はてなキーワード: 希薄とは
同人誌に関心をある方なら10月中旬以降にこの話を聞かなかった人は少ないでしょう。要約しますと、「なんらかの理由」により都の会場運営側が特定の成人向け同人誌即売会の内容について問題を感じて、それ以降会場を提供するのを取り止めました。しかしその後、事の顛末が新聞で「都施設」「ポルノ漫画即売会」「過去6回開催」などという見出しで公表されてしまい、問題は一気に悪化。それまでは特定の同人誌即売会を廻る問題だったのですが、「ポルノ」等と言った表現が振りまわれた結果「不謹慎な都の公共設備の運用は不適当」というような考え方を匂わせるような基準で各種の成人向けイベントへの風当たりが一気に悪くなり、いくつかのイベントは即売会主催者側の判断の元でサークル側に自粛を促がすかの如くの語調やイベント自体の形態を変化させたり、はたまた開催を取り止める例まで発生してしまいました。
基本的にはどのイベントも「法令に準じた出版物以外を禁止」や「未成年者に対する配慮を気をつけて下さい」と予めに注意事項に書き記していましたが、「ポルノ」とかの単語が軽はずみに振り回せれた結果、特定のイベントに対して非常に厳しい眼差しが内外から向けられ、これが多大な影響を起こしたと言えるのではないでしょうか。
法令に準じているかどうこうではなく、同人誌の中に社会悪と結び付けられる「ポルノ」があるというのが一人歩きしたが為にさらに状況は悪化したといえるのでしょう。事実その後に都の会場運営側も「成人向けの作品の販売自体を禁止するわけではないが、主催者側に法令順守の徹底を求めていく」と談話を新聞に載せているわけですから、同人誌の内容がどうこうというより「世論を意識した反射神経的行動」が色々目立った事の顛末という印象がぬぐいきれません。
主催者側も会場運営側もより多くの話し合いを進め、相互理解を深めることで必要以上に状況を悪化させないようにする必要があると思います。信頼関係がしっかりしていれば、外因性の迷惑や干渉が発生しても適時に冷静にそれに対応できるのではないでしょうか。一夜にしてこれが成り立つとは思っていませんし、このようなノウハウは簡単に取得できるものではないのも充分わかりますが、今回の事件の悲劇を繰り返させない為にも念頭に入れないと駄目ではないかと思います。
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自分は20年近く同人誌を見てきているのですが、とにかく悲しかったのが、こういった隙間的イベントに作品の発表と交流の場を依存していたサークル活動へのひどい逆風となってしまったことです。
大きな同人誌即売会でも様々な活動は可能ですし、ネットでの交流も現在のところ可能です。しかし隙間的イベントにはそれ自体に大きな魅力もあるのです。大きなイベントではやりとりが難しくなりますし、なによりもまったりとした交流はほぼ不可能です。物理的同じ場所にいることで成り立つ対話や新たな作品との偶発的な出会いはネットでの交流とは異なります。どちらが良いという話ではなく、オンライン・オフライン、両方の交流が大事なのです。
そもそもこう言った隙間的イベントにおける創作活動はその他の表現の発表の場ではどうにも目立ちにくく、埋もれがちになりやすい側面があります。同人誌委託販売書店において先鋭的な作品は取扱にくいこともある現状がありますから、小規模オンリーイベントには他では日の目を見ない作品の為に発表の場を提供すると言うはっきりとした意義があります。
「少女に対する性行為や猟奇的な描写などを売り物にしたコミック」が販売されていると新聞で書き叩かれた件のイベントでも女性サークルさんも結構の数が参加していて、やおいとかショタとかの区分けとは別の個性的な女性らしい作品が見れる数少ない場所の一つでした。「過激すぎたから叩かれたのだ」と言うのは簡単ですが、その乱暴な思考の元で様々な貴重な芽が潰されていくのも事実だと私は信じて止みません。
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しかし今回の一件を振り返って思うことの一つは現在の同人誌に携わっている方々はどこまで「ニッチ(少数派・特殊趣向)である事の覚悟」の必要性を自覚しているのだろうかという事です。
