら、どうすればいいのか。ぼくは、きっと機械のようになればいいんだと思った。自分を持たずに生きよう。一切の気分を捨てよう。そのために、頑張って、ぼくは、習慣を味方につけようと思う。自分の中の血を入れ替えるのだ。暮らしから、人間的なものを排除するのだ。キリスト教に、七つの大罪というものがあって、それらは人間であるがゆえの、罪なのだ。それを排除しよう。美味しいものを喰おうとするな。女性と仲良くなろうとするな。仕事で偉くなろうとするな。正しい習慣を、機械的に生きるんだ。もう人間なんて終わりだ。機械だ。これからは機械だ。
「あなたは、あなたの魂に率直に生きるべきだ。いかなるときも先ず自分が満足できるように、行動するべきだ。個人主義といえば分かりやすいが、これはもっともっと自分主義な考えだといっていい。好き勝手絶頂に生きればいいといってもいい。人生を生きる中で、様々な選択肢が私たちに投げかけられる。その際に、本当にあなたが望む選択肢以外を選んではいけない。後悔するような選択肢を選んではいけない。そうやって生きていないから自分を愛せなくなる。魂が濁る。
絶対的な正しさ、というのがあれば、それは自分の心に率直かどうか、それ以外にはありえない。あなたはいつだって正しい行いをしなければならない。どうか魂に率直に、迷ったときは直観で、正しく生きて欲しいと思う。
法律を犯すことは確かに罪だ。法律で裁かれる。しかし、本当の罪とは、自分を裏切ることだ。盗みをはたらくことも、人を殺すことも、幼女を監禁することも、法律を犯すことは、はっきりって社会との関係の中で構築された罪でしかない。社会的制裁を受けることにはなるが、これは社会とあなたの関係であって、あなたとあなたの心の問題ではない。本当の罪は、社会から与えられるものではなく、自分が、自分の心が与えるものだ。社会的な罪は刑期を終えれば、あるいはお金を払えば許されるが、自分の心を裏切る罪とは一生拭うことの出来ない罪だ。許されることのない罪だ。
しかし、迷うときもあるだろう。社会と自分の心に沿って生きることの間に葛藤が生まれることもあるだろう。それならばきっちり天秤にかければいい。傾いたほうが、あなたの正しさだ。
あなたが人を殺したいのならば、あなたとあなたの魂とに誓えるならば、家族親類友人社会的地位を失うリスクを考慮しても一切後悔することなく全ての責任を負うことができるなら、あなたは殺すという選択肢を選ぶことができる。つまりあなたは人を殺してもいい。
いや、それを選ばなければ、人を殺さないほうを選べば自分の心を裏切ることになってしまうならば、むしろあなたは、あなたとあなたの魂のために人を殺しなさい」
まあ、わかりきった答えだった。彼と話すということはそういうことだ。自分のことをプロテスタント系だという彼は牧師で、近所の教会に住んでいて、なぜか休日にはケーキの焼き方教室をなんかをしている。で、なんとなく私はケーキ教室に通っているのだ。
それにしても……この考えかたって、つまり、キリストすら正しくないときがあるということをいっているのだ。私がキリストの言葉に納得できなかったら、違うと思えば、それはそれが正しいというのだ。その正しさのみが絶対的な倫理の軸になりえるというのだ。法律も道徳も宗教すらも自分を律するものにはなりえないということだ。宗教をある部分では否定している宗教だなんて、なんだかそっちのほうが信用できそうと思った自分にびっくりする。
私は今年で五歳になる子供に「なぜ人を殺してはいけないのか」と聞かれた。そして答えることが出来ず、とりあえず三日の猶予を貰った。そしてあれこれ悩んで、タイムリミットとなる今日、協会を訪ねたのだ。
私はこれを自分の息子に話すだろう。分かってもらえないかもしれないが、私は五歳になる息子を信頼しているのだ。それに、それ以上に私は、私の選択を信頼しているのだ。
本人にまったく興味なくて、単なる金ずるとしか思ってないって意味だよ。
女の内心の問題なので、何かの拍子にはっきり露見しなければ男の側からは分からないことも多い。
http://anond.hatelabo.jp/20070928145817
http://d.hatena.ne.jp/Rir6/20070929/1191012246
オタクなんて濃くてナンボだろ。だせー奴だなぁ。(という前提に対する反発なんだろうけど
さておき、元増田ってさ、間違った知識をいかにも俺知ってるぜっぽくヒケラカされたのでカチンと来た、というだけの話なんじゃねーの。
別にオタクじゃなくても、例えば仕事の知識だって勉強の知識だって、間違ったことをいかにもという感じでひけらかされると誰でも良い気はしないはず。
id:Rir6の主張自体には同意できる(知識がある奴が偉いワケじゃない)が、元増田とは全然関係のない所でファビョってるという感じしかしない。
知識がぬるいのは悪、だなんて誰も(多分、当のオタクでさえも)思ってないけど、バカ丸出しの知ったかぶりをするような人間は叩かれても仕方ない。
実際に叩く叩かないは、その人の優しさというか手心の問題じゃね。
>気に食わないやつが殺されたらスッキリするっていう人権感覚が蔓延したら「正義のための人殺しは容認される」っていうことにならないかと心配だ。
何これ。あまりにも飛躍しててついていけない。
これ、強姦殺人の裁判に、弁護士と被告側が被害者を冒涜するような発言を繰り返している、って話だよね?
