はてなキーワード: 希薄とは
知人からこの日記を改変してくれーと言われたので書く。ということで間借りしますー。
常々ここをヲチされている、顔も知らない愛すべき増田民たちの想定の範囲内だったかどうかは別として、自分はふだんはてなダイアリーで日記を書く人である。いや。1ヶ月ではてなブックマーク100個ブックマークしてそのうち半数をコメントするかどうかも結構あやしい超ライトはてなダイアラーの自分が、ここを覗いている数多の重度のはてなダイアラーたちを前にしてこう堂々とはてなダイアラー宣言するのもおこがましい話ではあるのだが、世間一般的な基準に従うと、いちおうはてなダイアラーの部類に振り分けられるらしい。もともとがまんが足りなく、「finalventの日記」のいいかげんな書き飛ばし記事がはてブ注目エントリー入りしているのを見た瞬間に心がムズムズして記事を書いてトラックバックを送らずにはいられない、傍目にはおよそ典型的なはてな依存症の自分がなぜそうまでして毎日はてなダイアリーを書いているのかと言えば、これでも物書きの端くれだと思っているからである。モノを書く人間ならはてなのダイアリーやブックマーク、嗜んだことがなければ文字通り「お話にならない」し、はてなダイアリーを使わない人間が書いた文章なんて、大抵ロクなもんじゃない。
読む価値が無い、とまで言ってしまうとそれは過言として。非はてなユーザーが書いたものでも読むべき文章は無数にある。はてなユーザーが書いたものでもはてブ1発分の価値すらない文章もザラにある。あらゆるものの90%はクズである。はてなダイアリーを使わない物書きがなぜダメなのかと言えば、それははてなダイアリーを使っていないからだ。彼らは「はてなダイアリーがない世界」のことしか知らない。はてなダイアリーを使う人間は、はてなダイアリーを使わなかったこともある人間である。彼らは「はてなダイアリーを使う世界」と「使わない世界」、両方について自らの経験に基づいて一応の見識を持つことができる。モノを書く人間や、ブロガーにとって一番の武器は、彼が持ちうるそのパラダイムの多さだろう。
普段はてなダイアリーを使っていない人間は、ためしに想像してみてほしい。どうやって「記事を書く」のかを。まずジャンルは? いったいどれを選べば良い? 非モテダイアラーのrepublic1963とfurukatsuとkiya2014とumetenは、それぞれどうキャラが違う? スキンはどれを選択する? hatenaシリーズはともかく、指定なしって結構ディスプレイサイズがでかいユーザーにとってはクセ者よ? キーワードになっている単語はどうやってつける? なにも考えずに記事を書いてるだけじゃ、誰も読まずに流されるだけですよ? どこで記事を書くのを止める? 先っちょだけ書いてほのめかす?真ん中まで書いて読者に思考の道筋を与える?それともギリギリのところまで書いて「続きは後日」? [続きを読む]って、どこまで溜まったらつけてほしいものなんだろう……? 等等。いかに「はてなダイアリーの世界」について無知なのか気づくはずだ。自分の周りには、あんなにもはてなダイアラーが多いと、ずっと思っていたはずなのに。いままで非ダイアラーは一体ネットの何を見ていたというのだろう?
