2007-02-04

恥ずかしい人間の書く恥ずかしい文章

相手が喜ぶことをしようといつも思っていた。そのために相手を喜ばせられる行動をした。実行したことがあるのは、「話をよく聞いてあげる」「さりげなく気遣う」「空気を読む」とか。でもこれらは別に相手を喜ばせるためにした行動じゃなかった。自分を好いてもらうための行動だった。相手を思ってのものじゃなく、自分を思ってのもの。他人を思いやって生きていこう!とか意気込んでいたら、いつのまにか単なる保身人間になっていたって話だ。

自己中心的人間だけにはなるまい、と常々思っていた。自分のことばかり話さないようにしよう、自分の利益ばかり追求せずに他の人のためになることをしよう、他の人の迷惑にならないように、邪魔にならないように生きよう。それらを自分の思考の根幹にしようと心がけていた。会話のときは、自分のことは極力話さないようにして相手の話に聞こえのよいレスポンスをする、相槌を打つ。誰かが困っているときは、悩みを解決できるように自分ができる限りのアドバイスをする、援助する。何かをするときは、他の人にできるだけ迷惑をかけないために一人でする、進める。そうして自らの信条を貫いていった。他者のために。

そうして過ごしているうちに気づく。どんどんと自分の存在希薄になっている。自分自身の感情が消えていっている。そして、信条を持つ前よりも自己中心になっているということに。

人のため、なんてのは全部好かれたいがためのものだった。別に相手のことなど考えていなかった。俺を認めろ。そんだけだった。そういうふうに行動していた時だって、自分でそうだと思っていただけで他の周りの人々にはどう見えていたかは分からない。すごく醜いものが見えていたかもしれない。

別にこの文章をまとめる気は無いし、まとまる気もしない。ただ、これまでの自分っぽいものを書いておいて、これからの自分とやらを考えるための比較対象として書いた。これまでとこれからが別物になるかは生きてみないことには分からない。そうなったらいいなとは思うけど。

文章がつくづく分かりにくくて抽象的で嫌になる。でも書く。書いた。読む気はしない。消したくはない。恥ずかしくても匿名だ。

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