今回は美少女系男性向け創作が槍玉に挙げられましたが、実際には「パロディ」も「やおい」も「同人誌と言う概念」自体もまだまだ世間一般では広く認知されているわけではなく、非寛容な意見の元で吊るし上げが行なわれないという可能性は否定できません。『電車男』やアキバ系という単語がマスコミの間でもてはやされる最中において、なかなか気付きにくいかもしれません。しかしマスコミを通して焦点を当てられている「萌え」の概念とその取扱については日本国内の中でかなりの隔たりがあるということです。要は明日は我が身にも、と言う可能性があると言う事です。
しかし同時にもし自分たちの趣向が特殊でありことを認識し、それをより確実に守る姿勢を打ち出せれば、今回の事態もこれほど悪化しなかったのではないかと頭を傾げます。内容がどうこうではなく、その内容はどうすればより拒絶反応を避けられるような形態で守るのかを可能にする姿勢です。
そもそも16年前、1991年2月25日の新聞の見出しに「大手含む書店摘発:わいせつ漫画の販売容疑」や「正規のルートに乗っていない本」と書き立てられ、日本の成年向け同人誌は非常に苛烈な冬の時代を味わった過去があります。その時にもはっきりした事は、規模が大きくなるにつれ少数の間で楽しんでいた物事がより厳密に公然と精査されるようになり、異なる基準が衝突する時、重大トラブルが発生しやすいという事ではないでしょうか。
あの時の教訓や同人誌の立ち位置を廻る議論が現在おざなりになっているのではないか、と感じて禁じ得ません。
古来同人誌は私的領域の延長線上にあり、同じ趣向の人間同士でやりとりするのが基礎でした。だから「同人誌」だったのです。しかし同人誌書店の台頭とインターネットの登場によって私的領域と公的領域の交叉が激しくなり、棲み分けが以前のように機能しなくなったのではないでしょうか。そもそも現在において同人誌と商業誌の棲み分けの概念を意識の議論が希薄になっているのではないかと危惧します。これはこの両者間の問題だけではなく、同人誌創作者やそれに携わる方々の「覚悟」に影響することと思います。
なぜその作品を同人誌で送り出すのか。何のために同人誌活動を続けるのか。これらはそれぞれ自分で答えを見つけなければいけないと思います。一番怖いことは周りの流れに身を任せるままに居るといつのまにか自分では対処できない状況になりかねないと言う事を意識する必要があると思います。
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最後に自分にとってもっとも大事なことは、規制の対象だからといってそれを「悪」とは限らない事です。創作物を「害悪」と決め付けるのは人間です。人間の主観によって成り立つ価値判断であり、絶対ではないのです。これから先、何があろうともそれだけは忘れずにいたいものです。
オタクそのものを最初に認識したのはアニメなんかの愛好者層そのもの。「なんだよ、あの変な奴ら」「なんであいつら『お宅は』ってしゃべるんだ?」。オタクは発生時から変なやつらとして認識されていた。その後、「オタク文化」とか「世界ではオタクは尊敬されている」とか「オタク経済」とかいう言葉に載せられて「オタクであることは恥ずかしくない」なんて勘違いが広まっただけ。
が、恥ずかしくないのは本人だけ。社会からは痛々しく見られている。常に。非モテなんて便利な言葉が出てきて隠れ蓑に使ってたりするが、社会性の希薄さははじめから愛好者やマニアから認識されていた。
別に詳しいからオタクなんじゃない。ディープに詳しくても身なりがきちんとして常識をわきまえている人をさす言葉として、昔から愛好者とかマニアという言葉が使われている。今では避けられるが「キチ」だって、趣味に関しては微笑ましい意味で使われていた。
繰り返すが、オタクが変な奴らとして認識されていたのは、最初から。なぜなら変な奴らだったから。宮崎とか宅なんてのは、それが広く認識されるきっかけでしかなかった。
不幸自慢をするつもりはありませんでした。
書き方が悪かったんだと思います。ごめんなさい。
皆さまから頂いたコメントを読んでもう一度言いたい事を整理してみようと思います。
まず「親と歳が離れていること」と「部屋がなかったこと」、
こんな事に今現在拘っているのが我ながらすごく稚拙で了見が狭い感じがするのですが、
自分の「子供の頃」の人格形成に大きな影響を与えていた、というのは確かに実感としてあるのです。
勿論その頃はそんな風に思ってはいませんでしたが、今思えばそうだった、という感じです。
恐らくこれが一番言いたかったことなんじゃないかと思います。
全くもってくだらない話なんですけど、誰かに認めて欲しかったんです。
色々な人がいて、様々なパターンがあるので、この二つともが揃っている人でさえ、