はてなダイアリーひとつとっても、「こちら側」と「あちら側」でこれだけものの見方が違うのだ。思考の越境はかくも困難なり。しかしおそらくモノを書くことを生業にする人間こそ、常々何かについて考え、不断の「思考の越境」に努めなければならない人種である。それが日常の些細な事象についてなら尚更だ。ここで勘違いしてほしくはないのだが、自分がはてなダイアリーを積極的に奨励し、その欠点を必死に覆い隠してはてなダイアリーの普及に尽力している、と思われるのは心外である。そんなつもりは毛頭ない。どう言い訳してみたところで自分の文章をロハで叩き売るのは毒だ。百害あって一利なしである。それでも、絶望の際に立っておずおずと久遠の深淵を覗き込んで尚、闇の底から見るはてなダイアリーのシンプルな美しさについて必死に思いを巡らせる。それがモノを書く人間の、最低限持つべき心意気だと思う。
『はてなダイアリーを使わない人間にものを書く資格がない』と言うわけではない。が、やはりモノを書く人間には何かしらの「はてな(hatena)」がなくてはならないように思われる。別にそれがはてなダイアリーであれ、とは言わない。ブックマークでも、アンテナでも、人力検索はてなでも。物書きならば何かのhatenaじゃなければならない。そうでなくては、思考がねばついたものにならない。さらさらした思考からは、何も生まれない。さらさらした文章が生まれるだけだ。思考の「越境」と「拘泥」はものを書くために必要不可欠な要素である。その為には、多くのブログを読むのもいろんなアルファブロガーから話を聞くのもよいが、やはりはてなの「キーワード検索」こそが最も頼りとする素養となるだろう。
と、ここまで書いてしまえば、これ以上ない決定的な批判に晒されずにはおられないことは馬鹿ではないから自分でも分かっている。
「オマエのダイアリー、まだはてなアンテナ登録数10人いないじゃないか」と。
いや。まぁ。それはそれで。そっちのほうがマイノリティな界隈にバカ受けな文章が書ける、ということにしておいて。
おまけ
手塚治虫『人間関係が希薄な人は漫画は描けない。漫画とは読者との会話だからだ』
宮崎駿『ロクに人生経験も無いオタクを雇うつもりはない。火を表現するには火に触れないと駄目だ』
庵野秀明『アニメ・漫画に依存するのは止めて外に出て欲しい。あれはただの絵だ』
富野由悠季『オタクは日常会話が出来ない。アニメ作るならアニメ見るな』
藤子・F・不二雄『よく「漫画家になりたいなら漫画以外の遊びや恋愛に興じろ」だとか
「人並の人生経験に乏しい人は物書きには向いていない」だとか言われますが、
私の持っている漫画観は全く逆です。
人はゼロからストーリーを作ろうとする時に「思い出の冷蔵庫」を開けてしまう。
自分が人生で経験して、「冷蔵保存」しているものを漫画として消化しようとするのです。
それを由(よし)とする人もいますが、私はそれを創造行為の終着駅だと考えています。
家の冷蔵庫を開けてご覧なさい。ロブスターがありますか?多種多様なハーブ類がありますか?
どの家の冷蔵庫も然して変わりません。
多くの『人並に人生を送った漫画家達』は「でも、折角あるんだし勿体無い・・・」とそれらの食材で賄おうします。
思い出を引っ張り出して出来上がった料理は大抵がありふれた学校生活を舞台にした料理です。
人生経験自体が希薄で記憶を掘り出してもネタが無い。思い出の冷蔵庫に何も入ってない。
必然的に他所から食材を仕入れてくる羽目になる。 漫画制作でいうなら「資料収集/取材」ですね。
全てはそこから始まる。
その気になればロブスターどころじゃなく、世界各国を回って食材を仕入れる事も出来る。
つまり、漫画を体験ではなく緻密な取材に基づいて描こうとする。
見えてきたような気がする!(こっちの問題意識の話だけど)
匿名性のある掲示板とかで話し合うのは、他者に対峙する自己を大勢の他者に埋め込むことができるから、コミュニケーション力が育たないんだね!?
