2007-04-13

http://anond.hatelabo.jp/20070413011010

ちょっと例から離れるけど、コミュ能力の獲得がパーソナリティ希薄さを露呈してしまう、ということ。

その通りなんだけどさ、だからこそパーソナリティーの希薄さをなんとかしようとするモチベーションが生まれるんじゃないかな。

コミュニケーション能力があれば(卵とニワトリ的な部分もあるけど)ある程度のコミュニケーション経験に踏み出せるから、自分が相手にとってコミュニケーションするに足るパーソナリティーを持っているかどうかを試される機会が増えて、そっちもなんとかしないと、って実感できるんだと思う。

コミュニケーション能力に劣っていてもパーソナリティーが魅力的な人って言うのももちろんいるけど、それは偶然そういう人がいるだけで、教育モデルにはならないんじゃないかな。

記事への反応 -
  • コミュニケーション手段が発達した結果、コミュニケーションにも格差が生じている。 SNS等々の先端コミュニケーションの調査によって浮き彫りになるのは、社交的な人間はより幅広く...

    • コミュ能力はパーソナリティを表現するための道具。コミュ能力だけ高くパーソナリティが薄い人間は空虚感を与える 絶好例…しなさりんど パーソナリティの表現能力が低くても、時間...

      • これは小学校における英語教育にも例えられそうだ コミュニケーション能力=英語の習得 パーソナリティ=言語生活者としての日本人 いくら英語で話せるようになっても、母語教育...

        • ちょっと例から離れるけど、コミュ能力の獲得がパーソナリティの希薄さを露呈してしまう、ということ。 その通りなんだけどさ、だからこそパーソナリティーの希薄さをなんとかし...

          • うーん、英語教育でいうコミュニケーション能力とは、つまり英語という言語記号を使ってコミュニケーションできるということ。 「自らのパーソナリティの低さを自覚できるコミュ能...

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