こんな事は些細な問題の様に感じる人が多いと思うのですが、
「自分の場合は」大きな問題だった、とやはり思うのです。
なのでブクマコメントで「親子の年が離れすぎていることの影響はけっこう大きい」と言ってくれた方が
いたのは嬉しかったです。
「子供の頃」の人格形成において、何故上の二つが大きく影響していたと感じるかについて
書いてみようと思います。
現在、家族といると、自分以外の4人との距離を感じる事がよくあります。
それは彼らが自分よりも、家族もしくは他人と密接な関係であろうとしている、という点に於いてです。
自分には、少し依存的とすら見えなくもありません。
これをジェネレーションギャップのせいだと決めつけてしまうのは浅はかかも知れません。
人は世代だけで区別できるほど単純でない、ということは承知しているつもりです。
ですが自分から見て、特に両親の「人と密接であろうとする」その感じが、
今までの経験から、自分達との「世代的な相違」であるように思えるのです。
それは、大林監督の時をかける少女を観た時に感じた様な種類の相違です。
そういう人達と家では常に一緒に居た、居る以外になかったというのが、
自分にとってすごく大きなことであったと思っています。
一人になる時間がない、という事は「家族との関係が全て(=自分の価値を他者との関係にのみ見いだそうとする)」という事になり兼ねないと、自分の経験から思います。
(部屋がないなら外に行けばいいと思われる方がいるのかもしれないので書きますが、
自分は圧迫感を感じると外に出ていました。
でも外で遊ぶのはそんなに好きなタイプではないので、とりあえず自転車で遠くまで行ったりしてました。
子供なので、夜は外出できませんでした。)
その価値観を、外の大きな社会でそのまま適応させるとなると「人との関係が全て」という事になります。
彼等が「人との関係が全てではない」と考える傾向にあることも関係しているんじゃないかと思います。
「個室なんて無くて当然」と思われる世代の方にとっては、
上に書いた事は単なる贅沢な我が儘の様に聞こえるかも知れませんが、
個室の有無というのは物質的な面だけではなく、精神的な充足に関わる問題でもあり、
人格形成にも大きく影響するものだと自分は考えています。
そういう意味で、「個室があるのが一般的な世代」の中で個室がない状態で育つ子供は、
周りの子供とコミュニケーション上で、ズレが起きてもしょうがないのではないかと思ったりするのです。
つまり自分にとっては幼い頃、(今では)世代的な相違を感じる人達との関係が全てであった為、
その相違を感じるコミュニケーション方法で、今までよりも大きな社会(学校)に於いて同世代と交わり、
尚かつ自分の価値を全てその人達との関係に委ねてもいた訳で、もうこの辺で自分で書いてて訳分からないんですけど、
要するに相手にとって相当鬱陶しかったんじゃないかと思うのです。
当時感じていた他者とのズレは、そういった事情からくるものであったかも知れない。
というかそういうことだったじゃないかな、妄想だけど。ということが言いたかったんです。
前エントリで「責めるつもりはない」と書きましたが、
読み返してみると、ああいう風に書いてしまった時点で結果的に責めているというか、
今現在の自分自身の問題の根本が家族にある、という風に読めなくもありません。
優しさや思いやりに欠けていると確かに自分でも思います。
さすがに今ああいうことを口にはできません(家族に言ってしまったのは十代の時です)。
誰かを責めてもしょうがないですし、そんなつもりは全然なくて、
ただ自分が感じていた他人とのズレが何なのかを知りたかったんだと思います。
アニメ版の時をかける少女が良かったので、大林監督の時をかける少女を観てみました。
最初に言っておくと、この作品が良かったとか悪かったとか言うつもりはありません。
コミュニケーションの感覚があまりにも現代とはかけ離れている感じがして、
そこばかり気になってしまい、自分にはまともに見ることができませんでした。
ほとんど冗談のように見えてしまうのです。言ってみれば突っ込みどころ満載というやつです。
映像表現としての古臭さだったりというのは、無関係ではないものの、ややこしくなるのでここでは置いておきます。
自分が触れたいのは、作中で描かれている人間関係、やりとり、コミュニケーションについてです。
現代と比較して、人と人との距離感が近い(近過ぎる)様に感じました。
正直に言って、暑苦しい、鬱陶しい、といった感じでしょうか。