非コミュが匿名(2chや増田)で発言できるのは当たり前ってことか。結局、他者と自己を対話の場に位置づけられないコミュニケーション力が問題だというわけだ。
インターネット自体も問題だね。自由に取れるアカウント、自由に変更できる名前(HN)という、分化した希薄な(責任のない)自己を所有するだけで、現実に対して害にしかならないものね。
その通りなんだけどさ、だからこそパーソナリティーの希薄さをなんとかしようとするモチベーションが生まれるんじゃないかな。
コミュニケーション能力があれば(卵とニワトリ的な部分もあるけど)ある程度のコミュニケーション経験に踏み出せるから、自分が相手にとってコミュニケーションするに足るパーソナリティーを持っているかどうかを試される機会が増えて、そっちもなんとかしないと、って実感できるんだと思う。
コミュニケーション能力に劣っていてもパーソナリティーが魅力的な人って言うのももちろんいるけど、それは偶然そういう人がいるだけで、教育のモデルにはならないんじゃないかな。
生まれも育ちも東京、両親の出身がド田舎(もちろんADSLなど通っていない)という自分には、農や林業を生業とする人々の生活レベルでの精神的充足はうらやましいばかりだ。身の回りのものは基本自分で作るみたいな、村の中の人々で手を貸し合って生きるみたいな雰囲気の中で、生きていることに対する精神的な満足感が育まれている。
が、人間関係面では最悪だと思う。表裏の差が激しく(表の顔がいいから助け合いがあるのだが)、伝聞による差別が日常的にある。
都会ではそのどちらも希薄になっているが、それが精神的に楽な場合も多い。プライバシーが隣人により踏み荒らされることもないし。
どっちが精神的にいいかっつっても、もともと土俵が違うので比べられない。それくらい違う。
藤子・F・不二雄『よく「漫画家になりたいなら漫画以外の遊びや恋愛に興じろ」だとか
「人並の人生経験に乏しい人は物書きには向いていない」だとか言われますが、私の持っている漫画観は全く逆です。
人はゼロからストーリーを作ろうとする時に「思い出の冷蔵庫」を開けてしまう。
自分が人生で経験して、「冷蔵保存」しているものを漫画として消化しようとするのです。
それを由(よし)とする人もいますが、私はそれを創造行為の終着駅だと考えています。
家の冷蔵庫を開けてご覧なさい。ロブスターがありますか?多種多様なハーブ類がありますか?
どの家の冷蔵庫も然して変わりません。
多くの『人並に人生を送った漫画家達』は「でも、折角あるんだし勿体無い・・・」とそれらの食材で賄おうします。
思い出を引っ張り出して出来上がった料理は大抵がありふれた学校生活を舞台にした料理です。
人生経験自体が希薄で記憶を掘り出してもネタが無い。思い出の冷蔵庫に何も入ってない。
必然的に他所から食材を仕入れてくる羽目になる。 漫画制作でいうなら「資料収集/取材」ですね。
全てはそこから始まる。
その気になればロブスターどころじゃなく、世界各国を回って食材を仕入れる事も出来る。
つまり、漫画を体験ではなく緻密な取材に基づいて描こうとする。
なぜ?
元記事を読んでいると、なんだか理論先行型な感じ。
「まともな人間とは何であるか」を分析したのち、「そのような人間になるにはどうすればいいか」を考え、それに至るまでの具体的なプランを立てる。
…っていうふうに行動できるのは、いまの君のような「頭の良い人(悪く言や、頭でっかちの理屈屋)」だよね。
でも君が目指してるのはそういう人じゃないんだろ?
まあ、君が実際に「頭でっかちの理屈屋」なのかどうかは分からないけど。
自分の内面を変えるのはやめて、周囲の環境の方を変えたほうがいいんじゃない?
というと?
周囲の人に嫌な思いをさせるのが嫌なら、付き合い方を変えればいいよね、という思いつき。
or
人間関係を濃厚にする。なるべく頭の良い人たちと、できるかぎり多く付き合う。
いまいち、どういう効果が見込めるのかが解らないです。代理店とか、製作現場の実態が関係ないところでお話する分には有効なのかな?という気はするけれど、それがアニメ業界が現在抱える問題の解決につながるとは思えません。
「ガンダムにシャア乗せたら最強じゃね?」みたいな話は、面白いんですが、実際に「細田守がジブリで作れば最強じゃね?」は失敗しているわけで。
と、アニオタ視点で思ったことを止め処なく書いてみたのですが、業界を良くしたい!というアクションは大歓迎なので頑張ってください。
学歴コンプレックスについての議論が「学コン」とのあやしげな略語(俺は大学への数学を思い出して苦笑いしかできない)まで飛び出すほど盛りあがってるが。http://anond.hatelabo.jp/20070223011440が源泉?
