その通りなんだけどさ、だからこそパーソナリティーの希薄さをなんとかしようとするモチベーションが生まれるんじゃないかな。
コミュニケーション能力があれば(卵とニワトリ的な部分もあるけど)ある程度のコミュニケーション経験に踏み出せるから、自分が相手にとってコミュニケーションするに足るパーソナリティーを持っているかどうかを試される機会が増えて、そっちもなんとかしないと、って実感できるんだと思う。
コミュニケーション能力に劣っていてもパーソナリティーが魅力的な人って言うのももちろんいるけど、それは偶然そういう人がいるだけで、教育のモデルにはならないんじゃないかな。
コミュニケーション手段が発達した結果、コミュニケーションにも格差が生じている。 SNS等々の先端コミュニケーションの調査によって浮き彫りになるのは、社交的な人間はより幅広く...
コミュ能力はパーソナリティを表現するための道具。コミュ能力だけ高くパーソナリティが薄い人間は空虚感を与える 絶好例…しなさりんど パーソナリティの表現能力が低くても、時間...
これは小学校における英語教育にも例えられそうだ コミュニケーション能力=英語の習得 パーソナリティ=言語生活者としての日本人 いくら英語で話せるようになっても、母語教育...
ちょっと例から離れるけど、コミュ能力の獲得がパーソナリティの希薄さを露呈してしまう、ということ。 その通りなんだけどさ、だからこそパーソナリティーの希薄さをなんとかし...
うーん、英語教育でいうコミュニケーション能力とは、つまり英語という言語記号を使ってコミュニケーションできるということ。 「自らのパーソナリティの低さを自覚できるコミュ能...