異性にベタベタ触ったり、クサイ台詞を平気で吐いたり、客観性があまり感じられません。
要するにイタイのです。
もしも現代にこういう生徒がいたら、イジメの被害に合うのは目に見えています。
例え田舎でも、ここまで密接ではないんじゃないかと思います。
この作品が好きな方々がもしこれを読み、不快に思ってしまったらごめんなさい。
念のため言っておきますが、断じて作品にケチをつけるつもりはありません。
映画ということで多少大げさな表現があるかもしれないのを考慮に入れても、
この作品が多くの人に受け入れられていたということは、当時はそういう時代だったという事でしょう。
時代が変われば人も変わって当然です。
この時代の人間関係のあり方を貶すつもりもありません。
では何が言いたいかと言うと、ジェネレーションギャップというのは確かに存在する、という事です。
少なくとも自分には、この映画は鑑賞に堪えるものではありませんでした。
それほど隔たりが大きかったのです。特にコミュニケーションという点において。
自分は現在22歳で、両親は二人とも60歳をとうに過ぎています。
姉が二人いて、自分は歳の離れた末っ子として生まれました。
母がちょうど40歳位の時の子供です。
予定外の出産だったのかどうかは分かりませんが、
家の部屋の空きが足らず、姉弟の中で自分だけ、高校に入学するまで個室がありませんでした。
学校から帰ったら誰かしらいる居間で過ごすか外出するかのどちらかで、夜は両親と同じ部屋で寝ていました。
そういう環境だった為、必然的に両親や姉との距離はいつも近い状態でした。
今、当時の事を思い出しながら書いています。
その頃、自分は周りの子に比べてかなりイタイ子だった様な気がしてなりません。
人から冷たい視線を受けていた感覚が沢山残っています。確かに冷笑されていました。
でも当時は馬鹿にされている事すら分かっていませんでした。
自分を見て笑ってくれていることが嬉しいとさえ、思っていました。
大人になるにつれて、徐々に自分がイタイ人間である事に気付き始め、
異常な自分に対する自己嫌悪、加えて自分の異常な言動を起因とするコミュニケーション上の痛み、
それらが同時に襲ってきた十代の後半の頃からは少しずつマシになっている気はするのですが、
今でも人と滑らかなコミュニケーションを取れる自信はありません。
人といたところで、やはりどうしても自分で自分の首を絞める(止められない)事になってしまい、
どうして、自分は小さい頃からあんなにイタイ子だったのでしょうか。
考えた事を、ごめんなさい。お願いします。言わせて下さい。
やはり家庭環境が大きな一因であったと思うのです。
両親に対して育ててくれた恩義を忘れるつもりはありません。
末っ子の自分を可愛がってくれた姉達に対してもそれは同じ事です。
でもどうしても、自分と親の歳がすごく離れていることと、長い間自分の部屋がなかったことが
自分の中でとても大きく感じてしまうのです。無関係とは思えないのです。
この歳になってみて、両親と話しているとジェネレーションギャップの大きさに驚きます。
姉達とさえ、ギャップ(溝)は感じるのだから当然のことです。
今では溝の深い家族ととても密接に暮らしていて、その頃は溝を感じていなかった。
つまり溝は家族との間ではなく、家族以外の他者との間にあったのです。
自分が「時をかける少女」を観て抱いた印象(上記)を、他者は自分と接して抱いたに違いありません。
成人した人間が、こんな事に拘っていること自体、馬鹿馬鹿しく聞こえるでしょう。
実際にこの話を家族に何度かしたことがありますが、
そんな訳がないとか人のせいにするなとか、家族の誰も決して認めてくれようとはしません。
だからこそこんなことにいつまでも拘っているのかもしれません。
勿論自分の人生の責任を誰かに取らせたいなどと言うつもりはありません。
ただこうなった原因を自分の中でハッキリさせたかったんです。
朝から長文失礼しました。
http://anond.hatelabo.jp/20070829045024
「対等」や「平等」といった概念は非常に希薄であると感じます。しかし、群れていないと白い目で見られます。何かを成功させると、地域から強い妬みや僻み、嫌味に晒されます。だから、事業を起こして軌道に乗った人はすぐに地域を離れていきます。地域の産業力が一向に成長しない原因でもあります。地域の成長を地域住民が潰していくわけです。