コンプレックスというのは非常に厄介だ。突き抜けた有名人になればコンプレックスを抱く対象にはならないが、同じコミュニティで対等に接している限り、劣等感を感じている者は、劣等感を呼び起こす対象に対して心穏やかにいられない。小学校の地元リーグで活躍する野球少年は、イチローに対して劣等感を覚えることはないが、年下の仲間に数値的な成績で負けているとしたら、これは劣等感になるだろう。コンプレックスとは少し違ってくるかもしれないが、すこし感覚はわかっていただけただろうか。
俺は大学を卒業してはいないので、社会の中で学歴コンプレックスを引き起こす存在ではないが、一流私大卒の新人が先輩社員に飲みの場で理不尽な皮肉などを言われている光景はよく目にする(ここではコンプレックスを抱く側とされているが、明治や中央は世間一般の大半の無名企業において一流大学であることを忘れてほしくはない)。
ところで、いわゆる超一流の企業においては、今度は学歴は全く問題でなくなっている。俺の経験では、高い成績を日常的に産み出している連中は、自信というような概念自体を忘れてしまっているように見える。学歴という感覚は無く、せいぜい初対面の話題として利用しているくらいではないだろうか。そこには林業関連の高校卒業?なんていうのも居たが、大学名を聞かれて「当然、東大ですよ。ウソです。チェーンソーの使い方を高校で習って大学は行ってないです」などと答えていた。特に面白い冗談だとは思わないが(毎度同じことを言うので身内の中ではオヤジギャグ扱いだった。まだ30歳に達していないが。)、そのような冗談の中でしか学歴の感覚が登場してこない。関心の対象は、いかに新しいものを生み出すかにしかなかった。ちなみに彼は、そのあと営業代理店業務を行う会社を立ち上げて独立し、しかしゆっくりと過ごしている。
高学歴であったり、高い能力を誇る人間は、コンプレックスによるやっかみや嫌がらせを避けるためにはこのようなコミュニティを選ぶしかないのだろうか。ある種の対人テクニックを身に着ければ(このような対人テクニックを総称して世間ではよく「謙虚さ」と呼ぶようである)コンプレックスの対象にもならずに過ごせるかもしれないが、そんなものを社会に出る前に得られる保障は無いだろう。大学でサークルなどに入れば先輩が教えてくれるものだろうか?会社内ですら、同じ学閥の先輩が後輩にそのようなスキルを伝授している風景は目にしないのだが。まぁ俺には最近の大学内での「意識の高い学生」同士の交流の様子はよく理解できていないので、多くは語れないが。
上に書いたような「コンプレックスの存在が希薄なコミュニティ」は、多くの場合特殊な場ではないかと思う。実力主義の中小ベンチャー企業でも学歴コンプレックスは明確に存在することが少なくない。職人業的な、極めて少人数の家族的なコミュニティか、もしくは突き抜けた実力を持つ人間が集まった企業のようなエリート集団にでも居ない限り、コンプレックスの意識を避けるのは難しいんじゃなかろうか。
ただ、後者のエリート集団に所属すると、今度はエリート集団自体が回りの他のコミュニティから「排他的」だとか「エリート」だとか言って揶揄されてしまう。確かに、コンプレックスを抱きうる常人があんなところ(俺が経験したのはせいぜい2社だが)に居たら、いくらか経験を重ねてしまっている場合は特に、一緒にやっていくことは難しいだろう。呼吸をするように物凄い仕事量をこなしていることを当然のように求められるから、普通はついていけない。俺も到底無理だったので「癒し系キャラ」役に逃げることでどうにか居場所をつくっていたような。なんであんなとこで働こうと思ったのか、いまではぜんぜんわからんw
コンビニで表紙につられて立ち読みする雑誌で「また外資系か」とか「ワーカホリックで人生楽しいの?」とか書いてるのを読むと、どちらもいろいろ大変だなぁと、余計なお世話だし「お前が言うな」なんだが、変な同情をしてしまうよ。
ちなみに俺自身は特別優秀でないし成果も全然出してないし、自分が落ちこぼれなのが当たり前だと思って生きてきたからコンプレックスは感じない。傲慢になろうにももともと何も誇れないので、そもそも「謙虚になる」かどうかという選択肢など無いような状態w