「スッキリする」の主語は匿名掲示板が背負った「声なき声」、ある種の「民意」だわな。
彼らは「気に食わないやつを殺したい」のか?「正義のために」死刑制度を望んでいるのか?これ書いた人、他人を馬鹿にしすぎてないか?
彼らはああいう言い方で「こんな恐ろしい、不条理なことがあってはならない」「人権を踏みにじってはならない」と訴えてるんじゃないのか?
己の衝動的な快楽のために他人を犯して殺した奴を、野放しにするな、ってのは、真っ当な「人権意識」じゃないの?
>例えば、殺人事件の被害者遺族が、交通死亡事故の被害者遺族が受け取る死亡保険金程度(あるいは、それ以上)の経済的救済を受けられたとしたら、被害者遺族は被告の死刑をこれほど強く望むだろうか?
よく、そんなこと言えるなぁ・・・ 被害者に直接聞いたらどうだ?「お金が貰えないから、死刑にしないと気が済まないんですか?」って。
>死刑にならないことを前提で取り調べが行われたほうが、検察の言いなりになって供述調書にサインをしたり、弁護士の小手先の法廷戦術で事実に反する供述調書を丸呑みしたりして「事実の究明=事件の教訓化」よりも「反省の態度=上辺の取りつくろい」を優先するようなケースが減るんじゃなかろうか。
戦後、汚職で死刑になった人はいないけど、彼らは上辺を毎度毎度とりつくろってないか?
>そして「だれがそのコストを負担するんだ!?」って反論には「もちろん税金で」と答えたい。
税金は国民の金だわな?つまり、強姦殺人鬼出現→被害者の心を慰めるのは銭→「お前らが払え」ってことだよね?
>大事なことは、事件の背景にある社会矛盾や人間心理の不条理を解明して教訓化し、社会全体が努力してこれを取り除くこと
この人の言う「努力」ってあれか?殺人犯に無関係な国民みんなが金払えってことか?
この論のキーワードは「コストパフォーマンスより人命尊重」らしいけど、俺の反論はこういうことだ。
人間心理の不条理が解明されて、それを取り除く日はこない。それは全体主義の発想だ。
ここから先は例え話。ポル・ポトが怠け者や精神異常者を片っ端から殺したことを思い出して欲しい。
死刑じゃない。虐殺だ。彼らは、理想社会の建設に努力しない、わけのわからない人間を、「浄化」といって「取り除いた」んだよ。
クメール・ルージュはとっくに崩壊した。犠牲者には親も親類もいただろう。
それなりの金を払えば解決か?彼らは「一生忘れない」と誓うだろう。寝首をかくチャンスを探すだろう。
彼らの生まれた場所は矛盾と不条理に満ちている。彼らは「社会全体の努力」なんてハナから信じないだろう。
人が社会に対する信頼を失えば、犯罪は犯罪でなくなる。残るのはやったもん勝ちの荒廃だ。
今の日本で「殺人鬼を死刑にしろ!」と訴える側も「それは人間としてどうよ?」の反対派も、
人が安心して生きていける社会を望んでいるという点では同じ筈だ。
ヒステリックな発言に苛立つ気持ちはわかるけれど、