仕事の面においても、個人事業主で自ら営業をしている人間は、訪問先の個人宅なんかで同業他社の人間の悪口を平気で吐いていきます。「あの人は○○に住んでいて昔××なことをしていて……」などと、本人の過去を交えた上で。その応酬です。恐いです。絶対係わらないようにしています。「情けは人のためならず」の逆を行くわけです。田舎の主なネタは、他人の生活や職業についてなんです。誰が何の仕事をして、いくら稼いでいるのか。それが、色んな人の口を伝ってループしていきます。話のネタになるような娯楽(映画館、劇場)すらありませんからね。
今勤めている会社で総合職として転勤してきている人から話を聞いても、自然環境については大好評ですが、居住性と人間性を褒める人はまずいません。私もそんな人間の一人だと思われているのでしょう。実際そうかもしれません。象徴的な現象の一つとして、毎日昼間っからパチスロ屋の駐車場が満車になるような地域ですから、やむを得ないとは思いますが。
今の子はこう考えるのかー
昔はね、性行為と言う行為自体子供にはひた隠しにされてて、大人がそんな事をしていると言う事自体にショックを受けるわけさ。
そこまで隠されてるから、モザイク(昔のしっかりした奴)が掛かったビデオを万が一見ても、何しているのか理解できない。ましてや人の体に相手のブツが入ってるなんて予想もしない。そんな事を知ったらショックで寝込む(大げさじゃなくて本当に居た)
知る年齢によっては下手したらトラウマにもなりかねないショックを与えないために、モノは見えないようにしなければならなかった。…というのが規制の建前だったと思う(健全な育成を云々って奴ね)
今はネット見れば、望まなくてもエロバナーとかで行為がバレバレになっちゃうからショックとか言う認識は希薄なのかもしれない。
…って書いてたら元が消えてるし!
大学生だけれど、ちょっと書くよ。
プログラム組む友人がそんなに沢山いるわけじゃないんだけれども、すくなくとも友人の一人、ライブラリやらパッケージやら使うの、やたら上手なんよね。私なんか、他人の作ったライブラリ使うの苦手で、基本的な使い方習得するのにも四苦八苦するのに。特に、独自に定義された、見慣れない型を返す関数なんかにはウンザリしちゃう。実体が何なのかようわからんから、使ってる実感も湧かないし、何だか気持ち悪い。
その反面、APIやライブラリに用意されていない機能となると、彼は苦悩したりする。非常に単純な例で申し訳ないけれども、構造体をNULLでクリヤするのにZeroMemory()が使えないなんてときに、先頭アドレスからサイズ分だけ上書きが思い浮かばないとか。プログラムがメモリ上に配置されている、っていう意識が希薄だし、そういう低レベルでの処理を嫌っている感じ(私はそういうところこそ醍醐味だと思うのだけどね)。ちなみにmemset()の存在は、阿呆なことに、彼も私も忘れてた……。
概要はhttp://wiki.livedoor.jp/tasogare100/d/FrontPageで
とりあえずここから先は
「株式会社アーツビジョン代表取締役兼株式会社アイムエンタープライズ代表取締役にして日本芸能マネージメント事業者協会副理事長(除名済み)松田咲實(まつだ さくみ)氏が2007年4月4日、前年12月にオーディション受講者の16歳の少女に、面接合格をちらつかせわいせつな行為を行ったとされる容疑によって逮捕され、5月28日書類送検された。(※5月30日に引責辞任)」
を事実として扱う。これに付随した一連の枕営業疑惑は一ヶ月たった今でも確固とした情報源をもたない、あくまで「疑惑」として扱う。その是非も善悪の所在もここからは言及しない。2chやらで聞かれる噂や自称関係者によってもたらされた情報はどれほど真実味があっても、全て妄想の域を出ないものとして扱う。
5/28日にこの事件が騒がれてすぐに声オタ(女性声優ファンの男性オタク)が考えたのが、「もしやアーツ・アイム所属の声優は枕営業を行っているのか?」だったと思う。日を増すごとに狂乱じみた様子で追っかけて、ラジオ・ブログで言及があれば非難・罵倒しまくりで、お祭り騒ぎで枕投げオフなんてのもあった。
とにかく松田咲實逮捕の直後に声オタの多くは「16才少女に対する猥褻行為」に義憤するよりも、「所属声優の枕営業の有無」を心配したことは間違いないと思う。
この思考の流れはどこから来たのか?それは近代的マッチョイズムからだと思う。
現在、女性のセクシュアリティの変貌により「素人女」と「玄人女」の違いが希薄になりつつあるとフェミニスト研究家は声高に言っているけど、声オタが望んでいるのは間違いなく『「素人女」である女性声優』だったのだと思う。そこで一連の事件にまつわる疑惑が起こり、その希望が崩壊する危機を恐れたんじゃないか。