2ちゃんの哲学板とかいつぞやはてブでヒットしたニセ科学の菊池誠さんのBlogじゃないがそこらへんでよく見かけるフマ?なる人物がプライベートモードに追い込んだらしい本田由紀という方が最近朝日新聞で何かの賞を取ってそこらへんの流れからかその人が時流自論を最近担当している記事を読むことがあるのだけれども今日の記事をザッと独断と偏見で引用してみる。
まとめるとこんな感じだった((まとめてるか、ちゃんと要約できているかはわからない))
こういう見解は初めて見たので興味を持ってこちらにメモとして書き込むことにした。
問題は現在、平均的な共通社会意識が「ミクロな次元」の問題として認識するような社会環境に現状の日本にはあることが挙げられるかもしれないかな、と。
それは個々人が協同する機会が希薄化されているかもしれないことにも関連するだろう、とも思う。つまりインターネット((一例として挙げているだけで複数の現在の00年代日本における様々な間人媒体がって話っす。かな))というような副次的生活主体がリアルな生活主体を希薄化させてそしてまた双方が空中分解したまま進行していっている現今の社会環境が、その機会・可能性をますます低下させたまま進んでいっている、のかな、と。
以上、歿。((こんなに引用していいのか(Φ皿Φ)クワ?って今ちょっと不安に思いながらさて外出します図書館とかに。ひきこもりが。))
マクロにやっぱり見合った職が無いだけなんじゃないかと。
マクロに見合った職があるような経験っていうか教育を受けるマクロなものが無いってのもあるかもね。
ていうか両方じゃろうて。マクロがミクロをますます。ミクロもマクロをますます。じゃないかな。
いい感じに悪循環生み出してるからその分のマイナスの部分を国がどうにかせんと負債としていつか暴落しちゃうぜってことでは。大量粛清としての自殺者の切捨てっていうのとかで(ry。うふっ。
勉強不足なんでとんちんかんなこと書いてるかもしれないけど、神仏系の日本の神様って、基本的に律法を授けるとかといった「統べる神」の側面がものすごく希薄で、その代わりに生活の中で都度都度の現世利益の成就を助けたりする「機能神」の側面がものすごく強いんだと思う。しかも八百万分業体制だし。
カトリックや新教の教会で崇められる神様は、宗派ごとのニュアンスの差こそあれ、どこに行っても基本的に同じ三位一体の神だ。こっちの教会は「商売繁盛」によく効いて、あっちの教会で祈りを捧げれば「子宝」に恵まれる、なんてのはたぶん無い。モスクでも事情は同じだ。
神社とお寺がごっちゃになりがちなのは、そもそも生活の中の宗教としては、両者を分ける必然性があまり感じられていなかったからなんじゃないだろうか。日常生活レベルでの機能神としての役割さえ果たしていれば、それ以上の区別には割と無関心だったんじゃないかと思う。
異界の話で言うなら、恐らく日常生活レベルで自分との間に軋轢を生まない限り、宗教の違いには寛容というか無関心なんだろう。その代わり、日常生活レベルでの軋轢が生じる(またはその可能性がある)場合には、仮に“宗教”という名前では大げさすぎるようなちょっとした差異ですら「異教徒」扱いになる。
その辺の知識に興味が薄いというか意識の希薄さが影響する。
判りやすくいうと
PCエンジンとかメガドライブとかファミコンとかディスクシステムとかスーパーファミコンとかツインファミコンとかプレステとかゲームボーイとかネオジオとかワンダースワンとかゲームキューブとかLYNXとかセガ・マークIIIとかマスターシステムとかレーザーアクティブとかゲームギアとかドリームキャストとか光速船とかピピンとかPC-FXとかサターンとかバーチャルボーイとか3DOREALとかテラドライブとかX1twinとかNintendo64とかDSとかWiiとか各種ゲーム機をゲームに興味の無いオッサン・オバサンが「ファミコン」と総称するのに似てる。
相手が喜ぶことをしようといつも思っていた。そのために相手を喜ばせられる行動をした。実行したことがあるのは、「話をよく聞いてあげる」「さりげなく気遣う」「空気を読む」とか。でもこれらは別に相手を喜ばせるためにした行動じゃなかった。自分を好いてもらうための行動だった。相手を思ってのものじゃなく、自分を思ってのもの。他人を思いやって生きていこう!とか意気込んでいたら、いつのまにか単なる保身人間になっていたって話だ。
自己中心的な人間だけにはなるまい、と常々思っていた。自分のことばかり話さないようにしよう、自分の利益ばかり追求せずに他の人のためになることをしよう、他の人の迷惑にならないように、邪魔にならないように生きよう。それらを自分の思考の根幹にしようと心がけていた。会話のときは、自分のことは極力話さないようにして相手の話に聞こえのよいレスポンスをする、相槌を打つ。誰かが困っているときは、悩みを解決できるように自分ができる限りのアドバイスをする、援助する。何かをするときは、他の人にできるだけ迷惑をかけないために一人でする、進める。そうして自らの信条を貫いていった。他者のために。
そうして過ごしているうちに気づく。どんどんと自分の存在が希薄になっている。自分自身の感情が消えていっている。そして、信条を持つ前よりも自己中心になっているということに。
人のため、なんてのは全部好かれたいがためのものだった。別に相手のことなど考えていなかった。俺を認めろ。そんだけだった。そういうふうに行動していた時だって、自分でそうだと思っていただけで他の周りの人々にはどう見えていたかは分からない。すごく醜いものが見えていたかもしれない。
別にこの文章をまとめる気は無いし、まとまる気もしない。ただ、これまでの自分っぽいものを書いておいて、これからの自分とやらを考えるための比較対象として書いた。これまでとこれからが別物になるかは生きてみないことには分からない。そうなったらいいなとは思うけど。
文章がつくづく分かりにくくて抽象的で嫌になる。でも書く。書いた。読む気はしない。消したくはない。恥ずかしくても匿名だ。
この病はmixiのアーキテクチャーに利用者がだまされることによって生じる。「チカシイけれど日常的にコミュニケーション出来ない相手の消息を常に確認出来る、というところに価値を見いだしてる」といった、mixiのサイト構造(=ナビゲーション設計)との距離の取り方を会得すれば、おのずと改善される症状である。
ある利用者にとって、あるコミュニティはそうかもしれないし、またあるコミュニティはそうではないかもしれない。
mixiは日本国内におけるSNSのデファクトスタンダードになっている。「確かに入ってる人の数が多いんで身近にやってる人もちらほらいる」ということこそがコミュニティ系サービスにとって重要であり、人が集まらない二匹目のドジョウサービスはサーバースペースの肥やしとして朽ち果ててゆくのみ。
はてな匿名ダイアリーがまさにそれであると私は感じています。
すみません、何が言いたいのかよく分かりません。
なんか「最近のmixiってコミュニティとしてどうなのよ」話が近頃頻発してるようなので、ようやっと最近mixiに誘われた自分も何か書いてみる。
言いたいことはよくわかるんだ。たしかに「コメントしない(されない)と疎外してる(されてる)感じがする」とか、「コミュニティの存在意義がそれほど大きくない」とか。個人的には「チカシイけれど日常的にコミュニケーション出来ない相手の消息を常に確認出来る」というところに価値を見いだしてるんで、今みたいに大きい必要というのはそもそもない。SNSは始めてなんでmixiは面白いと思ってるけど、別にmixiである必要もない。確かに入ってる人の数が多いんで身近にやってる人もちらほらいるけれど、だからといってそういう人たちとmixiで寄り深い関係になれるとは思わない。友達に離れる奴しか慣れないし、どうあがいたって友達100人なんてできっこない。
特に自分みたいな極端に人付き合いの悪いタイプなんぞ、コメントでやり取りするのがおっくうだからコメントに書かずにわざわざ自分の日記に他人の日記に対する返事を書いたりする。だから個人的にはmixi的な「ブログに延々と挨拶が続く」式のコミュニケーションでなく、「日記への返事は日記を持ってする」的な、今風で言えばトラックバック的な、昔風に言えば交換日記的なコミュニケーション手段を持ったSNSがあったら面白いと思う。
あと、コミュニティは「つながり」でなく「参加」、「属性」でなく「所属」に近い割には参加してたり所属してる感覚が希薄な感じ。