そもそも日本人は歴史的に見ると性と愛はそこまで密着していなかった。恋愛結婚なんてごく少数で、普通は社会的な立場を確保し、生活するために結婚(とそれに伴う性行為)をした。しかし近代化の中で欧米から「ロマンチックラブ」を輸入して、性行為は恋愛の果てに至るべきだという「性と愛が一致すること(ロマンチックラブよりいたる性交)」を望むようになり、「性と愛の分離(愛の介在しない性交。体を売る行為)は汚らわしいこと」であるという倫理観が生まれ、今なお根付いている。それも特に女性に対して男性が抑圧を行っていたというのが、風俗産業の発展をみれば明らかで、男は外で遊び、女は家で待つという思想である。それは女性自身も無自覚に守っていたルールだったのだが、女性の社会進出によって薄れつつあると言われているが、それはまた別の話。
元来オタクという人種の多くは「現実から趣味領域への逃避者」という起源を持つわけで、そんな中自分の大事な空間にまで都合の悪い現実が侵食することを猛烈に嫌う。つまりある意味、オタクは「嫌な現実」と「好ましい妄想」の境界が誰よりもしっかりできる。逆説的にオタクは現実から逃避しておきながら「嫌な現実」を十分に認識していると。嫌な現実というのは先ほど述べた男性中心的な倫理観に基づいて判断・選別しているわけで、オタクはその煽りを誰よりも受けているのだと思う。
つまり声オタは「好ましい妄想」領域に存在する声優(いわば2.5次元的な存在)が「嫌な現実」(性と愛の分離した存在)に転化することを思想的マッチョである故に認めたくなかった。。
ここでフェミニズムに偏った言説を披露する気はない。ただ事件直後に見られた「声優の○○は松田の肉便器でしたwww声オタ涙目www」「○○ちゃんを信じてたのに裏切られた!」みたいな下らんやり取りを見直して欲しい。「別に処女だと思ってたわけじゃないし。」なんていう発言も似たようなもんだと思う。要するに処女だと思い込むような「どどどどど童貞ちゃうわ」みたいな感じでしょう。一瞬でも無意識に枕営業についての嫌悪感を抱いた理由を自問してはどうだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20070618001310
そこで連絡を取らない事で、関係が希薄になったり消滅しても構わないと思う相手ならそれまでだし、
それが少しでも嫌だと感じるなら、多少億劫でも連絡するしかないんじゃないか?
そこで躊躇してそのまま赤の他人になってしまっても後悔しないと言うのなら、それでいいんだろうけれど。
でもきっと、心の底にシコリが残りそうだから躊躇するんだろう?
http://anond.hatelabo.jp/20070527023334
オタクです。
何もレベルの高いものを求めなければ、または新しいものを求めなければ・・・なんて思うことはあります。
同じ作品を何度も見ることで違った部分を発見することもあるし、
ゲームだと「やり込み」とか言って1つのゲームを年単位でプレイすることもある。
新作ソフトを買い漁るよりも金銭的なコストは安く済む。いいことです。
学生の頃は金が無かったからそういう楽しみ方しかできなかった。
それはそれで新しいモノに触れられず寂しい思いをしていました。
今は社会人で、お金があってモノが溢れてるけど楽しむ時間がない。
昔と今と比べるとどっちが「幸せ」なんでしょうね。
まぁこだわりがあろうが無かろうが自分がつまらんので人生はつまらないワケですが。
http://anond.hatelabo.jp/20070518193731
希薄にできるのは自分じゃない。周囲だ。
河原無き現代において高度な聖別はいじめとほとんど区別がつかない。
吐き気がするよ。
話題に上ることもなく、嫌われることもなく。
その在りようのまま「幅」と呼ばれたその男は、
たぶん要領だけは抜群に良かった。
傍から見ると、彼は何も為していないようにすら見えた。
みんなから慕われたり、畏れられたりするには
「最善であること」はむしろ有害で、「次善」を目指さないといけない。
「幅」がもう少し要領が悪かったのなら。もう少し口汚かったなら。
あるいはその幅が、机をはみ出して教室の通路をふさぐぐらいに大きかったなら。
幅は幅としてでなく、太った同級生の一人として、みんなの記憶に残ったのかもしれない。
同窓会に「幅」は来なかった。
恐らくは来なかったのだと思う。話題にも上らなかったから、確認のしようもないけれど。